第13話 怪我の功名

 翌朝になり、レナとシーダが去っていっても、ルーシは茫然と天幕の上を見つめていた。あの夢は何だったのだろう。少女は幼い頃のミネルバ王女で、少年が自分なのか。記憶にない。いや、その頃の思い出が、忘却の彼方に置き去りにされてしまっていたのだろうか。あまりにも漠然として、混乱する。
 思えば自分が停学の身で自宅謹慎していたとき、初めてミネルバが訪ねてきたとき、無意識のうちに彼女の名を言い当てた。それに彼女はさほど驚かなかったことが不思議だった。剛毅木訥と謳われているマケドニアの闘姫が、自分の前で弱さを見せた。今からして思えば、何もかもが不思議な場面だった。それに自分自身もまるで、彼女を知っているかのような素振りを、無意識のうちにしていたのだ。夢の中でミシェイルが言っていたこと。離すべきではなかった・・・。自分とミネルバはどういう関係だったのだろう。覚えていない、記憶にない。考えれば考えるほど、言いようのない頭痛が襲いかかる。そして、ふと脳裏に過ぎったのは、夏の日のカチュアとの出来事だった。
「ルーシ」
 そんなルーシの思いをうち消す、盟主マルスの声。ルーシははっとなり上体を起こそうとしたが、マルスが止める。
「そのままに・・・お身体、大丈夫ですか?」
「はい。・・・それよりも盟主殿、このたびはとんだ失態を・・・」
「何を言われます。それもこれも、全てはハーディンが命を無視して抜け駆けを図ったせいです。全く、まさかあのような事をされるとは・・・」
「いや、大公殿下のお気持ちはよくわかります。私も少々、難をつけすぎてしまったようですね」
「ともかく、ハーディンは軍律を破り、ルーシを危うく失わせるところだった。一死はなくても、それなりの罰は受けてもらわないといけない」
 マルスの言葉は寂しげで、かつ厳しさが満ちあふれている。
「ときに、峠の戦はいかがなりましたか」
 参謀は己の身よりも軍が第一である。
「あなたの仰せの通り、ゴードンたちとハーディンたちが岩山の伏兵を倒したようです。しかし、グルニア軍にばれてしまい、正面からの交戦は避けられません」
「・・・そうですか。しかし、峠は制圧しましたから、前よりも当方の優勢は確実です。それに、兵たちは意気旺盛ゆえ、勝てます・・・」
笑顔で返すルーシだったが、どこかに立策が潰えたという無念さがにじみ出ていた。マルスはそんな知将の表情に気を遣ったのか、何も言わずに微笑んでいた。
「ルーシ、ともかく、ゆっくり休んでいて下さい」
 そう言うと、マルスはゆっくりと天幕を出ていった。入れ違いに、レナが盆を携えて入ってくる。
「ルーシ様、朝食です。・・・お入りになりますか?」
「申し訳ございません・・・頂きます」
 とはいうものの、食事に三度ほど匙を掬い、止まる。
「どうかされたのですか?」
「いや・・・何でもありません・・・」
「食欲がないのはわかります・・・でもお食べにならないと、治りが遅くなります」
 本当に心配そうに優しい声をかけるレナ。それに促されて、再び匙を動かす。決して食欲がないのではなかった。ただ、ルーシの脳裏には、漠然たる夢の出来事が、強く掠めていた。それで無意識のうちに、何度も手が止まっていたのだ。
 そしてそれから間もなく、マルスはルーシに何も言わずに出陣してしまったという知らせを受けて、ルーシは愕然となった。
「ああ、盟主殿は私に気を遣わせまいと。寝ている場合ではない。私もすぐ立たなければ・・・」
 はやり立つルーシだったが、身体が言うことを聞かない上、レナやシーダたちの必死の諫言に無念ありありと断念せざるを得なかった。

 それから三日が過ぎた。レナの治療とシーダ、そしてジュリアン・リカードらの懸命な介助によってルーシは立てるまでに回復した。まだしばらくの休養が必要だというレナたち。しかし、激しい責任感に駆られていたルーシには、これ以上臥床するつもりはなかった。
「当方は敵の増援軍に苦戦をしているかも知れない。やはり私が行かねば・・・」
「まだ無理ですっ。傷口が開くかも知れません」
必死に止めるレナを振り切り、ルーシは声を上げた。
「私の命などよりも、大陸の命運が第一です。ジュリアンッ、リカードッ!」
「はいっ」
「これより盟主殿のもとへ行く。そなたたちも共に来てくれ」
 一瞬、躊躇ったが、二人の盗賊は深く平伏する。
 そしてルーシは、レナから薬を受け取ると、ややおぼつかない足で馬に跨った。ジュリアンとリカードも後に続く。さながら、完治せぬ身体にむち打つようなルーシの姿は、何かに打ち込み、他のことを忘れようとする、一種の足掻きのようにも見えた。時折落馬しそうになるルーシにため息を何度もつきながらも、何とかマルスたちがいる陣営が見えてきた。
 諸将たちはルーシの姿を見ると声を失った。ハーディンの抜け駆けで味方の射た矢を受け、瀕死の重傷を負っているという噂が広がり、兵たちの間で動揺が広がりつつある中で、意外とも言える人物の姿に、否応なく、特に兵士たちは歓喜の声を上げた。
「ル、ルーシッ!」
 特にマルスの驚きようはひとかたならなかった。思わずルーシの側に駆け寄り、大丈夫なのかと尋ねる。
「この危急存亡の秋に多少の怪我程度でいつまでも寝ているわけにはまいりません。諸将や兵士たちは命を賭けて戦っておられると言うのに、指揮を任せられた私だけが戦地に居ずとなれば後々の笑い種となります」
 だが、やはり足下がおぼつかないようだ。ふらつくたびにマルスに支えられる。
「ルーシ、無理はしないで欲しい。あなたにもしもの事があれば私たちは・・・」
 しかし、ルーシは毅然たる態度で言った。
「今の私は、自分自身のことよりも、万民の平和を第一に考えております。盟主殿、私はそれをあなたに教えられた。ゆえに、私はあなたに従い、この身はあなたのためにあります。たとえこの身が滅びようとも、私はあなたのために働きます」
「ルーシ・・・」
 感激するマルスに微笑むルーシ。その話を聞いていた諸将も、声を沈めて俯いた。そして・・・
「ルーシ参謀っ!」
 力強いその声に、ルーシが振り向くと、二人の壮士が並び、恭しく拝礼していた。
「カイン将軍・・・アベル将軍・・・」
 ルーシが安堵の表情でカインとアベルの前に歩み寄る。
「我々はあなたのことを深く誤解していたようだ・・・。聞きました。シーダ姫が単独で海賊を撃破されたこと。そして、ハーディン公の抜け駆けを止めようとし、負傷されたことを」
 瞳を伏せて、カインが言う。
「私たちがシーダ姫のことを聞いたとき、あなたは何も答えなかった。あなたが去った後、私たちはせせら笑っていたが、報告を受けたときは正直、恥じ入った。その上、ハーディン公が抜け駆けを犯し、敵と間違えてゴードンたちが放った矢をあなたが受けたと知ったときは、自分が騎士であるということが情けなくさえ思った。・・・あなたはまさに我々以上にマルス王子を思う王佐の知将です。今までのご無礼、どうかお許し下さい」
 アベルが跪くと同時に、カイン、そして今までルーシを貶していた諸将もまた跪き、深々と敬服する。
「何をなされます両将軍、それに方々、どうかお立ちください。・・・非才な私にその様なことをされては困ります」
 ルーシが二人を立たせ、手を重ねる。
「でも良かった・・・。将軍方のお力添えがあれば、百万の敵とて怖れるに足りません」
「参謀殿。改めて申し上げる。・・・参謀殿のご指令、お待ちしている」
「その時は、このカインに重要な作戦を」
 カインが胸板を叩いて言う。
「何言い出すんだお前、裏切んのか」
「いいじゃねえか別に」
「抜け駆けは許さんっ!」
 喧嘩はするがまるで兄弟のように仲がいい二人は、共にアリティア騎士団の両翼と目されている驍将である。ここにようやくルーシのことを認めてくれたことで、更なる結束を固めた解放軍であったが、その場にハーディンはいなかった。

 結局、ルーシの献策はシーダ、カシム・ゴードンが功を成しただけで、作戦は大きく変わってしまった。
 岩山に潜む伏兵を討ったことで、敵正規軍に動向が知られてしまったために作戦は無効となってしまったのである。ルーシが伏せている間に峠の出口で会した両軍は、二,三度の小競り合いが起こった程度で、ほとんど膠着状態になっていたのである。しかし、ルーシは既に次善策を胸に温めていた。マルスの不安が一気に消し飛ぶ。
「弓兵部隊はとにかく射ち続けよ。ソシアルナイト部隊は敵アーマー部隊を避け、ホースメン・アーチャー部隊を陽動し、個々に討ち取れ」
 ルーシの指令に、以前とうって変わり受け入れる諸将たち。
「オグマとナバールの傭兵隊は交互に出撃してアーマー部隊を殲滅するのだ。ジュリアン、リカードは隙間を縫い敵の砦を占拠せよ」
 オグマは胸に手を合わせて敬礼し、ナバールは軽く目を伏せて退出。 
「そういうことだっら任せてくれ。な、リカード」
「はいっ、兄貴」
 盗賊の本領発揮と言うことだろうか。ジュリアンとリカードは自信満々に互いに手をがっちりと掴み、アピールする。
「盟主殿とマリク、そして私はこのまま東進してカナリスの守城を攻撃することにする。カナリスを討てば敵は自ずから下る」
 ルーシの作戦伝達が終わると、諸将は一斉に拝礼して退出して行く。
「ルーシ、あなたが来て正解だったようです。カインもアベルも、やっとあなたのことを理解してくれて、本当に良かった」
 ようやくマルスは心から安堵の表情を見せた。ルーシは言う。
「これで、我が軍はまた一段強くなりましょう。・・・カナリスは勇武には優れているが、無能ゆえ盟主殿の敵ではありません。ワーレン解放はもはや時間の問題です」
「よし、ならば私たちもそろそろ出陣しようか」
 マルスはルーシ、マリクと共に陣営を出た。すると、三人の眼前に、白のターバン、白のマントを纏った英傑、その後ろに三人の勇士がマルスたちの方を向いて静かに平伏していた。
「ハーディン公・・・」
 マルスが愕然となって思わずそう呟く。背後に控えているのはウルフ・ザガロ・ビラクのオレルアン騎士団員。ハーディンは俯いたまま声を上げた。
「マルス殿、ルーシ殿。こたびのこと、すべてこの私の独断で成したこと。私なりに戦いを優位に進めようとしたが、かえって士気をくじき、味方の損害を大きくしてしまった。この過失責任は万死に値する。騎士道精神に倣い、死を賜るよう、恥を忍んで願いに参った」
 その言葉に驚愕するマルスたち。
「ハーディン公、何を言うんです。確かに抜け駆けは軍律に違反。あなたにはそれなりに罰は受けてもらうつもりだけど、何死ぬなどと言うほどのことではない」
 マルスの言葉の後にルーシがハーディンの前に膝をつく。
「大公殿下、まずはお立ち下さい」
 ルーシがハーディンの手を取ると、ハーディンは瞳を伏せたまま上体を起こす。
「解放軍の大志はドルーア帝国の討滅。アカネイアの王女ニーナ様の檄文に応じて、最初に決起されたのは大公殿下と承っております。マルス王子を盟主とされたのは大公殿下のご英徳。そのご決断、雄才は古人も及ばないところ。この戦いは、いわば大公殿下のご威光あってのものでもあります。こたびのことは確かに軍律にそわないことではあったとしても、その大志のもとでは岩を卵で叩いたものにしか過ぎません。死はもとより、頬を撲つことさえ問題ではないのです。こたびのようなことで、解放軍の志が潰えるようなことは微塵たりとてないこと。かえって大公殿下がそのようなことをおっしゃると士気が挫かれてしまいます。一将は百万の財宝より得難きもの。ゆえにお気になさることではありません」
ルーシの言葉に再び伏すハーディン。ルーシは慌ててハーディンを起こす。
「大公殿下にご出陣を願わなかったのは、パレス以降の戦いにおいて鋭気の回復を願いたかったです。言葉なかったことは私の責任です。申し訳ありませんでした」
 今度はルーシが地べたに額をこすりつける。
「ルーシ殿、何をする。貴殿こそ早く頭を上げられよ」
 ハーディンが慌ててルーシの身体を起こす。
「貴殿の心遣い、感謝いたす。しかし、軍律を破ったことには変わりがない。厳罰を承らなければ、諸将に示しがつかぬ」
 するとマルスが毅然と言った。
「ハーディン、あなたには十日間の謹慎を命じることにする」
 その言葉の後、優しい口調で付け加えた。
「・・・ハーディン公、あなたは皆にとって、私にとっても、なくてはならないお方です。十日の間、ゆっくりと心身ともに休養して下さい。十日もあれば、ワーレンは平定しているでしょうから」
「かたじけない、マルス殿、ルーシ殿・・・」
 ハーディンと三人の勇士たちはマルスたちに深く拝礼をすると、ゆっくりと去っていった。
「ご英断、恐れ入りました」
 ルーシの言葉にマルスが笑う。
「あなたが斬れと言っても、私は彼を斬るつもりはないよ。あなたがああ言ってくれて、本当に良かった」
 かくして、ルーシは様々な誹謗中傷をこらえ、解放軍諸将の理解を得ることが出来た。シーダ、ゴードンらの戦功よりも、自らが傷を負ったことで理解を得られたことは何とも皮肉なことである。心のどこかに寂しさはあったが、それでも今は心の中の曇り空が晴れわたった気分でいた。
 見違えるような解放軍。ルーシの次善策によって、苦戦続きだったワーレンの戦いは完全に解放軍の方が優勢に立っていた。
 カイン・アベルらの主力部隊、オグマ・ナバールらの傭兵部隊は次々に敵増援軍を撃破し、北の砦はジュリアン・リカードが仕掛けた罠で大混乱に陥り、ドーガらの援軍によって制圧された。一方、マルス・マリク・ルーシの本隊は、風の如く東進し、あっという間に橋を越えてカナリスの籠もる守城に接近した。
「な、な、何だとっ!」
 ドルーア帝国から平東将軍に任じられ、ワーレン地方の統治に当たっていたカナリスは、増援軍敗北、反乱軍接近の報に椅子から転げ落ちる慌てようだった。
「兄者、もはやここまでだ。反乱軍は前とは違う。まるで別物のように意気が旺盛で強い。あの黒騎士団がやられてしまうとは・・・。このままでは我々も命が危うい。・・・そうだ、この上は兄者を殺し、反乱軍に投降する。そうすれば、我らの命は助かる」
 彼の弟エイベルがそんなことを言いながら抜刀する。
「な、何をするエイベルっ! ち、血迷ったかっ」
 驚きのあまり腰を抜かして立ち上がれないカナリス。エイベルがそんな兄を冷ややかに見つめて剣を振り上げる。すると様子を見ていた壮年の男が、エイベルの手をつかむ。
「エイベル将軍、待たれよ」
「何をされるラング殿」
 ほっとするカナリス。憮然とラングを見るエイベル。
「カナリス将軍を危めれば反乱軍が許すとは思えぬ・・・。かえって兄を殺した反賊として貴公の命さえ危うくなるぞ」
「む・・・むう・・・」
 ラングに諭され、不満げに剣をおろすエイベル。
「ここはカナリス将軍を捕らえてから降服の使者を出した方がよい。敵の総帥マルスは義に厚い男と聞く。さすれば、万が一にも命を奪うようなことはするまい」
「確かに、そうかもしれん」
 再び兄をにらみ付けるエイベル。ただただ怯えるカナリス。
「兄者、あんたを捕らえて降服するぜ。いいな」
「や、やめろっ!」
 しかし、カナリスの哀願むなしく、実弟の裏切りによってカナリスは捕らえられてしまった。
「よし、全軍、城を開けて降服するぞ」