第5話 雷鳴の夜

 雲が立ちこめてくる。黒雲だ。この時期特有の雷雨が、梅雨明けも間近だと知らせてくれているようだ。俺が退勤する頃には一雨降るだろう。

「えっと……三上先生?」
 放課後、唯笑がいつものように慣れない丁寧語で俺を呼び止める。
「はい、なんでしょうか今坂先生」
 などと、回りくどくさえ聞こえる言葉で返す俺でさえ、お互いがあからさまにわざとらしい素振りだと言うことが見え見えである。
 高校時代、俺や唯笑が色々とお世話になった城ヶ崎先生(今はさすがに呼び捨て、ましてやヒバゴンなどとは言えまい)や幸村先生は今だご健在。
 お二方は、そんなやりとりをしながら新米教師として母校に舞い戻ってきた俺たちを見て、失笑の絶える日がない。
 まあ、同僚の坂崎先生の話では俺と唯笑は職員室の間では暗黙の公認を得た恋人同士と言うことになっているらしい。それはそれで別に構わない。現役高校教師が、高校生の萌とつき合っているという事実をカムフラージュできる良い口実になる。

 ――――今日、智ちゃん家に行っても、いい?

 囁くように、唯笑はそう、言った。別に断るいわれはない。
「飯でも作ってくれ」
 などと、冗談交じりで承諾する。
 だが、その時一瞬見せた表情の翳りに、俺は気づかなかった……。
 二人で学校を後にした。雨はまだ、降ってはいなかった。

 美味かった。
 唯笑の料理は格別に美味い。あの頃からすれば、思いもつかないほど、唯笑の腕は上達している。彩花を超えた…………かも、知れない。
 料理の得意な唯笑、スーツ姿でエプロンをまとい、キッチンに立って包丁を握る彼女の後ろ姿を見ていると、本当にあの頃の唯笑なのだろうかとさえ、思ってしまうときがある。

 大人っぽい唯笑……いや――――確実に成長している、唯笑――――

 それに比べて、俺は……

「智ちゃん……?」
 食器を洗っている手をぴたりと止めた唯笑が、俺を呼ぶ。
「ん――――」
 自分でも無愛想だと思うほどの、素っ気ない生返事。

 ――――私、見たよ――――

 その言葉に、入れ立ての湯飲みに伸ばしかけた手の動きが止まる。

 え――――?

 傍目から見ても、俺の表情は明らかに動揺していると捉えられただろう。
 唯笑の長い睫毛が、切なげに伏せられるのも、はっきりと見えた。

 ――――違うよ――――彩ちゃんじゃないよ――――

 ――――智ちゃん――――

 唯笑は無言だった。テレパシーなんて言う、非科学的な事じゃあない。
 しかし、俺には、彼女が涙を怺えながら、途切れ途切れに俺にそう、言っているような気がした。唯笑の横顔が、俺にそう、言っていた。

(……わかっている。わかっているけど……)

 気がつけば、俺は唯笑の後ろに立っていた。無意識に、俺の身体は動いていた。
 
 …………ぽちゃん…………

 蛇口から水滴の落ちる音が、いやにうるさく響く。そしてその瞬間、くるりと身を翻した唯笑が、俺の胸に飛び込んできた。

「――――!」
 俺は反動的に唯笑の身体を引き離そうとしたが、なぜか身体が言うことを聞かなかった。

 唯笑は何も喋ろうとはせず、ただ無言で俺の胸にしがみつく。何かに怯えるかのように、その華奢で、折れそうな身体は、小刻みに震えていた。

「どう、したんだ――――唯笑?」
 妹を慰めるように、俺は唯笑の背中を優しくさする。遠くで雷鳴が聞こえる。

「智ちゃん――――」

 きゅっと、俺の背中に腕を回し、力を込める。そして、顔を上げると俺の目を真っ直ぐ見上げた。

 しばらく見つめた後、彼女の瞼が、ゆっくりと閉じられた――――。