ドラゴンクエストVIII
ゼシカ、磊落なる気性もてエイトの伴侶となる
ドラクエ8は鷹嶺としては基本的に、主人公(エイト)×ゼシカ、ヤンガス×ゲルダ派、ククールは特定無しと言うことであるが、ようやく世間でほとぼりが冷めかけている今、ゆっくりと回想しながら2周目をまったりとしてみると、名場面は結構多いのねえ。
ゼシカがリーザス像の塔で初見した時にブチ放ったメラゾーマ系の呪文は使えないのかと思いつつも、尊兄サーベルトへ寄せる思慕の念に、ドラクエ8の世界で鷹嶺がなれるとするならば紛れもなくサーベルトでお願いします。とばかりに思ったもの。出番はゼシカの回想でしかなくてもいいんです。ゼシカに他の男性連中は無論のこと、メイドたちすらも歯牙に掛けないほど思いを寄せられた、ある意味幸運な「兄さん」に肖りたいですな。
気が強くあり唯我独尊の気をファーストインスピレイションとしながらも、ものの見事に我が心の急所を突いてくれたのが、「すんませんしたーっ」でしょうかね。
はっきり言えます。この場面だけでご飯3杯はいけますよ。さすがはゼシカ。我が国で言えば藤原氏北家嫡流・近衛家にも等しい、七賢家アルバートの矜持をやはり忘れず、かつ竹を割ったような性格が船乗りの心を掴む。世界を股に掛ける海の男というのは、女を見る目は確かだろうから間違いない。ただ謝るだけではない、「すんませんしたーっ」に強い意味がある。これがゼシカだろう。これだけで、鷹嶺はククール×ゼシカよりも、やっぱ主×ゼシで決まりだね。と思ったのです。まあ、ミーティア姫はある意味反則的な存在ではありますけど、一人称が自分の名前よりは……とか。
まあ、鷹嶺的にはシスタープリンセス咲耶系の強い引き付けがあったことは否定はしないでおこう。
ククール、軽佻浮薄を装う蛟竜の士
ククール(イメージCV:磯部弘)と言えば鷹嶺的にテイルズオブシンフォニアのゼロス・ワイルダー(小野坂昌也)を思い描くのだが、果たして境遇もよく似ていると言えなくないだろうか。
いずれも公室に列す高家の出身、美貌、兄弟運の無さ。心に秘めた哀しみを覆い隠すかのような軽佻浮薄の男を装うところなど、いやはや良くして共に酒席を囲み藤林の姫やゼシカ嬢の落とし方などの意見交換をしていただきたやと思うのだがいかに?
さて、鷹嶺はそんなイケメン・ククールのキャラには勿論嫌いなわけがない。寧ろそんな理由でゼロスとかぶって好きなキャラの一人ではある。
イカサマ博奕に賭場荒らしと、いやはや疾風のお娟か風の鬼若かが、黒幕光圀の魅惑の眼差しを察知し、不正役人の資金源を強行突破してしまいそうな場面ではない。この男、人生を達観しているとかよもや青林にあばら屋を構えて清談を吟ずるなどと言うしゃれた者ではない。これぞ運命の出逢いかとばかりに瞳の先には七賢家アルバートのセクシイダイナマイト(死語)に。それも、決して俗っぽいスケベな男の眼差しなどではない。いやいや、この男にスケベ心という言葉すら陳腐だろう。マジである、それを感じた。豪快にバケツの水を戦場のただ中にブチ掛ける勇猛果敢な美女お一人。イスラエルとパレスチナの単細胞たちにも美女の冷水浴びせれば少しは頭が冷えるのかなあ? ククールじゃないけど、ゼシカに更に惹かれる一場面はここにある。エイトは相変わらず、鈍感っぽいかな? いや、まだ恋愛感情にまではならないかあ。
嫌がるゼシカ、だけどいずれは気になる存在に……。マイナスイメージから限りなくかけがえのない存在に変わるプロセスは人の憧れるところだろう。ククール×ゼシカの良いところはそんなところにあるわけだが、実際現実世界じゃあ第一印象が悪いと、打ち解けたりは出来ないものだよね。しようにもなかなか難しいと思う、先入観があるからなあ、やっぱり。鷹嶺としてはククールが特定の相手無しと思うのは、やっぱりいい男にはフリーであるべしというロマン心があるんだけど、そこはやっぱりゼロスとは違う。何しろ初見同士だしなあ。ちなみに迫られている(違うと思うが)ゼシカ、本気で嫌そうな顔してますしね、結局、ラストでようやく対ククール感情が±0になったと思うのは私だけでしょうか。
賢主トロデと、不撓の傑士ククール
さすがは馬姫の父よとばかり。人臣に慕われる麗姫、その娘を目に入れても痛くないほど可愛がる父親に悪人はなし。いやはや、それどころかこのトロデ王、故国を遍く善政を敷き詰めた賢主であろう事はもはや私が語るまでもなかった。ヤンガスのような、言わば『賤民』とも漫才のようなやり取りを出来る気さくな性格は彼の善良な部分を素直に表してくれている。主人公が言わば自由に行動しながらも、トロデ王に忠義を尽くすのはまさに人徳の成せる技であろう。
この様な姿になってさぞや無念だと思うが、ドルマゲスには寧ろトロデ・ミーティア父娘に見識の幅を広げたことに感謝すらしたくなってはきまいか。荊の呪いは言わば時を止め、国政に常につき物の難問瑣末な諍いなどをも封じ込めてくれた、父娘人生最悪にして、それでもそれを勝るほどの好機であった。
国王・王女(しかも絶世の麗人という箔つき)というしがらみを解き放ち、純粋に大地に息づく生命としてドラクエ8の大地を自由に見聞する。EDを迎えて故国復興の暁には更にトロデ王の治世は後世に高名を刻む国家の見本となっていくだろう。
そして何よりも、我が身を省みず危機に立ち向かってゆく「勇気」を兼ね備えた名主。家臣や領民を思えばこそ国主たろうとも守るべき命がある。鷹嶺にとって、トロデ王に対する株は破格の値上がりになったのは言うまでもない。
ククールは相変わらずゼシカに対するアプローチ(闇雲じゃないところがにくい)に事欠かないようだが、その時点で主人公にはまだ恋愛の相手という者が見えていない時期だったろうから、いささか気後れしていたのではないか。彼もまた、主人公×ゼシカという構図を思いながらほんのわずかながらも、やっかみがあった。彼のような軽佻浮薄の真意を知ればククールに対する同情心、判官贔屓なるものが人々の心に芽生えるのだろうけど、これがまたいささかククールも飄然としているのかいまいちアピール不足がちだ。波田陽区ばりに歌ってみよう。
♪俺の名前はククールだ。イカサマバクチに女たらし、兄貴に嫌われひねくれちまった、だけどいい女にぁ目がねえぜ、魅惑の眼差しあまーい台詞、俺に落とせねえ女はいないぜ……って、いぅじゃなぁ~い?
だけど……恋愛のれの字もない長旅を続けているのは、あなた達ですからー!!! ざんねーん!!!
男三人女一人……これで、何も起きないのは――――男らしくねえ!! 斬り!!!
……わたくしー、恋愛よりも、長い休暇が何よりも欲しいんです……切腹ッッッ!!!!
イシュマウリ、その姿は晴明か仲麻呂か
DQ8幻想界の花形イシュマウリは明らかに月と音楽の神。インドのソーマか、中国の嫦娥か(女神だが)。しかしどちらかと言えば我が国の月読命に安倍晴明を合わせた雰囲気をたたえるではないか。
この神人、こう見えて実は武に優れた大神であったらと思うと萎縮してしまいそうだ。人、魔物を超えて正道を導く清和の神、竪琴の高雅な音色は夜に部屋を暗くして聴いてみようことに実に雰囲気に溢れている。イシュマウリのイメージはまさに殿上人。式を駆使して怨霊と戦う……というイメージではない、ヒトの心を癒す陰陽師・安倍晴明、そして遣唐使の一員として渡唐し、不運が重なって結局長安で没した、阿倍仲麻呂。彼のイメージもまた、何となく月。いわく
『あまの原 ふりさけ見れば
かすがなる みかさの山に いでし月かも』
果たして仲麻呂もまたイシュマウリに会ったのだろうか。と、イシュマウリには和歌が似合いそうだと言うことだ。神話調の装いなれど、やはり雅。その恩恵を受けて『月の冠者』と称する若者が出てきはしまいかと思ってみたりするわけで。神界でも怜悧な美貌に温和な性格をして女神たちの心を一身に集めていそうながら、辺境の廬に琴を奏でる。その実は万世一系の大神の皇太子だろうかね。おそらく神を継ぐのを躊躇い弟神に譲った、有能の隠者かも知れぬぞ。いずれにしろ、DQ8の世界を泰然と見据えていた、ある意味世界最強のボスキャラであろうか。
賢妃、国政を昏くす主公を優しく叱咤す
サブイベント的な意味合いが強いが、そのストーリーは深い意味がある。アスカンタ王国の若き国主パヴァンと、故后妃シセルとの儚くも美しい愛物語は、ぐぐっと惹きつけられると言うよりも、しっとりと胸に染み入る情景である。
聴いてみて下さい、私が今手掛けている「Pray」第2部のムードミュージック・徳永英明「君の青」。リアライズした二人の永遠の愛を祝福される名曲よ。シセル王妃陛下は、鷹嶺的に見てもまさに明眸皓歯の麗人、月並みだが、その微笑みを見れば花はうつむき、望月も雲に隠れ、風は止み、鳥もさえずりを呑み込むほどであろう。ククールの言葉はまことにもっともであると思う。パヴァン陛下には、漢風諡号として『孝尚王』とされたい。亡き王妃陛下と共に、明媚なるアスカンタを共に歩み行く。暗い一年の服喪も、王妃陛下のやんごとなき仁徳の賜物。パヴァンが国主として仁政を布いたかどうかはまた別の話でも、王妃陛下ただお一人でアスカンタは僥倖に与っているのではないかと思う。
ある意味、ドラクエ5のグランヴァニア国王・王妃両陛下の将来を擬しているような気がするのは私だけだろうか。大魔王ミルド追滅後の王陛下をパヴァン陛下とし、ビアンカないしフローラをシセル王妃陛下とする。いやいや、グランヴァニア王妃陛下が早世するという意味ではない。互いにそこまで想い合える素晴らしき夫婦愛は今の世に稀なと言うことよ。
私は陛下の宸襟はよくわかる。シセル王妃陛下以上の賢妻を見出すことぞ不可能なり。キラがいずれ王陛下の眼鏡に適おうとも、多分陛下は貞操を守るだろう。言うなればアスカンタ公家の家系は孝尚王の御代にて途絶えることになろう。それでも良いか。詩聖杜甫も詠う
国破れて 山河あり
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙をそそぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
烽火 三月に連なり
家書 万金に抵る
白頭 掻けば更に短く
渾て 簪に勝えざらんと欲す
アスカンタの穏やかな世界を思えば、パヴァンも心晴れやかだろう。
モリーとドラクエ各世界
素晴らしすぎます、この人は。……と、思わず黄色い声を上げてしまいそうな御仁が、言わずと知れた、モンスター・バトルロードの主宰者、モリー。タカミネは当初、ここの建物が何なのか解らないまま、ラスボスまで引っ張ってしまった経緯がある。まさか建物の脇に上に続く通路があり、屋上に彼が佇んでいたことなど、全く知らなかった。
彼は何故、バトルロードに飽くなき追求を燃やしているのか。天空編のライアンやトルネコが存在している世界の繋がりを考えれば、エデン編の某モンスターパークの血統をも継いでいるのだろうか。いずれにしても、かく言う高名の士というのは、裡に大望を秘めているが故に、どことなく浮世離れをしている。しかし、どの様な立派なことを言っても、不思議と圧倒されるほどの説得力があるから不思議なのだ。彼に付随する三人の若い女性が、彼に心酔している理由もよく解る様な気がするし、モリーはかといって女癖の悪い人物ではないことが覗える。文字通り『ダンディズム』を貫徹するがゆえに、人を惹きつける。津川雅彦張りの渋さを前面に、しつこくない陽気さ、時々ぼけたりするところが庶民くさい、まことにもって完璧な名士だろう。
魔界の影ひしひしと近づく昨今にあって、悠然と趣味に興ずる余裕はどこから来るのだろうか。ドルマゲスも、七賢家の末裔のみを狙い、モリーを討たなかったのは致命的だったのかも知れない。
ちなみに、イベントで戦闘にしておかなければなかなかお目に掛かれないキャラクタの表情。メモを眺めるゼシカのこの表情が、そこはかとなく、惹かれます。カワイイと思いますね。
ゲルダ、誰もが期待したパーティ入り
さて、女盗賊と言えば誰を思い浮かべよう。プーランか。いやまたドラクエ3の銀髪褐色の女傑か。ちなみに我が国の時代劇に活躍する女盗賊と言えば、何と言っても、「おまさ(梶芽衣子)」だろうか……って、知っている人は知っている。
それはともかくとして、ヤンガスの旧知・女盗賊ゲルダの名前を聞いて若くて絶世の美人、盗賊らしく鍛え上げた抜群のスタイルを想像したのは、タカミネだけではないはずだ。
ゲルダは萌えキャラなのか。偏に萌えと言えば多説があるわけだが、鷹嶺的に言えばイエス。
いわく、
・かつてヤンガスと交わした約束を忘れずにいる
・気が強く素直じゃない
・ヤンガスのすごさを誰よりも解っているから、クロウの洞窟で無茶をする
・何と言っても、そのスタイル
急に思いつくと言ったらこれくらいかな?
鷹嶺的に見れば、ゲルダはご正道をまい進する二次創作キャラの標的。ククールも言うように、ヤンガスもゲルダ嬢もいい歳なんだから、もう勝手にやってくれよと。
体の良いラブコメ。小林俊彦氏の名作「ぱられる」の星野桜か、瀬尾公治氏の「涼風」朝比奈涼風か。どちらにせよゲルダのイメージは、密かに想いを寄せ合っていた二人なのに、ヤンガスは勝手に逃げ出してしまった。愛想尽かそうにも、それが赦せない。結局、ヤンガスへの想いと苛立ちばかりが募って今に至る。ヤンガスと再会するも、100年の恋……とは言わず、100年の恨みも一気に霧消する、成長したヤンガスの胆力。ヤンガス=猫田信之介か、秋月大和かな。
ゲルダや、主人公たちの眼前で土下座したヤンガス。大事のためならば小さなプライドをかなぐり捨てるこの義侠を見た瞬間に、ゲルダの心にあったヤンガスへの想いが一気に再燃したのは間違いがないだろう。そう、この瞬間に、名実共にヤンガス×ゲルダの物語は復権したのではないだろうか。お互いに純情一途という、今の日本人には腹を抱えて笑ってしまいそうな性格をしている。
よくある話、見ていて危なっかしい、放っておけない奴ら。子供のママゴトのようなやり取りに見ているこっちの方がいらつくような奴ら。
ああ、でもヤンガスとゲルダはどちらでもない。ククールじゃあないが、寧ろ言うなら、何とかしてやりたいと世話欲をかき立てられる感じ。ドルマゲスを倒すことよりも意外と難問や知れぬ。結婚することになって、いざ式に臨んでもこの二人、喧嘩をしていそうだ(一方的にヤンガスが負けるのだが)。「喧嘩をするほど仲が良い」のも考え物。
あ、鷹嶺的に最も得意なタイプの関係だな、この二人(笑)
月の神子、遣唐使船
トロデーン城を覆っている荊。ゼシカは城門の荊を焼き払った。全てじゃなくても、一部ずつ焼き払ってくれれば、城内のショートカットは楽に出来たんじゃないかと突っ込んでみる。君だったらそれくらいお茶の子さいさいだろう(笑)それはともかく、ゼシカが踊り娘の服を装備した瞬間に画面に変化をもたらした時、私は無性に納得してしまっていたね。まるで給料日に明細書をもらった時のように、ごく当たり前に。
そこで鷹嶺はゼシカがああ「脱ぎキャラ」だなと確信した。多分こう感じた人は7割以上はいたのではないかとさえ思う。まあ、ギャルゲーもそこそこやった私からすれば、ツインテールという時点で、彼女が既に萌えの領域奥深くにある存在ということは重々わかっていたんですがね。
まあ、ゼシカを語らせれることよりも、鷹嶺的には小説とかでラブラブにさせたいたちなんで、まあそれはまた後日と言うことかな。
そして出ました。神人イシュマウリこと、阿倍仲麻呂。多分、序盤一の見どころでありましょう、古代船の復活。
鷹嶺的には、この古代船、倭国が誇る遣隋・遣唐両使が乗り込んだ大船に似てはいまいか。いやはやさすがは仲麻呂。貴方の望郷への想いが、エイトたちに朽ち果てた帰途の船を託されたかと言う感じ。
まあ、仲麻呂も中華の帝に気に入られて放されなかった麗人。きっと、イシュマウリのように琴を手に月に思いを馳せていたのだろうな。願わくば潮満ちて私を故国に連れて行っておくれ……みたいな。
そして、正しく風雅なDQ8名場面の一つ、光の階段。流れてゆく数多くの場面の中でも、鷹嶺的に特に気に入っているシーンですね。何と言っても画面が美しいと思います。溺れても良いから写真に収めてみたいものよのう(笑)
鷹嶺が涙したDQ8、屈指の感動イベント
DQ8の落書き的小説、読まれた方いかがでしたでしょうかー。まあ、アレはあくまで流し程度の下地なんで、本格連載が始まるとしたら、もっとゆっくり、じっくりと主ゼシを書きたいと考えてます。勿論、ミーティアも絡めてね。
閑話休題。私も実にトシを取ったんだなあ。最近涙もろくていかん。
ドラクエ8の中で激しく涙を誘った屈指の名場面は、何と言っても、ラパン公とキラーパンサー・バウムレンとの固き絆。思い出しただけでもグッと来ますな。
ドラゴンクエスト5のモンスターとして、更に5主人公との絆として絶大な人気キャラとなったと思われる、キラーパンサーの再見には5ファンとしても大いに喜んだもの。まあ、キラーパンサーが乗り物……という事はともかくとして、個人的には、おそらくエルヘヴン(DQ5)の血を引くと見るラパン公と、このバウムレンとのストーリーだけでも最高だったと思います。
自らが魂となったことも知らずに現世を彷徨い、旧友が安堵のために天界に導く。幾つもの小説や映画などで見る、一見オーソドックスなストーリーかも知れないが、感動のツボをついたのは、人と魔物。キラーパンサーという点が何よりだったのではないか。スライムでもない。ましてや腐った死体でもない。命の樹の下を彷徨うバウムレンという存在が、キラーパンサー以外であったら、鷹嶺は決して泣きはしなかっただろう。
また、このラパン公・バウムレンの逸話には何にも勝る名言があった。言わずと知れた、「いつの日も、心にパンサー」。その言葉の持つ意味を知ろう。現実世界は色々な意味で病んでいる。日本でも毎日何処かで人が殺され、卑劣な犯罪が蠢いている。外を見れば、さもない小島をめぐっての醜い領土争い。
パンサーとは、『友情』、『博愛』、そして何よりも種族を超えた究極の絆という意味に考えられるのではないか。もしも、この逸話に触れて感動し、涙を流した人がいるとするならば、私の言葉の意味以上の何かを感じ取ってくれていると信じている。そして、私的にDQ8の真の意味での評価が、このイベントで急騰したことは言うまでもない。
チャゴス、隠されたる大器晩成
さて、ドラクエ8をプレイされた人の95%くらいは、サザンビーク王室嫡子・チャゴスを暗愚、沐猴(もっこう)にして冠す器だと思っただろうか。
チャゴス王子は父クラビウス帝、伯父エルトリオ献太子にも似てにつかぬ程の情けなさと姑息な小人物のように描かれている。
しかし、鷹嶺的には彼のことを、「この様な小人物にミーティア姫は相応しからず」という理由は勿論、この人間性をして好きになれないどころか、ある意味で非常に親近感があり、私を含めて極めて現実の現代人に近い人物像に思えた。当然、鷹嶺はチャゴス王子の人となりは好きである。チャゴス王子が嫌いと思う人は、きっと彼こそ自分の映し鏡のような存在だからなのである。少なくても、人間誰でも命が惜しく、今現在を維持しつつ心の何処かで名声を上げ人々の歓心を買いたいという賤しい心を抱く物だろう。チャゴス王子は、理想や綺麗事が並べられた主人公たちや世界観からすれば実に異質に見えるのだろうが、もしも現実に彼が存在したとしよう。きっと、彼を異質とは思わないはずだ。なぜならば、彼こそ現代人の平均的な姿。勧善懲悪、美談に晒されたDQ8の世界の中で、唯一ありのままの私たちの姿をこの世界に具現化させてくれているのではないだろうか。
彼は三国蜀漢の後主劉禅や南北朝陳の陳叔宝とは明らかに違う。少なくても王室嫡流としての気概はある。チャゴス王子は前述の暗君とは違って、亡国の主君であるとは思えない。一応、王家のしきたりに立ち向かう意識がしっかりとあったのは、酒色や闘犬に溺れぬだけでも充分だ。王族の威光を傘にするとは言うが、政を権臣に一任して国家を廃れさせるほどとは思えない(彼のようにある程度プライドの高さがあれば、大丈夫である)。まあ、傍若無人ぶりもミーティアが馬姫と知らぬのならばご愛敬に等しい。EDでの美姫への決めぜりふを見れば、少なくても女性に暴力を揮うような、男として失格な腐った人間ではないことがわかる。ククール曰く「奴は性根が腐っている」とは言うが、そりゃあ、世界を救う旅を続けているあなた達にして見れば、目の前のことで手一杯な凡庸な庶民のことはそう見えるのでしょうけどね。
チャゴス編の最後に彼がアルゴンハートをすり替えたことについても、多くの人はふざけるなとか、卑怯だとか思うだろうが、人間なんて所詮はそんな小さな見栄を張るものであろう。全てを諦めて友人も失くすような世捨て人、投げやりな性格の人間は別として、人というのは、他人から良く見られたいという欲求は常にあるものだ。まあ、一国の君主としての裁量はともかくとしても、人間・チャゴスを真っ向から嫌いにはなれず、むしろ彼の姿に自分を映してみれば、案外自分に似ていて親しみを感じる訳がここにあるのだ。
チャゴス王子が嫌な人、もう一度、今までを振り返って、自分と較べてみればどうだろうか。彼とは全く違うと一概に言い切れるのならば大したものだろうがね。
ミーティアとムーン、これぞ正しく犬馬の労
呪詛で姿を異形に変えられる話は良くあれど、DQの世界はとかくレディに対して非常にジェントルだと思う。
ミーティアは馬だが、悪霊の神々編のムーン王女は犬。
これぞ正しく国家に対する人臣の模範・『犬馬の労』も厭わず奉仕するべしとばかりに、両者は身をもってこれを示してくれているのだとは思わないか。それはともかく、ハーゴン卿はムーンをして自らのペットにせんとばかりにギャグネタでも用いられ、果てさて延々とムーン≒犬のネタは決して創作作家だけのナローな話題ではなかろう。だとするならば、当然今後のミーティアは馬姫を代名詞とばかりにムーンと同列の格好のネタ。なるほど、今作に「うまのふん」は非ず、「うしのふん」ときたのはさすがにレディに紳士的なドラクエらしい展開ではある。DQ8支持層において、二大勢力化している「主×姫,ククゼシ」,「主×ゼシ」鷹嶺的には、ミーティアについては際立って思い入れの深い事はないのだが、敬愛するトロデ王の心境を思えば、同情に値出来よう。まあ、ぶっちゃけた話、一人称が「ミーティアは……」と名前で呼ぶところが今一歩引くところであり、どことなく主人公やプレイヤーの気をあからさまに惹かせるような言動が心に一定のブレーキ作用を掛けていると言える。
ビジュアル的には言うまでもない、ゼシカと較べればミーティアの方が癒し系で好き。5のフローラに通じる部分がある(あくまでビジュアル的にであるから間違えるなよ)。
まあ、本当ならば主×姫が一番落ち着くような気もするのだが、ゴメンよ。タカミネは早期に旅を共にするオンナノコと主人公との育まれる恋愛という王道ストーリーが一番落ち着いて良いんです。
こうなれば個人的には、ククール×ミーティアという選択肢もありうると思うが。ククールの浮気心に対しては、彼女の方がゼシカよりも結構、静かな威圧感を与えそうだ。
実はスクリーンチャットで、ヤンガスが彼女を主題とした創作活動の難しさを示唆した言葉があるのだが、鷹嶺的には全くもって同感である。ミーティアは創作小説の格好のネタになりやすそうにしながら、これが意外と極めて難しいキャラクタである。料理にたとえるならばお粥を作るのに等しい。単純だからこそ難しいと言えばそうだろうが、大方、ミーティアは淡泊なストーリーに終始されがちだと思う。性格とかを考えれば、彼女を主流として読み手側にハラハラさせるような二次創作を描かれるようになればプロ級なのだろうと思う。かく言う鷹嶺 昊は、そんな自信はございません(笑)
DQ8鷹嶺版SSの原点、呪われしボン……
ドラクエ8の創作小説を模索している中で、鷹嶺的に決定打となったイベント。それは創作ネタとカップリング、主人公×ゼシカが同時確立した瞬間であったと言える。
言わずもがな、石工の街リブルアーチのイベントである。それは言葉なき主人公のもどかしさ、ゼシカの直向きさや愛らしさが湯水の如く溢れ出し、鷹嶺に徹夜作業をさせる気かとばかりにネタが浮かぶ浮かぶ。もう、このイベントクリアした直後はスーパーハイテンションも良いところだったね。ゼシカ良すぎ。言葉なき主人公、なにげに格好良すぎ。
ちなみに杖使いゼシカ、私は知らぬが所帯持ち、あるいは恋人持ちの男性諸君よ、決して違和感を感じまいが? 言わずと知れたそなたの伴侶が怒れし時の表情そのままではあるまいか。
こんな顔つきで、「くすくす……お帰り……」などと迎えられた日には、桂歌丸夫人ばりに生き地獄を見てしまいそうであろう。
エイト「怒るなお前、ちょっと部長につきあわされただけだっていってるだろ」
ゼシカ「くすくす……悲しいわ。あなたのポケットからアスナちゃんの名刺が出てこなければもう少し長生き出来たのに……」
エイト「ベ、ベルガラック!?」
いやはや、絶対にこのゼシカ、完璧に乗り移られたわけではないとタカミネは思うのですが、如何に?
そしてやっぱり元に戻った後、男ならばククールじゃないが「おめえのこたぁ、これから死んでも守ってやる」と想うは必定。あ、そう言えばこの時点で既にククールがゼシカに一方的に立てた誓いは反故にされてるね。ククール、だめだよう。物言わぬエイトの勝ちよ。
それにしても、宿屋の扉の前で見せるゼシカの戸惑いの表情、激萠へですから~~!!!! はぁはぁ……と、年甲斐もねえやな、全く(笑)
君は言葉では言えなくても、心で叫んでいただろう。エイトに旅を続けたいと懇願することは、彼をただの人とは想っていないと信じよう。たとえ君がリブルアーチを逃走して更に次の街で災厄を招こうとも、天使化したコレット(テイルズオブシンフォニア)のように、自らの意志で杖の呪縛を打破していただろうな。いやはや、大したもんだよ、ゼシカ、君の意思、エイトに対する想いというものは……(おっと、思わず主人公じゃなくて、エイトという名前になっていたよ)
ゼシカは主人公のことを優しい人という場面が結構あったと思うがどうだっただろう?
彼女の兄・サーヴェルトが主人公とよく似ていることからも、決して満更ではないと思う。ゼシカの境遇を思えば、暗黒神の強大な邪念に取り憑かれてしまったことは、ゼシカにとって正しく屈辱であろうし(スクリーンチャットでも何度となく追懐してるからね)、そんな自虐的な精神状態を良く支えてくれたのは、主人公だったかも知れない。ああ、こういう時ってククールがリンクした境遇をもってゼシカを良く慰め、ククール×ゼシカにもって行きそうな気はするのだが、実質、ククールの兄貴は生きてるし、寧ろサーヴェルトは質が違うしね、この兄弟。やっぱり、ゼシカが最後に頼るのは、主人公だったんじゃないかと思う。
鷹嶺の中では、このイベントに置いて、かなり良い雰囲気になる予定なんだよねー、この二人。
さあて、ようやくリブルアーチねた書きましたし、ブログ礼のDQ8小説、シークレットから解放しました。ブックマークを見てちょ。すぐにわかります(笑)改めてよろしくですm(__)m
七賢者の『血脈』?『嫡流』?
暗黒神ラプソーンが封印解除のために、七賢者の血脈を絶やす行脚をするというのが本来のDQ8の敵側の目標であるらしいが、ここで疑問に思うことがある。
ラプ(略称御免)は言った。「七賢者の血脈を絶やせば、我が封印は解かれん」。しかし、ラプが屠ったのは、少なくても七賢者の血脈とされる「人物」である。
?? 何を言っているのかと言えば、つまり、サーヴェルトにしろ、ギャリングにしろ、オディロにしろ、メディにしろ、七賢者の「嫡流」とは言っていない。もしかすると、彼らの中には、七賢者の嫡流ではなく、庶流の当主もあったのではないかと見る。
歴史の理は常に敵方の嫡流を滅ぼすことになるわけだが、ラプを杖に押し込めた七賢者の子孫が、仮に嫡流一本であったと考えるのには無理があるのではないか。まさか、家訓に子供は長男だけにせよ、あるいは長女だけにせよとでもあるのだろうか。
ちなみに今、大河の義経関連じゃないが、七賢者ならぬ源氏・平氏の有力家系を見てみるとする。神鳥レティスを含めて、ラプソーン封印の八賢。我が国の関東地方には坂東八平氏と呼ばれる有力武家があった。
すなわち、房総半島に千葉氏、上総氏、三浦半島に三浦氏、武蔵・相模地方に土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏。
いずれも平良文の末裔として枝葉が別れた有力武家である。方や源氏には八源氏と呼ばれる存在は言われていないが、鷹嶺的に選んだ源氏八家、すなわち源頼光の子孫・源頼政、多田氏、源頼親の子孫・大和源氏、源頼信の子孫・鎌倉将軍源頼朝とその一族、木曽義仲こと源義仲、新羅三郎源義光の裔・甲斐武田氏、八幡太郎源義家の子・源義国の裔、新田氏と足利氏。
なんだかワケわかんなくなってしまいそうだが、要するに、一概に血脈と言っても、歴史の流れの中で賢者の血というものは末広がりに広がって行くものではないかと言うことだ。
平氏・源氏を例に挙げ、こじつけ的に八賢者を宛がったが、考えてみてください。実際にこれらの名族を、たった一人で捜し彷徨い、根絶やしにすると言うことは論理的には可能でも、物理的にはほぼ不可能と言っていい。
七賢者ギャリングの例を挙げれば、彼の先祖はイメージ的に女性に大変持ててそうだから、各地に子種を残し、庶流の子孫がベルガラックから離れていわゆるリーザスやポルトリンクなどにも散在している可能性だってあろう。他の六人の賢者の子孫もしかり。ラプが「七賢者の嫡流を滅ぼせば――――」とでも言えば話はわかるが、ただ「血脈」と言ってしまえば、世界の人々を皆殺しにしない限りは封印解除には到るまい。つまり、如何にドルマーのおっさんや黒犬、ましてかわゆいゼシカたんの身を使っても、血脈根絶やしには数百年単位の時がかかると言うことになる。ラプがメディを滅ぼす時に、その息子に対し「賢者の血は感じるが弱い……」と言うのは急な当てつけのような気がする。明らかなる矛盾であろう。彼だってれっきとした賢者の『血脈』であり、『嫡流』である。殺害の好機は多々あるのに「メディ」を殺して一人とする……ではあまりにも七賢者の名が廃れよう。
それを考えれば、始めにラプを封じた七賢者の力も何々かなり内劣りしているものだし、レティスも無駄に気張っているなと思う。だからチェルスは完璧に、文字通り犬死にに等しくなる。ラプを封じた時から既に、ラプの思いのままであった。七賢者の面目は最後まで回復することはなかったと言えるが、いかがなものであろうか。