「ホントに、あのときは驚いたわ。・・・って言うか、なーんかボーゼンとしちゃったわよね」
土手の斜面に上体を倒し、カチュアは大きく背伸びをした。隣でルーシが照れくさそうに笑っている。
「あのときの手紙は、役に立ったかい?」
「ええ。ありがとう。おかげで道を誤らずにすんだわ」
「あのとき・・・もしかしたら私は・・・現実から逃げていたのかもしれない・・・」
「えっ?」
ルーシは遠い空を見上げた。カチュアが目を見開いてルーシを見つめた。
その後、マケドニア国王オズモンドを弑逆したミシェイルは、王位を受け継ぎ、アカネイアに造反した。ミシェイルはドルーア帝国に随従する姿勢を見せ、皇帝メディウスから征軍元帥に任命され、事実上、ドルーア軍の軍行使権を掌握した。
実妹マリアを監禁し、ミネルバを強制的に従属させたミシェイルは、他国侵略に乗り出す。
すなわち、グルニア王国の護衛将軍カミュを取り込み、アカネイアを急襲させ、パレスを陥落せしめ、その王族を鏖殺した。
その功でカミュはドルーア帝国から大将軍・パレス都督に任命され、ミシェイルの懐刀的存在となったが、義を重んじて王女ニーナを見逃したことが発覚し、パレス都督を解任された。
ドルーア軍の蹂躙は各地に及び、アカネイア恩顧の主立った王国は滅ぼされた。特に英雄アンリの建てたアリティアの滅亡は凄惨なものであった。親藩国グラの突然の裏切りによって、精鋭軍は背後より急襲され、なすすべもなく全滅。更に国王コーネリアスは神剣ファルシオンを手にカダインの大司祭ガーネフに斬りかかったが、ガーネフの黒魔法マフーによって、跡形もなく消されてしまった。
そしてそのアリティアに、アンリの再来、大陸の救世主となる一人の若き少年王子がいることを、このときは誰も知る由がなかった。
六〇二年。ルーディがマケドニアを去ってから四年。世情はいよいよ風雲急の様相を見せてきた。
「おーい。あんたにお客だぜ」
若い農夫の男が駆け足で近づき、農夫姿で畑の土を耕している若い男に告げた。男は汗まみれの顔を上げ、肩に掛けていたタオルで薄い口ひげをたたえた顔をごしごしと拭く。
「しかしあれだな。あんたがこのワーレンに来てからってもの、毎日のようによそ者がやってくるな。まあ、みんなあんたへの客人らしいけど」
農夫の言葉を聞いているのかいないのか、男はおもむろに鍬を背負い、畑を出る。農夫は構わずにしゃべり続ける。
「ずっと思ってたんだけどさ、あんた、まだ二十歳前だよな。この町に来て、だいたい四年くらいか。何やってたんだよ。教えてくれ」
随分と興味深げに訊いてくる男だ。
「また、後でな」
男は農夫の肩を軽く叩くと、ふっと微笑んでからその場を去った。
男の家は丸太で造られた、平屋の小さなものだった。男が汗を拭いながら家にたどり着くと、玄関先に背の高い美丈夫が、男の方をじっと見つめ、視線が合うと軽く会釈をした。
「大将軍閣下ですね・・・」
男が軽く拝礼する。美丈夫は肯定するように瞳を伏せる。男は美丈夫を家に招き入れ、茶をいれた。
「ルーディ殿。ようやく、あなたを見つけることが出来た」
「畏れながら、今は《ルーシ》と名乗っております。・・・ところで、大将軍のご使者より、幾度もその旨、お伺いいたしております。・・・されど、このルーシ、ドルーアのために力を注ぐつもりは毛頭ありません。ごらんの通り、私は一介の農夫として、晴耕雨読の生活をして行きたいと誓っております」
大将軍と呼ばれた美丈夫は、憂いを秘めた眼差しでルーシを見つめる。
「確かに私はドルーアに付き従い、アカネイアを滅ぼし、グラを煽動してアリティアのコーネリアス王を討ち滅ぼした。私は償い切れぬ罪を背負っている。しかし、それも国を思う忠義のため。ドルーアのためではない。我が祖国、グルニアの存続のためなのだ」
ルーシは美丈夫の寂しそうな言葉の後、瞳を閉じてゆっくりと言った。
「それだけではございますまい。・・・大将軍は義に篤いお方です。ドルーア側にある唯一の人物です。パレスに攻め込み、王族一門をことごとく殺しても、幼少のニーナ王女だけは殺すに忍びなきと、帝国の懲罰覚悟でオレルアン王国に引き渡された。帝国の重鎮らは、カミュ極刑にせよと叫んだそうですが、ミシェイル王を初め、かのガーネフさえも助命を嘆願し、大将軍はパレス都督を更迭されたにとどまった」
「これは異な事を。ニーナ王女を逃がしたのは私の気まぐれ。結果、パレス都督を解任され、非常に憤慨している」
「大将軍。そのようなことを言われ、私を試そうとしても無駄です」
「・・・・・・」
「私は大将軍のお力に成りうるとは思えません」
「何故に」
ルーシは大将軍・カミュをまっすぐに見、言った。
「私が大将軍をお助けすることは構いません。しかし、かたやドルーアに忠を尽くすと言うことにもなるのです。・・・大将軍は天下の英雄。私ごとき木っ端の野人がお仕えする事が出来れば、それは万民の羨むところです。しかし、私とて忠義の道は心得ていると思っております。私の進むべき道は、ドルーアの唱える道とは全く別物。すなわち、大将軍の貫く忠義の道とは違うのです」
「そうか・・・」
カミュは寂しそうにため息をもらし、うつむいた。
「そんな私が、大将軍にお仕えしたとて、きっとお役には立ちますまい。良くも悪くも、いつかは殺されます」
「・・・ならば、あなたはこの後、どうするつもりなのだ」
「世情の流れ行くままに・・・この丸太小屋で暮らして行きますよ」
そう言いながら笑うルーシ。
「そうはいかないだろう。あなたほどの知謀の士、誰も捨てはおかないと思う。こんなところに隠れたとて、いずれ表に出なければならないときがくる。必ず」
カミュは直接用件を言わなかったが、ルーシは容易に見抜いていた。誰にも仕えず、あたらこれからの長い人生を、晴耕雨読で過ごしてしまうのだろうか。このとき、ルーシはカミュの言葉にまともに返す言葉も思いつかなかった。
「ならば私も強くは言うまい・・・。これにて失礼する」
おもむろに立ち上がるカミュ。
「大将軍」
ルーシの呼び止めにぴたりと足を止めるカミュ。
「ドルーアに敵対する国々はほとんど滅びました。だが、千年王国として、この大陸を治めてきたアカネイア恩顧の残存勢力は未だ根強い。大将軍が助けられたニーナ王女を擁立し、捲土重来を賭け、あなたやドルーアに反旗を翻す者は必ず現れる。そのとき、大将軍はどうなさる」
「・・・・・・」
その問いかけに、カミュは無言のまま小さな丸太小屋を出ていった。
二年後、ルーシの予言通り、オレルアンに身を寄せていたアカネイアの王女ニーナを擁立し、後の解放同盟軍結成の火蓋を切ったのは、『草原狼』と異名を取るオレルアン王弟ハーディン大公であった。更にアリティアのコーネリアス王の遺児で、祖国壊滅後、小国タリスに庇護されていた、十六歳のマルスが決起したとの報が伝えられた。ルーシより四歳下の若き少年。さすがのルーシも、マルスという名は脳裏にも無かった。
マルス率いるアリティア軍がオレルアン軍と合流すると、伝国の紋章『ファイアーエムブレム』をニーナ王女から拝領され、事実上、アカネイア同盟解放軍の盟主・総元帥となった。
一方、ルーシは相変わらず無意味ともいえる生活を続けていた。薄い口ひげは親指と人差し指で撫でられるくらい伸びている。
大将軍カミュはあれ以来、一度も訪ねてこない。無論、義を重んじる彼はルーシの命を狙うことはもとより、その所在すら漏らしてはいなかった。
そして、ドルーア帝国の征北将軍で、マケドニア王女ミネルバが、レフガンティを撤退したことで、解放軍は気勢を上げて南下、ワーレンに向かった。
その報を聞いたワーレンの守衛・シーザとラディは、ルーシの元に集まっていた。
「反乱軍はこの町に向かっている。厄介なことだ」
不満を滲ませてぼやくシーザ。ラディはワーレン周辺地図の北の砦を指さしながら言う。
「グルニアの黒騎士団はここに主力軍を結集させて、反乱軍を迎撃するつもりです。このままですと、この町も戦火に巻き込まれるのは避けられません」
「ルーシ。カナリスの失政だけでもワーレンは危機にある。この上、反乱軍まで抱え込めば、行き当たりばったりだ。何とかならないか」
焦りにも取れる二人の傭兵を笑うかのように、ルーシは穏やかな表情でひげをなぞりながら口を開いた。
「カナリス将軍は群盗上がりで無能。所詮、気勢高き解放軍の敵ではない。しかし、あなた方がそれほどまでに解放軍を迎え入れたくなくば、金銭食糧と武器を差し出しなさい。グルニア軍が出撃したならば、解放軍はすぐにいなくなる」
「むう・・・」
ルーシの言葉に一声うなり、黙り込む二人の傭兵。
「・・・つまりあなたは、我らに反乱軍に協力するべきだと、おっしゃるのですか」
と、ラディ。シーザも不服そうにルーシを見る。
「我らは多額の税をドルーアに納めて自治を保っている。反乱軍ならずとも、援助をするほどの余裕などはない」
「ならば、街を挙げて解放軍の受け入れを拒絶なされるか。それとも、協力を装い盟主を討ち、ドルーアに差し出されるか。盟主の首を刎ねれば、ワーレンは自治を保つほかに、納税も免除されましょう」
その言葉にラディが長いため息を漏らす。
「カナリスの失政に住民の間には怨嗟の声が満ちあふれています。反乱軍を歓迎することはありとて、拒絶をするとは思えない。・・・反乱軍の盟主を斬ることは人道に外れ、数多くの怨恨の火種を撒き、義を失すことにもなり・・・うーむ・・・」
ラディの困惑した表情をよそに、ルーシは穏やかな表情で紅茶を口に運ぶ。
「ルーシ、あんたも今やワーレンの市民だ。他人事じゃない。真剣になって考えてくれ」
シーザが語気を強くして言う。ルーシはしかしあくまでゆっくりと落ち着き払って言った。
「私はすでに策は述べました。後は守衛たるあなた方の英断一つです」
それきり、ルーシは一言も喋らない。つまり、どちらに転んでも、解放軍に協力しなくてはならないと言うことを察知していたのである。シーザとラディは頭を垂れて去っていった。
マルス率いる解放軍は、アカネイアパレスを目前にワーレンにて休息を取るつもりだった。
しかし、グルニアの将軍で、ワーレン太守カナリスは、解放軍殲滅を画策し、密かにグルニア本国に援軍を要請していた。
グルニア黒騎士団襲撃の報を受け、マルスは急きょ軍を発進したが、峠の戦いで手痛い打撃を受けてしまい、気勢を削がれてしまった。黒騎士団もこの峠の合戦で予想以上の損害を被り、それから両軍は膠着状態となった。
そんな状態が一週間ばかり続き、遂にマルスは撤退を号令。散々な状態でワーレンに引き返すことになった。
「敵はあれ程の大軍。容易には進めない」
いつになく弱気で馬を南に進めるマルス。隣でシーダが心配そうにマルスをみつめている。
「マルス殿」
ハーディンがマルスの横に馬を進めて言った。
「こたびの敗戦、我々はひとえに申し、無為無策の暴走に近かった。敵も相当な損害を受けたが、我らはそれ以上の打撃を受けてしまった。すべては《寡兵をもって強敵を破る》策を持つ、知謀の士がいないからこそなのだ」
「ハーディン公・・・こたびの敗戦・・・すべては私の失策によるものです」
「いや・・・我らは間違ってはいなかった。ただ、敵は名将カミュの精鋭部隊。それに奴には知謀の士がついている。策を用いて峠に擬兵を置き、我らはそれに見事にはまってしまった」
それを聞いていたシーダが口を開く。
「マルス様、ハーディン様の仰るとおりです。私もマルス様のせいではないと思います」
「・・・ならばどうすればいいんだろ。このまま、敵の術中にはまり、死を待つだけなのか」
嘆息するマルス。そこへ二人の傭兵がマルスの前に進み出た。シーザとラディである。
「マルス殿。この事態を乗り切るためのよき者がおります」
シーザが言う。
「よき者?」
怪訝そうな表情をするマルス。ラディが微笑みながら口を開く。
「ワーレンの郊外に、賢人が住んでおります」
「賢人?」
さらに不思議そうな表情になるマルス。それに引き替え、ハーディンの方が、明るい表情になる。
「ほう。賢人とは、策に長けた者か。それとも、魔導士か、司祭か」
「策に長けた者にございます」
その言葉にハーディンは手を打ち鳴らして歓喜した。
「これぞ天の助けというもの。ラディ、してその者の名は?」
「はい。ルーシという者です。五年ほど前よりどこからかこの町に移り住み、日中は畑を耕し、夜間と雨の日は家で読書をしております。随分と変わった性格をしている者でございます」
「遺賢とはそういうものだ。して・・・そのルーシと申す者、いかほどの才を持つ?」
「それは詳しく存じませんが、奴は自分を『ヘルメス・ジョアンまでには及ばない』と申しております」
その言葉を聞いた瞬間、ハーディンの顔色が変わった。
「なに・・・・・・ヘルメス・ジョアンだと」
「ハーディン公、ご存じなのですか」
マルスの問いかけに唖然とした表情で振り向くハーディン。
「マルス殿はご存知ないのか。ヘルメス・ジョアンは、アカネイア神聖王国六百年の開祖・アドラー1世に仕えた謀士で、大陸統一の第一の功臣として名を馳せた人物。その知謀は伝えうるに、わずか五百の手勢で敵対する諸国の要塞八十余りを陥落させ、さらには百万の敵の大軍をまるで手玉のように翻弄せしめ、殲滅するどころか全軍を降服帰順させたと言われている。アカネイア神聖王国を盤石にし、六百余年にわたる繁栄の礎を築いた、正に王佐の知将よ」
驚くマルス。
「なんと。それ程の策士がワーレンにいたなんて・・・」
「ヘルメス・ジョアン《まで》には及ばないと申すからには、相当の謀士に相違ない。・・・マルス殿、すぐにでもその者を招聘し、この難局を乗り切るべきだ」
「そうですね。・・・して、そのルーシというお方は、いくつなのです?」
マルスの質問にシーザがぶっきらぼうに答えた。
「二十歳ですよ。二十歳」
「えっ!」
「なんとっ」
年齢を聞いた瞬間、マルスたちは更に驚愕した。当然、想像していたのは六十過ぎの老人か、若くても四十代の壮年の姿であったからだ。
「そのような人物が、私と四歳しか違わないとは・・・驚いた」
「いくら若輩とは言うものの、二十歳とは思いもよらなかった。その者、いささか自画自賛が過ぎるのではないか」
急にハーディンの口調が変わる。期待はずれというか、予想外な答えに、憤りを越えて、戸惑いの口調だった。
「いえ、そのものの才は確かです。ワーレンが辛うじて自治を保つようにドルーアに高額の納税を進めたのはかの者です。《ワーレン十万の命をいたずらに差し出すよりは、高い金を払い維持した方が得策。時がくれば必ず救われる》と」
「なるほど。ドルーアに反抗して闇雲に殺されるよりは、生きて反撃の時を待つ・・・か」
マルスが感心する。
「よし。ラディ、そのルーシというお方のところに案内してくれ。この難局を乗り切る策を乞いに行く」
「はっ!」
その言葉にハーディンが激しく抵抗した。
「マルス殿。その者、名ばかりな輩ですぞ。オレルアンにいた頃でさえ、ルーシなどという名は聞いたこともない。大体、ヘルメス・ジョアンまでには及ばずとは、慢心もいいところだ。会わない方がいい」
「ハーディン公。この難局を乗り切るには、将兵を指揮する軍略家が必要だと、たった今言われたではありませんか」
「それとこれでは話が違う。いくら何でも、二十歳のこわっぱにどれほどの才があるというのか。・・・それ程までに会うというのであれば、貴殿が赴くまででもない。私がその者に会いに行きましょう」
「いや・・・ここは私が行った方がいいと思うんです。数多の国や町が滅ぼされ、蹂躙された中で、ワーレンだけが無事だったことには不思議だと思っていたところ。そのルーシという人の献策というのならば、並の人物とは思えない。是非、この目でそのお方を見てみたい」
ハーディンの諫言にもマルスは翻意しなかった。結局、シーダ・カイン・アベルの三人を供につけることを条件に、マルスはシーザ・ラディの案内で遺賢・ルーシの家へと向かうことになった。