きょろきょろと周囲と腕時計を見回しながら駅前に立つ唯笑の姿に、思わず笑いそうになる。
昔みたく、ちょっと驚かせてやろうか。そんな子供心をかき立てられるように、唯笑は本当に不思議な雰囲気を持っている。
「お待たせ、唯笑」
「あっ、もうっ、おっそーい智ちゃん!」
「あははは、ごめんごめん」
自分で言うのも何だが、いつからか、俺が唯笑に接する態度が優しくなった。
あの頃は本当に冷たくあしらうとまで酷くはなかったが、よくからかっては唯笑がへそを曲げ、後から俺が謝る。そしてまた、憎まれ口をたたき合う。そんな感じだった。
さすがにこの年で腕を組まれるのは、中・高校生のカップルのようで恥ずかしいものがある。だが、そんなことを意識もせずに腕を回してくる唯笑。
俺は気づかれないようにそうっと腕を外そうとするのだが、唯笑も無意識なりに腕を組み直すので意味がない。俺は諦めた。
「そう言えば唯笑? おまえ、渡辺聖って憶えてる?」
「わたなべさとる? ……うーん……ちょっと待って」
頬に人差し指を当てて首を傾げる唯笑。ひとつひとつの仕草が、昔と何ら変わっていない。
「――――ああっ、確か中学の頃だったか、智ちゃんと彩ちゃんが同じクラスだったときに同じクラスだった男の子だよね!」
「ご名答、よくできました」
と言いながら軽く手をたたく。からかい半分という事も気づかず、唯笑は素直に喜んでいる。
「……その渡辺君が、どうしたの?」
俺は旧友からの便りのことを唯笑に話した。ふと、唯笑の表情が翳ったように見えた。
「そっか……」
何かを言いかけて唯笑は止まった。俺もあえて尋ねない。
「それで、どうする? お前もぜひ来てくれって言っているけど」
少し考える素振りを見せた後、軽くため息をついてから唯笑は言った。
「ゴメン。今回は唯笑、遠慮しておくよ。双海さんも帰ってくることだし、生徒のこととか、色々忙しいから」
多分、それは唯笑の気遣いだったのかも知れない。
彼女は直感的に、俺が渡辺と十年ぶりに再会した後、感慨にふけり、四方山話に花を咲かせるような楽しいものになるとは思わなかったのだろう。
中学生活の途中で道を別れた友。彼のこの街の記憶は、あの頃のままで止まっているのだ。
それはつまり、俺や唯笑の記憶をも、あの頃に戻す、不思議な力……。
彩花――――
濡れた路面に反射する車のヘッドライトが、眩しすぎる、雨上がりの夜。
土曜日――――
俺は渡辺の指定した時間に駅にたどり着いた。梅雨の中休みとでも言うのか、赤く染まった空が強く映える。
やっと……想いを告げられたあの日も……こんなに眩しかったっけ……
「あの……三上……智也さんですか?」
無意識に自分の世界に入ってしまいそうなところを、誰かの声が引き留めてくれた。
声のする方に振り向くと、そこにはまるでモデル出身ではないかと思われるほどのマスクに、眼鏡を掛けた青年が微笑みながら俺を見ていた。
「そう……ですが?」
「お久しぶりです、三上君。渡辺聖です」
俺は驚いた。渡辺って、こんなに格好良かったっけ?
「えっ……あの……ほ……ホントに、あの渡辺?」
「ははははっ、そうだよっ、トモ!」
中学の頃の男子からの愛称を口にしながらぽんと肩を叩く渡辺。
「ま……マジだよ……その声、その口調――――渡辺だ」
「トモはあんまり変わらないね。似ているから、すぐにわかったけど――――」
気のせいだろうか、渡辺と話していると、時間が昔に戻って行くような、そんな感覚がある。
そして振り向けば、隣に彩花がいて、俺と渡辺の会話を笑いながら聞き、話してくれている幻――――。
渡辺は、唯笑や彩花が来ないことを俺に聞こうとはしなかった。忘れているのだろうか。
まあ、いずれにせよ俺の方から切り出すこともないだろう。
楽しかった。
久しぶりに酒に酔う気分を味わった。二人だったとは言え、中学の頃の話題から始まって、高校、大学、社会人。そして自分たちの友達などの話――――。盛り上がった。
ただ、彼は彩花のことだけにはなぜか触れようとしなかった。彩花のこと、知っているのだろうか。
「なあトモ。せっかくだから僕の家で飲み直さないか」
渡辺の誘いを俺は受け入れた。終電も過ぎてしまったから、帰ろうにも帰れない。
「渡辺……」
「なに?」
「いや……何でもない。スマン」
一瞬、首を傾げる渡辺。意味もなく彼を呼ぶなんて、何なんだ俺は。
「さあ、ついたよ」
あるマンションの前で歩を止める渡辺。結構、豪華なところに住んでいるんだな、と思ってしまう。雑誌社の編集者って、そんなにいい仕事なんだろうか……。
渡辺に導かれるままに、俺は彼の部屋『6035室』に向かった。
「まあ、入ってくれよ」
と、鍵を開け、扉を開く渡辺。俺は一歩、玄関口に歩を進めたとき、気がついた。
電気が点いている――――。
「渡辺、一人暮らしの寂しさは俺にもわかるけど、電気点けっぱなしは良くないぞ。エコロジーが叫ばれている昨今、無駄な電力消費は地球にとっていちばん――――」
などと説教じみたこと言ってしまうのはやっぱり教師という職業病なのだろうか。だが、渡辺は俺の言葉を聞いていないように見えた。
しかし、俺の酔余の勢いで飛び出して行く言葉は、いともあっさり、止められてしまうことになった。
「おっそ~~いっっ!」
タンタンと、足音を立てながら、やや怒り気味のその声が、部屋の奥から聞こえてくる。
その瞬間、俺は言葉と共に、意識すら止まったように思えた。
「もう、お兄ちゃん――――何時だと……」
――――!
さっきまで晴れていた空が、再び降り始める。
テレビのノイズのように、打ちつける雨音が微かな驚きの声をかき消す。
一瞬、目の前が真っ白になった。
クラクラするような柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。
一瞬の閃光のような脳裏を過ぎる光景に、俺は無性に懐かしさ、そしてそれ以上にたまらないほどの愛おしさを感じた。
彼女の姿が、本物のスローモーションのように、徐々に俺の前に姿を現して行く。
さらさらとした長い髪、鷺色の澄んだ瞳、背丈、雰囲気……すべてが……
――――彩花――――
「あ……やか…………?」
だが、そんな俺の声に、彼女は微笑みをたたえた表情で、まっすぐ俺を見ている。
――――ともや――――
彼女の優しげな唇が、そう綴った気がした……。