昨夜の雨はいつしか止み、青天どこまでも遠く、暑くなりそうな陽射しが、サラボナの街を包み始めていた。
カーテンの隙間から差し込む白い光に目覚めたリュカ。病人に対し寝ずの看病を図り、気づいていたら眠っていたと言ったように、フローラの傍らに頭を落として眠ってしまっていたようだった。フローラはまだ起きる様子はない。
余程疲れが溜まっていたのであろうかと思うほど、寝息すら死人かと思うくらい静かで一瞬、リュカはどきりとなった。
爽やかな朝の気を胸に吸い込むためにそっとリュカが窓に手を掛けると、シーツの擦れ合う音とともに、フローラは目覚めた。
「あなた……おはようございます……」
遠慮がちな声。
「おはよう、フローラ。良く、眠れたかい」
リュカは大きく窓を開き、フローラに背中を向けながら苦笑いを浮かべ、爽やかな声で言った。カラリとした、まだ熱せられていない涼しい風が吹いてくる。
「はい……」
「フローラ、おいで」
リュカが呼ぶと、フローラは徐に寝台から起きあがり、リュカに寄り添う。
リュカは突然、ふっと笑い、フローラの肩を抱きしめ、その碧い髪を二度ほど掌で梳くと、そっとその額にキスをする。
「あ……」
驚くフローラ。そのまま、リュカは寝起きの妻を胸に抱きしめる。
みるみる顔が紅潮してゆくフローラ。身体を重ねる時よりも、何故かドキドキとした。
「少しは、落ち着いたかい」
「……あなた――――私……」
その時、時機を計ったように、ドアがノックされる。
「おはようございます、リュカさま、フローラさま。御主人様がお呼びでございます」
フローラは、言葉を呑んだ。
神妙な表情で、父公は二人を待っていた。
「おお、おはよう二人とも。疲れているのに呼び立てて申し訳ないな」
「お父さま……?」
二人の挨拶は無論、調われた朝食も後回しに、父公は本題を述べた。
「リュカ君、フローラ。そなたたちに是非、頼みたき事あり」
「はい――――」
ルドマンはひとつ、咳払いをすると、二人を交互に見ながら、続けた。
「この街の北西にあるエッツ島に祠が築かれているが、そこに安置されている壺の色を確かめてきてはくれまいか」
「祠の……壺?」
きょとんと顔を見合わせるリュカとフローラ。
「祠と申しますと、神体を祀り、或いは故人を弔うべき祠のことですか」
「む……まあ、そのようなものだ。多くは語るまい。フローラ、そなたの冀(ねが)い考えて然るべきことぞ」
「え……」
はっと目を瞠るフローラ。
「リュカ君と共に行き、足手まといにならなければ……の、話だがな」
「お父さまっ」
ぱあと表情が明るくなるフローラ。かたやリュカは表情をやや和らげて、父公を見る。
「お義父さん。僕は――――」
リュカの言葉を、父公は掌で遮った。
「頭ごなしに拒むこともあるまい。危うければ、船倉の籾嚢にでも放ればよいだろう」
「ご冗談を」
「もう、お父さまったら……」
苦笑する若夫婦。乱暴な物言いだが、リュカには、ルドマンがフローラの旅立ちに前向きになったことを窺わせる話ではあった。
「良いかフローラ。これが、そなたの父としての精一杯の譲歩だ。リュカ君が認めずば、許さぬ」
「はい……はいっ、お父さま――――」
フローラは嬉々として声を震わせた。その表情に、父公は小さく頷くと、毅然とした様相のリュカを向く。
「リュカ君。“ほんの数日”だが、足枷を填めていただこうか」
「――――承知、致しました」
短く思いを巡らせて、リュカが言った。
「……さあ、朝食を頂こうぞ。こうしている時間が惜しい」
父公は急かすように、若夫婦を食堂へと導いていった。
「あなた――――」
出立の準備を進めるリュカを、フローラは呼び止めた。先日の出奔未遂が、皮肉にもフローラ自身の旅立ちの準備を万全としたのだ。
「どうしたの?」
その瞳を見つめるリュカ。フローラは良人と眼差しを重ねながら、きゅっと唇を結ぶと、ゆっくりと言った。
「私、お礼を申してませんでしたわ」
「お礼?」
きょとんとするリュカ。するとフローラは何を思ったか、くるりと身を翻し、髪を靡かせて駆け出していった。
「あ、どこへ」
リュカは慌ててフローラの後を追った。こう言うところがとかく、フローラの当初の印象と違う。
ぱたぱたと、頼りなげな足音を立てながらフローラが向かったのは、郊外の眺海台。微かに息を切らしながら、フローラは懸命に坂を上ってゆく。
「はぁ、はぁ……」
立ち止まったフローラが目にしたのは、スライムナイトのピエールの姿だった。清晨の陽射しに向かいながら、深呼吸をしていた。
「ピエールさんッ」
突然、フローラが声を張り上げた。
「!」
驚いたピエール。騎乗のスライムがぴょんと跳ねた。
「フ、フローラさま……」
フローラの姿に、ピエールはおずおずと身を退き、拝する。
「あ、あの……」
フローラの貌がぽっと赤くなる。緊張のためか、声が上擦る。
「…………」
リュカは足を止め、成り行きを見守ることにした。
フローラは、唇を微かに震わせながら、口の中で何かを呟く。そして、意を決したようにピエールに向き直ると、玲瓏とした声で言った。
「あの時は、助けていただいて本当にありがとうございました。私……気が動転していて――――」
その言葉に、ピエールは驚いた。想いも寄らない言葉だった。リュカは目を見開いて、フローラを見つめている。
「いえ……いえ本当は私――――」
その時だった。
「どっタの、ピエール……あっ」
スライムのスラりんが馬車の方から跳ねながら現れた。フローラの姿を見ると、途端にしおらしくなり、つぶらな瞳を伏せ気味にする。
「スラりんさん、あの時は――――」
構わず、言い続けようとした。しかし、ピエールが両腕を突き出し、掌を左右に振る。その仕種に、フローラは言葉を止める。
「私たちは、御主人の奥方をお助けしたまでのこと。礼などは無用でございます」
「う……ウン。そ」
スラりんもぎこちなく頷く。
そんな二匹の魔物の恭敬な様子に、フローラの胸はきゅっと熱くなるのを感じた。
――――いいえ。私が間違っておりましたの。
あの人の……リュカさんのかけがえのないお仲間なのに、あなた達のことを異形だと蔑み、畏怖の眼差しを向け、せっかくリュカさんと一緒にいられるはずなのに、自分自身の心が、それを拒んでいたのです。
ピエールさん、スラりんさん。あなた達が来てくれなければ、私は魔物に殺されていました……。
人間だって、同じ人間を平気で傷つけるような悪い人間がいる。魔物たちだって、人間の……いいえ、異種のために献身してくれる、あなた達のような魔物がいる。
……修道院で神学や道徳を修めてきたはずなのに、そんな基本的なことを受け容れられなかったなんて……。
悪いのは私……。ごめんなさい……。
フローラは地に膝をついた。項垂れ、胸に手を合わせ、花弁の唇をそっと噛む。
「…………」
リュカは瞼を閉じ、唇を真一文字に結んで、空を仰いでいた。その胸から、すうと何かが抜けるような気がした。
「…………」
ぽよん、ぽよん――――
柔らかそうな音がフローラの目前で止まった。フローラが瞼を開くと、スラりんがどこかしか遠慮がちに、心配そうな瞳で、フローラを見上げていた。
そして、『そんなことないよ』と言わんばかりに、くるくると左右に振り子する。
くすっ……。
フローラは無意識に微笑んでいた。全く硬くない、自然なままの微笑。
ピエールは息を呑んだ。人間の女性の笑顔がこんなにも心を惹きつけるものなのかと思った。
スラりんも驚いたように、口を窄めた。そのきょとんとした感じの表情が、更にフローラの笑顔を呼ぶ。
「ふふっ、うふふふふふっ」
フローラの笑顔、ピエールは照れ臭いのか後頭部を何度も掻くような仕種。スラりんも連れて笑った。
「スラりんさん?」
ふと、フローラが両手を差し延べた。
「エっ……?」
一瞬、戸惑うスラりん。だが、目が合うと、フローラは優しく頷いた。その意味を悟ったスラりんはぱあっと満面の笑みを浮かべて、跳ねた。
「わぁ――――――――い」
心の氷解を得ると、それまでの柵がまるでちっぽけなものに思えてしまう。些細な悩み、矮小な常識の先に、時として素晴らしいものが存在するのだと感じた。
フローラは、まるで柔らかなクッションのような心地よい感触を両手に、喜びに躍るスライムを、笑顔で迎えることが出来た。
「フローラさま……ありがとうございます――――」
ピエールの声は、怺えるように僅かに震えていた。
「私のことは、フローラとお呼び下さい。リュカさんと同じでありたいから」
「あ、は、はい。では、私たちのことも」
「ええ。呼び捨てにさせていただきますね、――――ピエール、スラりん」
呼び捨ては少しだけ、照れ臭かった。
「わーい、わーい、フろーラ、ふローラ」
スラりんは童子のように、人の女性の名をくり返す。
「こらスラりん。あまりはしゃぐと、フローラに迷惑です」
「はーい」
ぷうと膨れるスラりん。それでもフローラの掌が気に入ったのか、乗っている。
「うふふふっ。ねえピエール、他の皆さんのことも、紹介していただけますかしら」
「え…あ、はいっ」
ピエールは嬉々として、慌てるように声を上擦らせてしまっていた。いつも沈着冷静で、仲間たちのリーダー格でもある彼の様子が滑稽で、リュカはぷっと吹き出しそうになった。
そして、フローラたちの様子に、しばらくしてから合流しようと、リュカは思った。
リュカが姿を見せると、フローラや他の仲間たちは驚き、或いは照れ臭そうにはにかむ。
「ご、ごめんなさいあなた。わ、私ったら……」
何故か麻痺したように固まっているアプールの身体を撫でていたフローラが、慌てる。リュカは小さく笑った。
「いや、構わないよ。ん――――それよりもみんな、所用が出来た」
「たびだち、なの」
何故か嗄れたアプールの声に、リュカはんーと唸る。
「父公・ルドマン様から、エッツ島の探索を拝命した。妻のフローラも同伴する。よろしく頼むぞ」
その言葉に、リュカの仲間たちからそれぞれの声で歓声が上がった。特にスラりんは狂喜乱舞とばかりにぴょんぴょんと跳ね回り、言うに事欠いてフローラに懐く。
「コラ、どさくさ紛れやなほんまに」
キメラのメッキーがばさばさと羽根を羽ばたかせ、スラりんを払おうとする。
「何だヨお、いーじゃん」
「うふふっ」
にこりと笑うフローラ。
「あー、もうケンカはやめなさい」
仲裁するリュカ。
「事情はわかりましたぞ。時に御内儀」
マーリンが身を乗り出す。
「はい?」
「我ら魔族も、ここまで大所帯ともなれば色々とご迷惑を掛けることもありますじゃ。どうか、その時は遠慮なさらず、叱りつけてやって下され」
と、マーリンの視線の先にはスラりん。
「ボ、ぼくー?」
心外なとばかりに瞠目するスラりん。
「あ、はい……と、言ってしまって良いのかしら。ううん。マーリンさん、私の方こそ、旅慣れないうちは色々とご迷惑を掛けてしまうかも知れません。その時は、私の方こそ、叱って下さいませ」
マーリンの表情が綻んだ。それは今まで見せたことのない緩やかな表情。
「何とも、天佑を得たような御方じゃ――――」
「え……あ、あの……」
突然の言葉に戸惑うフローラ。しかし、ピエールがすぐさまフォローに入る。
「お気になされませぬように。マーリンはただ、感激しておりますので」
「まあ――――」
やはり、そこに女性がいるだけで、随分と雰囲気が変わるものだ。水の指環を探す時に同伴したビアンカもそうだったが、何分フローラは見た目が深窓の美姫である。マーリンが曰った如く、天佑神助の醇雅な気を惜しむことなく発し、ぞんざいな蛮夷の民も粛々として身を正す。それでいて決して堅苦しくない、不思議な女性だった。
「御主人との時間を奪ってしまいましたか」
船室。ガンドフをふかふかの背もたれ代わりに、スラりんやドラきち、メッキーなどに囲まれながら談笑しているフローラ。その様子を眺めながら、リュカの傍らに控えているピエールが言う。
「是非もないよ。それにしても、フローラを受け入れてくれて、良かった」
「御主人は、やはりフローラさまを――――」
その言葉に、リュカは瞼を伏せて頷いた。
「ルドマンさまも、内心お認めになった。エッツ島は知っている。レイチェルの技術ならば、往来に一日は掛からないだろう。内海だ、余程でなければ、遭難はあり得ない」
「…………」
ふと、ピエールが黙した。気持ちの良い笑い声が響く。
「どうした、ピエール」
「……辛い旅が、続きましょうに」
「フローラの決意は、枉げられない」
「お守りいたしましょう。私たちが……」
「心強く思う」
そして、ふとフローラの声がする。
「あなた、聞いて下さいまし。メッキーのお話、すごく面白いの」
「ああ、うん」
リュカは妻たちの会話の輪に入っていった。
(お守り致しましょう……我が身に代えて)
ピエールは甲板に出た。リュカを気遣い、ピエールとマーリン、プックルとアプールらが外敵を迎え撃つ態勢を敷いていた。しかし、元々外敵の少ない内海、前途を思うかのように静かであった。
ヘブン・クレーバー・マークイズ(仲賢侯)ルドルフが建てたと伝えられるエッツ島の祠堂は、二人が想像していたものより遙かに大きな構造であった。
「こんなに大規模な祠に、いったい何が……」
壺ひとつ安置しているだけにしては随分と仰々しい。
フローラはルドマンから預かった鍵で鉄門を開きながら言った。
「何でも、ルドルフおじいさまがかつて何かの……ええっと、何だったかしら――――」
失念する。
「ごめんなさい、あなた。ええと……」
「それより、よく知ってるね」
するとフローラは少しだけはにかんで言った。
「お部屋を片づけていた時に、偶然ルドルフおじいさまの日記を見つけてしまって……」
「なるほど。それでか」
「あ…………」
思わず滑った口。
「君って本当に……」
感心とも失望とも取れないリュカの表情に、フローラはしゅんとなる。
「あははは……」
リュカの笑い声。
「……もう、あなたったら――――」
揶揄されたかと思ったフローラは少しだけ頬を膨らませ、拗ねる。
そんな妻に向かい、すっと差し延べられる良人の手。他愛もない事などすぐに吹き飛んでしまう程、好きになった人の手に、そっと指を絡める。優しく握りしめられると、ふわりとした温かさが全身に伝わってゆく。
「危ないから、しっかり掴まってて。下を見ないで」
「はい……」
長い螺旋階段。地下深くまで刳り貫かれた筒状の穴。
かんかんかんかん……。
金属的な足音が強く反響する。地中に進むにつれ、心なしか気温も高くなって行くような気がした。
そして、最下層。見上げれば蒼穹は小さな穴から覗く程度だ。灯りはない。ただひとつだけ、茫然と輝く、青い壺を覗いては。
「これか――――」
奇妙な形をした壺に、リュカは不思議なものを感じた。善でも良でも、邪でも悪でもない、ゲマたちから感じた、魔界の恐懼とは明らかに違う、静かな波。
「魔物でも、封じられているのでしょうか」
フローラがふと呟く。
「面妖な、この不思議な気は何か」
リュカは何故かその壺に懐かしさに似たものを感じて止まなかった。
「お父さま……どうして、こんな」
ぴたりと、リュカに寄り添うフローラ。
「僕を信じてくれたのか――――あるいは……」
「? あなた?」
そっと、リュカは妻の肩を抱き寄せた。
「当の初めから、君の旅立ちを認めてくれていたのか」
「え……」
驚くフローラの髪を二、三度ほど指で梳くと、リュカはゆっくりと壺に背を向けた。
「ん――――戻ろうか。壺は青かったと、御義父さんに報告しなければ」
「あ、はい……」
二人は祠堂を後にした。
(また、来る時があるな)リュカはそう確信していた。
「そうか。壺は青かったか」
心なしか安堵したような父公の表情。
「して、リュカ君。フローラはどうだったね。君の足手まといにはならなかったかね。一人で駆け出したりはしなかったかね。全く、困ったものだよ……」
フローラの話になると、途端に流暢に言葉を並べる。全てが無意味な“父親の足掻き”。
「僕からは、何も申し上げることはございません――――」
それが答えだった。父公もついに観念した。
気持ちを整えてから、ゆっくりとフローラを見る。
「フローラ。この先は侯家の娘などという肩書きは通用せぬ。苛酷な路の連続ぞ」
「全て……承知致しております――――」
真剣な顔だった。
「時に自ら窮地を切り抜け、その身体を汚泥に落とし、山林の草を喰み、魔物の臓物で飢えを凌ぐ……。わかっておろうな」
「リュカさんのためならば……私は――――」
「…………」
それから父公は言葉を繋げなかった。無言の承諾。それが、愛娘と離別する父親の精一杯の表現だったのかも知れない。
「今宵は特に豪奢な料理もて、食卓を囲もうぞ。構わぬな、リュカ君」
無論だった。
晩餐は賑やかに執り行われた。フローラを巡り争ったアンディや、何かと世話になったロジェル夫妻、航海士レイチェルなども呼ばれ、会話に花が咲き誇った。
故郷としてのサラボナで過ごす最後の夜、フローラは万感の想いからか、なかなか寝付くことは出来なかった。
窓越しに見上げる月がキラキラと輝き、街を照らしている。
「リュカさん……どうして、私を――――?」
寝台に横たわり、瞼を閉じながらリュカは小さく微笑み、そして答えた。
「答えはもう、出たよ。正解だ、さすがだね」
それは茶化しているわけではなかった。
「?」
気づかないフローラ、首を傾げる。
「…………」
リュカはそのまま眠ってしまったようだった。声を掛けても、安らかな寝息だけが返ってくる。
「……もう――――」
少しだけ不満そうにため息をつくフローラ。最近、色々あって良人と肌を触れあっていなかった。それも仕方がないと思いつつ、リュカの傍らで眠れることが何よりの幸せだと思わなければならないと言い聞かせた。
そっとリュカの腕を取り、頭を乗せる。細い腕をリュカの胸に廻し、瞳を閉じた。
いつしか、フローラの意識は薄れ、静寂が包んでいった。
サラボナの街は、それでもいつもの色を変えず、人々を抱きしめてくれているのだった。