休戦の第一日。昨夜は満天の星で埋め尽くされた空から、朝から澄み切った晴天に包まれ、太陽が山間から覗く頃には、既に真夏の暑さを漂わせていた。
思えば、ドルーア帝国の侵略以来、剣戟と魔法が交錯し、生死の間で戦々恐々の日々だった。木々の間から蝉の声がさんざめく穏やかな朝は、誰しもが忘れかけていたひとときがよみがえる。
解放軍の勇将たちは、そんな久しぶりの安眠を貪っていた。各々、この休日ばかりは何の気兼ねもなく、好きなことが出来ると思えばこそ、眠りたいのだろう。
ルーシは本陣の机の上で、書類を枕に眠っていた。いつしか眠りについていたのだろう。朝蝉の声でふと目が覚めたとき、あまりの静けさに一瞬、驚いてしまった。
「ああ・・・休戦だったか」
まぶたをこすり、ふうとため息をつく。時折頬を撫でて行く涼しい微風を感じながら背伸びをすると、これが平和なのかという思いが脳裏を過ぎる。こんな時代だからこそ、改めて実感してしまう。
出馬以来、肌身離さなかった剣も今日から三日間は佩く必要もない。ルーシは、癖で剣に伸ばした手を引っ込めて照れ笑いを浮かべる。
腰の軽さにやや違和感を感じながら表に出ると、朝の眩しい陽光がルーシの眼を掠めた。朝からこの様子だと、昼下がりは猛烈な暑さになるだろう。
「おはよう、ルーシさん」
不意にその名を呼ぶ声に、ルーシは眩んだ眼を声の方に向ける。
「これはシーダ様、おはようございます」
眩みがおさまった視界に映ったのは、エプロン姿で包丁を握り、野菜などの食材を裁き、朝食の用意をしている、タリスの王女シーダ姫だった。ルーシはゆっくりと拝礼する。
「お早いですわね」
優しい微笑みを向けるシーダ。
「シーダ様こそ、こんなに早く起きられて・・・なんと、食事の用意をされているのですか?」
「ええ、たまには私も作ってみようかな・・・なんてね」
そう言いながら形のいい唇から舌を覗かせておどけるシーダ。
「シーダ様の手料理ですか。それはそれは楽しみです」
「あまり自信はないのですが」
「そう言えば盟主・・・いや、マルス様から伺ったことがありますよ。タリスに雌伏されていたとき、シーダ様の手料理を召し上がるときが、一番安心できたときだと・・・」
ルーシの言葉にシーダの頬が微かに紅く染まる。
「やだ・・・マルス様ったら、そんなことおっしゃってたんですか?」
「はははは。マルス様が安心できた手料理、この私めにも頂けますか?」
「も、もちろんです。もうしばらく待ってて下さいね。みんなの分も作らないといけないから」
シーダは腕まくりをしてから再び食材に包丁を入れる。
「シーダ様。時にマルス様は何処に?」
「あら?確か、夕べマリクやオグマから誘われて飲んでいらっしゃったはずですけど」
「左様ですか」
ルーシは再度拝礼してからその場を去った。シーダは鼻歌まじりで包丁を裁いていた。マルスを慕っている彼女は公然たる事実である。不機嫌なときでも、マルスの名を出せば、たちまち機嫌が直るという程だ。
幾重にも連なった解放軍の陣営。いまだ誰も起きてくる気配はない。夕べのドンチャン騒ぎの痕跡が天幕の周辺に散乱している。
ある開け放たれた天幕の中からは、外にまで鼾が響く。中を覗くと腹を丸出しにしたマチス・ジュリアン・リカードが、互いの腕を枕にしながら川の字になって熟睡していた。レナの兄と、レナを慕うジュリアン。おそらく夕べはレナについて、はたまた女性についてや恋愛について、各々の境遇について夜遅くまで語り合っていたのだろうか。リカードは多分、この二人に無理やりつき合わされた感がする。マチスとジュリアンの鼾の合唱。なかなか寝付けなかったであろう、リカード哀れ・・・
さすがに女性たちの天幕は厳重に閉じられている。平和な世であれば、あたら青春の盛りを戦場に身を置くこともないのだ。三人寄ればかしましいと言うが、夕べは皆、おのが使命は口にせず、将来の夢やら、恋の話を弾ませたことであろう。
ルーシは盟主マルスを捜していた。休戦のひとときを軍議などという公務でつぶすなどという野暮な用件ではない。この三日の休戦後の戦略を簡単に打ち合わせるためである。
「・・・やぁっ・・・やぁっ・・・」
陣営の間を歩いてゆくと、一人の青年が鋼鉄の剣で鍛錬をしていた。アベルである。
「おはようございます、アベルさん」
ルーシの声に気づき鍛錬を止め、肩に掛けたタオルで額の汗を拭うアベル。微笑みながらルーシを見る。
「これは参謀殿。お早いですね」
「こんな早朝から剣の鍛錬とは・・・・・・さすがは《アリティアの黒豹》と異名を取られるアベルさんらしい・・・」
その言葉にアベルは、いささか照れた感じで大笑し、剣を納める。
「そんなことはない。いや、一日でも剣の鍛錬を怠ると、それだけで急激に腕は落ちるものだ。鍛錬は騎士たる者の努めと、心得ている」
「あなたはまこと騎士の鑑。このルーシ、敬服いたします」
恭しく拝礼するルーシ。アベルは慌ててルーシの手をつかむ。
「おいおい、よせって。俺はそんなに偉い奴じゃねえぞ」
「・・・ところでアベルさん、マルス様は何処に?」
「ああ。マルス様なら夕べカインやオグマ殿と一緒に飲んでそのまま眠られていると思うが・・・」
アベルはその場を離れ、ある陣営の中を覗いた。ルーシも後をつく。
「おいマリク、起きろ」
「う、うーん・・・」
アベルの声にマリクは一つ唸り声を上げて寝返りを打つ。アベルが軽くマリクの頭を叩くと、いささか不機嫌そうに薄目を開けた。
「な・・・なんれすか。人が気もりよく眠っているのきに・・・」
「アベルだ」
マリクはじっとアベルの顔を見た後、慌てて飛び起きる。
「あ、アベルさんっ!す、すみませんっ、わ、私としたことが。・・・して、私はどこに行けば・・・マルス様のご命令は・・・」
明らかに寝惚けている。
「そのマルス様はどこに行かれた?」
「ふぇ?」
この様子だと知るはずがない。ため息をつくアベル。ルーシは微笑みながら言った。
「マリク、今日から三日の間は両軍とも戦はない。安心してくれ。・・・二日酔いのところ、起こして悪かったな」
「は・・・は・・い」
何が何だか解らない様子のマリク。アベルとルーシは顔を見合わせて大笑した。
その陣営にはマリクだけがいた。マルスは勿論、オグマとカインの姿も見当たらない。
「きっと別の場所で鍛錬でもされているのでしょう。捜してみます」
「参謀もいろいろ大変なんだな。夕べも言ったけどさ、程々にしねえと、身体壊すぜ」
「忠告、ありがとうございます」
ルーシが立ち去ろうとしたとき、アベルは思いだしたように手を打ち鳴らして、ルーシを呼び止めた。
「そういや、あの女、夕べは姿が見えなかったな。どこの飲みメンバーにも入っていなかったみたいだし・・・」
「そうなんですか・・・」
「参謀殿がいじめたからかな?」
にやりとするアベル。ルーシは苦笑いを浮かべて頭をかく。
「それを言わないで下さい。公務とはいえ、やりすぎたと反省しているんですから・・・」
「まあ、会ったら詫びといたほうがいいぜ。あの女も、このままじゃ居づらいと思うかも知んねえからよ」
「そう・・・ですね」
しかし、ルーシの心境は複雑だった。
やがて、鍋をけたたましく打ち鳴らす音が響いてくる。朝食の用意が出来たと、シーダが知らせているのだ。いくらゆっくりとした休日の朝とはいうものの、三度の飯は当たり前に食べねばならない。まるで質の悪い銅鑼のような音の連発に諸将たちは寝ぼけ眼に大あくびをまじらせながら起き出してきた。
陣営の間に、長方形に木板を継ぎ重ねただけの簡単な食卓に、諸将の食事が陳列されている。兵卒にも心配る優しい性格のシーダは、兵卒たちも同じ場で共に食そうと計らい、同じ場に食事を用意した。兵士たちはもちろん、並み居る諸将たちとも一同に介して食事することすらままならない戦時を思えば、気を遣わなくても、休日くらいは一緒に食事をしたい。
「みなさん。あまり自信がないんですけど、一生懸命作ったつもりです。どうぞ、召し上がって下さい」
皆、待ってましたとばかりにフォークやナイフを取る。さすがはマルス王子の墨付きであるシーダの料理。紛れもなく美味い。宮廷料理といった豪勢なものではないが、卵を中心とした質素な食事は、どこか安心感を与えてくれる。とかく戦時中のように慌ただしく口にそそぎ込み、まともに味わうことがないことを思えば、ゆっくりと談笑しながら食べられるということは、何にもましての満足感。そして、なによりも美味しい。諸将たちはシーダが意外な才能を持っていることに対して驚いているのか、一つフォークを口に運ぶたびに唸ったり、まじまじと見つめたりしている。沈勇なナバールでさえも、取り憑いたかのようにかぶりついている。
「シーダ様は天馬を駆ることも一流だが、いやはや何と、料理の腕も一流であられたとは」
ジェイガンの冷やかしじみたセリフに、どっと笑いの起こる場。
「この腕を持ってすれば、ドルーア打倒後、いつでもマルス殿の后妃として上がることが出来ようぞ」
ハーディンも口一杯に頬張りながら賞賛する。
「もう、お二人ともよして下さい」
真っ赤になったシーダに、諸将のあたたかい笑いが浴びせられる。
「ごめん、みんな。遅くなって」
マルスはオグマ・カインと共に、皆より一足遅くやって来た。どうやら、敵陣視察のために小高い丘陵へ足を運んでいたらしい。
「マルス様、お先してましたよ」
わざと小さく拗ねてみせるシーダ。
「ごめんシーダ。・・・ああ、僕にももらえるかな」
「はい。・・・さあ、お席へどうぞ」
まるで子供をあやすような声で席へ導く。そんな二人は、傍目から見ると本当の若夫婦のようだ。ミネルバの隣に座るカチュアの表情は、羨ましさを彷彿とさせていた。
食事を済ませた兵卒諸将は、貴重なこの時間を満喫するため、それぞれに散らばっていった。ある者は横になるために陣営に戻り、ある者は剣の鍛錬を重ねるために、得手を携え広いところへ行き、ある者は慕う異性を伴い、晴れ渡る草原に向かう。
紅い龍騎士ミネルバはマチスを相手に、槍術の鍛錬に励んでいた。カチュアがその様子を見ている。マチスは普段マイペースな性格をしているが、槍剣には通じている。しかし、それでもやはりミネルバには及ばないのか、何度となく打ち合っても圧倒される。ミネルバの渾身の一撃に、マチスついに槍をはじき飛ばされ、地面に尻餅をついてしまう。
「ミネルバ様、ま、参りました」
「何だマチス、もう根を上げたのか?」
「なんせまだ頭がガンガンするもんでして・・・」
「二日酔いか。ははは。ならばいい汗がかけたであろう」
「は、はい。そりゃあまあ・・・」
苦笑するマチス。ミネルバはその端正で凛々しい美貌に浮かんだ玉の汗を軽く拭い、カチュアを見る。
「カチュア、そう言えばパオラはいつ合流するのだ?」
「はい。今日中にでも合流されるものと思います」
「そうか。・・・まあ、両軍とも休戦している。征矢の心配はないから悠々とやってこれるだろう。カチュア、パオラが来たら出迎えてやってくれ」
「かしこまりました」
太陽が南天に未だ差しかからないと言うのに、既に気温は真夏の炎天下のようだ。
草原の端には揺らぐ陽炎が立ち、吹く風は熱を帯びている。だが、グラ特有の低湿度の気候は、日陰にいると涼しい。兵卒たちは皆、直射日光を避け、大樹の陰や林に身を寄せている。
カチュアは小川の土手、並木連なる場所を発見した。陣営から10分ほど離れたところにある、その絶好の避暑地は、意外と誰もいなかった。
「ここで休もうかしら・・・」
そう呟き、土手を降りる。そして、ふと周囲に目を配った瞬間、カチュアは思わず息を止めてしまった。一人、土手に腰を下ろし、青空を見上げている若き青年。そう、ミネルバの使者としてやって来たとき、問答無用で剣を突きつけた男――――。解放軍総軍準参謀という肩書きを持つ、ルーシであった。
カチュアは複雑な表情で引き返そうとした。ルーシは気配を感じて振り向く。
「待て、カチュア」
ルーシが立ち上がり呼び止める。カチュアは驚いたように振り返る。
「お前には謝らなければならないな」
「・・・・・・」
「あの時は公務ゆえ、いたしかたなかった――――。本意ではない。許されよ」
随分と高飛車な態度。それでいてなれなれしく、気安く"お前"などと呼ぶ。カチュアは不機嫌そうにルーシをにらみ付けていた。
「ふっ――――やはりお前だったか。忘れたか、私のことを」
にやりと笑みを浮かべるルーシ。怪訝な眼差しでルーシを見るカチュア。
「王立学校の時は何度もふられた覚えがある」
「えっ――――」
ルーシの言葉に、カチュアは突然目が覚めたかの様に目を見開き、記憶の糸を辿った。
五年前、カチュアたちペガサス三姉妹は、マケドニア王立上学校の国軍科に在籍していた。三姉妹はとかく美人で有名だったから、学校中の男子生徒から人気があったらしい。
カチュアがいた国軍学科の隣にある参謀学科に、一際成績のいい華奢な男子生徒がいて、彼もまた、女子生徒に人気があった。
「あっ・・・・・・まさか・・・・・・あなた・・・ルーディ?」
確かめるようにゆっくりと言う。
「思い出していただき、光栄です」
にやりと笑いながら、わざとらしく拝礼するルーシ。カチュアは思わず駆け出し、ルーシのそばに立つ。
「やだ。全然わかんなかった。・・・変わったね、ルーディ」
「お前は変わってないな」
学生時代、異性の注目株であり、親しかった学友の再会の喜びは、実に数奇に満ちたものであった。