INN nostalgia Game Essay
Memories Off 2nd Favorite Essay
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Age:17 born:4/13 blood:AB size:153cm 44kg
CV:南里 侑香
My her image song: ふたりぼっち(片岡大志)
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宋襄の仁積み重ね見失った、自己の存在意義
▼伊波健、無用の聖域破壊
まず初めに、相摩希の私的イメージソングである「ふたりぼっち」の片岡大志氏は、今をときめく矢井田瞳をプロデュースした奇才のアーティストである。片岡氏本人が送り出した楽曲は、このふたりぼっちを始めとしてなかなかまったりとしたものが多い。そしてこれ。2メロの歌い出し「♪幸せな可哀想な物語の中でなら何も聞こえない 連れ戻さないで離れないでこのままで守れそうなふたりぼっち」。まさしく彼女のストーリーに相応しいと思ったからだ。
このエッセイであまり深く触れればネタバレの要素多い娘なので、深く掘り下げての蘊蓄は控えよう。
ひとつだけ確信して言えることは、彼女のファンには申し訳ないが、私自身は彼女のストーリーにはあまり興味を抱かない。と言うよりも、少し非道い言い方かも知れないが、2002年大河ドラマの「利家とまつ~加賀百万石物語~」を見た後のような無性なイライラ感と怒りを感じると言っても過言ではない。決して相摩希という娘が嫌いというわけではないが、伊波健とのやり取りを通じ、トゥルーエンドを迎えた後で、言いようのない脱力感と後味の悪さを感じたわけである。
それもこれもやはり我らが主人公、伊波健の介入によって、破られるはずのなかった彼女の聖域がものの見事に破られたことである。相摩編での白河ほたるの心境思えば、まさしく鎌倉北条得宗家によって隠岐に流される後醍醐天皇を彷彿とさせる。残念だが、彼女のストーリーに触れてみて、初めて白河ほたるに全面的同情を抱いた。
▼健と希、宋襄の仁に勘違いした愛情
「宋襄の仁」とは、無用な情け。ひいてはそれがかえって悪影響を招くことになるという意味である。彼女の話における伊波健は、まさしく時を越えて再来した春秋戦国時代の宋の襄公だった。
澄空学園の三上智也が伊吹みなもにかけた仁愛とははるかに比較にならない。やがて明らかになる彼女の真実においても、私の中で芽生えたそれは払拭されることはついになく、逆に希自身も結果として同じ轍を踏んでしまっている。
伊波健が彼女の聖域をうち破ったことが全ての原因だが、一方的に健を責めることも出来ないし、彼女も責めることが出来ない。冷静に見れば二人とも何も間違った事はしていないのだ。だからこそ苛立ちを覚える。
彼女に触れた諸卿はいかが思われたかはわからないが、恋愛だけに限らず、どんな事でも勘違いはいずれ大きな過ちを招く。それを如実に示しているとははっきりとは言えないが、所詮はどちらも独り善がりの愛情に気がつかなかったとの酷評を得ても不思議ではなかろう。似たもの同士というか、弱きもの同士が身を寄せ合うような結末。どうしてもこの二人は最後までうまく行きそうに思えなかった(もちろん、最後の健の台詞は昼メロそのままであったからある意味面白かったが)。
▼嘘と真実の中で知る人間の姿
まこと痛烈に批判してしまったが、虚構と真実の狭間に漂いながら、愛する人、そして人間個々のエッセンシャルを求めた彼女のお話は、人間のあるがままをそのまま映し出している素晴らしいものであるとも言える。批判するのは私自身とこの物語における伊波健を鏡に映すようで不快だからかも知れない。
片岡大志氏の「ふたりぼっち」をイメージさせられたのは、偏にフレーズだけだからではなく、彼女自身が決して孤独でもなく、支えられていたというわけでもない、いわば人生の中で玉虫色の位置にあったことだろう。幸せであって、可哀想な物語。人は嘘を重ねれば崩壊する。真っ直ぐに生きていくだけでは、奈落に陥る。不器用な生き方が悪いわけではない。器用に生きてゆくのは得なのかと言えばそうでもない。
伊波健はともかく、彼女のトゥルーエンドを触れてみて、私個人が彼女から言われたことは、人として生きる術を器用に立ち回ることではなかった気がする。今の時代にあって、それが正しいかどうかはわからないが、常に自分自身持ち続けたい、簡単な言葉。「ありのままに」
April 16, 2002