第1部 英雄関雎
第2章 白薔薇の決意

「…………」
「どうしたの、フローラ」
 ふと黙す妻に声を掛けると、フローラははっと顔を上げて、美しい微笑みを良人に見せた。
「何でも、ありませんわ。さ、あなた。早く参りましょう?」
「あ、ああ……」
 細い腕を絡め、フローラは躍るようにリュカを導いた。

 大富豪で、サラボナ太守ルドマンとは誰なん、このフローラの父であり、言わずもがなリュカの義父になる。
 家系を辿れば、天空八勇士の一、聖商侯トルネコの末裔と伝えられ、天空四宝のうち、『天空の盾』を伝承(つた)えてきた名家の当主の割には豪放磊落な性格で気風が良く、かつ廉潔で厳格さを兼ね備えた、当代随一の名士と言われている。
 翌日、恐々としたリュカがフローラと共に本邸を訪ねると、そのルドマン公の哄笑が二人を迎えた。
「お父さま――――?」
「…………」
 呆気に取られるリュカ、首を傾げるフローラの姿に、ルドマン公の笑いはなおも止まず、ようやく笑いが終息した時は、その大きな腹に笑いすぎの痛みが走ったのか片手でさする仕草を見せる。
 そして、さり気なく腕を組み合う、生まれたばかりの若い夫婦を見遣り、言った。
「ご両人のお出ましか。仲良きことは、何にも増して素晴らしきこと。私も野暮なことを申すではなかったかな。うむ、構わぬよ。また改めて後日なり――――」
 するとフローラが幾分むっとして父を見る。
「酷いですわ、お父さま。一昨日はリュカさんに朝までお酒につき合わせて、一眠りした後に顔を見せよ……なんて、無茶にも程があります。それでも、こうして参りましたのにそんな……リュカさんだって人間ですのよ?」
「はっはっはっは、フローラの申すとおりだなあ」
 意味深な笑い。しかし嫌味に見えないところがさすがは天下の名士。しかし、勘繰ったリュカとフローラは互いを一瞥、仄かに頬を赤らめる。
「申し訳ございません――――改めての御礼とご挨拶、遅れてしまいました……」
 低頭するリュカに、父公・ルドマンの口調が突然、真摯になる。
「水臭いことだ、“婿殿”……いや、今まで通り、“リュカ”君で良いかな。我らはもはや家族。余計な気遣いは無用だ」
「はい……ありがとうございます――――お義父さん」
 その言葉に、父公の表情が綻ぶ。
「君からそう呼ばれる事になろうとは、夢にも思わなかったぞ。……本当に、フローラのような娘に加えて、君のような男を息子に持てるとは、私もつくづく神の恩恵に与っているようだな」
 父公の誉めそやしに、子供のように赤面するリュカ。そんな良人を愛おしそうに見つめるフローラ。
「さてリュカ君。結婚の余韻冷めやらぬこの日、君を呼んだのは他でもない。予てよりの約束、果たそうと思ってな」
 父公の言葉に目を瞠るリュカ。
「…………」
 父の言葉にフローラは何かを懼れるように、肩がわずかに萎縮する。
「家祖伝来の天空の盾と、ポートセルミの帆船、いずれも婿殿たる君の物だ。ああ、それと些少だが、差し当たっての路銀も用意させよう。足りずばいつでも言いなさい」
「何から何まで、お心遣い本当に感謝いたします」
 リュカが深く頭を下げる。
「はっはっは。随分と恭謙なことだ。まあ、尤も君らしいかな」
「これで、亡き父・パパスの遺志をまたひとつ継ぎ、叶えられることが出来そうです」
「うむ。このルドマン、一天四海のためとあれば、散在などは惜しまぬ。リュカ君、私は君に懸けているよ。……ところで、旅立ちの日取りを訊いておきたい。まあ、事情が事情ゆえ、いつまでもこの地に留まれとは行かぬだろうからな」
 その質問にリュカが答えようと口を開きかけた瞬間だった。

「お待ち下さいお父さま、リュカさん」

 フローラが突然、玲瓏とした声を上げる。リュカとルドマンの視線がほぼ同時にフローラに重なる。
「フローラ、どうした」
 きゅっと、一文字に花弁の唇を結ぶ妻を気に掛けるリュカ。
「あなた……っ――――」
 フローラは、リュカを切なげに見つめ、両手でその腕をぎゅっと掴み、顔を伏せた。
「どうしたというのだフローラ。よもや、心に一点の曇りを生じたか」
 ルドマンの言葉を、フローラは首を振り、強く否定する。
「お父さま……怒らないで、聞いて欲しいの」
「言うて見ずば、わかるまい」
 フローラは小さなため息をひとつ、ついた。
 そして、碧く澄んだ瞳に、更に強い輝きを秘め、言った。

「私――――この良人(ひと)と……、リュカさんと一緒に、旅に出たいのです――――」

 瞬間、唖然となるルドマン。父公にとって、その言葉は思いがけないものであった。
「フローラ、今なんて」
 リュカも愕然となった。一瞬、眩暈のような感覚に襲われ、視界に白い閃光が奔る。
「お願い、あなた。私……ずっと考えていたの。あなたと結婚できると確信した時から、私も一緒に、あなたの旅のお手伝いをしようと――――」
 フローラにしては珍しくあながちな素振りに、リュカは戸惑っていた。
「何を言うんだ、フローラ。君が思っているほど、生半可な旅じゃ、ないんだよ」
「…………」
 リュカの言葉に、フローラは黙する。
「フローラ、無茶なことは言うまいぞ。リュカ君の事情思えば、安易にかようなことは言えまいが」
 父公は娘の思惑へ対する怒りを大いに抑えて窘めた。
「安易などで申しているのではありませんわ。私の本意です。――――私の良人が辛い旅を続けているのに、私だけ呑気に待ちつづけることなんて……耐えられないの。この良人(ひと)の……リュカさんの痛みや苦しみを、少しでも……ほんの少しでも分かち合いたいのです」
 静かに、それでも清楚な少女の瞳は熱く潤んでいた。
 初めて見る愛娘の気迫に圧され、父公は言葉を詰まらせる。
「むう……。リュカ君、フローラはかように申しているが――――」
「…………」
 父公の振りに、リュカは言葉を詰まらせた。
「ともかく、私は父親として、娘の旅立ちには反対だ。慣れぬ者が命を落としかねぬ危険な旅に、喜んで送り出す親がどこにいる」
「お父さまっ!」
 眉をわずかに顰めてどやくフローラ。
「ともかく、急な話でとりとめも付かぬ。まずはリュカ君とゆっくり話をしてみなさい。それからでも、遅くはないだろう」
「お父さま、私は――――!」
 牙を噛む勢いのフローラの肩に、リュカの手がそっと触れる。はっと振り返るフローラ。リュカは小さく、首を振った。
「あなた――――」
 そこはかとなく怯えた眼差し。自分だけに向けられる、良人の優しさに満ちた至上の微笑みが、今は何故か不安に感じてしまう。
「お義父さん、もうしばらく、この地に留まるかも知れません」
「そうか。まあ、ゆるりと考慮するが良い」
 父公はそう言って頷くと、ゆっくりと居間を退出していった。
 ふうと、ひとつ息をつくリュカ。そしてフローラに向き直り、徐にその唇にキスをする。
「…………」
 フローラは何故か、閉じた瞼を開かない。
「――――僕の、仲間たちを紹介したいんだ。ちょっと、つき合ってくれるかな」
「!?」
 ぱっと、フローラは瞼を開き、瞳が輝いた。
「あなた……はい――――」
 嬉しさに満ちた笑顔で、良人の手を握る。
 リュカは応えるように一度、フローラの肩を抱きしめる。
「……あなたに抱きしめられると……すごく安心しますの――――」
 言葉通り、フローラの心中に残っていた興奮の欠片が霧消する。
 そして、互いの背中に廻した腕を惜しむらく放すと、リュカはフローラの細い手をしっかりと握りながら、馬車を駐めている郊外の眺海台へと向かった。
 晴れた空、そっと吹いてくる潮の薫り。フローラの碧く、長く美しい髪が、さらさらと靡く。
「あなたのお仲間って、魔物なのでしょう」
 興味津々とばかりに、フローラの可憐な笑顔と視線は、馬車のある方に向けられている。
「抵抗……ある?」
「少しだけ、ドキドキしますわ。あ、でも大丈夫です。修道院からこの街に来る途中でも、多種多様な魔物たちを見て参りましたから」
「そう――――」
 リュカは微笑みを滲ませながら、歩を進めた。
 やがて、丘陵の頂きに幌馬車が見え、その屋台骨であるパトリシアが、風の中で休息していた。
「あら、可愛い。ずいぶん真っ白な牝馬ですわね」
 フローラはほたほたとして、良人より先に小走りにパトリシアに近づく。
(ぶるるっ)
 フローラの姿に気づくも、パトリシアは動揺する気配もなく、尻尾を振り、主人の新妻を歓迎していた。
「きゃっ。うふふっ、すごくかわいいですわね」
 パトリシアを撫でるフローラ。それは実に手慣れたものだった。本当に気持ちいいのだろう。つぶらな瞳を細めて、苛酷な旅を支え続けてくれている牝馬はフローラに身を委ねている。リュカは内心、愕いた。
 しかし、仲間の魔物たちの姿が見えない。リュカは一度周囲を見回し、やはり姿が見えないことを確認すると、手を打ち鳴らして声を上げた。
「ピエール、マーリン」
「……?」
 きょとんとするフローラ。
 そして、しばらくすると、フローラの瞳にエメラルドグリーンの生体に跨る灰色の鎧と、褐色の魔道衣に身を包んだ小柄な魔物が映った。
「……!」
 フローラは、修道院修学時代に見たことがある、『スライムナイト』と『魔法使い』と呼ばれる魔物たちの姿に、一瞬息を呑んだ。
「リュカ、お帰りなさい」
「御主人。遠くから眺めておりましたが、素晴らしい式でしたなあ」
 スライムナイトと魔法使いはそう言ってリュカに寄ってくる。
「ピエール、ただいま……とまだ言えないな。マーリン、ありがとう。本当なら、みんなにも見て欲しかったんだけど――――」
「構わんですよ。我らはまだ……。遠くから拝めてもらえるだけで、嬉しいですじゃ」
「マーリンはもう、涙ポロポロでした。ガンドフは珍しく興奮してしまって。スラりんは相も変わらず落ち着きがなく――――」
 ピエールと呼ばれたスライムナイトの話に、リュカは満面の笑みを浮かべる。
 魔物と打ち解け合う良人の姿に、フローラはリュカが正真正銘の魔物使いであることを思い知らされた。
「ところで、みんなどこに行った?」
「リュカが戻られるまで、ずっとこの場所に留まっているのも落ち着かないでしょうから、偵察ついでに散歩を。僕が先導していました」
 ピエールの説明に納得するリュカ。仲間たちは時機に戻ってくるとのこと。
「ところで御主人。あちらの女性が、御内儀様でございまするか」
 マーリンがフローラに気がつき、すきっ歯を覗かせて微笑む。
「ああ。フローラ、おいでよ」
 リュカは顔を仄かに赤らめてはにかむと、やり取りをそっと見守っていたフローラを手招いた。
「……あ、はいっ」
 呼ばれて、慌ててリュカの傍に駆け寄る。
「ふたりに紹介しておく。この人が、僕の妻になった、フローラだ」
 ピエールとマーリンは恭しくフローラに辞儀をする。
「――――初めてお目に掛かります。私はご覧の通り、スライムナイトのピエールと申します。主人と共に旅をして半年ほどになりましょうか。本当に、ありがたく思います」
「わしは魔法使いのマーリンと申しまする。御主人にお仕えして日も浅いですが、ようしていただいてますじゃよ」
 慇懃な挨拶をするピエール。マーリンは自らの言葉に照れ笑いを浮かべた。
「フローラですっ、よ、よろしくお願いいたします――――」
 フローラはすぐさま自己紹介をするが、緊張のあまり、声が上擦ってしまう。
「他にも仲間はいるけど、後でもいいよね。マーリンは旅の知恵袋として活躍してもらっているし、ピエールはまとめ役かな」
「買い被らないで下さい、リュカ。私などまだまだお役には立ちません」
 ピエールがクールな口調に照れ隠しをする。
「ほっほっほ、相変わらずピエールは褒められるのが苦手なようじゃのう――――」
 マーリンの揶揄に狼狽するピエール。
「よ、よして下さいマーリン。あまりからかわれるというのも――――」
 笑い合う魔物たちとリュカ。
「…………」
 しかしフローラが向ける笑顔はどこかしか硬かった。仲間たちとの談笑の合間に妻を一瞥するリュカは、愛する妻のそんな表情を見逃さなかった。
「ピエール、マーリン。……取りあえず、もうしばらくはここに逗留することになりそうだから――――」
 リュカの言葉に、マーリンは微笑みながら頷く。
「御主人に訪れた幸福。わしたちに気遣いせず、ゆっくりとされる事じゃ」
 つづけてピエール。
「承知。万事、私たちにお任せ下さい」
 リュカは頷くと、フローラを振り返った。
「…と、言うこと。戻ろうか」
「え……あ、は、はい――――」
 状況を把握できずにいたフローラは、思わず生返事をする。リュカは小さく微笑むと、妻の手を取り、踵を返した。
「…………」
 リュカとフローラの背を見送っていたピエールが小さくため息を漏らす。
「不安か、ピエール」
「いささか」
「それにしても、美しい女性じゃのう。全く、御主人に相応しきご伴侶じゃ」
「あの方は、私たちを怖れているご様子。それが辛く思います――――」
「さもありなん。如何に御内儀が御主人の素性を胸に刻んでおろうとも、実際に我らとこうして相見えてみれば、また考えも変わってくると言うものじゃて」
「……ならばマーリン。リュカはあの方が、我らと旅を共にしないがために――――」
「そうであった方が、良いような気がするだけじゃ。魔族である我らには、人間の深き心情はまだまだ解せぬよ」
「……たとえ、あの方に嫌われたとしても、私はリュカに身を賭して仕えるのみ」
「それはわしや他の者たちも変わらぬ思いじゃよ。……ともかくピエール、今は御主人の数少なき休息の時。我らも吉事の御相伴に与ろうではないか」
「……はい」
 ピエールはふと、北大河をリュカと共に旅をした金髪の美少女・ビアンカを思い出していた。
(仲良く、出来れば良いのですが――――)

「…………」
 フローラは正直、戸惑っていた。リュカの笑顔が、いつもよりも眩しく見えた。
 ルドマン邸での、家族揃っての食事は多分、そこではいつもと変わらない光景なのだろう。新しく、リュカという青年が家族に加わったことを除けば。
 世界の危難が、一瞬でも忘れてしまえるような穏やかな時の流れ。フローラが普段当たり前のように過ごしてきたこの時間を、今は妙に意識をしてしまう。
「御馳走様でした――――」
 フローラは少食だ。富豪の家庭に育ったと言え、奢侈を好まず、美食家という訳でもない。軟らかめの麺麭に二,三品の惣菜を喉に通すと、それで終わる。他者から言わせばそれで良く体調が続くと言うが、余計な気遣いである。
 かたや良人のリュカは、苛酷な旅路の中にあり、宿屋などに泊まることを除けば、今まで粗末な男の料理を野宿の共としていただけあって、ルドマン家の食事など、それは豪勢に値する。サラダの特製ドレッシングや、肉汁の旨味が舌を痺れるように浸透し、全身を駆け巡る時の快感というのは、さも女性を抱く時とはまた違ったものがある。
「あなた……」
 フローラがリュカを見つめてぽっと頬を染めると、リュカは無言で頷いた。
「食事が済んだら、私たちも寛ぐとしよう」
 父公夫妻はリュカたちを気遣った。

 フローラはリュカの背中がこよなく好きだった。
 男性の背中と言えば、リュカと出逢うまでは父・ルドマンくらいしか知らない。ルドマンも広いとはいえ、良人のようにがっちりとした逞しさとはほど遠い。
 頬を当て、唇を寄せ、腕を廻してなお安心感がある背中は、この美少女にとって、リュカが最初で最后であると思った。

 ごし……ごし……

 サボンを染みこませた天糸瓜で、良人の背中を擦る。その微妙な力加減が気持ちよく、垢をよく落とす。
 ルドマン邸の広大な浴場は、湯気がさながら幻想界への回廊を思わせ、若い新婚夫婦の雰囲気をこよなく盛り上げる。
 この穏やかな空気の中にずっと漂いたい気分にさせるほど、細々とした日々だった。僅か二月足らずとはいえ、フローラと結ばれるこの時まで、大小の想い出は限りなく眩いものだった。
「あ。日焼けですわ、あなた。痛くありません?」
「ん――――大丈夫かな」
 所々に刻まれた鞭痕は、リュカが過ごしてきた十年の証。時折痛むこの古傷を臥薪嘗胆として、リュカは常に亡父の遺志を胸に、仇敵を討ち果たす大望を新たにしていた。
「…………」
 フローラにとって、それは何となく、触れてはいけない領域のような気がしていた。
 自分の知らないリュカが、無数に残るその痕に凝縮されている。見えない壁が、阻んでいるような気がした。
「すごく気持ちいいよ。フローラ、背中流すの上手いね」
 リュカがそう言うと、フローラは頬をさらに上気させて恥じらった。
「う…嬉しゅうございますわ」
「ん――――こうしているのが、すごく落ち着くよ」
 ゆりかごのような雰囲気、鈴のようなフローラの声。思わず眠気が過ぎる。
 ほんのりと桜色に染まった、フローラの乳白色の肌、タオルにくるまれた、長い髪。サボンの香りとは明らかに違う、脳漿を直接刺激する女性の甘い匂い。
 しかし、その時のリュカは、心地良さが若い肉欲に勝った。フローラも、リュカが熾さなければ、なかなか火が点らない。
「…………」
 ごし……ごし……
 ごし……ごし……
 ゆったりとしたリズム。そして、桶に掬った湯で、文字通り背中を流す。リュカの恍惚としたため息がフローラを嬉しくさせた。
「ありがとう、フローラ」
「…………」
 立ち上がろうと腰に力を入れたリュカ。その時、不意にフローラの唇がリュカの鞭痕に触れた。
「……フローラ――――?」
 半ば驚いて振り返るリュカ。切なげに長い睫を伏せ、美しい花弁の唇をきゅっと結ぶ新妻の表情に、リュカの心は僅かに衝撃が奔った。
「リュカさん……私――――」
 それは明らかに、日常茶飯事に夫婦が交わす甘い囁きの前兆ではない。
 リュカは思わず妻を凝視した。やがてフローラは意を決したかのように顔を上げ、澄んだ瞳をまっすぐ、リュカの瞳に重ねた。

「私……やっぱり、あなたと一緒に……あなたについて行きたいの――――」

 リュカはそう告げる妻の瞳を離さない。優しい瞳だった。フローラもまた、瞳を逸らさなかった。
 リュカは、掌をフローラの頬に宛がう。それに応えるように、そっとフローラは瞼を閉じて、小さく唇を突き出す。
「…………」
 リュカは徐に手のひらをずらし、人差し指で、フローラの花弁の唇をなぞった。
「…………?」
 思わず、閉じた瞼を開くフローラ。
 再び映った良人の表情は、どこかしか哀しげで、否定するかのような色合いを滲ませていた。
 愕然となるフローラに、リュカはなお優しい口調で言った。

 ――――僕の旅は、君の想像をはるかに絶するほど、辛く、厳しいものになるだろう――――。
 君に紹介した、僕の仲間たち。
 あの連中も、いつまで僕の旅についてこられるだろうか、わからない。
 ピエールも、マーリンも良く随ってくれているよ。
 そして、仲間の中には、まだ僕の言うことを素直に聞かない魔物もいる。まとめるだけでもひと苦労だ。そして、命を賭す敵との戦いもひっきりなしだ。
 フローラ、君は覚悟以上の覚悟をもっているかい?
 僕と旅を共にすると言うことは、今の生活、今まで培ってきた大切なものを全て抛ち、おぞましき戦いの中に、血塗れになることをも受け容れなければ、ならないんだよ。

「……………………」
 フローラは黙してしまった。そして、重ねていた視線を、遂に逸らしてしまったのだ。
「ふぅ――――」
 小さく息をつくリュカ。
「愛しているよ、フローラ――――」
 やや俯く妻の頬に唇を寄せると、リュカはその手を引き、共に湯船に身を沈めた。