現在、少年マガジン誌で連載されている、刃森尊氏の『伝説の頭・翔』という漫画の主人公・タツヒトは、ある漫画の主人公のエッセンスを色濃く踏襲されているので、不思議と親しみさえ感じてやまなかったものである。それは言わずもがな、シチサンの高橋潤一という少年。 18年間いじめられつづけて、キモイと言われつづけて幾星霜、それが当たり前。いわば人生の底辺を彷徨い続けるような主人公なのだが、これがまた読者にとってはある意味優越感にひたらせる。元々人間はあらゆる面で誰かに勝ちたいという本能を持っているから、その感情は特段不思議ではないのである。シチサンメガネが伝えうる17回の短い物語の中で兼山氏が訴えたかったこと。単に『お笑い漫画』という範疇に止めおくことは出来ない、『お笑い芸人』の苦渋の半生を描き伝えたかったのだろうか。 本誌予告で爆笑問題や品川庄司らが賞讃したように、彼らがメディアに映る表の顔ではない、人間の本質をこのマンガの中に一部でも、見いだせることが出来たと言えば言い過ぎであろうか。それは高橋潤一が東京で見た人間砂漠の現実、失われた夢を見ることと、孤独感からの打破を教唆するものであったというのならば、実に稀有な貴重作品と言っても過言ではあるまい。 |
|
■シチサンメガネ … 2003年初頭の大型新連載と銘打ち、お笑い業界をネタにしながらも内容は極めてシリアス路線を踏襲。斬新な印象があり個人的に厚く支持し、長期を望んだが17話で打ち切りとなる。時代を先取りしすぎたために大方の読者がついて行けなかったと思える。 |
このシチサンメガネは、お笑いネタながら実に名言が多く散りばめられているから大好きである。お笑い・ギャグ系としては、島田英次郎氏の『伊達グルーヴ』以来と言っても過言ではあるまい。その中で、鷹嶺 昊が強く胸を打たれて今もってなおこれに勝る名言を漫画作品の中に見ないという言葉がある。それを語る前に、この高橋潤一と荒木瑛士。二人の主人公は実際に現実にコンビとして存在していたらどうだろう。果てさて、昭和の名優・コント55号に匹敵しただろうか。このシチサンメガネのストーリーを知っていたとするならば、恐るべしファンとなっていただろうと思うとある意味自分でも怖いのだ。
漫画だから表現は難しい。期待をしてストーリーを追うと確かに物足りないかも知れないが、本質はそこじゃないんだよね。高橋潤一と荒木瑛士。二人の指さす道、ポジティブに向かおうとする生き方なんだと思うわけよ。持論で恐縮なのだが、「笑いとは他人の痛み、苦しみの本当を知る人のみが授かるもの」だと考えている。高橋潤一。そしてエリートコースだった荒木を貶めた策謀。これは遂に本編で明らかにされなかったが。何よりもお笑いとは、観客に優越感に与えること。言葉を悪くすれば人の残虐性に抵触する事なのだろう。普通の人間では出来ない天性の資質がここにある。荒木が言った名言「なんで普通になろうとする?普通の奴らがお前みたいになりたくて死ぬほど努力するのに!」
あなたはどうだろうか。普通の人間として生きることがシアワセか、つまらないことなのか。将来の夢を、誰か君の『親友・恋人(あいかた)』へ真心で語れるだろうか。
■高橋 潤一 … 18年間日の目を見なかった不幸な少年と言うことだが、現実の若者達の多くは、心の中がそれまでの彼そのものであるような気がしてならない。 |
それにしても改めて読み返してみようか。シチサンメガネ、笑えない。笑えないどころか、実に感動する。読んでいてお笑い漫画なのに、この主人公達にはまってしまう。そしてオチなのか、本当につぶさに散りばめられる言葉に胸打たれてホロリと来る。ああ、鷹嶺もやはり年なのかなと思う時が多いのだが、著者・兼山氏の本当に真面目な取り組みがうかがえる。そしてそれが読者に感動すら与える。素晴らしいことだろう。尊敬するね私は。
何よりも高橋潤一と荒木瑛士。この二人の友情・信頼関係は回を重ねる事に、ある意味極端とも思えるほどのイベントで培われ実証されてゆくのだが、さすがに極道の親分の葬式は行きすぎか(笑) とも言えるのだが、極限状態の舞台にあっても壊されぬ信頼関係。現実に実証しろと言っても無理なのだが(出来るわけないでしょ?)、死ぬ時は一緒などと、桃園の誓いに擬すまででもないが、ソロでの売り込みを狙って取りあえずコンビを組むようなお笑い芸人はやっぱり一本筋が足りないんだよね。荒木と元相方の卯之吉の掛け合いでもそれを皮肉った場面はあるのだが。
コンビの生命線・信頼関係が高橋潤一の中で確立した瞬間はひとえに「一緒にいてくれる友達がいればちゃんと笑えるんだ」。この言葉の場面に集約されている。実に単純なことだと思う。友達がいるから笑いあえる。だが、どうだろう。潤一が吐露する、この『友達』の意味。君自身の中で考えてみればいいね。誤解は大きな傷を生むだけだから。お勧めしたい。
■平野 まみ … 実はお笑いの神様『エノケン』の娘だと示唆している。本来ヒロインとして潤一と瑛士を支えてゆくはずだったが、17話の短命ではそうはいかなかった。活躍の幅が無限だった分惜しまれる。 |
《 荒七メガネ(仮) 》 ―――― 史上最強の台本、登竜門への道開く終幕
序盤のある意味ハングリーな展開に比べて、終盤のシチサンメガネは良い意味での緊迫感に包まれて圧巻だ。臨場感にあふれているというのは過言ではあるが、実際にお笑い芸人達が舞台に立つ直前の心情描写がそこはかとなく読み手に伝わるから不思議なものである。最初の頃のネガティブな潤一の姿はすっかり影を失せて、ポジティブな潤一が相方・荒木を文字通り導く力強さを得ている。人との出会いが人生を変えるとはよく言うのだが、やはり最後は潤一自身が変わりたいと強く望んだ結果なのだろう。「人は完全に希望を失った時、人ではなくなる」と言う、シチサンメガネを知ってから持論として生まれたことがある。
ダークな話、人は自殺を試みた時も、心のどこかで誰かが助けてくれるという一縷の希望を懐くものなのだと考える。人の優しさが胸にしみる、淋しいという感情も、やはり人がどこに向く希望からもたらされているものだろうと思うのは考えすぎであろうか。「お笑い」とただ一言言えば実に安直かも知れない。だが、「笑う」ことは難しい。今の日本人は素直に笑うこともさることながら、満足に空を見上げることも少なくなった。素直な気持ちで笑うこと。何よりも大切な人の優しさ・希望であるのだろう。高橋潤一・荒木瑛士ら「荒七メガネ(仮)」は『幸せになろうよ』という強い想いで観衆の笑顔を導いた、素晴らしい芸人である。そしてその「(仮)」こそ、人間の生きる意味、人生の途上を示しているのであろうか。連載は終わったが、「荒七メガネ」が培った人間の本当の価値は、将来になって貴重な財産となること間違いない。
■荒木 瑛士 … エリートコースを歩みながらもどん底を知る青年。潤一と出会い、切磋琢磨しながら成長する姿に共感を覚える人も多いだろう。 |