ああ気がつけば、そんなに歳を取ったのかと思う瞬間
~ぼくのマリー(週刊ヤングジャンプ 1994~1997/©竹内桜・三陽五郎・集英社)~

ぼくのマリー

鷹嶺 昊にとっては何が発端だったのか未だによくわからない妹ブーム。自分の予想を遙かに超えて、世間では安倍晴明と並んで大ブーム。それもきっと時代の流れの一つとして見てみれば、後に残るのは懐かしさというか、何というか、若かりし頃の自分を振り返って、苦笑いをしたり、時には涙したりする。
年を取っているから昔が懐かしいとか、今の若い連中はなどと言うつもりはないわけだが、とかく自分がまだその当時だった頃、流行していた、自分が好きだった物はやっぱり何時になっても良さを感じる物であると思った。それと同時に振り返れば今から7年前にもなるんだなあとも……。花の十代に別れを告げる頃だったのかと自嘲すれば、あの頃は良かったなぁと思うときもあったのか。七年も過ぎれば記憶も混同する。ただしっかりと言えたことは、僕が何かのきっかけでヤングジャンプを読んで、『ぼくのマリー』という漫画にはまってしまったと言うこと。そうでなければ三年にわたって単行本を集めたりはしなかっただろうと思う訳なのである。
バブルもはじけて不況とはいうものの、今のような世情ではなかった。ましてこのような状況になるとは誰もが夢に思わなかったのではないだろうか。それでも当時は“不況”で大変であると騒いでいたのだから全くもって人間とは適応力があるものだと、改めて感じさせられる。
この物語の主人公・雁狩(かりがり)ひろしは、憧れの女性と容姿性格ほぼ同じアンドロイドを作り上げるのだが、全くもってこの青年は純情そのものであった。
清廉潔白と言ってしまえば言い過ぎになるかもしれないが、とかくこの青年の人物像は我が日本国古来から脈々と伝えられてきた武士道精神・西洋の騎士道精神の最後の姿なのではないだろうかと。
ああ、また始まったか鷹嶺の悪い癖が……。
家を新築し、引っ越しの時に不要になった本はすべて古本屋に売り払った。捨てるよりは引き取ってもらった方がいいだろうと言う考えだったのだが、この本は売らなくて正解。読み返してみると、実に面白い。

■ぼくのマリー後に話題となった、『可奈』や、シスプリなどの妹系・そして漫画『ちょびっツ』などのアンドロイド系への先駆となったと見ている作品。ラジオドラマやOVAともなり、新世紀エヴァンゲリオンのアスカ役や、朝の連ドラ『ちゅらさん』などに出演したことなどで有名な声優・宮村優子の出世作となった
ラブコメから人間の真理へ――――越えられるか「ちょびっツ」

べたべたのラブコメが好きだった当時の鷹嶺を思えば、美少女恋愛ゲーム・そして妹ゲーに、ここまではまった現在の経緯を語ることができる。奇しくも、大作・ロードス島戦記が全盛期だった頃には、鷹嶺的にはパーンとディードリッドの関係が気になって夜も眠れない……と言うことはなかったが、気になってはいたものだった。今はかつての熱意は年のせいもあってか薄れてはいるが、それに似た展開の物語に触れると、不思議なもので心がワクワクしてしまう。
そんな感じで『ぼくのマリー』に、敷居が似ているのが現在連載されている『ちょびっツ』なわけだが、この話はまた別の機会と言うことにしておく。
時代を感じさせるのは、今や懐かしい物となった、ポケベルが登場していると言うこと。知っている人がいるだろうか。ちなみに鷹嶺はポケベルは持ったことがない。今主流たるメールとは違って、数字だけで言葉が交わせた時代……とは言っても、ほんの3,4年前に過ぎないのだが、今の時代、1年前はもう昔のようなもの。ああ、なんとせわしない世の中になったものであろうか。
漫画は時代を反映する。当初ありふれたラブコメ・『ぼくのマリー』が多くに支援されて全111回という長編になり未だ私的に心象が強いのか。
ラブコメというスタンスを失わずに、人間と非人間(アンドロイド)の間の葛藤を、終始実に無理なく絡ませて描かれたと言ってもいいだろう。三陽五郎(會川昇)氏の巧みな構想手腕か、竹内氏流の展開だったのか。初期のギャグを織り込んだパロディから、マリが恋した森尾伊知郎編を契機に、シリアス路線へと変わってゆく。それでも登場するキャラクタの人物像が当初と損なわない。
何か書評になってしまうが、雁狩ひろしと真理、そしてマリの微妙な三角関係は当時、そして今日においてなおそのエッセンスを受け継いでいた。話は戻ってしまうが、CLAMP氏の著作『ちょびっツ』は別に意味においてこの『ぼくのマリー』を彷彿とさせる訳である。CLAMPブランドの力でヒットメーカーとなる同作品なのだが、果たして雁狩たちが演じた同舞台での二番煎じになりはしないかと危惧しながら、同時に期待を寄せている。

雁狩ひろし ■雁狩ひろし … 片想いの真理を崇敬しているために、様々な騒動を起こしてゆくマリの製作者。真理に対する異常なまでの誠実さはその行動・言動すべてに脱帽。極端な例だが、今の時代、彼のような男性がいたなら、鼻であしらわれるだろう
■森尾伊知郎 … マリの恋の相手として登場した天才サッカー少年。イチローと呼ばれていた事、サッカー少年という事から、当時ブルーウェーブのイチロー選手の活躍と、Jリーグブームが生み出したキャラと言うことを知ることができる 森尾伊知郎

《手折らざるべき野の花で》―――― 雁狩ひろしの真理への想い

「清く正しく美しく、華麗で慈愛にあふれ慎み深く、美の女神に祝福され貞節の神に愛され、女性の美徳のすべてをその一身に体現した高潔なる存在」(第8巻Act.89より)
さて、いかがなものであろうか諸君。過去を振り返り、御自分の好きだった女性に対してこのようなイメージを持たれたことはありますか……などと愚問に過ぎない。それよりも「恐いって」という声が聞こえてきそうです。
まあ、そこまで完璧なイメージは今のご時世、女性蔑視と言われてしまいそうですね。特に田嶋陽子先生の前だと……。
雁狩ひろしにとって、真理は真の意味での「癒し系」という訳だったのであるからまさしく言葉の通り「無上の喜び」を得ていた。何処にでもいる女性だからこそ、ひろしは惹かれていったのだろう。ひろしが抱くイメージ通りの女性像をそのまま思い描いてみよう……。それはすでに人間ではなく、その名の通り女神、男などとは口もきかなけりゃ、目も合わせない、それどころか、人前に出ることすらないだろう。
しかし女性諸君、ひろしの想いを畏怖することなかれ。ここまで想ってくれる男性は不幸にすることはまずあり得ない。幸福かどうかは、人それぞれ。ただ真理は『自分を普通の女の子として見てほしい』と。紆余曲折はあったが、ひろしは終始、彼女を『女の子』として見ていたはずである。でなければ、マリを製作する必要はなかった。
そんなひろしが真理のことを謳った言葉 。「手折らざるべき野の花で、高い嶺に咲く白百合である」
いまどきの若人諸君は、憧れの女性をこのように思っているのだろうかね。

真理 ■真理 … 雁狩ひろしから受ける厖大な愛にほだされた奇特な女性。聖女・女神のイメージが長くまとわりついたある意味、幸福な境遇にある。真の『癒し系』とは、彼女の像ではないかと見る
《永遠の若さなんていらない》 ―――― マリ、思いが叶う最終回

人型アンドロイド。しかもとびきり可愛く、美しい女性型。それはまさしく男子たるものの本懐であろう。後年、『To Heart』という恋愛ゲームで登場したマルチというアンドロイドが未だに廃れない人気を維持している。従順で温厚、嬉しいときは共に喜び、悲しいときは共に泣く。『ちょびっツ』のちぃもしかり。しかし、やはり『心』がなければ楽しくない。人に心がある限り、心のない機械は、機械に過ぎなかった。今流行のAIBOもついに『心』を持ち始めたと言える、だから人は愛せる。
マリは、ひろしが造り上げた時の思惑を、その積み重ねた様々な経験ではるかに超え、ついにひろしを愛しながらも、その存在意義を見失い悩むことになった。
『ぼくのマリー』。その本質が見いだされた、最終クール“そら編”である。ラブコメながらも、この作品が伝えたかった大切な何か。それを考えると、満を持して登場した真の主人公・“そら”は実に格好いい。「四十余州に言わずと知れた天下御免の向こう傷。直参旗本早乙女主水之介、人呼んで旗本退屈男」と言うような痛快な格好良さではないが、そらが伝えた大切なもの、そしてマリが享受したこと、アフガニスタンのタリバンとアメリカの間に立ち、声高らかに伝えてあげたいくらいである。
雁狩ひろしと真理、そしてマリが得た幸せの本質。叶うべき“そら”を迎えるきっかけになった、マリの名言を載せて、コラム第1回は終わりとしたい。
「好きな人と一緒に年老いていけるなんて、なんてうらやましいことなんだろう――――
 永遠の若さなんていらない――――人並みはずれた能力なんて必要ない――――
 あたしはただお兄ちゃんと同じように生き同じように死にたい
 ただ――――それだけ――――」

■そら … 最終的に、マリを苦しめていた呪縛を解放することになる少年。現代世界の矛盾と欲望、繰り返す歴史の悲劇に警告を与える「何か」が生み出した像で、彼が伝える信念は、現在も廃れていない そら