第9話 追憶

 俺と唯笑はそこに佇む、白い傘を差し、白いワンピースを着た少女に目を奪われていた。

 あの日、俺が目の当たりにした、彩花が落としていった白い傘――――。
 その同じ場所に、彼女は佇んでいた――――。

 ――――あの頃のままに――――

 時が止まったかのように、俺と唯笑、そして彼女の周囲の音が止む。

 ――――智也――――

 彼女は傘をそっと上げ、鷺色の澄んだ瞳で優しく、俺を見つめていた。

 ――――唯笑――――

 彼女は茫然とする唯笑の名も呼ぶ。

「あ……彩……ちゃ……ん?」

 枷が取れたように、唯笑は呟く。彼女はまさしく天使の微笑みを向けると、小さく頷いた。

 ――――どうしたの?
     そんなにびっくりしないで
     私ね、ずっと二人に会いたかったんだ
     ふふっ、やっと逢えた

 彼女は照れくさそうにはにかんでいた。
 優しく、すべての苦悩と疲れを癒してくれるような雰囲気が、俺と唯笑を包んでゆく。

 彼女がゆっくりと歩を進めてくる。彼女の軌跡が儚い光の粒となって消えてゆく。
「智也ッ」
 鞄を持つ俺の手を、彼女の手が包み込む。温かかった。驚くほど、彩花の体温が感じられた。そして、彩花にしか似合わない、柑橘系の香りがふわりとそよぐ。
「唯笑っ」
 そして彼女は唯笑の首に両腕を回して抱きつく。受け止めた唯笑、驚きを通り越し、彼女のぬくもりを感じていた。

 ――――二人とも元気だった?
     大きくなったよね――――
     ふふっ、当たり前か。
     もう、十年も経ったんだもんね……
     年を取らないのは、もしかして私だけ?
     ふふっ
     うれしいやら悲しいやら――――

 唯笑はぽろぽろと大粒の涙を落としていた。
 そして、俺も気づかないうちに頬を濡らす涙が顎を伝って落ちていた。
 そんな俺たち二人を、彼女は困ったような表情で見回す。

 ――――やだっ、どうしたの二人とも?
     急に涙なんか流しちゃって
     何か悲しいことがあったの?
     ほらほら智也、男でしょ?
     唯笑、いくつになっても泣き虫ね
     もう
     これだから安心できないわ――――

 どんな言葉がふさわしいのだろう。
 変わらない、あの日のままの少女に伝えたい想いは、千歳に語り尽くせぬ喜怒哀楽の日々だった。
 触れれば、それは夢ではなく、うつつの温もり、息づかい、胸の鼓動……。

「いいかな?」
 誰に尋ねたとも知れず、彼女は光の軌跡をたどりながら俺の頬を両手で包むと、ゆっくりと瞳を閉じ、唇を重ねた。
 それは懐かしくて、優しくて、甘くて、ピュアなフレンチキス。その瞳を見つめると、まるで失われた時間を取り戻してゆく、そんな感じさえした。

 万感の想いが二人を無口にさせていた。
 彼女と話したい。この失われた時間。すべての罪を謝りたい。

 そして、世界中の誰よりも大切な人。
 彼女と共にいた時間は、ディズニーワールドのどんな幻想の世界よりも楽しかった。
 あの事がなければ、今頃きっと笑い話になっていた想いでの数々……。

 ――――悪いこと……しちゃったかな――――

 彼女の言葉に、俺はどきりとした。

 …………正直言うとね――――ずっと後悔していたの……
     智也のこと……唯笑のこと……
     私のことで二人がいつまでも立ち止まらないで……なんて
     ふふっ
     立ち止まっていたのは、私なのかも。
     どうしても……どうしても離れたくなくて……
     だから……

 彼女の声は涙に震えていた。
 抱えきれないほどの想いを抱いていたのは、彼女も同じだったのだ。
 この十年、俺たちから遠く、遠く離れた地で、ずっと孤独(ひとり)で……
 彼女は想いつづけてくれていた。
 哀しいほどに、俺たちは惹かれ合い、求めつづけていた。

 そして、神は奇跡の時間をもたらしてくれた。
 桧月彩花を、俺のもとに還してくれるという、幻想の奇跡を……。

 ――――でも、もうおしまい。
     ずっと……ずっと智也の側にいても……
     私、年を取らないし……
     おじいさんになった智也の側に不自然でしょ
     それに……私もそろそろ新しい世界に行ってみたくなったの……
     智也のこと誘って行った、遊園地の日の朝のような
     わくわくして、どきどきして、逸る気持ち抑えて……
     そんな心境なの……
     だから……

 泣いていた。
 神が与えた、奇跡の時間の最后。
 本当に、これが永遠の別離となる時。

 ――――智也――――
     私のわがままにつき合ってくれて、ありがとう……
     これでもう本当に、思い残すことない……

 そして、彼女は、俺の肩に顔を埋める唯笑を見つめた。

 ――――唯笑――――
     ごめんね……

 その言葉に、唯笑は顔を上げて彼女を見た。泣き顔で微笑む彼女。
 ごめんね……。
 その言葉の意味を、唯笑は感じ取っていたのだろうか。

「彩……ちゃん……」

 唯笑はそれでも満面の笑みを浮かべて、大切な人の愛称を呟き、応えた。

 彼女を包む淡い光が景色を包み込んでゆく。
 言葉だけでは伝わらない想い。言葉でなきゃ伝わらない想い。
 それらすべてが、俺たち三人の心に満ちあふれ、伝わってゆくのを感じた。

 ――――もう、悲しくなんか、ないよ――――

 ああ――――ありがとう―――

 さよならは――――言わないから……

 そして、光は収まった。
 何事もなかったように、濃紺と、ヘッドライトが行き交う景色が広がっていた。

「…………」
「…………」
 不思議なほど、心は乱れていなかった。
 そして、そうすることが自然であるかのように、俺は唯笑の肩をそっと抱き寄せる。
 唯笑もまた、俺に身を預けていた。

 さよならは言わないよ……。

 彩花と過ごしてきた日は……ずっと……ずっとこの胸に……あるから……