第17話 月夜の告白

 ジョルジュはややおぼつかない足取りでルーシを導くが、なぜか本営には向かわず、少し離れた野営の方に向かっていた。
「ジョルジュ殿、そちらは違いますが・・・」
「いいから、ついてきてくれ」
 語気強いジョルジュ。ルーシは黙ってジョルジュの後を歩く。やがて、本営の灯りも遠のき、月明かりだけが皓々と照る野営の側で、ジョルジュは足を止めた。本営から不定期に届く笑い声がとても小さい。
 ジョルジュは突然、ルーシの肩をぽんと叩くと、その横をすり抜けた。
「あっ、ジョルジュ・・・」
 振り返るルーシ。だがジョルジュは右手を挙げて左右に振りながら、何も言わずに一人、去っていった。
 怪訝な顔つきになるルーシ。そして、何気なく足を進めるとルーシは愕然となった。
「ミ・・・ミネルバさんっ!」
 テントの影に寄りかかるようにして座っている女性の姿に、ルーシは思わずそう叫んだ。
「ん・・・ルーシ・・・か?」
 酔っているのだろうか。さぞや眠そうな声をしている。ここに来て酔い冷ましでもしているのだろうか。そして、ルーシは今ようやく気がついた。ジョルジュに計られた、と。
「なぜ・・あなたがここにいる?」
 ミネルバは頭が重いのか、項垂れたままだ。時折ふらつく。
「大丈夫ですか。少し飲み過ぎたのでは?」
 ルーシは屈んでミネルバの肩を支えようとする。だが、ミネルバはルーシの手を強く振り払う。
「何をする無礼者・・・私に触るな・・・」
「申し訳ございません」
 素直に頭を下げる。アルコールが効いているミネルバ、なぜかすぐに笑い出す。
「冗談だ・・・本気にしたか」
「い、いえ・・・」
「私の質問に答えろルーシ・・・なぜあなたがここにいるのだ・・・ジョルジュはどうした?」
「私はジョルジュ殿に連れられてここに。ジョルジュ殿は本営に戻られております」
 ルーシがそう答えると、ミネルバはふうと息をつく。
「ジョルジュめ・・・余計な気を遣ったものだ」
「・・・・・・」
「私の愚痴を聞き飽きてここに連れてきたのはいいが・・・なにも本気でルーシを・・・」
 語尾が聞き取れないくらい小さい。ルーシが聞き返すとミネルバは何でもないと返す。
 ミネルバはおそらくジョルジュと対して酒を酌み交わしていたのだ。普段は呑まない酒を呷る。そしてジョルジュに向かって話したことは、この五年間の苦悩などではなく、ルーシの事ばかりだったのであろう。
 見境もなく飲みつづけようとする彼女を抑えるため、そして酔い冷ましのために、ジョルジュは彼女を支えてここに連れてきた。それでもルーシに対する事を言い続けるので、当の本人を連れてきた。そう言うことなのだろう。
「ルーシッ」
「は、はい」
 きょとんとするルーシを恨めしげに見るミネルバ。
「あなたは、この戦が終わった後、どうするつもりなのだ」
 突然、何を訊くのだろうと思った。しかし、彼女の眼差しは真剣だったので、一応答える。
「まだ考えてはいないのですが、おそらくまた隠遁生活に戻るのではないかと、思っております」
「何・・・また隠れ暮らすというのか」
 憤懣気味に言うミネルバ。
「自分でもよくわかりませんが・・・」
「あなたほどの才子、放っておく者などいるはずがない」
「ありがたきお言葉でございます」
 頭を下げるルーシ。しかし、ミネルバはそんな彼の態度に明らかに業を煮やしたのか、いきなり立ち上がり怒鳴った。
「いい加減にその馬鹿丁寧な言葉遣いはやめてくれっ! ・・・・・・あっ・・・」
「あ、危ない」
 ふらつく足、よろける身体。ルーシは慌ててミネルバの背後に回り、胸で身体を受け止める。
 ルーシにもたれかかる体勢のミネルバ、彼女を後ろから抱きしめる格好のルーシ。一瞬、時間が止まったかのような感覚。二人とも刹那、無言。
「申し訳ございません・・・」
 ルーシはそのままゆっくりと腰を下ろし、ミネルバを座らせると、そっと離れようとした。
「動くな・・・」
 か細い声で、ミネルバはそう囁く。愕然となるルーシ。
「はっ・・・」
「いいだろう・・・もう少し、このままでいても・・・」
 急にしおらしい口調になるミネルバ。
「・・・・・・」
 ルーシは言われるとおり、動きを止める。ミネルバはそっと瞼を下ろしてルーシに凭れる。
 本営からは笑い声が微かに響いてくる。それ以外は虫の音が夜を奏で、皓々たる月が茫然と闇を照らすだけ。そこにはルーシとミネルバの二人だけである。ルーシはそっと彼女の顔をのぞき込んでみた。
 彼女の憂いをたたえた美貌は、月に照らされて青白く映え、美しさを一層、幻想的に引き立てている。薄く開いた口唇からはアルコールが混じる息が小刻みに漏れる。ルーシの心臓が一瞬高鳴る。互いに言葉なく、その静けさが、二人の周囲の雰囲気をより高めていた。
「ルーシ」
 不意にミネルバが口を開く。
「はっ・・・」
「・・・私に・・・愛される資格があるか」
突然の科白に驚くルーシ。
「・・・何故、その様なことを?」
「私はこの五年、心ならずも多くの人間を殺してきた。我が軍の中にも、私を恨んでいる者はいるはず。この身体は、他人の血を吸い尽くしている・・・・・・そんな血塗れの私に、愛される資格など・・・・・・」
 ルーシはそっと答える。
「私にはよくわかりませんが、人を愛する気持ちがあれば、いつかは愛されるようになるのではないでしょうか。・・・たとえ今、愛されずとも、あなたがひたむきに人を愛する心あれば、いつかは報われると思います。人を愛さぬ者に、愛される資格がありましょうや」
「・・・そうか・・・確かに、その通りだな・・・」
 そう言うルーシの脳裏に、ふとあの夢の光景が過ぎる。一つ間を置き、ミネルバは再び、話題を変える。
「・・・なぜ、逃げた」
「えっ?」
「夕どき・・・私が呼び止めたのに、あなたは逃げたではないか」
「いえ・・・決して、その様なことは」
「言い訳は聞きたくない。・・・私の話そうとしていることを感じて、逃げたのだろう」
「・・・・・・」
 ルーシは再び身体を離そうとした。だが、ミネルバの手がルーシの両手を掴む。そして上目遣いで彼を見つめながら言う。
「ルーシ・・・・・・私は・・・・・・」
しかし、ルーシは哀しげに言葉を割り込ます。
「その先は・・・仰せられますな」
ミネルバは瞳を伏せる。
「わかっている・・・・・・あなたがカチュアのことを・・・」
「それはもう過ぎたこと・・・関係ありません」
 ルーシはすでに判っていた。ミネルバがルーシに愛を告げると言うことを。だが、直接その言葉を聞くことが辛かった。そう、茫々たる記憶の片隅に忘れ去れていた幼少の頃の記憶、今になってようやく思い出したからだ。
 ルーシことルーディはマケドニアの下級士族の子で、幼少時から才気煥発であった。
 オズモンド王・王妃夫妻に才気を認められて、宮廷の傅役(王子・王女の遊び相手)になったのは五歳の時。
 数多の傅役の中でルーディは変わり種であった。他の皆と一緒に遊ぼうとはせず、ただ一人で別のことをしているといった事が多かった。
 そして、そんな彼に興味を持ったのは四歳年上の王女ミネルバだった。彼女はルーディとすぐに仲良くなり、他の傅役たちをよそに、ルーディと共に過ごすことが多くなった。
 ルーディの才気は常人を超えるものがあり、ミネルバは子供心に彼に惹かれていったのかも知れない。だが、それは同時に他の傅役たちの逆恨みを買うことになった。
 傅役たちはしきりにルーディの讒言を上官たちに伝え、ミネルバの兄ミシェイルはルーディの才気を妬んでいたこともあって、間もなく難癖をつけてついに二人を引き離してしまったのである。
 ルーディが去っていくとき、ミネルバは大いに悲痛の声を上げていたが、ルーディはあじけなく去っていった。人の心とは無情というか、儚いというのか。五歳の少年が、ミネルバとの日々を完全に忘れてしまうには、そう時間はかからなかった。ミシェイルもまた、当時は小さな嫉妬程度であったのか、やがてルーディの名さえ忘れていった。
 それから十年の歳月が流れ、ルーシは稀世の知才をもって王立学校に入り、さも当たり前の様にカチュアに惹かれていった。
 だが、ミネルバは違っていた。ずっと、ルーディという少年を慕いつづけていた。幼い時分に引き離されても、その想いは変わらなかったのだ。
 ルーシが『稀世の知才』と持てはやされた時、彼女はルーディの名を十年ぶりに聞き、内心大いに歓喜した。だが、表立って素直な表現は出来なかった。逢いたい気持ちを殺してきた。と言うか、逢うきっかけをつかみたかったのかも知れない。
 そんな中、ルーディが父や兄を公然と批判したと話を聞いたとき、これが好機と、彼女はルーディに再会した。
 ルーディはまるで初対面のようにミネルバに接した。彼が無意識のうちに彼女の名を言い当てたことに気づかず、彼女もまた、ルーディに対し、初対面のような態度をつづけていたのだ。そして、これまでも、必死でルーシに気づかれまいと、己を隠しつづける言動をとってきたのだ。
 ルーシはミネルバの言葉を聞いてしまうと、不甲斐ない自分に対する呵責に襲われる、そんな気がしたのだ。
「すべては・・・私が悪いのです」
 うつむき、そう呟くルーシ。
「ルーシ・・・いや、ルーディ・・・」
 一途で純粋な二十四歳の王女は、まるで少女のような瞳でルーシを見つめていた。
「思い出して・・・くれたのか・・・」
「・・・・・・」
 ルーシは肯定の沈黙をする。そして、二人の脳裏に、幼き日の頃の情景が、次々と過ぎる。そして・・・。
「私は・・・あなたに愛されたい。誰よりも・・・あなただけに愛されたいのだ」
 ルーシが一番怖れていたはずの彼女の告白は、とても自然だった。その言葉を聞いても、不思議と動揺はしなかった。そして、それが決して酔余の勢いではないという事は、彼女の潤んだ瞳を見つめれば判った。
「他に望みはいらない。あなたに愛されさえすれば、どんな苦難にも立ち向かって行ける・・・」
 ずっと苦難の連続で、恋愛には更々不器用だと思っていた彼女自身の口から出る言葉は、不器用らしい、決して飾られていない、ありのままの想い、そして、心からの言葉だった。
「ルーディ・・・酔っているから言うのではない・・・・・・ルーディ・・・、この戦いが終わったならば・・・、私と共に・・・国の復興を・・・」
 精一杯、言葉をつなぐ彼女の姿は、赤い竜騎士と言われ、万民を震撼せしめた猛将とはまるでかけ離れた、一人のか弱き女性の姿であった。言い終わると、ゆっくりとルーシの胸に額を当てる。ふわりと、髪の匂いがルーシの鼻を擽る。
「・・・ミネルバ・・・・・・」
 ルーシは名前の後に《さん》をつけなかった。これ以上、よそよそしい態度をつづけて、彼女を傷つけ、苦しませたくない。そう思えばこそ、彼もまた、ありのままの自分を出し、彼女を王女と思わず、一人の女性として見ることが出来る。ミネルバはそれを確かめると、うれしそうな表情をし、そっと両手もルーシの胸に当て、頬をずらし、彼の鼓動を聞いた。そして、ルーシは彼女の背中を優しく抱きしめた。
「カチュアに・・・すまない・・・」
 そう呟くミネルバにルーシは囁く。
「勘ぐりかも知れない・・・あいつは・・・多分気づいていたのかも知れない・・・私の心の奥にある、漠然とした迷いを・・・」
 それはあの時、カチュアとのデートが終わる直前の場面のことを言っていた。ミネルバは知らない。ルーシの心に残る、甘く切ない、夏の日の、一瞬の場面。ミネルバは何も言わない、彼の言葉の意味の追求もしない。そのかわりに、ゆっくりと腕をルーシの背中に回す。ルーシもそれに応えるように強く抱きしめながら、心の中で呟いた。
(夢で語りかけし何処の賢者よ・・・私に、ミネルバを守る力を与え給え・・・。たとえ選ばれし者でなくてもいい・・・ひとときでもいい。我が天命、尽きるまで、この哀しき王女を守り抜く力、与え給え・・・)
その思いが天に聞こえたか、皓々と輝く月がより一層輝き、二人を照らす。いつしか本営の喧噪は止み、静かな月夜に二人は抱きしめ合い、互いの鼓動のみを感じていた。
 そして、グラの休日はゆっくりと、静かに終わった――――。