彩花は還ってきたんだよ――――
渡辺の言葉が何度も反芻する。
春霞のような淡い景色の中に佇む影に、俺の眼差しは吸い込まれるように離れなかった。
「あ……や……か?」
声にならない微かな言葉で、その名を呼ぶと、長い髪を揺らし、少女はゆっくりと振り返った。
――――智也――――久しぶり、元気……だった?
あの頃のままの、微笑み。あの頃のままの、声。あの頃のままの、仕種……
元気なんかじゃ――――ないよ――――
俺、やっぱ彩花がいないと――――だめなのかも知れない――――
十有余年が過ぎても、あいつに言う言葉は変わらない。
そう……変わらないふたりが今も……息づいているんだ……。
――――そうだと思ってた。
もう……、本当、これだから智也のこと、いつまでもひとりにしておくわけにはいかないんだから……
呆れ気味にため息をもらしながらも、俺を思ってくれているという、愛情に満ちている。俺だけにしかわからない、彩花の言葉、仕種に秘められた意味―――――。
ずっと……待っていたんだ……
この十年――――思えば、長かったような、短かったような――――
瞳を閉じれば、あの頃の場面が鮮明に蘇る。
忘れ得ぬ、情景――――二人歩んできた道のり――――そして
真っ赤な空の下、彩花に告白し、不安な恋心を、優しく抱きしめ合えた、宝物のような瞬間……。
もう――――あんまり智也が私のこと強く想いつづけてくれるから、還って来ちゃったんじゃない?
責任、とってよね――――
責め口調だが、表情は優しさに満ちた笑顔だ。
彩花――――君をもう二度と……離さない……離したくないよ……
ずっと……ずっと俺のそばから……離れないで――――くれよ――――
止めどない想いが口から溢れだし、涙が頬を伝って滴り落ちる。
泣き虫になってしまったんだね――――智也って。
そんなんじゃ、ないよ。
ふふふっ、泣き虫だよ――――
彩花は泣き笑う俺に悪戯っぽい笑みを向けると、長い髪を靡かせ、身を翻した。
ねえ智也? 私のこと――――捕まえてみて――――
え――――
不意に、彩花がそう言い、前に向かって駆けだしたのだ。
いま、捕まえなければ、永遠の彼方へ――――消えてしまいそうな、そんな、哀しくも愛おしい、後ろ姿。
彩花――――待って――――
俺も駆けだしていた。
何度、同じような夢を見たことだろう。いつも彩花が俺の側から離れてゆく夢。追いかけようにも、なぜか彩花の後ろに金色の光の粒を散らす髪にすら触れることは叶わない。
ふふふっ
遠ざかる後ろ姿、彩花の純粋で、無邪気なままの優しい笑い声だけが、遠くこだまするだけ。
気がつけば、瞼を腫らし、朝の陽射しをやけに強く感じ、枕がしっとりと冷たくなっている。何度経験したか、憶えていない。それは一種の持病のようなものなのか、辛さは変わらないが、どこかもう慣れてしまっている部分もある。
でも……
今、彼女を捕まえなければ、もう二度と――――辛い夢でさえ、見られなくなってしまうかも知れない――――。
彩花――――!
ふふふっ――――智也――――
全力を出して彩花の後ろ姿を追いかける。だが、いつものように彩花は遠ざかってゆく。
春霞のような淡い景色の向こうに、愛しい少女の姿が、とけてゆく。鈴の音のような、笑い声を残して――――。
行かないでくれ――――彩花――――!
思わず、そう叫んでいた。空気が震える。霞を振り払うかのように、俺は喉がつぶれそうなほど、大きく叫んでいた。
やっと――――やっと巡り逢えたのに――――また――――失ってしまう――――
その時、ふっ――――と、一瞬、時間が止まったような気がした。
そして……
目の前に、ふわりと長い髪が舞った。
ゆっくりと振り返る愛しい少女――――
俺の焦燥を幾ばくか知らず、優しい微笑みを向けていた。
智也――――
俺は何も言わず、彼女を強く抱きしめていた。二度と離さないよう、彩花が光の粒となって消えてしまわないように、祈った。
そして、景色は霞の中に包まれていった――――。