情けない男心の象徴に見る止ん事無き親近感
~春よ、来い(©1999~2003 咲 香里/講談社アッパーズKC)~

▼我が身に極めて近い主人公(アルファ・ケンタウリ)。恋多き姿に重ねる理想の自分 
僕だけかも知れないが、人間三十も目前に迫ってくるようになると、いろいろと物事を批判的に見るようになると言うか、若かりし頃のように素直さというものがだんだんとはげ落ちて来るというのか(笑)
とかく、恋愛関係のメディア(ゲームとか漫画とか小説とか)に触れていると、本来、感情移入するべきはずの主人公の在り方に、どうも共感できないというか、素直に主人公になりきれないんですよね。困ったものなんですよ。ええ、別にヒロインや、主人公の友人(損な役回り)に共感するというわけじゃないんですが、主人公に対してむかつきながらも、やりきれないもどかしさの中で、結局面白いという矛盾した感想に辿り着く。自分でもいやなんです。でも、捨てられない、やめられないというのが自分でも情けないです(笑)
とまあ、そんな中で、あることがきっかけに「春よ、来い」という、某超有名アーティストのミリオンセラー曲によく似た漫画作品を知ることになった訳なのだが、不覚にも、この作品には我が心、強く打ちつける要素だらけだったのだ。
当時、8巻あたりまで出ていた作品だったと思うのだが、僅か三日で新刊を一挙買いに走ってしまったのは、僕自身極めて稀なことである。そして、この咲香里という作家が、自身の中で『恋愛漫画のカリスマ』と勝手に位置づけてしまうのに時間はそうそう掛からなかったのである。それは、主人公・曽根高史の存在が、極めて我が身の過去の姿に近くて、その境遇が理想そのままであったからかも知れない。メイン・ヒロインのの白井沙恵を初めとする様々な女性達とめくるめく恋愛関係に陥る曽根高史像に対する憎悪は微塵も感じずに、彼が懐く恋愛への怖じ気が無性に同じ男としてそそるものがあったのであると、最終巻を読み終えてしばらく経った今、思うわけである。
■春よ、来い当初はその名すら知らなかった作家だったが、某大手ネット書籍通販サイトの『おすすめコーナー』に紹介されていた事がきっかけで、後日書店で3巻まで買ってみたもの。咲氏の描く恋愛情景には極めて強いインスパイアを受けたのが記憶に新しい。

《 沙恵 》―――― 曽根タカシ、絶え間なき波浪の道への第一歩

「春よ、来い」は、その全94話の中に名言は夥しい。厳選するのも烏滸がましいので、敢えて突拍子もない言葉を上げようと思う訳なのだが、まずは主人公タカシが、メインヒロインである沙恵を、初めて名前で呼んで場面をもとに……。
と、正直言えば、この沙恵は文字通り絵の通り、なまじそこら辺のへたれアイドルやいかさまモデルとは較べものにならぬほどの超美人であり、抜群たるスタイルを持ち、更に極めてポジティブ、活発で明るい女性である。性別を超えて愛される要素抜群のキャラな訳なのだが、何故か、タカシにべた惚れして行く。いや、べた惚れというのは語弊があるか。当初、物語を読み進めている自分としては沙恵よりも、この男に対し白眼視していたものだったが、最近はどことなく沙恵がタカシに惹かれていったという気持ちが、そこはかとなく解るような錯覚になっているかも知れない。なるほど、同じ愚かでも、ここまで女々しくなれば、共に酒を朝まで飲み明かせる親友でいられるかとすら思えるな。
まぁ、タカシほど恋愛関係はないにせよ、彼のどこかしか暴走に近い、休む間もないほどに走りつづけている感じの姿は、自身にとって過去を垣間見るような感じであるから、懐かしさと照れが交錯する、不思議な感覚に囚われて止まないのである。そんな彼の通算4年にも及ぶ波乱の恋愛戦国の幕開けののろしは、文字通りメインヒロイン・白井沙恵を、名前で呼んだことから始まるわけである。まことに、古来から誰が言ったか知らないが、下の名前は「いみな(諱・忌み名)」と言うこと、的を射ているなぁ。

■曽根 高史言葉に誤解があるが、男の私から見ても、タカシは萌えキャラである。白井沙恵の存在がなくても、彼の情けなさぶりは、一抹の優越感と、羨望感を懐かせて止まない。
《 本気 》 ―――― 松田みさほ、大塚亜美、報われぬ悲恋

結局、泥沼化したままのタカシの恋愛事情は当然の事ながら自滅の道を歩むことになる訳なのだが、考えてみれば、ある意味で若さの特権だったんだろうと思えるのだよね。
恋愛ドラマの主人公の優柔不断さにはまるで鏡を見ているようでものすごくいやなものがあるのだが、この曽根高史には一貫して共鳴する。当然の事ながら、恋愛が破綻した時はまるで自分事のように胸が痛んだものだ、嘗ての自分と身を重ねればいわく古傷をほじくり返すような物語に思わず投げ捨ててしまいたくなるようなリアルさがある。しかし、傷つくことが人の成長を見るというのならば、正しく曽根高史、いやはやこの「春よ、来い」の物語全体にとってこれほどマイナーな曲が似合うドラマはそうそう多くはあるまい。それはやっぱり我が指標・徳永英明の大ヒット曲「最後の言い訳」もさることながら、DEENの「LOVE FOREVER」も然り。やはりメインヒロインである白井沙恵の存在は極めて大きい。後半は松田みさほ、大塚亜美という二人の女性と関係して行くタカシ。特に鷹嶺としては、松田みさほが年齢的にも一番近いために共感する部分はあった。しかし、一度破綻した経済に、公的資金を投入するようには、人の心はうまく行かない。公私の事情から疲弊したみさほは、一時の安らぎをタカシに求めたに過ぎず、かたや亜美は恋愛というものをゲーム感覚で見ていた時にタカシと出会って恋に落ちるも、破綻したタカシの心に思いが届くことはなかった。
このみさほ・亜美編によく使われた「本気」と言う言葉。奇しくも純粋無垢で情熱的な本気の恋は、タカシにとって本当の意味でタイミングが悪かったとしか言いようがないのだろう。個人的には非常に惜しまれた展開だったのかも知れない。

■牧野(マッキー)終始シリアス系の流れにおいて極めて稀少価値の高いボケキャラとして登場する主人公の親友。出番は少ない上に終盤、悲劇的な結末を迎える(笑)不幸な奴である。

《 その人らしい場所 》 ―――― 沙恵との再会と、穏やかなる終幕

「春よ、来い」の物語は、曽根高史を基点として白井沙恵を初めとする諸々のヒロイン達が大きな円を描くような物語であると言っても過言ではないのだろう。そのタイトルの意味は全体を読み終えればわかると言うことなのだが、この物語ほど、鷹嶺自身、心地よいものはなかった。
正直なところ、この物語のメインヒロイン・白井沙恵は、男の私から見ても非常に優しく、そして実に爽快に心の中に溶け込んで行く素晴らしいキャラクタであった。なまじ美辞麗句を連ねて主人公との関係を繋ぎ止めておくという、非現実的なむかつく『美少女』などではない。二十歳前の女性なのに、これほどまでしっかりした娘は、現代において極めて稀少であろう。まあ、本人がいたとして、鷹嶺がそんなことを言うときっと「それは違うよぉ~!」等と一笑に言われてしまいそうだが、いやはや、今の若い女の子達は、大体が沙恵に遠く及ぶまいと思う。彼女はとても礼儀正しく、極めて健気な『女性』なのだ。はっきり言って、タカシなどには過ぎたる“恋人”と言ってもいいだろうが、コレが不思議とタカシと迎える終幕は鷹嶺自身、強く望んでいたものであった。沙恵にとってもそうであったが、何よりも高史が救われて良かったと思って止まない。結局は何だかんだ言って、「元カレと縒りを戻したのか」などと痛烈な批判を受けることも甘んじる沙恵なのだが、彼女が言うように、「きっかけは何であれ、その人らしい場所へ行くことになるのよ、誰でもね」という名言は実に印象深い。その人らしい場所に戻ること。
恋人と別れて、その元カノ(元カレ)と縒りを戻したカップルも世の中にきっといるだろうが、そんな人たちは、最初に言ったように、結局、二人で大きな『マル』を描いた人生だったのだと思う。そして、それがやっぱり一番、『らしい』のだろうね。タカシと沙恵は永遠に幸福になってもらいたいと強く願う要素としては、やっぱり、これほどまで容姿ともに完璧な美女・白井沙恵を良い意味で終始“邪険”に扱った、曽根高史という主人公の完全勝利と見てもいいだろう。我がヒーロー・曽根高史に明るい未来あれと願って止まないのだ。

■白井 沙恵休む間もなくただ駆け抜けていったタカシと、優しさと強さを備えたタカシの二人を知るメインヒロイン。積極的でしっかりとした性格は、私・鷹嶺の理想でもある。
August 17, 2003