智也……智也?
声が聞こえる。そして、身体の奥底まで伝わる、愛しいほどの温もり。
「……ん……んんっ……」
その声よりも、自分の呻き声に反応して、俺は意識を取り戻したらしい。氷枕を後頭部に敷き、今や懐かしい氷のうがずれ落ちて耳たぶを冷やしている。
そして……俺の両腕は、しっかりと、彼女――――秋山萌を抱きしめていた。
長い髪が火照った肌をくすぐる。驚いたかのようにわずかに息を乱している彼女の息づかいが、柑橘系の薫りと共に間近に感じる。
「あ……気がついたのね……智也さん」
そっと身体を離し、横から俺の顔をのぞき込み、微笑む。
唯一、違うのは、俺のことを“智也さん”とさん付けで呼ぶ、そのくらいだ。
「ん……夢、見ていたみたいだ……」
「そうみたいね」
「…………」
「ん…………」
俺は再び、彼女の肩に手を回し、引き寄せると、唇を重ねた。抵抗もなく、彼女は瞼を閉じてくれた。お互いの息を塞ぐような、甘く、静かで激しい、口づけ……。
「もう……風邪……移っちゃったら……智也さんのせいだからね」
唇を離した彼女が、俺の胸板に顔を埋めながら、拗ねたように囁く。
「あ……そいつは困るな……」
と、はにかんでみせる。
「ねえ智也さん……このまま……少し、眠ってもいい?」
「ああ……」
ずっと俺のことを看ていてくれてたのだろう。安心しきったように、彼女はすぐに俺の胸で安らかな寝息を立てていた。
彩花は還ってきたんだよ――――
不意に脳裏を過ぎる、渡辺の声。
――――君に逢いたくて――――ずっと――――君だけを――――
安心しきったような彼女の寝顔。まるで、今まで何か張りつめたような気持ちが解き放つような、そんな優しい顔。彩花がいつも見せてくれていた、天使の寝顔。
萌が、本当に彩花だとするなら――――
昨夜見た夢、ようやく彩花をこの腕につかまえることが出来た、瞬間。
そして目が覚めると、確かに、彩花は俺の腕に包まれていた。
夢で触れた彩花の声。それは萌の声ではなかったか。
信じられないが、今、こうして寝息を立てている彼女は、渡辺が言っているように、本当に還ってきた、桧月彩花ではないのか――――。
そんなことを考える自分が愚かしく思う。しかし、彼女といればいるほど、彼女のことを彩花だと思ってしまう。いや、彩花だと、確信してゆく。
彩花――――?
俺がそっと囁くと、彼女はわずかに頭を動かし、小さく声を出すと、再び安らかに眠り続ける。
それからしばらくぼうっと彼女の寝顔を眺めていた。やがて睡魔は僕も包みこみ、意識を白き彼方へと運んでいった。
学校を休んだことは、どうやら渡辺が連絡していてくれたらしい。こう言う時に一人暮らしは実に不便なものだ。
「おはようございます、三上先生」
唯笑が微笑みながら挨拶してくる。
「ああ、おはよう」
自分でもわかるほど、素っ気ない挨拶。
「風邪、大丈夫ですか?」
「ああ。おかげさまでゆっくりと寝られたから、この通り」
ごめんなさい――――ゆえの……せいだよね……
不意に、頭の中に、唯笑の声が響いてきた。気のせいかも知れない。唯笑は「よかった」と言うと自分のデスクへと向かっていった。社会人・今坂先生のスタイルは、今の僕には眩しく映る。
今日に限って、実に忙しかった。期末テスト前と言うこともあってか、色々と処理しなければならない仕事がたまっていた。病み上がりにはまことしやかにきつい。
他の先生方が退勤してゆく中で、最後まで残っていたのは、俺と今坂先生――――唯笑だった。
「三上先生の方は片付きましたか?」
デスク越しに声を上げる彼女に、俺は普段の調子で切り返す。
「唯笑の方は?」
すると、案の定彼女は慌てる。
「ちょ、ちょっと三上先生、ここは職場ですっ」
「はははっ、大丈夫だって。もうここには俺とお前しかいないよ」
その事にようやく気づいた彼女は、真っ赤になってなぜか狼狽する。
「ん……もうっ、智ちゃんのいじわる」
やはり、繕われた関係よりも、そのままの方がしっくり来る。
「そうだな。あと三十分くらいであらかたけりがつきそうだ」
腕時計を覗くと、八時十分前。気づかなかったが、ずいぶん長く残業している。
「唯笑もだいたいそのくらいで終わりそうだよ」
その会話の流れから自然に、一緒に帰ろうという結論に達していた。
「智ちゃん、コーヒーでも飲む?」
「ああ、ありがたい」
職員室に備え付けのコーヒーメーカー。学生だった頃は仕事中にコーヒーなんぞを飲みながらタバコを吹かし雑談している教師たちが偉そうに見えていたものだったが、今教師になってみると、職場に最低限、コレがないとやっていけない気がする。
「はい」
「さんきゅ」
ブルーマウンテンとはご大層なものを備えている。この学校はずっと前からこんな高価なコーヒーを飲んでいたのだろうかなどと考えたりもしたものだ。
「ふぅ――――」
苦さが実に心地よい。ぶっ続けで仕事をしていたからか、飲み慣れた高価なコーヒーですら、初めて飲んだかのような新鮮味がある。
「唯笑、まだミルクと砂糖なのか」
「ふぅんだ。どうせ唯笑はまだまだ子供ですよぉ」
「誰もそんなことは言ってないだろ」
「もう、智ちゃんのばかっ!」
「うわっ、こらっ、コーヒーをかけるなっ!」
こんなやり取りはまかり間違っても第三者には見せられない。
「ねえ、智ちゃん……」
「ん? どうした唯笑」
不意に唯笑の表情が曇る。
「…………」
話したいが、話しづらそうに言葉を詰まらせる。理由はわかっていた。
「萌のことか――――」
唯笑は返事しない。
「安心しろ。彼女を彩花と重ねているつもりはない」
唯笑の心の内を推し量っての、言葉。だがそれは、あからさまな嘘だった。
そうだよね――――。
もし、智ちゃんが、あの娘のこと彩花ちゃんを思ってしまえば、何よりもあの娘が可哀相だもん。
唯笑の言葉が突き刺さる。そう、俺はすでに萌にひどい思いを背負わせている。彩花と同じ容姿、同じ人格――――。萌の罪ではない。
俺とさえ出逢わなければ、彼女はきっと、『秋山萌』として、全く別な幸せな人生を送っていただろう。
俺と出会ってしまったから、きっと萌は辛い目に遭ってしまうのだ。
俺が知る、俺がいた、俺が見つめた、俺が微笑んだ、俺が守った……俺が愛した『桧月彩花』その少女、そのままだから……。俺はきっと、萌を萌として見る自信はない。
「あの娘のこと――――愛してあげて……智ちゃん……」
そんな弱音を見透かしたかのように、唯笑の言葉が胸にしみる。
「あっ! 智ちゃん早く仕事片づけないとぉ!」
「うっ、いけね!」
時計を見るとすでに八時二十分を過ぎていた。俺たちはぬるくなったコーヒーを一気に呷ると、慌ててペンを取った。
結局、仕事に区切りがついたのは九時にさしかかるという時だった。
「ふぅ、遅くなったな」
「智ちゃん、なんか食べてから帰ろうよ」
足音だけがカンカンと鳴り響く廊下を職員玄関に向かいながら、唯笑がそう言ってきた。
「そうだな。これから帰ってなんか作るのも面倒だし、そうするか」
意見は同じだった。
「あれぇー?」
先に外に出ていた唯笑が、相変わらず緊張感のない驚きの声を上げる。
「どうした、唯笑」
「雨……降ってきたよぉ」
「そうか。夕方まで晴れてたのにな。早く終わっていれば降られることもなかった訳か。仕方がないな」
と、言って俺は傘立てから適当に二本、傘を取った。
「拝借させてもらおう。明日、持ってくればいいし」
「うん……」
校門を出た直後から、雨は強くなった。最近、唯笑と一緒の時は良くこんな雨が降るなと思う。
「そう言えば、もうすぐだね……」
「ああ……」
忘れ得ない。多分きっと、俺が老いさらばえて彼女の元に逝くその日まで、忘れない、大切な日。
そして、自分自身が年を追う事に新たな業を背負う日だ。
道路を走る車、舗道を急ぐ人波の数も少ない。
その場所が近くなると、俺は胸の古傷が疼く。
その場所に残された、記憶が時を越えて呼び起こす。
雨が降る。雨音がうるさく、二人の会話すら途絶えさせた。
「ねえ――――智ちゃん――――」
不意に唯笑が足を止め、俺の袖を掴んだ。
「どうした?」
唯笑を見ると、彼女は茫然と、前方を見据えるように立ちつくしていた。
俺がゆっくりと、唯笑が見つめる先に視線を移す。
そして、そこに俺は信じられない光景を見たのだ。
あ……彩花――――――――!