最終章 夏の日

とある暗闇の一室。二つの人影が対峙していた。天窓から射し込む光でさえ、その二人の姿を映すまで明るくない。
「そなたを裏切るとはな・・・・・・人間というものはその様なものよ」
 ひどく嗄れた老人の声。かたやもう一つの影は身じろぎ一つしない。
「・・・この世は歪んでいる・・・新しくせねばならぬ・・・」
 そう言いながら、声の主は胸元から茫然と暗灰の光を放つ球体を取り出した。
「・・・これを使えば、そなたの手で新たな世が作り出せようぞ・・・」
 口許に嗤いを浮かべているのか。声の主の歯が光にきらりと光った。
「・・・・・・」
 そして、無言の影は吸い寄せられるように、声の主が持つ球体を自分に引き寄せた・・・。

「よし。では今日はここから取りかかりましょうか」
 その日も晴れ渡っていた。荒廃した国土も人民の心が癒されて行くに連れて、徐々に復活を成して行く。今日もまた、夏を感じる陽射しを受けながら、笑顔の民らと共に家屋の設計に携わる、一人の青年の姿があった。
 時に六〇七年、初夏――――
 思えば、五年の長きにわたり大陸を戦乱に巻き込んだ暗黒戦争は、アリティアの王子マルス率いるアカネイア連合解放軍の勝利で、その幕は閉じた。暗黒司祭ガーネフが薨れ、世界を暗黒に覆い尽さんと野望に燃えた暗黒竜メディウスは、マルス手にする英雄アンリ伝承の光の剣・ファルシオンの天鎚によって潰えた。
 英雄・勇者達はそれぞれの胸に秘めた想いと、統一した宿願を果たし、それぞれの故郷に帰っていった。
 マルスはアリティアの復興に力を尽くし、その一方でタリス王女シーダとの婚礼の話が進み、アベルは軍を退いて城下にエストと共に幸福な生活を始めているという。
 マリクはカダインに帰し、オグマはタリスを発ち、ナバールは風の如く去り、カシムは金欠直らず再び出稼ぎへ。
 聖弓士ジョルジュ、ミディア、アストリアらアカネイア宮廷騎士団員は、祝福の中で結婚した皇統ニーナ王女と、ハーディン大公殿下によって、それぞれ高地位に昇格。軍役を退く者、勇名を慕いて新たに志願する者。アカネイア大陸の前途は明るい。そして・・・
「わっ!」
「うわあっ!」
 不意に背中から声を上げられた青年が吃驚して跳び上がる。それを見ていた民達が笑いを怺えて青年の無様な顔を見ている。焦りと怒りが混じる表情で、青年は驚かした声の主を睨む。
「カ、カチュア・・・・・・何だよ、驚かすな」
 がくりと肩を垂れて嘆息する青年。カチュアはふっふっふと声を出して笑い、青年の前に立つ。
「ルーシ君、相変わらず隙だらけね」
「あのな・・・」
 爽やかな笑顔をたたえるカチュアを下がり目で見るルーシ。
「ルーシ」
 そこへ、カチュアの後ろから二人の青年が腕を振りながらゆっくりと近づいてくる。
「ペトゥス、ニッケル。いいところへ来てくれた。君たちも手伝ってくれ」
 ルーシの言葉にペトゥスとニッケルがニヤリとしながらルーシの両脇を通り過ぎ、後ろからルーシの背中を叩くように押す。危うく前に転倒しそうになり、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おいおい、みんなして何だよっ。私に恨みでもあんのか?」
「ミネルバ様がお呼びだよ。城門修復の現場にいる。ここは任せて、早く行ってやれ」
 ペトゥスが笑いながらそう告げる。
「頼みましたよ、《現》国土復興指令官、《元》参謀殿」
 揶揄するようにニッケルが言う。
「全く、普通に名前で呼んでくれ・・・。んーじゃあ今日は昨日の指示通りに。今日中には完成するようだからな、頼んだよ」
 念を押すような言い方にカチュアがため息をついて答える。
「はいはい。あんまり根をつめると、また過労で倒れちゃうわよ」
 その言葉にルーシは笑っていた。
 そう――――あれは二年前。ルーシは解放軍の盟主であったマルス王子の三顧の礼を承けて隠遁生活から一転、戦場へとその身を投じた。
 ルーシの立てた計略は冴え渡り、次々と敵を翻弄し、撃破していった。マルスを始め、諸将達は彼の謀才を頼りにし、彼は連夜寝る間もなく計略と作戦を練り、その一方で当時未開の地であったドルーア帝国の地図を作り続けていた。
 そして、ここマケドニアでの決戦の前に彼はその激務が元で倒れたのだ。内臓が衰弱し、生命の危険に曝されていた。
「おお、ルーシ。待ちかねていたぞ」
 瓦礫となっていたマケドニアの街を守る城門の前にいた赤い髪の女性が、ルーシの顔を見て笑顔を見せる。
「ごめんミネルバ。・・・して、今日はどこまで・・・」
 マケドニア王女ミネルバ――――。かつては赤い竜騎士と呼ばれて大陸にその名を轟かせていた女傑。女性ながらにして剛毅木訥。そのカリスマ性はマルスやハーディンにも劣らないと言われた。父王を兄ミシェイルの謀反によって喪い、愛する妹マリアと引き離され、心ならずもその兄に従った哀しい王女も、ルーシという心の支えに出逢い、一女性としての幸福をようやく掴んだのだ。彼がマケドニアの戦陣で病臥に伏したとき、彼女は戦陣を離れても彼の側にいようとした。だが、ルーシはそれを断った。
『あなたの真の仇敵は暗黒司祭ガーネフと暗黒竜メディウス。ミシェイル王を誑かした彼らを、あなたの手で討つのです。私のことよりも、悲願を果たされよ。今を逃せば、後で必ず悔やむ。そして私も、あなたを守りきることが出来ない』
 ミシェイルから、ルーシが異母弟であるという話を聞き、ミネルバは戦争終結後もしばらく悩みの渦に取り込まれていた。だが、病が回復し、それを機に《ルーディ》という本名を捨てたルーシが、彼女にこういった。
『過去を顧みることは明日への光。過去を悔いつづけるは明日への闇。どのような過去があれ、それで現在が良ければ、それでいいではありませんか』
 彼は自分の出生の噂を知らない。ミネルバはルーシと再会したとき、その話を打ち明けようと決意していた。だが、ルーシの言葉を聞き、彼女は改心した。そう、たとえ彼が異母弟だろうとなかろうと、そんなことはもうどうでもよいのだ。現在、自分はルーシといることが幸福だ。確証もない過去の、愛するルーシの出生などの話を持ち出して、現在のこの幸福を壊すことは大愚だ。ルーシが側にいる。それだけで、至福を感じる。彼と、そして仲間達と復興へ向けて明日に向かえる。ミネルバの心に、今は一点の曇りもなかった。設計図と現場を交互に見回し、指を動かすルーシを愛しそうに見つめながら、ミネルバはそう思っていた。
「・・・バ・・・ミネルバ? どうしましたか?」
 気がつけば、ルーシがきょとんとして自分の瞳を見つめている。
「あ、ああ。そうすることにしよう」
 頬をうっすらと染めてミネルバが言った。
「では早速、取りかからせましょう」
 ルーシが作業を続けている民に設計図を渡し、説明を終えると、再びミネルバの前に歩み寄る。
「ここも今日中には何とかかたがつきそうです」
「そ、そうか」
「そうだっ、いいことを思いつきました」
 突然、ルーシが手を打って声を上げた。驚くミネルバ、嬉々としてミネルバを見るルーシ。
「明日、明後日は休みだから・・・どこかに行きませんか?」
「えっ?」
 突拍子もない言葉に一瞬唖然となるミネルバ。
「ここから半日ほど南に歩いたところに湖がありますよね。そこで景色や星を見ながら語り合いましょう、泊まりがけで」
「と・・・泊まりがけで?」
 途端に顔を真っ赤にするミネルバ。心臓が急激に高鳴る。
「ええ、楽しいですよ、きっと」
 屈託のない笑顔を見せるルーシに、破裂しそうなほど脈動が昂揚しているミネルバが、弱々しく言った。
「・・・ふ・・・ふたりで行くのか・・・」
「は?」
「わ・・・私は・・・・・・その・・・か・・・かまわんが・・・」
 その瞬間、ルーシもまた見る見る顔が赤くなって行く。
「あっ、あの・・・その・・・ご、ごめん・・・言い忘れてた。ええと・・・マリア姫や、パオラやカチュア、マチスとレナ、ジュリアンにペトゥスやニッケルも・・・です」
 完全に間が悪すぎた。二人とも真っ赤になって俯き、言葉が出なくなってしまった。

 翌朝もまた澄み切った快晴に包まれた。暗黒戦争で共に戦ったマケドニアの仲間が、一同に会したのは、あのグラでの休戦以来――――。平和な世では初めてだ。
「それにしてもルーシ君が誘ってくるなんてね、大地震が起こらなきゃいいけど」
 カチュアがそう言って笑う。
「勉強ばかり考えている訳じゃないのね。ちょっと安心したわ」
 と、パオラ。
「ホントはお姉さまと二人で来たかったのよね、ルーシ」
 マリアがくすくすと笑う。その言葉にミネルバが顔を赤くする。
「マリアッ・・・変なこと言うな・・・全く・・・」
「うーん・・・お二人のために一曲弾きましょうか?」
 弦楽器を肩にぶら下げたマチスが言う。意外にも彼は清談・音曲に精通し、その才能は大陸随一とまで言われている。
「後にして、兄さん」
「マチスさん、夜にでもお願いしますよ」
 レナとジュリアンのため息集中攻撃。
「どーでもいいが、そろそろ行こうか」
 ルーシが先に立って歩き始める。飛竜やペガサス、馬などを使えばあっという間だ。だが、今はその様なものなど必要ない。笑い合いながら歩いて行くことに意味があるのだ。
 マケドニアの街から南に半日ほど歩いたところにあるフェール湖。さほど大きな湖ではなく、あまり有名ではないが、マケドニア随一の風光明媚な場所として、密かに人気がある。なだらかな坂道を超え、小高い丘陵からその美観を見下ろす。人影が見あたらない。
「へえ、人がいないな・・・珍しい」
 ルーシの呟きにカチュアが返す。
「ルーシ君、まだシーズン前よ」
「ああ、そうだった」
 苦笑いを浮かべるルーシ。初夏とはいえ、この地はまだ寒いほどである。昼夜は毛皮がなくせては過ごせず、晴れた日の昼でも厚着がないと震えが止まらないだろう。
「やっぱり、ここじゃない方が良かったかな?」
 そう呟くルーシに、ミネルバが微笑む。
「いや、静かな方が心休まる」
「お姉さまっ! 早く行きましょう」
 その景観に感激し、姉の腕を掴んではしゃぎ廻るマリア。そんな妹に連れられるように、赤毛の姉妹が先陣を切って湖畔へと駆けて行く。ルーシたちも笑い合いながらゆっくりとその後をつづいた。
 フェール湖畔は初夏の木々の緑が、陽光の中で輝いていた。
 涼しいが、穏やかな風に水面が宝石のように光の玉を鏤め、鳥の声が言いようのない落ち着きを与えてくれる。まさに別世界。
 暗黒戦争で受けた祖国の爪痕、心の傷痕、未だ立ち直るに時間がかかるこの時期、この様な景色を見せつけられると、否応にも張りつめている心が解放されて行く。
 ようやく終わった悲劇の戦争。あのような哀しみは、もう二度とあってはならない。終戦後も、みんなひたむきにそれだけを願い続けてきた。真の"平和"――――"心の終戦"は、まだまだ先になりそうだ。
 今日は休日――――みんなの心の休戦日。ルーシも何も考えないで、皆と心から打ち解けられる。それは彼にとって、多分生まれて初めてのことかも知れない。
 なまじ神童とされ、マケドニア城に傅役として出仕したのは五歳。ミネルバ王女と遊んだ短い時間、城を追われ、蛍雪を重ね、志学で《稀世の謀士》などともてはやされつづけ、心休まる日はなかった。思えば今まで、心からの笑顔なんて見せたことがあっただろうか。
「さあ、どうぞ」
 レナがおもむろに開いた数々の弁当箱。色とりどりの美味そうな食材が詰められている。
「うわあ、美味しそう!」
 マリアの声が思わず裏返る。
「さすがレナさんね。お料理がとっても上手だわ」
 とパオラも微笑む。
「へえ、肉があるなんて珍しいよ・・・」
 菜食料理が姿を出すのではないかと恐怖していたジュリアンが思わず感嘆する。だが・・・
「ジュリアン。あなたはこっち」
 と、とびきり豪華な弁当箱をジュリアンに差し出すレナ。ジュリアンがそれを開くと、途端に固まる。
「山菜と海産物、それと畑の野菜をたくさん使ったお弁当よ。あなたは野菜不足だから、いっぱい採らないとね」
 がくりと肩を落とすジュリアンを見て皆が一斉に笑う。
「ジュリアン。愛妻弁当は世界一美味いぞ。残すなよ」
 マチスがジュリアンの肩をぽんぽんと叩く。
「好きな人のために特別にお弁当作る事が出来るなんて、羨ましいなあ」
 と、カチュアがため息をつく。
「もう・・・皆さんいい加減にして下さい・・・」
 顔を真っ赤にして俯いてしまうレナ。
「ずっと歩きっぱなしで鼻の虫が鳴いている。そろそろ食べないか」
 ミネルバの言葉を皮切りに、皆が一斉にサンドウィッチに手をかけ、口に放り込む。よほど美味いのか、みんな忙しないほどに次々と呑み込み、あっと言う間にレナの弁当は空になってしまった。ジュリアンは無言のまま黙々と食べていた。

「ルーシ君、魚釣りに行きませんか」
「ええ」
 竹竿を肩に担いだマチスに誘われて、ルーシは水辺へと行く。ニッケルとペトゥスは野営の準備。
「いい天気ですねえ。眠くなってきそうですよ」
 釣り竿を垂らしたマチスがそう言って小さく欠伸をする。
「復興が終わったら、マチスさんはどうするのです?」
「んー・・・そうですね。多分、レナと共にのんきに詩でも唄いながら暮らして行きますよ」
 ルーシの問いかけにそう答えて微笑むマチス。彼は気儘な生活をしている言われているが、ルーシにとって、彼の生活はまさに理想だった。出来うることならば、自分もミネルバと共に何処かに居を構えて気ままに暮らしたいと、心の底で思っている。だが、それは叶うはずもない。水辺にて釣り竿を垂らしながら、ルーシはマチスと清談を交わす。
「釣れた?」
 そこへカチュアが微笑みながらやってきて魚籠を覗き込んだ。
「へえ、結構やるわね」
 感心したように二人の釣り人を見回すカチュア。ルーシが魚籠を覗き込むと、十匹ほどの魚が犇めいている。
「ん? ・・・いつの間にこんなに・・・すごいですねマチスさん」
「私こんなに釣りましたっけ?」
 相変わらずの二人である。カチュアは、はあとため息をつくと、言った。
「このくらい獲ったならもういいんじゃない?そろそろ夕食の準備しないと」
「もう、そんな時間か?」
 ルーシが不思議そうに空を見る。晴れわたった空、太陽はまだ山裾にかかるほど落ちていない。
「夏は日が長いのっ。ルーシ君が一番良く知っているくせに」
「そう言えば、何かお腹が空きましたね。そろそろ戻りましょうか」
「そうですね」
 何ともゆったりとした雰囲気に包まれている水辺。竿を肩に担ぎ、魚籠をぶら下げて、ルーシとマチスは清談の続きをしながら野営へと戻る。カチュアが苦笑いを浮かべながら、彼らの後をついていった。
黄昏の空が夜の帳に包まれて行く。キャンプ・ファイアーというには、あまりにも規模が小さい。夕刻近くになり、気温も下がってきた。厚着はしているが、やはり風は冷たい。だが、そんなことはこの楽しさに比べればどうって事はない。ルーシとマチスが釣ってきた魚を木の枝に刺し、火にあぶる。そしてパンと酒だけ。決して本格的ではない、むしろ簡単すぎるほどだが、何よりのご馳走。千金をはたいて並べられた山海珍味の食卓などよりも何倍も美味い。
 皆、焼きたての魚を腹から囓り、酒を含み、パンを食しながら談笑する。若き者の特権、平和な時勢にあって、厳しい戦いを重ねてきた戦友の絆は、まさに金襴の交わりと言うに相応しい。
ほろ酔い状態で、互いの会話と笑い声が徐々に大きくなって行く。やがて、ルーシが身を正して口を開いた。
「みんな・・・ありがとう」
 突然の言葉に、呆気に取られる場。
「私は、みんなに感謝している」
「おいおいルーシ。何だよいきなり」
 お猪口を摘んだペトゥスがルーシの肩に手を回す。ふっと微笑みながらその手を軽く叩くルーシ。皆、ルーシに注目する。
「過去を悔いることは明日への道を閉ざす。しかし、省みることは明日を開く。私は少なくてもそう思っている。・・・私は愚才ながらも五歳で宮廷に仕え、十五で王立学校に入学し、謀士の道を志し、そして、その年で隠遁と言う日々を過ごした。今から思えば悔いはないが、この様な楽しきひとときを楽しむほどの余裕は一日たりとてなかった。・・・そして、解放軍盟主マルス王子の三顧の恩に報いるべく出廬し、この身をマルス王子に捧げることに決めた。・・・私は私心を忘れ、王子のため、解放軍のために身を捨て行くと誓った。しかし、それによって私は大切な物を見失うことになると言うことを気がつかなかった。いや、無理に忘れようとしていたのかも知れない。自ら余裕を捨て、狂気なほどに忠を尽くし、結果、私は身に降りかかる病に倒れた」
 ルーシは優しげな眼差しを皆に向け、特にカチュアとミネルバに視線を止める。
「・・・ミネルバ、そしてカチュアに再会するまで・・・もしかすると、病に倒れるまで、私は大切な物をなくしていたのかも知れない。・・・人を想う心・・・愛する心・・・仲間達と心の底から信頼し、笑い合う心・・・。私は、こんなに素晴らしい親友に恵まれながら、その三つの心を失くし、いたずらに時を重ねてきた。よもや二十三にもなるこの日に、生まれて初めてこんな素晴らしい休日を過ごせようとは・・・。みんなに対して、感謝の言葉すら思いつかない・・・」
 時折感涙に言葉を詰まらせながら、ルーシは語った。皆、穏やかな眼差しをルーシに注いでいる。そして、パオラが口を開く。
「ルーシ君、感謝するのは私たちの方よ。もしもあなたがいなかったら、今日こうしてみんなが集まることが出来なかったかも知れない」
 レナも微笑みながら言った。
「私もそう思います。それに、ルーシ様の懸命なお姿を見て、私も大切なことを学びました」
「人を信じるって事。上辺だけじゃなくて、心の底からってこと。ルーシさんを見て、俺は強くそう思い知らされたよ」
 と、ジュリアン。
「お前は頭だけじゃなくて、心も優秀だな。本当に、お前と友になれて良かったよ」
「ドルーアに監視されていなかったら、俺も解放軍に馳せ参じていた。全く、それだけが口惜しいな」
 ペトゥスとニッケルがそう言って苦笑いする。
「ガーネフと戦うときからかな・・・みんな今まで以上に団結して、リンダさんあっと言う間にガーネフやっつけちゃったの。もう、ルーシが休んでいる間にみんな人が変わったように強くなって・・・」
 マリアが嬉々と言う。
「ドルーア帝国を容易に攻めることが出来たのはルーシ君のおかげだと、みんな感謝の言葉が絶えなかった。・・・それと同時に、ルーシ君に頼りきりだったことへの慚愧に堪えない声も・・・」
 マチスがゆっくりと弦楽器を胸に提げ直す。
「ルーシ。あなたは大切なこと、忘れてなんかいない」
 ミネルバが声を上げる。人差し指で目尻を擦ったルーシが彼女を見る。
「皆の言う通りだ。ルーシ、皆も、私も、あの戦いであなたには数え切れないほどの事を教えられた。・・・三つの心、欠けていたのは私たちの方だったと思う」
 そこへカチュア。
「その通りですわミネルバ様。考えてみれば、あの時の私たちは、目の前の事にとらわれすぎて、心の余裕なんてなかった。ルーシ君はそんな私たちに気を遣って、休戦を誂え、自分は寝る間もなく働きつづけていた。私たちに、あなたの言う三つの心、思い出させるために。・・・ルーシ君、あなたがそんな大切なこと忘れてしまったとすると、休戦なんて、思いつかなかったはずでしょ?」
 果たして、カチュアの言うとおりなのであろうか。ルーシは回顧する。
 幼い頃のミネルバ王女との別離、王立学校への入学、停学、国王暗殺、隠遁、出廬、謀士としての解放軍随従。ルーシは本当に心休まるときはなかった。三つの心なんて、多忙な毎日の生活の中、当の昔に忘却の彼方に消えていた。そう思っていたはずだった。しかし、それは自分が気付かなかっただけなのだろうか。孤独な日々がつづいた生来、それゆえに人を想い、愛し、佳き親友と心から笑い合いたいという希望が一段と強く、その心は無意識のうちに周囲に広がっていったのか。
「本当に、大切なこと・・・」
 考え込むようにそう呟くルーシ。カチュアは言う。
「ルーシ君、何も考える必要なんか無いじゃない。簡単でしょ? 本当に大切な事って。三つの心より、答えは単純だと思う」
 思わずカチュアを見つめるルーシ。彼女は小さく微笑んでから言った。
「多分・・・、一人の人を愛する・・・・・・ってことじゃ、ないかしら」
 その言葉を聞いた瞬間、ルーシは天の啓示を受けたようにはっとなった。そうだ、それなのだ。難しい理屈も、気の利いた台詞もいらない。答えはカチュアの言うようにあまりにも単純で、奥の深いものだった。
(一人の人を愛する気持ち・・・)
 そう心の中で繰り返し、ルーシはミネルバを見る。彼女は真っ直ぐに、そして切なげにルーシを見つめている。
「そうか。カチュア、君の言うとおりかも知れない。何も深く考えることなんか、ないんだ」
 一人の人を愛する心、それが何よりも大切なこと。ルーシにとって、ミネルバという存在はかけがえのないものだ。彼女を護り、支えてゆくという心。それだけは忘れなかった。その想いは彼女だけじゃなく、仲間達への想いへと繋がっていった。そう、ルーシはいつでも、ひとりじゃなかったのだ。
「また来ようよルーシ。これからいつでも来たいときに来れるわ」
 マリアが微笑む。
「今度はエストも誘ってね」
 と、パオラ。
「出来れば他の仲間達みんな集まって、盛大に行いたいですね」
 レナの呟きにジュリアンが答える。
「不可能じゃないさ。その時はリカードの奴は俺が連れてくるから」
 微笑み合う恋人たち。ルーシは毅然と、力強く言った。
「私は、これからも、みんなのことを護って行く。このマケドニアの、真の平和のために・・・。みんなも、民も、僕が護ってみせる。どんなことがあってもね」
「さあさあルーシ。まずは呑もうぜ」
 ペトゥスがルーシにお猪口を突きだし、水筒の酒を並々にそそぎ込む。ルーシは微笑みながらそれを一気に呷る。わき上がる歓声。
「えー・・・それでは僭越ながら、ここで一曲弾かせていただきます・・・」
 マチスが弦楽器を軽く弾く。ポロン・・・と、しっとりとした音色が皆の耳を捉える。そして今度はマチスへと視線が移る。
「・・・夕やみに・・・向かいながら・・・ひとり涙を流していた・・・」
 うら哀しい音色に、マチスの通る声が湖畔へと流れて行く。焚き火がはじける音、風の音、マチスの歌声が非常に良く合う雰囲気だ。酒を口に運ぶ手が止まり、いつしか皆は瞳を閉じて方を揺らしながら、聴き入っていた。

 

マケドニア城・内務官長執務室

 

「リュッケ内務卿」
 その声にマケドニア内務卿リュッケが赤く腫れらかした眼を向ける。
「ん・・・貴殿は?」
 黒衣、白い髭の壮年の男は口許に嗤いを浮かべて、無造作にリュッケの机の上に書簡を投げる。
「・・・・・・」
 リュッケは不思議そうな面もちでその書簡を開いた。読み終えたその瞬間、顔色が変わる。
「こ、これは・・・アカ・・・」
 言葉を止める黒衣の男。
「内務卿、そなたはこの国の行く末をどう考えておる」
「は、はあ・・・」
 焦燥の面もちで問いに答えられないリュッケ。
「この国の者どもは皆、あの者の言うなりになり、誰一人とて反対する者はおらぬようだな」
「そ、その様なことは・・・」
「果たしてそうかな?・・・そなたは内務卿として、オズモンド国王の代より仕えてきた元勲。それが、今はあの新参者に発言さえ出来ぬほどまで気弱になりおったのか」
「・・・・・・」
 沈黙するリュッケ。
「そなたほどの才ある者の意見を採り入れず、己が意志のみで国を運営しようとしておる。このままではマケドニアの行く末も見切ったわ」
「し、しかし・・・これは・・・」
 リュッケに言葉を言わせない黒衣の男。
「マケドニアのためだと思え内務卿。このまま国を誤らせるか、その書簡通りに事を運び、国を維持するか・・・。事がなればそなたの地位は保証できようぞ・・・」
「・・・・・・」
しばらく考え込んでいたリュッケ。その心に、眠っていた野望が沸々としてくる。
「そなたの選択肢は一つしかない。朗報を期待しておるぞ・・・」
 黒衣の男の、最後の一言に、リュッケは意を決したように顔を上げた。
「わかりました、ラング将軍・・・」

 翌日昼下がりに、ルーシ達は湖畔を発った。フェール湖を背に、なだらかな坂道をルーシは一番後ろを歩いていた。その前を歩くミネルバとパオラの談笑に微笑みを送りながら。そして、そのルーシの隣にカチュアが並ぶ。
「ねえ、ルーシ君?」
「ん?」
 微笑みをカチュアに向けるルーシ。
「聞かないのね」
「何を?」
「私の好きな人のこと」
「どうして?」
「少しは気になんないのかなー・・・なんて」
「はははは。当てて見せようか」
「知ってるの?」
「言おうか?」
 しばらく唸ってから寂しげに小さく首を横に振るカチュア。
「言わなくてもいい。言っても、叶うはずないもん」
「どうして、そう思う?」
「だって・・・・・・」
「諦めることはないさ。相手を振り向かせるって、努力しなよ。それが君らしいよ」
 その言葉に一瞬、戸惑った感じのカチュアだったが、途端に小さく吹き出す。
「ごめんなさい。あなたからそんな言葉聞くなんて、思ってもみなかったから」
「そうかな・・・」
「あーあ」
 両腕を掲げて長嘆するカチュア。
「あなたのこと、ずっと好きでいられれば良かったな。そうすればこんなに悩む事なんてなかったのに」
 突然の科白にわずかだけ顔が赤くなるルーシ。
「と、とにかく諦めるな。これからはいくらだって好機はある。でも、行動するなら早めがいいぞ」
「何か、いい『策』はある?」
 冗談まじりに訊ねるカチュア。ルーシもまた、冗談まじりで答える。
「んー・・・再び戦争が起きて、また仲間達が一同に会すこと。そうすればもう、君の天下だ。戦争を起こしてみるか?」
「もう・・・悪い冗談はよして。要は、無理って事でしょ?」
「そうじゃなかったら、今すぐアリティアに行って、復興の手伝いをする事かな?」
「からかわないでよ。こう見えても、結構真剣なんだからね」
 小さく拗ねるカチュアに、ルーシは優しく答えた。
「よくわかんないけど、自分の気持ちを隠すことなんて、出来ないんじゃないかな。人を愛することって、大切だって言ったじゃないか。・・・君が本当に好きなら、奪うような気勢でかかっていきなよ。絶対に、後悔しないようにね」
「奪う・・・ような気持ち・・・」
「悪い意味じゃないよ。相手が君に振り向いてくれるように、ぶつかって行けばいい」
「・・・・・・」
 しばらくルーシの横顔を見ていたカチュアが爽やかに笑う。
「そうね。あなたの言うとおりかも知れない」
 そしてわずかな沈黙の後、不意にルーシが照れくさそうにほくそ笑んだ。
「・・・ちょっと気障だった?」
「うん、かなり」
 二人が見合い、大笑する。前を歩いていたミネルバとパオラが不思議そうに振り返る。
「ん、どうした?」
「どうしたの? 二人とも」
 カチュアが小さく駆け、ミネルバとパオラの間に割り込む。
「だって、姉さん。姉さんも諦めちゃダメよ」
「え・・・何のこと?」
 そしてルーシはまた一人、ゆっくりと空を見つめながら歩いてゆく。後少し、もうすぐ国の復興は果たせる。そして私は・・・・・・。
 小さく空に微笑んだルーシの表情に曇りはなかった。前途は揚々と明るい。

 

一週間後――――

 

 ルーシはその日の朝、休日にも関わらずにマケドニア城に登城した。その顔は珍しく怒気に満ちている。眉をひそめ、唇を突きだして、つかつかと内務官執務室に向かった。
「内務卿」
 ルーシが軽く拝礼し、大股でリュッケ内務卿の机の前に立つ。例によってリュッケは今日も徹夜明けだったらしい。
「ルーシどの。いかがされましたか、そんなに慌てて」
いささか驚いたような表情のリュッケ。心なしか、顔色が青い感じがする。ルーシは懐から乱暴に羊皮紙を取り出すと、机の上にそれを広げた。どうやら国土復興の設計図のようである。
「先日王城に携わる民から言われて驚いています・・・。内務卿、あなたはここに、城壁を以前より二十段高くすると書かれていますが、この方法は計画にはないことです。即中止にして下さい」
「な・・・なぜか」
「平穏な世に城壁を高くして何の意味がありましょう。その様な費用も、人員もこの国にはありません・・・・・・それに、今は万民の暮らしを第一に考えるべき時。王城の復興は最後にして下さい」
「・・・・・・」
項垂れ、じっと目を閉じているリュッケ。その肩がわずかながら震えている。
「ともかく、この様な計画を独断で行われては迷惑です。ミネルバ王女と諮り、これは一旦、凍結いたします。・・・では」
 それだけ言い終えると、ルーシはきびすを返して執務室を退出していった。
「・・・・・・」
 しばらく項垂れていたリュッケだったが、次第に身体の痙攣が増し、今書きかけていた報告書の便箋を握り潰す。そして、震えのために声にならない言葉を呟きながら、どんと机を叩くと、握りつぶした便箋を扉の方へ放り投げた。
「ルーシ・・・」
 執務室を出たところに、ミネルバが立っていた。
「ああ、ミネルバ・・・」
 抱擁を交わし、頬を合わせる。
「どうしたのだ、この様な朝早くに・・・」
「ええ、内務卿にお話がありまして・・・これから一旦、退出するところです」
「そうか・・・でもルーシ、あまり根をつめるな。復興はもうすぐ終わる。だから・・・」
ルーシが胸に顔を埋めたミネルバの赤い髪を優しく撫でながら囁く。
「大丈夫。根をつめてなんかいない。ちょっと用事を伝えに来ただけだから」
「・・・・・・」
 ミネルバがルーシを見上げる。身体の小さな振動がルーシの腕にはっきりと伝わる。どこか怯えたような表情のミネルバ、変わらない優しい微笑みをたたえるルーシ。
「どうした・・・?」
ルーシがそっと彼女の額に指を当てる。
「ん・・・何か・・・悪い予感がするのだ」
「悪い予感・・・なぜです?」
「思い過ごしかも知れない・・・・・・でも、何となくルーシ、あなたが私の手の届かない、遠くに行ってしまうような、そんな気がして・・・」
 その言葉にルーシが小さく笑う。そして、再び彼女を強く抱きしめる。
「私はどこにも行かない。ずっと・・・ずっとあなたを護り通して行く」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 短く長い沈黙が二人を包む。やがてどちらともなく見つめ合う。そして、ゆっくりと二人の唇が重なる。数秒ほどの至福な時間。離れてもしばらく互いの瞳が開かない。
「約束・・・してくれるな」
 か細い声でミネルバが言った。
「永遠に・・・」
 と、返すルーシ。それから二人は、しばらく時を忘れたかのように離れることがなかった。互いに愛おしく、いつまでも、いつまでも・・・。

 王城そばにあるルーシの邸宅に、ペトゥス、ニッケルが遊びに来ていた。
「噂に聞いただけなんだが、グルニアが反乱を起こして、アリティアのマルス王子に追討されたそうだ」
 ニッケルの思わぬ言葉に一瞬静まり返る。だが、ルーシは綽々として言う。
「ドルーアを滅ぼして二年しか経っていない。新生アカネイア王国に反感を抱くドルーア恩顧の者たちが暴発したのだろう。グルニアはカミュ大将軍を失い、統制が利かないゆえ、ハーディン王は刎頸の友マルス王子に出征を依頼したのだ。大丈夫、王子ならばすぐに鎮圧できるはずだ」
そして、ルーシが知らない学生時代の思い出や、彼らの身の上話などという、たあいもなく、それでいて奥の深く尽きない話題を交わしているうちに、日は暮れていった。
「はあ・・・もうこんな時間か。ルーシ、じゃあ俺達帰るわ」
 ペトゥスが立ち上がるに続いてニッケルも立ち上がる。
「また、明日な」
 ニッケルがにこりとしながら手を振り、玄関を出ていった。門外に彼らを見送ったルーシ、姿が見えなくなると、両手を大きく天に掲げ、息を吸ってみる。
 昼間の姦しさが嘘のようにしんとする。夏近く、春の名残の涼しさが、夕闇に微風を運ぶ。
 しばらくその新鮮な空気を味わっていたルーシに、前方から人影がゆっくりと近づいてきた。
「ルーシ様」
 男は宮廷の正装をしてルーシの前にゆっくりと跪く。
「ミネルバ様が、お呼びです」
 ゆっくりと、男はそう告げた。
「ミネルバ王女が・・・? はて、この時間に一体何の用なのだ」
 ルーシの怪訝そうな問いかけに、男は口調を変えずに答える。
「ルーシ様とお二人のみで、お話をされたいと言うことです・・・」
「今朝会ったばかりなのに・・・・・・まあいいか。・・・解った。すぐに参るゆえ、王女にそうお伝え願いたい」
「はっ・・・・」
 男は一度もルーシに顔を上げることなく、一礼するとゆっくりと引き返していった。
 今のルーシには、何の疑問もなかった。平和な日々がつづくと思い込んでいた。ミネルバが呼んでいる。使者の男の言葉を当たり前のように受け止めたルーシ。裾の長い正装に着替え、髪を正し、ルーシはゆっくりと邸宅を出、歩いて五分ほどにある王城へと向かった。

 その頃、郊外にあるパオラとカチュアの家に、ジュリアンが大慌てで駆け込んできた。息を切らしながら、ジュリアンは血相を変えて言った。
「パオラさん、カチュアさん・・・やべえことになった・・・」
「どうしたの、ジュリアン」
 パオラは相変わらず微笑んでいたが、カチュアはジュリアンのただならぬ様子に愕然となる。
「なに・・・どうしたの? 早く言って!」
 ジュリアンは必死で息を整えて、唾を飲み込んでから告げた。
「リカードの奴から手紙が来て思わず失神してしまいそうになった。・・・グルニアの反乱は、アカネイアの謀略で、マルス王子はハーディン王に計られたって・・・」
 その言葉に二人の息が一瞬止まる。
「それだけじゃない・・・アカネイアはここマケドニアにも計略を仕掛け、内務卿リュッケを抱き込んで反乱を起こさせようとしているらしい」
 唖然茫然とする二人。
「そんな・・・・・・そんなことって・・・・・・」
 訳が分からなくなるパオラ。
「・・・嘘でしょ? ・・・ジュリアン・・・あなた、リカードにからかわれてるんじゃ・・・」
 苦笑さえひきつるカチュア。だが、ジュリアンは悔しそうに項垂れ、しわくちゃになった書簡を放り投げる。咄嗟に拾い上げたその書簡の歪んだ文字を食い入るように何度も読み直した二人に、もはや疑い、揶揄することは出来なかった。決して起きてはならない事実が、切々と綴られている。手紙など得意じゃないリカードが、忍び込んだオルベルン城で聞いたことを必死になって書き上げたであろう文章。それだけで充分すぎるほどだった。そして、カチュアが目を見開いて突然声を上げた。
「ミネルバ様とルーシ君が危ないっ!」
 そう叫ぶやいなや、カチュアは猛然と家を飛び出していた。
「ジュリアンッ、私たちも急ぐのよっ!」
「はいっ!」

 ルーシは王城の正扉をくぐった。何事もないように、衛兵はいつものように丁重にルーシを迎える。
「お待ちいたしておりました。こちらです・・・」
 先ほどの使者の男が恭しく拝礼し、ルーシを導く。
「いやに静かだな・・・」
 何気なしに訊ねたその言葉に、一瞬男は眉を動かす。
「今日は休日ゆえ、皆早めに退出したのです。ミネルバ様のご意向で・・・」
「そうか・・・」
 何の疑いも持たないルーシ。男に先導されて階段を上る。衛兵が密かに正扉に鍵を掛けたことにも気がつかない。
かつ・・・かつ・・・
 二階の大きく長い廊下は静まり返り、ルーシと男の靴音だけが反響する。男は突き当たりにある部屋へ、ゆっくりと歩く。そして、その部屋の手前で男の足音が止まった。きびすを返し、ルーシを向く。
「ん・・・どうしました?」
 その瞬間、男はにやりと嗤い、さっと横に跳び退けた。
「!」
 はっとなったルーシが思わず振り返った瞬間だった。

 ひゅん――――――とすっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 空気を貫く音と共に、ルーシの胸に強い衝撃が走った。
「うっ・・・・・・」
 喉の奥から呻きが発する。見開かれた眼をゆっくりと落とすと、胸板に垂直に突き刺さる一本の棒。
「放てっ!」
 大声がルーシの前方の暗澹から響き、空気の唸りが次々にルーシに襲いかかってきた。
「ぐっ・・・・・・はっ・・・・・・」
 まるで傾き駆けたわら人形のような体勢のルーシに、次々と刺さってゆく弓矢。
「・・・・・・・・・」
 うめき声を上げ、瞬く間に血走る目で前方を睨視するルーシ。
「な・・・何者か・・・なぜ・・・なぜこの様なことを・・・」
 すると、前方からゆっくりと足音が近づき、一人の男が姿を現した。
「リュ・・・リュッケ内務卿・・・」
「ルーシ、貴殿には悪いが、死んでもらうぞ」
 どこかおどおどした感じの口調で、リュッケはルーシの前に立っていた。
「な、なぜだ・・・なぜあなたが私を」
「これも我がマケドニアのためとの、アカネイアの意向なのだ」
「な・・・何だと・・・」
 がくりと膝を落とすルーシ。
「貴殿はミネルバ王女を操り、国政を恣にしようとした。国害は早めに取り除かねばならぬ」
「ば・・・ばかな・・・その様なこと・・・」
「貴殿を除かねば、我が国はアカネイアに攻められる。その様なことあらば、貴殿とて悔いても悔やみ切れぬだろう」
 そう言いながらゆっくりと剣を抜いて行くリュッケ。ルーシはその時初めて、これがアカネイアの、そしてハーディンの計略だと察知した。マルスのグルニア遠征、全ては皇帝ハーディンの野望から始まった、世界支配の恐るべき奸計だと。
「愚かな・・・・・・むざむざ甘言に乗せられたか・・・・・・」
 リュッケは剣を振り上げる。
「死ぬ前に教えてやろう。これはアカネイアの意向だけではない。私は貴様を恨んでいたのだよ。新参者の若僧の分際で、先々代より国政を司る私を無視し、ミネルバ王女を籠絡した貴様をな。今朝貴様が私のところへ来た後にようやく決心がついた」
「道を誤ったな内務卿・・・・・・」
「ミネルバ王女は我が部下が捕らえ、地下牢に幽閉している。安心して死ぬがいい」
 ルーシは口の中にたまった血を吐き捨てると、薄ら笑いを浮かべ、力を振り絞ってリュッケに体当たりをした。
「何っ!」
 どうと倒れるリュッケ。ルーシは咄嗟に剣を奪い、突き刺さった矢を放り投げ、背後に飛び退いた。リュッケの腹心達が慌ててリュッケの側に駆け寄る。
「私のことよりも早く奴を殺せっ!」
 リュッケがそう叫んでいる間に、ルーシは突き当たりの部屋に飛び込んだ。そこはミネルバの部屋などではなかった。何もない、ただ石油灯だけが灯る空室。ベランダがある大窓を背に、ルーシは襲いかかろうとしている逆臣たちを睨み付けていた。
「な、何をしている、か、かかれっ!」
 まるで腰が抜けたように裏返る声で叫ぶリュッケ。剣や弓矢を構えた逆臣達が一斉に部屋へなだこもうとした。だが・・・
「逆賊、近寄るなっ!」
 威圧ある眼光と低い声に、逆臣達は思わず身じろぐ。そして、ルーシは剣で石油灯を薙ぎ払った。その瞬間、ルーシと逆臣を遮断するように床から炎の壁が一斉に立ち上がる。その黄色い照らされたルーシ、黒衣の正装は血の色混ざり紫になり、整えた白金の髪乱れ、白い顔にはおのが血を滴らせている。それでも静かな表情を浮かべ、うっすらと閉じた瞼をゆっくりと開く。
「お前達ごときにむざむざくれてやる首はない。・・・・・・命を賭けて仲間達を護ろうと誓った私の死に様をとくと見るがいいっ」
 ルーシは大窓を開けた。その瞬間、強い風が部屋にそそぎ込み、炎がドアを越えて逆臣たちを襲う。炎を浴びた逆臣たちの悲鳴が城内に響きわたる。

 城の一室から揺らぐ激しい光を見たカチュアとパオラが、愕然となってペガサスを猛然と駆った。そして、ベランダに立つ、偉容たる人影を見た途端、心臓が破裂しそうなほど強い衝撃を受けた。
「ル・・・・・・・・・ルーシッッ!」
「ルーシ君――――――――――――――!」
 二人の激しい悲鳴の叫びが、悲愴な夜を切り裂く。
 口許から一筋の赤い線を描いたルーシが、その声にゆっくりと振り向き、二人の姿を見て微笑みを浮かべる。

 い、いやあぁぁぁ―――――――――――――っっっ!

 まるで地獄絵でも見ているようだった。悪夢であった。カチュアの叫喚は天地を揺るがし、雷雲を呼び寄せるが如く、マケドニアの幽谷にこだまする。
「いや・・・いやだっ・・・ルーシ・・・ルーシ君っ!」
 カチュアは我を忘れてルーシの立つベランダにペガサスを駆ろうとした。だが、炎と熱風のため、いくらむち打ってもペガサスはそこから動かなかった。
「・・・このことを、マルス王子に伝えるのだカチュア・・・」
「ルーシ・・・だめ・・・だめ・・・いや―――――――――」
 泣き叫び、混乱するカチュアに、ルーシはかっと目を見開いて力の限り叫んだ。
「なにをしているっ! 早くマルス王子に伝えに行けっ!」
 我に返ったカチュア。ルーシは彼女と視線を交わすと、小さく頷いた。
「あっ・・・あぐっ・・・う・・・」
 カチュアは言葉を失した。あまりのことに気を失ったように茫然となる。
「アカネイアの野望に気がつかず・・・ミネルバ王女は捕らえられてしまった・・・私の不覚であった・・・・・・」
 ぎりぎりと唇を噛みしめるルーシ。
「パオラさん・・・すまない・・・みんなとの約束・・・破ってしまった・・・・・・」
「ルー・・・・・・シ・・・くん・・・」
 たまらずパオラも嗚咽する。もはやどうすることもできない状況に、二人は無力さをただ悔しがる。
「後のことは・・・・・・頼みます・・・・・・死しても・・・私はみんなのことを・・・」
 ルーシの言葉に、パオラは返答するかわりにペガサスのの背に突っ伏した。
「何をしていているっ、はや、早くかからんか!」
 逆臣リュッケのどうしようもない叫びが劫火を通して虚しく響く。
(夢の賢者よ――――あなたが言っていた『運命』とは――――このことだったのか――――。ならば我が命引き替えに――――願いを一つだけ叶えたまえ―――――せめて――――せめてミネルバだけは――――この先不幸に遭わすことなきよう――――)
 ルーシはゆっくりとリュッケから奪った剣を肩に担ぐ。そして、それをおのが頸へとゆっくり動かす。
「ミネルバ――――すまない――――」

 その瞬間、カチュア、パオラ、そして逆臣達は同時に見た。
 炎の幕に映える一人の烈士の身体に、赤き翼が生えたことを。そして、烈士は翼の軌跡を残しながら、舞い上がるように、夜の帳に飛び立ったことを―――――。

 

六〇九年――――――夏
マケドニア・修道院墓地

 

 燦々と降り注ぐ、穏やかな夏の陽射しの中、一人のシスターが墓標に花を添え、一心に祈りを捧げていた。
 そこへ、花束を提げた青髪の女性がゆっくりと近づいてくる。
「――――ミネルバ様」
 そう呼ばれたシスターが、気付いたように顔を上げる。
「私も――――祈らせていただけますか――――」
「すまない――――」
 ミネルバがそっと除けると、青髪の女性がミネルバに一礼をし、墓標に花束を添えて祈りを捧げた。長く、長く。蝉の声、鳥の声・・・静かな修道院のそばにある、緑に囲まれた墓地は時がゆっくりと流れている感じがする。
「――――本当に、良かったのですか」
 祈りを終えた青髪の女性が、不意に呟く。
「彼は――――最後までミネルバ様の幸せを望んでいたはずです――――」
 風が吹き、木の葉を揺らす。鳥が一斉に飛び立つ羽音が静寂を一瞬破る。
「兄を失い――――愛する者を失ったこの身――――幸せなどあろうか――――」
「・・・・・・」
 ミネルバはゆっくりと立ち上がり、墓標を愛しそうに触れる。
「私はこうして毎日、花を添え、祈ることで彼と共にいるような気がする――――。私にとってはそれこそが幸せだ――――」
 青髪の女性がゆっくりと立ち上がり、ミネルバに向かって微笑む。
「不思議なことに、あの時――――彼の遺体は見つかりませんでした」
「え――――」
 驚いたように青髪の女性を見るミネルバ。
「すぐに捜したのですが――――なぜか」
「・・・・・・」
「世の中には不思議な事って、あるものですね――――」
「カチュア――――ならば・・・・・・」
 青髪の女性は、何も言わず、ただ微笑んでいた。
 その頃、緑の風薫る修道院へ続く並木道をゆっくりと歩く、一人の詩人がいた。
 口ずさむ詩が風に乗り、夏の日の休日を、柔らかく流れていった―――。

河はその流れを変えず
森はその緑を永劫に伝え
星は幾億年の光を注ぎ
鳥は季節を感じて
美しく囀る・・・・・・

FE外伝小説
休日~夏の日のグラにて~