それから数日が過ぎ、俺は『6035室』を訪れた。
しかし、そこには誰もいなかった。
つい先日まで、青年と少女が住んでいたという、生活感を微塵も感じさせない、寒々とするほど整理整頓された空間。
「そう言えば、ずいぶん前に引き払っていったよ」
管理人の老人は、そう言った。最後に不思議な感じの二人だったと付け加えて。
何も告げずに去っていったことに、俺の中でそれほど驚きも、哀しみもなかった。むしろ、安心感が胸に広がっていくのを覚える。
あの二人はいったい何者だったのか。一言で片づけるほど短絡的な存在ではないことだけは、強く信じて言える。
秋山萌という少女を愛した。彩花と重ねて、彩花を愛していたわけじゃない。
俺は確かに、萌という少女を愛していた。そして、それが夢のように過ぎ去り、春の残り香のように、柔らかく、仄かな想いをくれたこと。
「どうしているのかな――――」
夜の埠頭。打ち寄せる波の音に心を寄せていた唯笑が不意に呟く。
あれから音信はない。二人の行方は杳として判らなかった。
「きっと、どこかで元気に暮らしているさ」
なぜかそう断言できた。
「俺のために、来てくれたんだから……」
「え? なぁに智ちゃん」
唯笑が俺の顔をのぞき込む。
「何でもないよ、独り言」
言いながら俺は唯笑の髪をくしゃくしゃにむしる。
「あーっ、ひっどぉーい智ちゃーんっ! せっかく唯笑、2時間もかけてセットしたのにぃー」
しばらくの間、子供のままにだだをこねる唯笑の反撃を甘んじる。
「ねぇ、智ちゃん――――?」
「ん――――?」
「手――――繋いでもいい?」
「…………」
俺は無言で、唯笑の細い指に自分の指を絡め、優しく握りしめる。
俺も唯笑も、年甲斐もなく照れ笑いを浮かべていた。今どき、手を握ったくらいで恥ずかしさを覚えるなど、子供でもありえないと言うのに。唯笑の身体を抱きしめたことはあっても、こんな気持ちにはならなかったのに。
「あの頃――――以来だね、智ちゃんと手を繋ぐの……」
何がそんなにうれしかったのか、何がそんなに恥ずかしかったのか、ようやく気づいた。意識をすれば思わず手を放したくなる。でも、今度は唯笑の細い指が、しっかりと俺の手をつなぎ止めていた。
波止場に打ち寄せるさざ波がふたりのために、優しいバラードを奏でてくれる。
「遠回り……しすぎたかな?」
不意な言葉に、きょとんと俺を見つめる唯笑。
――――人生のすべてが、もしも神によって宿命(さだ)められていると言うのなら、俺たちはずいぶんと弄ばれたものだって、神様を恨んでいただろう。
もしも、宿命が自分の力で切り開いてゆくものだと言うのならば、きっと俺たちは世界中でふたつとない、大切な道を歩いているのかも知れない。
彩花を失って、暗闇の中、俺はずっと孤独に彷徨いつづけた。唯笑を遠ざけ、彩花の思いにすがりながら、俺は今まで生きてきた。
渡辺……そして萌との出逢いはきっと、俺……いや、俺たちにとってはひとつのきっかけ、通過点にしかないと思う。でも、彼らは俺たちに大切なことを教えてくれたような気がしてならなかった。
悲しみは、もうたくさんだよ――――。渡辺が雨の中、言った言葉。
彼らがいなくなって、やっとその言葉の意味がわかりかけてきたような気がした。
でも、すべての答えは、まだ出ていない。多分きっと、俺たちはその言葉が持つすべての意味を知るための長い旅の出発点に今、立っているのかも知れない。
「唯笑――――」
「…………」
唯笑の瞳を真っ直ぐに見つめる。昔と変わらない、無邪気なままの瞳は、無垢な少女のままに、俺を見返してくれる。
「失ってしまった時間(とき)を、取り戻すことは――――出来るかな――――」
唯笑はじっと見つめつづける。
「これから、埋めてゆくこと……もう、遅すぎるかな――――」
唯笑にとって、俺の言葉の真意を知ることに時間はいらなかった。
人は、誰しも心にひとつ、傷を負っている。もしも、完璧な人間がいるとするならば、それは人としての感情を捨て去った、ロボットと言えるだろう。人は傷を背負い、完璧でないからこそ、惹かれ合うことが出来る。
たとえふたりが数年かかる遠回りの道を歩もうとも、たとえふたりが気づかないまま年老いて死せるとも、確実に人は誰かと惹かれ合いながら、生きている。
だから、恋は美しい。人を愛することを、人は素晴らしいと感じ、幸せの恩恵を享受し合えるのだ。
遠回しの俺の言葉に、唯笑はゆっくりと、小さく首を横に振った。
「遅くなんかないよ…………。智ちゃん…………唯笑は――――すっごく……うれしいよ――――」
唯笑は感極まって泣き出した。言葉を紡ぐことが出来なかった。
それはもう、この十年の間流しつづけた、哀しみと慚愧に満ちた涙ではない、待ちに待ちつづけ辿り着いた、至福がもたらす涙――――。
今、俺は強く思える。
唯笑と共に歩んで行く道。
決して、振り返ることなく、唯笑を守り、ひたむきになれる、長く、長くきっと、きっと険しい道。
時に喜び、時に怒り、時に哀しみ、時に楽しむ。
すべては彼女、彩花に教わり、萌に思い出させてくれた、かけがえのないもの。
かつて、ある人が俺に、こう言ってくれたこと。
“どんなに悲しみ彷徨いつづけても、人は歩きつづけている。
そしてたどり着く先は……JUST ONE
君にとって、たったひとつの、かけがえのない場所なんだよ……”
JUST ONE――――長い年月、彷徨いつづけ、たどり着いた場所……。
「唯笑――――俺……」
再び唯笑に向くと、唯笑もまた、顔を上げて視線を重ねた。
見つめあうふたり。夜の埠頭、蒼い風、漁り火、潮騒……。そして、二人の鼓動。
「俺と――――ずっと、一緒にいて欲しい……」
それ以上の言葉はいらなかった。
俺たちはきつく抱きしめ合い、心と身体、そして、思い出もひとつとなった。
愛している――――。
唯笑――――渡辺――――萌――――そして、彩花……。
今日からは、素直に言える。
俺たちの“JUST ONE”に……。