マケドニア――――英雄アンリの刎頸の友・アイオテが、ドルーア帝国の奴隷から身を興し、竜騎士としてドルーア討滅後、建国。三国一の精強な竜を産出する、飛竜の谷を支配し、竜騎士団を主力とするこの王国も、高祖より四代、オズモンド王が実子ミシェイルに弑逆されると、復活したドルーア帝国に随従。アカネイア全土に割拠し、グルニア黒騎士団と共に、泣く子も黙る勢いで席巻していた。
しかし、マルス率いる連合解放軍が決起すると、その威勢にも翳りが見え始めた。
オレルアン失陥、レフガンティの敗戦など度重なる連敗を喫し、その上マリア王女を奪われ、征北将軍の高地位にあった赤い竜騎士ミネルバが解放軍に寝返ると、士気は瞬く間に失墜していった。そして遂に、解放軍はそのドルーア帝国に従属する最大勢力・ミシェイル征軍元帥との決戦を間近に控えていた。
ミネルバ・マリア・レナ・マチス、三姉妹そしてルーシにとっては懐かしき故郷。それぞれ万感の思いが、止めどなく去来する。
マケドニア城を遠望する解放軍陣営。おそらくミシェイルは最後の決戦を覚悟し、自ら討って出てくるだろう。グルニアでの決戦とはまた違った激戦が予想される中で、その前夜はまるで平和なほどの静寂に包まれていた。
ルーシは例によって、皆が寝静まった後でも一人本営のテントに残り、布陣・進軍経路・謀計の考慮に忙殺されていた。時折、こめかみを強く圧す仕草が目立つ。そこへ、カチュアが不意に現れ、テントをのぞき込んだ。
「ルーディ君、いる?」
「ん・・・どうした、こんな夜更けに」
手を休める事ないルーシ。
「あのね・・・ちょっとお話があるの・・・」
「・・・うーん・・・竜騎士団にはやはり魔道士をあてるか・・・」
カチュアの言葉が耳に届かないのか、ぶつぶつと呟くルーシ。だがカチュアは怒らない。
「ルーディ君、聞いてる?」
「ジョルジュ・・・ゴードンらスナイパーを森に潜ませて・・・うーん・・・」
「・・・・・・」
カチュアはそっとルーシの側に寄り、筆を動かすルーシの右手にそっと左手を触れる。
「うわっ! ・・・な、何だよ・・・ああっ、何て事を」
驚きのあまり筆を滑らす。ぎっしり書きつめられた文書に斜線が走り、悲痛の声を上げる。
「カ、カチュアっ! 君はどうして・・・」
眉を逆立ててカチュアをにらみ付けるルーシ。しかし、彼女の表情は真剣味をにじませ、瞳が潤んでいたからルーシはすぐに毒気を抜かれてしまった。
「どうした? 酔ってんのか?」
まじまじとカチュアの顔を見回すルーシ。小さく首を横に振るカチュア。
「ちょっと、お話があるんだけど・・・」
「何だよ、こんな夜中に。戦は明日なんだぞ。君も早く休みな」
そう言ってあしらおうとするルーシ。だが、彼女はじっとルーシを見つめている。
「・・・何だよ。私の顔に何かついているか?」
そう言いながら髭をなぞる。
「ねえ・・・顔色悪いわよ。大丈夫?」
「そんなことないよ」
「そうかしら・・・」
「それだけならもう戻って休め。明日が大変だぞ」
「真面目な話なの。お願い、聞いて」
「・・・・・・?」
呆気に取られるルーシの手をいきなりつかむカチュア。何か様子がおかしい。
「こっちに来て・・・」
カチュアはルーシを引きずるように本営から連れだすと、自分のテントに引き入れた。茫然としていたルーシ、我に返った途端、顔を真っ赤にして狼狽する。
「な、な、な、な・・・何をする気だお前っ! お、お、お、落ち着けっ」
「何を考えてるの? 違うのよ。ただね、ちょっと眠れないから・・・」
どこか寂びそうな口調のカチュア。彼女にしたら珍しい。
「眠れない気持ちは判るけど、だからといって、夜中に男を自分のテントに招き入れるか普通? 誰かに見られたらどうすんだよ」
ルーシはおどおどとしている。
「構わないわ。別に」
そうきっぱりと断言されるとルーシも返す言葉がない。呆れたように、ふうとため息をついて正座をする。
「・・・で、話って何? 簡単に言えよ。私は明日の戦いの陣立てを・・・」
その言葉に割り込むように、カチュアが声を荒げた。
「また陣立て? 作戦? 計略? ・・・いい加減にしてっ」
いつもと全く違う彼女に唖然とするルーシ。何があったのか、皆目見当がつかない。
「ねえ・・・私の言いたいこと、解る?」
いきなそんなことを言われても、解るわけがない。
「自分の胸に手を当てて考えてみて」
言われるままに右手を胸に当てる。思いつかない。カチュアは小さく嘆息すると、ルーシを恨めしげに見つめて言った。
「ルーディ君。あなたって、意外と無責任なのね」
「何だよ。どこが無責任なんだ?」
「・・・あなたは確かに稀に見る知謀の士よ。ここまで解放軍がやってこれたのは、あなたの力が大きかったわ。でも、人としては・・・無責任。最低よ」
無理やり連れてこられて話すことが自分に対する誹謗だったことに、さすがのルーシも頭に来た。
「どう言うことだよ。私のどこが、無責任なんだ? どこが最低なんだ? 言ってみろよ」
カチュアに強く食ってかかるルーシ。だが、カチュアは反抗しない。むしろ哀しげに語る。
「その性格全部よ・・・。いい? ルーディ君。あなたと再会したとき、私ね、本当にうれしかった。あなたと会う前に、私好きな人が出来たんだけど、それさえ覆い隠すくらいに、本当にうれしかったの・・・解る?」
「そうか。君にも好きな人が出来たか」
態度一変、裏を返したように本気の笑顔を見せるルーシ。この無知無能ぶりは相変わらずだ。カチュアは長いため息をつき、構わず続ける。
「ルーディ君、あなたグラでの休戦の時、話さなかったけど、五年前、あなたとデートしたときのこと・・・」
「えっ・・・!」
その瞬間、またもルーシの顔色が変わる。カチュアはじっと、ルーシの視線を捉えて離さない。
「あの時、あなた私にキ・・・」
「ちょ、ちょっと待った」
慌ててカチュアの言葉を自分の言葉で覆い隠す。そう、あの夜、ミネルバとの件があって以来、ルーシの脳裏からは、五年前夏の日のカチュアとの出来事は忘れてしまっていたのだ。まるで暗闇に突然陽の光が当てられたように、記憶が鮮明に蘇る。心臓が高鳴る。急に目の前の彼女の顔を見ることが出来ない。
「・・・あなたと川辺で話した後、ずっとその事を言おうと思ってたんだけど、あなたは毎日、夜遅くまでテントに籠もって"お勉強"。たまに灯りがついていないなと思ってあなたのところ覗くと、気持ちよさそうに熟睡してるし・・・・・・話しかけても茶化すばかりで、まるで私の気持ちなんて解ってくれるでもないし、あの時のこと、毛頭気にもしなかったのよね?」
次々と彼女の言葉が胸に突き刺さる。
「ご、ごめん・・・・・・何て言ったらいいのか・・・」
困惑するルーシに微笑みを送るカチュア。
「今更あなたを責めるつもりはないの。もう五年も経っていることだしね。だけど、今考えてみれば、私も何か中途半端だったし・・・いい加減に《けり》をつけないとね、真っ当に好きな人を好きになれないのよ」
「おい・・・けりって何のけりだよ」
呆然と口を開けてカチュアを見るルーシ。かたやカチュアは夜闇でもきらきらと輝く瞳でルーシを見つめている。
「もう・・・そんなこと女の子に言わすつもり? ・・・これだからあなたって・・・」
「待て、カチュア。早まるな。あの時は私のはずみだった。少々、魔が差しただけなんだ。悪かった。本気で謝る」
両手を前に突きだして何かを遮るような仕草をするルーシ。そんな彼に小さく笑うカチュア。
「してもいないのに、何か大罪を犯したみたいな言い方ね。・・・ホントにオーバーなところなんか全然変わってないわ」
「ああ・・・あの時の私はどうかしていた・・・。思い出しただけで穴に入りたい気持ちだよ」
顔を真っ赤にして弱々しい声を出すルーシ。
「ねえ、ルーディ君? ・・・あの時、私が拒んだ訳、解る?」
「言わせるか? ・・・・・・私のことを好きでなかったからだろう。それ以外に考えられない」
ルーシの答えにカチュアは小さく首を横に振る。
「その反対よ・・・。私ね、あなたの停学が解けて、学校に戻ってきたときから、あなたのことが好きになったの。ううん・・・正直言うと、私たちの前で前王陛下とミシェイル王を貶したときからかな? ・・・最初は変な奴って思ってたけど、だんだんあなたに惹かれていく自分に気がついたわ・・・。不思議よね。自分の心なのに、気がつかないなんて・・・」
「そういうものなのか・・・」
まるで他人事のような科白を吐くルーシ。
「だからね、あなたと一緒に遊んだあの日はすごく楽しかったし、うれしかった。・・・でもね、それと同じくらいに不安もあったの。んー・・・不安って言うのかな・・・迷いって言うのか・・・。前の日にあなたとカフェに行ったとき、あなたは私に言ったわよね。ミネルバ様の力になってあげてくれって・・・あなたがいなくなったとき、置き手紙にも同じ事を書いていたわ」
「あ、ああ。覚えているとも・・・」
「あなたがそう呟いたとき、もしかしたらミネルバ様のことを・・・・・・ふとそう思っちゃったの。思い過ごしだったらゴメンね」
実に的中している。女の感というものは計り知れないと、ルーシは内心つくづくそう感じさせられた。
「だからあの時、私は拒んだのよ。・・・何か、受け入れるのが怖かったの・・・。受け入れてしまうと、本気であなたのことしか見えなくなりそうで・・・・・・」
「・・・・・・」
切なげに語るカチュアを見ていたルーシの身体に、思わず電気が走る。
「本当、あなたに悪いことしたな――――って、ずっと思ってた」
「そ、そんな・・・君が謝る必要はないだろ。悪いのは私だ」
「・・・ホントはあの後、すぐにあなたの後追いかけるべきだった。・・・今から思うと、あなたの支えになってあげていれば、あなたがマケドニアを出て行くこと、なかったのよね」
「そ、そんなことわからないさ」
「あなたが消息を絶ったとき、すごく後悔したわ。でも、あなたの手紙を見てから、あなたのことは諦めたつもり・・・。そうこうしているうちに私はミネルバ様にお仕えしてミシェイル王に従い、戦いたくない戦場を駆け回って・・・五年が過ぎて・・・あなたのことを忘れていった。そして、ある日、好きな人が出来たの。今は片想いだけどね」
「・・・そこへ、私が現れた・・・ってわけか」
そうルーシが呟くと、カチュアは哀しげに微笑む。
「名乗らないで欲しかったって、何度も思ったわ。そうすれば、昔のわだかまりなんて思い出す事なんてなかったのに・・・」
「おいおい、そんな・・・」
苦笑するルーシ。
「自分勝手よね。でも、嬉しかった気持ちに嘘はないわ。多分、あなた以上にね」
「そんなことないよ。俺だって・・・」
「私がマルス様に面会を求めたとき、あなた全く知らんぷり・・・本当は気づかれたくなかったんでしょう?」
意地悪げに訊ねるカチュア。言葉を詰まらせるルーシ。そんなことはないと言っても、事実、彼は公務の名の下、彼女を斬ろうとした。斬るつもりはなかったのだが、ちょうどマルスがやってきたので、タイミング良く剣を下ろすことが出来たのだ。彼女の言っていることは当たっている。心のどこかで、あの時の《苦い思い出》が引っかかっていたのだろう。
「思い出話をしていても、あなたは私が忘れているって思い込んで、あの時のことは喋ろうとしなかった。それが無責任、最低だって言うのよ」
「そうだな・・・確かに。君の言うとおりだよ」
「だから・・・、お互いにあの時のわだかまりをなくすためにも、《けり》をつけましょうって言うのよ・・・・・・そうすればスッキリするでしょ?」
「だからといって・・・何もそれは・・・」
急に語気が弱くなり、俯くルーシ。カチュアは一段と潤んだ瞳で彼を見つめると、瞬発的に上体を前に傾け、彼の両肩を掴む。
「!」
ルーシが驚いて顔を上げた瞬間、彼の唇に柔らかいものが重なった。茫然として開いた目が塞がらないルーシ、その至近距離には、微かに震える閉じた瞼が映る。今までに感じたことがない、突然で甘い感触・・・それはほんの数秒間の出来事。
「・・・落とし物は、ちゃんと拾わないとね」
茫然とするルーシに向き直ったカチュアが、そう言って無邪気に微笑んだ。
しばらくして我に返ったルーシが、未だ上気した顔で言う。
「カチュア・・・君はもしかして、まだ・・・」
言いかけるルーシの口にそっと人差し指を当てて、小さく首を横に振るカチュア。
「勘ぐりはしないこと・・・・・・ともかく、これでお互いにスッキリしたわよね。明日から気分一新で戦いに望めるわ」
「・・・・・・」
そんな彼女をじっと見つめつづけるルーシ。
「ど、どうしたの? ・・・さあ、ルーディ君。いつまでも女の子の寝室にいないこと」
「えっ・・・あっ・・・ご、ごめんっ!」
途端に自分の置かれた状況に狼狽するルーシ。何度も足を引っかけながらテントを出る。
「お休みなさい・・・」
囁くように言い、小さく手を振るカチュア。
「あ、ああ。お休み」
ぎこちなく、ルーシも応える。そして、自然と足音を立てないように抜き足差し足で本営に戻って行く。そんな彼の後ろ姿を微笑みながら見つめているカチュア、彼の姿が見えなくなると、一転、寂しそうな表情をして幕を閉じた。
「・・・・・・」
一方、本営に戻り、再び地形図と対峙していたルーシだったが、無意識のうちに指が唇にあり、気づくたびに振り払う。
「・・・・・・はぁ」
ミネルバに対する慚愧の思いに邪魔され、頻度が増す頭痛に悩まされながらも、何とか明日の戦略を立て終えたルーシ。
「よし・・・これで完成だ・・・」
そう呟くと、ルーシはばったりと疲れ切ったようにその場に伏す。そして、深い眠りにつくまで、唇の感触だけ生々しく残っていた――――。
【暗黒英雄戦史・マケドニア戦譜】に記す――――
"秋霧の 蒼竜飛び交う幽谷は はや厳冬の彩を為す
国家の大幹喪いて その赤き連枝を相分かつ
麗人霏々たる泪落ち 銀鎗朽ちたる竜騎士の
望蜀儚く落魄し 豈や実妹の刃 胸に受かんと"
そう謳われた暗黒戦争末期の悲劇的な会戦の朝は、実に血を分けた兄妹が相剋するを嘘のように、穏やかな霧に包まれていた。
しかし、両軍ともにその様な優雅を味わうほどの余裕などなかった。
一人の兵士の伝令が、解放軍全軍の眠りを覚まし、合戦の火蓋を切った。
「征軍元帥、御自ら出陣された由。総軍を率いてこちらに向かっております」
「よしっ、マリク、リンダ、ジョルジュ、ゴードン、カシムらは竜騎士団を迎え撃て。他は計に示された通り陽動を使い、城門を突破するのだ」
ルーシが大声で全軍に指令する。
「マルス王子ッ、ルーシ参謀ッ」
諸将が退出しようとしたとき、ミネルバが毅然とマルスとルーシの前に歩み出る。
「ミシェイルは我が国高祖伝承のアイオテの盾を装備している。奴には弓兵や魔道士の攻撃は効かない」
「・・・・・・」
マルス、ルーシともに真っ直ぐミネルバを見る。
「ミシェイルは私にとって父の敵・・・。奴だけはこの私に討たせていただきたい」
決意の色彷彿と、微かに震えるその声に、赤い竜騎士と呼ばれた女傑の、思いの全てが込められていた。マルスは元より彼女の意向を汲むつもりであった。そして、ルーシは無言。熱い眼差しでミネルバを見つめる。彼女もまた、ルーシを熱く見つめつづけた。
「出陣ぞっ!」
ハーディンの号令に喊声を挙げ、勇将たちはドルーア帝国の最大同盟勢力・マケドニアとの最後の決戦に、意気揚々と出陣して行く。それを見届けたルーシ、マルスに向いて言う。
「盟主殿、ここを平定すれば、後はいよいよ・・・・・・」
「ええ・・・。いよいよ、メディウス、ガーネフとの直接対決が始まる・・・」
マルスが静かにそう答えた瞬間だった。
どさっ・・・・・・
至近距離で鈍い音がした。マルスは《はっと》なって振り返り、音がした地面を見る。そこには、うつ伏せになって倒れている知将の姿があった。顔色蒼白、口許からわずかに血が流れている。
「る、ルーシッ!」
愕然となるマルス。大慌てで彼を抱きかかえ、必死に目を開けさせようとする。だが、一向に目が覚める様子がない。
「さ、参謀っ! し、しっかりして下さいッ! ・・・レナッ、マリアッ、大変だっ、ルーシが・・・・・・」
ミシェイル自ら率いるマケドニア精鋭の竜騎士団も、その威名はもはや過去の栄光となっていた。強靱さを轟かし、かつて聖都アカネイアパレスを陥落せしめ、オレルアンの精強騎馬軍団を撃破し、大陸ほぼ全域を手中にしかけた程の勇猛な軍勢も、数多の激戦を勝ち抜いてきた解放軍には敵となり得るほどの力はなかった。
アカネイア神聖王国が誇る弓騎士ジョルジュ、そしてオリオンの洗礼を受けた新スナイパー・ゴードン、そしてマリクの洗練された風魔法エクスカリバー、父である大司祭ミロアから受け継いだ可憐なる少女魔道士リンダの光魔法オーラ。彼らの前に、竜騎士達は風に舞う木の葉の如く散って行く。後の吟遊詩人オーラスはこの様子をこう詠う。
"叛君の雄図を砕く魔法陣
蛮勇を誇る飛竜に光の矢"
山腹に数十体の竜が嘶く。そこは叛逆の王ミシェイルの本陣。
「おのれ反乱軍・・・このミシェイルに高祖の守護ある限り、弓矢も魔法も怖れぬわ!」
続々と敗報がもたらされ、業を煮やして床几を蹴り壊すミシェイル。
「王陛下、まずは落ち着かれませ」
側に控える男の静かな諭しに、ミシェイルの興奮がやや収まる。
「カサエル・・・、ついにこの時がやってきたようだ・・・。ミネルバと決着を着けるときがな」
その語気の強さに思いがつまる。。
「聞くところによりますれば、反乱軍にはあのルーディと申す若者もいると言うことです」
カサエルの言葉にぴくりと眉を動かすミシェイル。
「ほう・・・・・・ルーディがな・・・」
「何でも、ワーレンにてアリティアのマルス王子より三顧の礼を承けて軍師となり、ワーレンのグルニア軍に敗色濃厚だった反乱軍を、その知略にて勝利に導いたとのこと。以降、反乱軍は彼の者の立てる策が功を奏し、大勝を重ねてきたとか」
カサエルの話に、ふんと鼻を鳴らすミシェイル。
「小童め・・・頭に乗りおって・・・よいわ。ルーディもミネルバもこの俺の手で・・・はっ!」
突然、呆気に取られた表情をするミシェイル。急に言葉を失した主君に怪訝な視線を向けるカサエル。
「ルー・・・ディ・・・・・・ミネ・・・ルバ・・・・・・」
ぶつぶつと呟くミシェイル。
「いかがなされましたか」
カサエルの問いかけにしばらく何も答えないミシェイル。だが・・・
「・・・そうか・・・そうだったのか・・・まさか・・・奴がな・・・・・・くくくく・・・はははははっ」
今度はいきなりおとがいを外して哄笑しだす。
「王陛下・・・」
カサエルは主君が気を失したかとさえ思った。だが、ミシェイルは笑いを止めると、にやりと不敵な笑みを口許に浮かべてカサエルを見る。
「カサエルよ、これは断然面白くなってきたぞ・・・。フフ・・・ミネルバに会うのが楽しみだ・・・」
彼が何を言いたいのか、腹心の部下であるカサエルでさえ、解らなかった。
「ルーシの容態はどうか」
一時間ほど経ってようやく本営のテントから出てきたレナとマリアに、焦燥の色満面にたたえたマルスが訊ねる。
「極度の過労の様です・・・。内臓が殆ど衰弱しておりますので・・・最低でも、一ヶ月は安静にしないと、お命が・・・・・・」
力無く肩を落とすレナ。
「ルーシ様、まるで死人のようなお顔をしていました・・・。初めてお会いしたときとは、まるで別人のようで・・・」
マリアが哀しそうに言う。
「そうか・・・思えばワーレン以降、ルーシはずっと私たちのために寝る間も惜しんで軍略を練り、休む間もなかった。グラでの休戦の時も、彼はただ一人で全軍の物資管理と開戦後の戦略立てをこなしていたと聞いている」
「そんな・・・・・・ルーシ様が立てられた休日だったのに・・・ご自分が休まれないとは・・・・・・ああ、何て事でしょうっ! それを知らずに私だけ・・・」
レナが思わず顔を覆い泣き声を上げる。
「彼はそう言う男だ。・・・私に乞われて参謀となったとき、彼はカインやアベル、ハーディンらの激しい譏りを受けながらもじっと堪えて新兵を鍛え・・・、誤矢をその身に受けながらも、なお良計を構じていた・・・。それでも彼は私たちのために、グラでの休戦を誂えた。それは彼なりの、心遣いだったのだろう。私たちに気づかれないように、何も言わず・・・ただ一人で、私たちのために・・・」
マルスの声が詰まる。突然あふれ出る涙に言葉がつづかない。つられるように、レナとマリアも泣き崩れる。
「・・・私たちは・・・ルーシに・・・彼の才知に・・・甘えすぎたのだ・・・・・・もうこれ以上、彼を頼り続けるわけにはいかない・・・・・・彼は充分すぎるほど私たちを導き、助けてくれた・・・・・・彼にはこれからゆっくりと、休んでもらおう・・・今までの分まで・・・」
マルスが途切れ途切れにそう言うと、レナとマリアの嗚咽が一層、激しさを増す。
「・・・たおせ・・・計は成った・・・」
テントの中からうわ声が漏れてくる。マルス達は見た。ルーシが臥する側に駆け寄ると、まるで老人の様にやつれ果てたルーシの表情が、何故か笑っている。つい先ほどまで黒々とした、彼自慢の美髯が、髪と同じ色に変わっている。
「精強な軍勢も・・・洗練の魔道も・・・私の計あらばおそるるに足りません盟主殿・・・」
「ルーシ・・・」
譫言を言い続ける彼の手をすくい上げるマルス。
「私の計通りに進むのです・・・さすれば勝利の道は、開かれん・・・」
「わかった・・・。わかったからルーシ・・・あなたの思い、私は決して忘れない・・・だから・・・」
「マルス様っ! ・・・これを・・・」
マリアがルーシの懐から覗く一枚の紙を発見した。
「これは・・・?」
マルスがそれを開くと、一ひろ程の長さの紙に描かれていたのは地図だった。事細かに地形が描かれ、数多に交錯した線はおそらく軍の進軍経路を記したものだろう。至る所に書き込まれた、解放軍諸将の名前。それは布陣すべき地点を記しているものだろう。片隅に書かれた文字、【ドルーア帝国四十余域地形図】。それは今までの戦いの中で彼が書いた地形図とは比べものにならないほど繊細で美しかった。
マルスは愕然となった。前人未踏のマムクートの王国。誰もその地に通じた者はいないという。原住民がマムクートという以外、地形など誰も知る者はいなかった。ゆえに解放軍も、メディウスの本拠であるドルーア帝国に足を踏み入れることに、かなり強い不安を抱きつづけていたのだ。
「ルーシ・・・あなたはいつの間にこの様なものを・・・」
マルスは穏やかな息をたてて眠る知将を見つめる。
隠遁生活の五年、その間、稀代の知将ルーシは、地道に古文書を読みあさり、賢人、冒険者、商人、果ては賊を訪ね、知識を重ねてきた。
解放軍に迎えられても、暇さえあればバヌトゥなどと話をしながら、ゆっくりと緻密にこの地形図を作り上げていったのだ。
『いずれドルーアの野望を砕く勇者が現れる。いずれこの地形図が役立つときが来るはずだ』
そう信じ続けてきたルーシ。・・・秘密が漏れるのを怖れ、彼は味方にさえも打ち明けずに、明日の戦略を練りながら、作り上げていった。
マルス達は、そんなことを知るはずもなく、ルーシが作り上げたドルーア帝国地形図を見るたびに、何故か涙が止めどなく流れ落ちていく。やがて力強く顔を上げ、マルスが毅然と二人のシスターに言った。
「レナ、マリアッ。ルーシを、ルーシ参謀を頼む」
マケドニア本陣に兵が駆け込み、語り合っているミシェイルとカサエルに告げた。
「申し上げますっ! ・・・我が軍の前方に、敵が・・・」
「ほう・・・成り上がり共め、この私に殺されに来たか。・・・して、敵の数は」
「それが・・・」
困惑した様子の兵。怪訝な表情をするミシェイル。
「どうした、早く申さぬか」
「はい・・・それが・・・敵は一人で・・・あれは・・・おそらく・・・ミネルバ様かと・・・」
「何? ・・・まことか」
眉をひそめて、ミシェイルと腹心カサエルが互いを見合う。
「そうか・・・わかった、ご苦労」
カサエルが兵を返すと、渋い顔でミシェイルを見る。だが、ミシェイルは肩を震わせて必死に笑いを怺えていた。
「奴め、ちょうど良いところに現れたな・・・これで捜す手間が省けたというものだ」
そんな様子のミシェイルに、カサエルが冷静に言う。
「王陛下、これはおそらくルーディの計略にございます。軽々しく動かれてはなりません。ここはこの私が参りましょう」
「いや。せっかく『かわいい妹』が久々に兄に会いに来てくれたのだ。俺もあいつに話しておきたいことがあるしな・・・」
そう言って不敵に笑うミシェイル。
「しかし・・・」
「お前も心配性だな。よしわかった。ならば、兵五十を率いて山腹に潜め」
「はっ!」
「では参るぞ」
ミシェイルは銀槍を手に颯爽と飛竜に跨り、かけ声を放ち飛び立つ。それを確かめてカサエルも兵を率いて山腹に向かった。
ミシェイルは高度を上げて前方に遠見を利かせた。すると、兵の報告通り、一体の飛竜が山腹に翼を休ませていた。そして、その側に立つ、赤い髪の騎士。ミシェイルはニヤリと嗤い、そこへ向けて竜を駆る。
「・・・・・・」
ミネルバはじっと瞳を閉じ、地面に突き立てた銀槍に軽くもたれ掛かっていた。そこへ、風が巻き起こり、その気配に不思議な親しみを感じたミネルバの爛然たる瞳が、かっと開く。そして、目の前に立つ、同じ赤い、長髪の美丈夫を睨視する。忘れたくても忘れられない、断ち切りたくても断ち切れない。それが骨肉の争いという悲劇に苛まれた妹の、兄に対する苦しい思いであった。
「ミシェイル・・・兄上・・・」
そう呟く妹に、兄は不敵な笑いを浮かべている。
「ミネルバよ、久しぶりだな・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
互いにしばらく言葉が出ない。袂を分かったとはいえ、血の繋がった実の兄妹である。こうして最期の決戦になるであろう戦場で久しぶりに再会した時、両者の胸に去来するのは、仲が良かった幼き頃、共に中庭に遊び、家族と夕餉を食し、夜は寄り添い眠った、あのごく平和な思い出の数々。今は叶わぬ願いなれど、出来うることならば・・・そう思っていたのは、ミネルバ自身であったのかも知れない。
「・・・兄上、あなたの軍勢は、大半が我らによって倒された。おそらく、残っているのはあなたの手勢のみ。もはや趨勢は明らか。潔く降服して欲しい。盟主マルス王子は寛容なお心を持ったお方。お命は助かる」
兄が降服するはずがない。元々、兄を討つ決心でここに来た。だが、拒否されることが判っていてあえてそう言ったのは、やはり情から来るものであろう。そんな、当たり前な心を知らず、兄はミネルバに散々なほど嘲笑罵声を浴びせる。
「この俺が、誰に降服しろと言うのだ? ・・・ミネルバ、冗談も程が過ぎるぞ」
じっと兄の愚弄を受け止めながら、もはやこれまでと心に言い聞かせるミネルバ。やがて、ミシェイルが冷たい眼差しを妹に向け、言った。
「ミネルバよ、お前と決着をつける前に、一つ教えておきたいことがある」
「なにを・・・」
「お前が敬慕している、ある男のことだ」
「えっ・・・!」
それを聞いた瞬間、ミネルバの顔色が変わる。敬慕している男。ルーディの事か。なにを知っているのか、なにを教えるというのか、無言でそう急かすような表情、そして、隠しきれない不安の色。
「俺もすっかり忘れていたことだった・・・だがな、思い出したんだよ。お前が卒倒してしまうような事実をな」
「・・・・・・」
なぶるような視線を送りつづける兄に、やや怯えた感じの視線を返す妹。
しばらく間が空き、ミシェイルがゆっくりと口を開く。
「ミネルバよ・・・あのガキの両親は知っているか?」
「マケドニア士族と聞いている。ルーディが幼少の頃、亡くなったそうだ。・・・それがどうしたのだ」
「ははははっ・・・やはりな。あの頃は俺もお前も幼かった。漠然たる記憶の中で、互いに真実というものがいつからか忘れていってしまったのだろうな・・・」
「どういうことだ兄上。勿体ぶらずに早く言わないか」
焦燥の面もちになるミネルバ。ミシェイルはふっと笑うと、続きを語る。
「《アンデュ》という少女の名、聞いたことがないか?」
「知らぬ・・・」
「かつてマケドニア宮廷に訪れた、舞踊一座の踊り子だそうだ」
「その者が、いかがしたというのだ」
「今から二十年ほど前、アンデュはその類い希なる美貌と、腰まで伸びた美事な白金の髪を讃えられ、舞う姿はまさに《妖精の化身》とまで言われていた。・・・親父は彼女の舞に惹かれ、その日彼女と一夜を共にしたという・・・。それから彼女は一座を離れ、宮廷に住むようになった。だが、本を正せば彼女は夷狄の出身。親父の寵愛を一身に受けていたが、その身分ゆえに他の女達から激しい嫉妬を買い、誹謗讒言の末に遂に宮廷を追われた。・・・だがその時、彼女が身籠もっているという噂が立った」
ミネルバは愕然となった。そして、激しい寒気が背筋を襲う。ミシェイルは続ける。
「宮廷を追われた彼女は、城下のある民の家で、男児を出産した。・・・それが、親父の落胤であることはほぼ間違いがない」
「まさか・・・その様なことが・・・」
悪夢にうなされるかのような、考えたくもない想像がミネルバの脳裏に過ぎる。
「それからアンデュは、一平民としてひっそりと暮らし、その男児を己一人で育てようとした。だが、親父の落胤に、平民と同じ生活が出来ようか。やがて、親父に恨みを持つ者たちや、心ない者たちに母子は狙われ、彼女はある士族の夫婦に男児を託し、自らは凶刃にかかって死んだ・・・。まこと運命とは酷いものよ・・・」
「兄上っ・・・ならばあなたは、ルーディが我らの異母弟だと・・・血の繋がった兄弟と言いたいのかっ」
激しく怒鳴るミネルバ。だが、ミシェイルは何も答えない。
「そんな証拠もない話など、誰が信じるものかっ」
興奮の極度で叫ぶミネルバを、あくまで冷たい目で見つづけるミシェイル。
「確固たる証拠などはないさ。何しろ二十年も前の事だからな。俺の話を信じる信じないは、お前の勝手だ。・・・だがな、考えても見ろ。親父は随分酷いじゃないか。アンデュが子を産んだことを知りながらも、彼女にも、子供にも会おうとはしなかった。俺はあの頃、その噂を聞いたとき、子供心に弟が出来たのかと喜んだものだ。だが、親父や重臣どもにその話をすると怒髪天を衝くかのように怒り、二度とその名を言うな、ミネルバにも言ってはならぬと怒鳴りながら、何度も俺を殴った」
ミシェイルの声は憎悪のため震えていた。
「俺はその頃から親父達の非情さを憎むようになり、人を信じなくなったのかも知れない。そして、アンデュが生んだ子のことも、時の流れの中で忘れていったのだ・・・」
ミネルバはまだ兄の話を信じる気にはなれなかった。出任せなのだろうか、自分を混乱させるためにしくんだ計なのか、虚構の安堵と真実の恐怖が交錯し、頭の中がぐちゃぐちゃになる。ルーディが私の異母弟?いや、そんなばかな話などあるはずがない。彼は傅役として登城した、下級士族の子だ。王家の血を引き・・・ましてや父の実子などであろうはずがない・・・。すべてはミシェイルの作り話だ。そうに違いない・・・。
そう言い聞かせるミネルバ。だが、ミシェイルは追い打ちをかけるように言う。
「ミネルバよ、よいかよく聞け。あのルーディというガキがアンデュの・・・親父の子だという確信はない。俺の、そしてお前の異母弟だと断言できる証拠もない。だがな、もしも奴が我らと血の繋がりし兄弟ならばミネルバ、お前は奴を愛することは出来ぬ。解るだろう、この意味が」
「・・・・・・」
「このままお前達が愛し合えば、必ずどちらかに天の制裁が下るぞ・・・背徳の徒としてな」
ミネルバは身体を震わせ、唇を強く噛んだ。そして、呻くような声を漏らす。
「信じぬ・・・お前の言うことなど・・・信じぬわっ」
だが、ミシェイルは冷たい眼差しを変えることなく、怒りに震える妹を見つめていた。そして、ゆっくりと銀槍を構え直して言う。
「俺の言いたかったことは、それだけだ。・・・さあ、ミネルバよ、そろそろ決着を着けようか」
「・・・・・・」
ミネルバは無言で兄を睨みつけていた。もはや話すことはミシェイルにはない。ミネルバがいくら問いかけても、答えが返ってくることはない。それに、今はそんな悠長な質疑を交わしている場合ではない。ここは戦場。現実に今、宿命の兄妹は雌雄を決するべく、対峙してるのだ。
「兄上・・・参るっ!」
マケドニアの驍将・ミシェイル、赤い竜騎士・ミネルバ。二人の血を分けた豪傑が、それぞれ長年付き添ってきた飛竜に跨る。得手の銀槍が輝き、竜が空に舞い上がる。
"双竜相剋ち銀鎗天に響(な)り
風雲の山間に麗姫情(こころ)抛ちて逆君を討つ"
後年の詩人クレタスが哀姫ミネルバを詠った一節。
二体の巨竜が天空高く相撃つ。勇名を天下に轟かせた二人が、空を埋めて行く雲下、銀の槍を交錯させるたび、雷が発し、その激しさに山腹に居並ぶ兵卒諸将の目を奪う。
「お前の腕がここまでとはな・・・よくぞ成長したものだ」
槍を繰り出しながら、ミシェイルがそう言って笑う。
「兄上・・・」
応戦しながらも、ミネルバの表情は哀しげだった。
片方が右から槍を繰り出せば相手も右を出し、矛先が交わる。左を出せば、左を出し、脳天目掛けて振り下ろせば胴を薙ぎる。吹き飛ばされそうな強風が絶え間なく吹きすさぶ天空でさえ、鼓膜が破けそうな金属音が永劫と響き、眩暈がしそうな火花が散る。時を忘れたかのように、見守る兵達は唖然と英雄の一騎討ちに魅入っていた。
しかし、その華麗なる戦いの幕も下ろされるときが来た。
ガキ――――――――――ン・・・・・・・・・
鈍く、一際甲高い音が眼下に響きわたる。ミネルバははっとして、自分の得手に目を配る。
「これまでのようだなミネルバ・・・私の勝ちだ、死ねっ。やあああぁぁぁぁぁっっっ」
喊声を挙げ、高々と槍を掲げた驍将が強く飛竜を鞭打ち、突撃する。そして、二つの飛竜がまさに衝突せんとした時。
「はあっ!」
くわと目を見開いたミネルバの鬨の声が、ミシェイルの喊声と重なった瞬間だった。
グサッ―――――――――
「ぐうっ・・・」
鎧を突き破る低く鈍い音。一瞬にして沈黙する両雄。身を伏せるような格好のミネルバ。かたや銀鎗突きだしたまま、ミシェイルの形相が歪む。その脇腹に突き刺さった、毀れた銀の鎗。時間が止まったかのように、自然の息吹が止まる。
「ふっ・・・・・・さすがだな・・・ミネルバ・・・」
ミシェイルの口許から、一筋の赤い線が走る。にやりと笑いを浮かべながら、ミネルバを見下ろす。ミネルバもその姿勢のまま、ミシェイルと視線を合わせる。
「いいか・・・この世は・・・現実は・・・お前達が抱く理想とはほど遠いところにあるということを覚えておけ・・・」
「兄上・・・」
無意識のうちに、ミネルバの瞳から涙が溢れ、次々と頬を滴って行く。
「アンデュ母子の事があって以来・・・俺は愛や信頼などと・・・きれい事は信じなくなった・・・。人とは無情なものよと・・・。欲望、弱き心・・・・・・これある限り・・・争いは絶えぬ・・・力で人をねじ伏せるが・・・万民の安寧のために必要なのだ・・・そのことを忘れるなよミネルバ・・・」
「違う・・・それは違うぞ兄上・・・。人は、愛と信頼の力で結ばれるものだ。私は・・・解放軍についてから・・・いや、ルーディに出逢ってから、そのことを強く実感した・・・。腕ずくなどで、人の心は支配できぬ・・・」
「相変わらず甘いな、お前は・・・。実の子に対する親父の非情な仕打ちを聞いても・・・まだその様なことを・・・」
その言葉に、ミネルバが憤然と言い放った。
「ならば兄上、あなたはどうなのだっ。・・・讒言を信じ、おのが妬みから私からルーディを引き離した。父上と同じ轍を踏んでいるとは思わないのか。かような短慮を犯しておきながら、よく言えたものだ」
「・・・」
言葉を詰まらせるミシェイル。
「ルーディがあなたのことを『沐猴にして冠す』と言っていたが、当たっている・・・。今から思えば、あなたのしてきたことは、全て虚業に過ぎない・・・・・・。父を殺し・・・、ドルーアに与し・・・、アカネイアを滅ぼし・・・、多くの人民を殺戮してきたこと・・・全てが無意味な、ただの人殺しだったのだ・・・」
たまらず声を上げて泣き伏すミネルバ。ミシェイルはそんな彼女の言葉に痙笑を浮かべている。
「ふっ・・・・・・ならば試してみるがいい・・・お前と・・・あのガキの愛の力とやらで・・・どこまでやれるか・・・とくと見せてもらうぜ・・・」
そう言い大量の血を吐くミシェイル。
「はっ・・・我が夢、潰えた・・・さあ、ミネルバよ。お前の手で俺にとどめを刺してくれ・・・せめて妹に命断たれるならば・・・悔いはない」
そう言い、震える手で自分の銀鎗をミネルバに差し出す。
「・・・・・・」
ミネルバもまた、震える手でそれを受け取ると、涙を怺えて力強く振り上げた。力無く瞼を閉じる兄ミシェイル。しかし、ミネルバの手は動かない。いや、動かすことが出来なかった。何度も槍を振り下ろそうとしたが、まるで金縛りにあったかのように、全く腕が動かない。
「何を躊躇っているのだ・・・兄妹の情けか・・・。ふっ・・・、その様なものなど無用だ。さあ・・・早く俺の命を断て」
「兄・・・上・・・」
ミネルバの心に残る、兄妹の情。どんな目に遭わされても、その絆は断ち切れるものではない。良心がミネルバの腕を止めていた。そして、罪深き兄を救いたいという気持ちが、憎しみに勝ったのだ。だが、ミシェイルにはそんな妹の気持ちなど解らぬように、天を仰いで長嘆した。
「俺は・・・・・・妹の刃を乞うことも拒まれるまで・・・孤独と虚栄心の固まりとなっていたのか・・・」
そして彼は手綱を投げ捨てた。愕然とするミネルバ。
「さらばだ、ミネルバ」
それだけ言い残すと、ミシェイルの身体は飛竜になかった。
「あ・・・あにうえ―――――――――――ッッ!」
ミネルバの悲痛な叫喚が吸い込まれて行く。
天空高く、大地はるか遠い虚空で相打ち合った悲劇の兄妹。その結末は《哀しみ》とひとえに言うにはあまりある。大陸に威名を轟かせたマケドニア王・ミシェイルの最期は、孤独に、さも己が人生を象徴するかのように、天から奈落へと落ちていった。そして、ミシェイルの愛竜は甲高い咆吼を空に向けて発し、雲を目掛けて翼を大きく広げて飛び去る。飛竜が消えると同時に、遠雷が轟き、突然激しい雨が降り出した。
「お・・・王陛下――――――――――ッッ!」
奈落へと降臨するミシェイルの姿を見たカサエルが、激しい悲痛の叫び声を上げる。
「者ども、討って出よっ!」
その声に、伏していた竜騎士達が一斉に飛び立つ。彼らは一斉に天空のミネルバを狙って竜を駆った。しかし、ミネルバを撃ち落とすどころか、彼女の姿をはっきりと捉えることさえ叶わなかった。解放軍の伏兵達が、一斉に竜騎士たちに向けて無数の征矢を放ったのである。
竜騎士たちは地から吹き上がる矢の雨をまともに浴び、飛竜ごと針鼠のようになって次々と落ちて行く。阿鼻叫喚の終戦前。ミネルバはその光景を見るに絶えず、口を押さえて竜の背に突っ伏した。
「てやあああぁぁぁぁっっっっ!」
ミシェイルの腹心カサエルの最期もまた壮絶だった。彼もまた槍を携え、ミネルバを目掛けて突撃しようとしたが、竜が飛び立たぬうちに、迫っていた解放軍兵士たちの槍を八方からその胴に浴びてしまっていた。
「お、王陛下・・・・・・」
そして、背中から彼を突き刺した兵の一人が、血しぶきを噴き上げる彼の身体を天に突き上げる。槍の先でのけぞり、"T"の字になった彼を、ミシェイルが消えた奈落の方へと放り投げた。大の字に広げられた彼の四肢が、大きく弧を描きながら、奈落へと消えて行く。
そして、戦場に喊声は止み、激しい雨音だけが残る。
「マケドニア城を占拠したっ――――我らの勝ちだっ!」
再びわき上がる喊声。未だ空高く、全身を激雨に打たれつづけているミネルバの耳に、その声は遠かった・・・。
そして、ようやく本営に戻ったミネルバの前に、更なる哀しみが襲う。
「ル・・・ルーシッ!」
穏やかな微笑みを浮かべながら、死んだように眠りつづける知将に愕然となったミネルバが、思わずびしょぬれの身体のままルーシにすがりついた。
「こ、これはどうしたと言うのだッ。レナッ、ルーシに何があったのだッ。ルーシは・・・ルーディは死んだのかっ。誰に殺されたのだっ!」
その怒鳴り声が雨の音でさえ破り、テントの外まで響く。その声に、外の兵士達が怪訝そうに振り返る。
「ミネルバ様、落ち着いて下さい、大丈夫です。ルーシ様は眠られていらっしゃるだけですから・・・」
レナがミネルバの取り乱した様子に戸惑いながら、事の成り行きを告げた。
「何て言うことだ・・・ルーディ・・・あなたは・・・あなたはそこまで・・・」
ルーシの胸の上に顔を埋めて号泣する。その涙は、ルーシが仆れたことへの悲愴感からくるものだけではない。言葉では言い表せないほどの、今までの生涯で遭遇した、様々な哀しい思い出が怒濤の如く彼女の胸に押し寄せてくる。他人の前では決して弱いところを見せず、気丈に振る舞ってきた赤い竜騎士。だが、心の奥に押し込めてきた数え切れない悲劇が、今堰を切ったように流れだし、津波となって溢れ、ミネルバを沈めて行く。
レナはそんな彼女の様子に気を遣ったか、常備の毛布を取り出し、冷え切った彼女の背中にそっと掛けると、黙礼をしてからゆっくりとテントを出た。ちょうどその時、雨を振り払いながら一人の騎士がテントの前に駆けつけて来る。アベルである。
「あっ、レナさん。ちょうどよかった。参謀殿・・・」
アベルが嬉々として喋ろうとするのを、レナが人差し指を自分の唇に当てて制止した。不思議そうな顔をするアベルにレナは小さく首を横に振る。
「?」
アベルはテントから漏れてくる小さな嗚咽を耳に捉えると、一瞬驚いてレナを見る。レナがゆっくりと頷くと、アベルは自分なりにその出来事を模索して納得したように頷いた。
「おおアベルッ。いやあ、大勝だったな。ルーシ参謀の作戦は実に的中する。俺もその報告に・・・」
大笑しながら駆けつけて来たカインの頭をぽかりと殴りつけるアベル。
「い、痛てえっ。な、何すんだアベ・・・」
憤然とアベルの胸ぐらを掴むカインに、アベルは小さく首を横に振る。
「??」
カインもまた、テントの中から漏れてくる嗚咽に事情を察知し、手を下ろす。そして、続々とテントに駆けつけてくる勝利の勇将たち。皆、連鎖式に様子を伝えて行き、歓喜が静まる。
「みんな・・・話がある」
ゆっくりとマルスが現れ、寂しそうにそう言うと、諸将の視線が一斉にマルスに向けられた。
誰もいなくなったテントで、涙涸れたミネルバが、なおも優しい微笑みを浮かべて眠りつづける知将ルーシの顔を見つめつづけていた。
『親父の落胤・・・異母弟・・・』『このまま愛し合えば、必ずどちらかに天の制裁が下るぞ・・・背徳の徒としてな・・・』
ふと気がつくと、ミシェイルの言葉が強く脳裏を過ぎる。
「ルーディ・・・。私は・・・どうすればいいのだ・・・。あなたは本当に・・・父の子なのか・・・。私は・・・私は・・・犯してはならない罪を・・・あなたにまで被らせてしまったのか」
ルーシは何も答えず、眠りつづける。
「あなたがこの様になってしまったことが天の制裁ならば・・・私はあなたを諦める・・・。この命引き替えにしても構わない・・・だから・・・だからどうか天よっ!ルーディを・・・・・・私の愛しい人をお救い下さい・・・」
天は答えたか、稲妻が空気を切り裂き、幽谷に延々と反響する。
「ルーディ・・・私は・・・私は・・・」
言葉つづかず、飛びだそうとして立ち上がりかけたとき、彼女の手を冷たい感触が包んだ。
「はっ・・・ルー・・・ディ・・・」
思わず振り返るミネルバ。そして、うっすらと瞼を開いたルーシと視線が重なり合う。
「ミネルバ・・・・・」
弱々しく名を呼ぶルーシ。ミネルバは無意識のうちに自分の手をつかむルーシの右手を強く握り返していた。
「ルーシ・・・・・・気がついたか・・・良かった・・・」
涸れたはずの涙が再びあふれ出してくる。ルーシがそっと微笑み、軽く右腕を引く。するとミネルバの身体がいとも簡単にルーシの上に倒れかかる。ルーシが腕を這わせながら胸に重なる彼女の濡れた紅毛を優しく包み、ゆっくりと、何度も優しく撫でる。ミネルバがそれに応えるかのように、顔を毛布越しに胸に擦りつける。
「生きている・・・あなたの・・・胸の鼓動が・・・はっきりと聴こえてくる・・・」
「身体が・・・冷たい」
ルーシがミネルバの背中を包みながらそう囁いた。
「ミシェイル王のことが・・・辛かったのですか・・・」
ミネルバはただ一心にルーシの鼓動を確かめている。今までの悲愴な出来事も、兄の死も、そして兄の口から出た話よりも、この瞬間が、それだけが何よりも嬉しい。
「私が――――ミネルバ・・・たとえどのような事が起ころうとも、私は・・・必ず・・・あなたをお守りいたします・・・」
ミネルバの姿を見て、自然と口から出た言葉。それが、兄を討ったという悲劇を目の当たりにしたばかりの彼女の心を慰撫する本心なのか、それとも、彼女が聞いた虚実に対する、無意識なる否定なのか。いずれにしても、彼女に対する激しい愛しさが、まだ朦朧としている意識に注がれ、赤い竜騎士と呼ばれた彼女の本当の姿を見る。そして、より一層強く、その細い身体を抱きしめていた。雨が瀟々と、山野の陣に降り注ぐ・・・。