第1部 英雄関雎
第7章 honeymoon with friends

「はああ――――――――ッ」
 空気が大きく唸り、鉛色の棘球が三匹のモーザの脳天を次々に打ち砕く。
「蒼天に彷徨いし万象の精よ、一点我が名の下に集い元素の焔となれ、――――イオ――――!」
 ピエールの結印唱呪。瞬間、モーザの躯が閃光を放ち爆発する。
 ぐぉおぉぉぉぉん
 激しい悲鳴と共に、モーザたちは灰燼と帰す。
「お見事です、フローラ」
 ピエールが、細い肩を上下に揺らして息を整えるフローラに近寄り、握り拳から親指を突き出し、向ける。
「ふふっ、はぁ――――ありがとう、ピエール」
 フローラも笑みを浮かべ、ピエールの真似をする。
「ずいぶん、慣れてきたじゃないか」
 スラりんを肩に乗せたリュカが言うと、フローラはこくんと頷く。
「ええ。ありがとうあなた。……これも皆さんのおかげですわ」
 戦闘に掛かると、フローラは普段とは明らかに違う闘気を全身から発するようになっていた。それは旅立ち始めの頃のように、完全無防備な令嬢の様相ではなく、寸分なり敵を気圧すに近いものだった。
 リュカやルドマンが、内心気に掛けていた足枷も、日を追うごとに、ゆっくりなりとも軽くなって行くのを感じていた。
 ルラフェンシティに立ち寄ったリュカとフローラたちは、ディアス安定侯ルキナスに招かれ、祝福と歓待を受けた。
 ルキナスはアンディと同じく、フローラの婿候補として名乗りを上げ、サラボナに参じた人物の一人で、そのディアス家の家系は、天空八勇士の一、ジプシー・ロマ民族の姉妹を庇護した、旧王国の公卿に至るという名族とされ、末裔ルキナスのフローラを巡る経緯は周知の通り。
 しかし、皮肉にもそれがきっかけで、リュカとは顔見知りになった。
 この他にも、オラクルベリー太守エラン=フェルインなど、リュカが大神殿脱走後に培ってきた人脈は、不思議と公卿高官に広い。
「それにしても、改めて尊顔を拝すと、なんと見目麗しき御方だ」
 そう言ってルキナスが笑うと、フローラは照れたように顔を背ける。
「いや、真意だ。今になって、あの時怖じ気づいたこの身を恥じているよ」
「無理もありません。僕も二つの指環を手に入れるのは、至難の極みでしたから」
 リュカが苦笑する。
「これからも、リュカ殿はフローラ殿をお護りしながら、旅を続けてゆくのだろうな。良い覚悟をもってのことですか」
「当然です。フローラは何があっても、僕が護らなければ――――」
 リュカがそっとフローラの肩を抱き寄せる。
 公然だったが、ルキナスの前、憚らずにと言ってくれていた。
「なるほど。リュカ殿は世界一の伴侶となりましょうぞ、フローラ殿」
「え――――。まあ、そんな……」
 頬を赤らめてフローラは羞う。
「強き想いは、時として魔を鎮め、万族に遍く僥倖をもたらすものです」
 ルキナスの言葉に、リュカは目を細める。
「おお、そうだリュカ殿。この後、もしも南国テルパドールを訪れる機会あれば、ひとつ頼まれてはくれまいか」
「……何か」
 ルキナスは奉公人を呼び、命じる。
 やがて奉公人は鄭重に拝した小さな木箱をルキナスに渡す。
 その木箱は随分と年季が入ったように、色がくすんでいる。衝撃を与えれば脆くも壊れてしまいそうなものだった。
 きょとんとするリュカとフローラ。
 ルキナスは二人の前に木箱を置くと、ゆっくりとその蓋を開いた。
「……これは――――」
 幾つもの年を経て古くなり硬くなった革製のケースに、銀色のカードが幾枚も重なっている。他は時代を刻んだ形跡があるものの、本体であるそれだけは、不思議と古の輝きを秘めるように、粛然としているようだった。
「『銀のタロット』と申す、八勇士伝承の至宝だ」
 ルキナスの言葉に、リュカは瞠目した。
「まさか。八勇士の一人である占術師が用いたと言われる、あの――――」
 ルキナスはゆっくりと頷いた。
「我がディアス家の祖・アンディスが、魔界鎮撫後に託されたと伝えられる」
 遙か東洋青史にその名を『光神高経』と刻む、摂政卿アンディス・ディアス。
 ジプシー・ロマ族の姉妹を庇護した俊英として名を残したアンディス卿の名は、文献にもちらほらと登場する。
 確固たる証はないものの、ルキナスの家系を遡れば、その公卿がアンディスである可能性は高いとされていた。
「八勇士の占術師が、かつて仄かな想いを寄せていたアンディス卿に、最後の想い出として託したと云われ、ディアス家歴代の至宝として今、ここにあるもの」
「……そのようなご神宝を、なぜ僕たちに……」
 戸惑うリュカに、ルキナスは言った。
「これを、テルパドールの国王アイシス様に届けてもらいたいのだ」
「何と――――」
 二人は愕然となった。互いに顔を見合わせ、再びルキナスに視線を戻す。
「何も驚くことはない。本来の持ち主の許に、奉還するだけのこと」
 と言って、ルキナスは笑った。
「恥ずかしながら、フローラ殿の件の時のように、どうも私にはこの焦臭い世界を、遙かなる旅に出張る力に劣るのだ。ははは、これでは、アンディス卿に顔向けできませんな」
「ルキナス侯――――」
 ルキナスの戯けもそこそこにリュカは銀のタロットを拝した。
「千余年が経った今となっては、扱える者は知れず。……しかし、それでも時々見つめていると感じるのだ」
「感じる……?」
 フローラが呟く。
「アンディス卿に寄せていた、占術師の想いというものでしょうか。……何となくだが、温かな気持ちにさせてくれるような」
「…………」
 フローラが木箱を拝し、銀製のカードをじっと見つめる。
「思い込みかも知れないが、私は今になって、アンディス卿の想いを、アイシス様に伝えるべきではないかと考えることがあるのです」
「アンディス卿の想い……」
 ルキナスはゆっくりと頷いた。
「これも血の伝承か、或いは子守歌に聞かされた、遠い記憶なのか。……このタロットを眺めていると、アンディス卿へ寄せていた占術師の想いに、この心突かれるようなのです」
「まさか、そのような……」
 リュカは呆気に取られた。
「不思議なものだよ。遙か千歳の太古に在りし想いが、タロットを絆として時をも越えてゆく……」
 ルキナスの話はおとぎ話にも等しい。遠祖と八勇士に纏わる小さな伝説。想いは代を重ね、ルキナスにも夢を見させるとでも言うのだろうか。遙か古にあった、美しき占術師の夢を。
「ああ、なんてロマンチックな。よほど、寄せる想いがひとしおだったのでしょう……」
 フローラが胸に手を合わせてため息をつく。
「アンディス卿も、占術師も、再び遇うことはなかったという。だが、二人の絆はタロットを徴にして決して失われなかった。……そう、この時までな」
「その絆の徴を、ルキナス侯は何故に、手放されるのですか」
 話を聞くにつれ、ますますもって、それが霊験灼かな神宝に思えてしまう。リュカの言葉に、ルキナスは意外にもあっけらかんとして答えた。
「もう良いだろうと言うことだよ。……そう、リュカ殿。今だからこそ言おう。私はサラボナ公の高札に与り、フローラ殿をこの目にした時、思った。千歳に継承された慕情を奉還し、ルキナス・ディアスは一介の男として、フローラ殿を迎えようとな」
「…………」
 驚くフローラ、言葉を呑むリュカ。
「フローラ殿との出会いが、アンディス卿が報えなかった想いを、私が返すのかと確信することが出来た切っ掛けだったのだ」
 ルキナスは明言していなかったが、彼もまた、本気でフローラに想いを寄せていたのだ。今となってはその想いの強さが、果たしてアンディの次点であったかどうかは知る由もないが。
「しかし、誤解はしないで欲しい。銀のタロットは、決して柵などではない。むしろ、これを伝えてきたのは、神の運命のような気がするのだ」
「神の……運命」
 フローラが小さく呟く。
「そう。まるでリュカ殿。私が貴殿と出会い、友誼を交わすことがアンディス卿が受けた、占術師からの想いのひとつではなかったかと。千歳の後裔に負託された、使命ではなかったかとな」
 ルキナスの語りに、リュカは胸の奥が何故かつーんと熱くなるのを感じた。 
「僕たちのことを見越して、勇士は預言を残されたと言うのですか……」
「すごい……あなた。そうだとするならば本当にすごい……」
 フローラはリュカの腕をきゅっと握りしめる。
「……だから、責を果たした私なりに、ディアス家の遺訓に区切りをつけたい。タロットを奉還することで、遠祖の想いを果たしたとすることが、私のなすべき使命だと」
「……わかりました。銀のタロット、必ず――――」
 ルキナスの思いを、リュカは受け止めた。

「これで、ようやく新たなディアスの歴史が始まるよ」
 グラスを手に、少しばかり上気したルキナスが笑う。
「しかし、縁とは不思議なものだな」
 ルキナスは言った。
「時を越える愛などと、浮つく言葉に足らず、血統を越える愛か。全く、大層なものだ」
「ルキナス侯の父上の御代まで、アンディス卿の想いを受け継がれてきたのですね」
「卦体なものだろう。……しかし羨ましくも思うのだよ」
「羨ましい……?」
 フローラが聞き返すと、ルキナスはこくんと頷いた。
「どれほどの想いがあれば、末世に伝えうる嬖愛を生み出せるのか。人たるもの、一度はそれほどまでに愛し、また愛されてみたいと思う」
「…………」
 リュカとフローラは同時に銀のタロットが収められた木箱を見つめる。
「本物になった愛と言うのものは、決して壊れることなく、子から孫へと受け継がれてゆくのだろうか。……それが、家族――――子孫というものなのか」
「家族……子孫……」
 二人はちらりと顔を見合わせ、どちらともなく赤面し、そっぽを向いてしまった。
「……まあ、千歳の色恋は正直なところ勘弁してもらいたかったがね」
 そう言って笑うルキナス。
「ルキナス侯は――――テルパドールの……」
 リュカの言葉に、ルキナスは小さく首を横に振る。
「美しき女王とだけ聞く。だが、私は知らない。アイシス様も、おそらくディアス家のことは忘却の彼方にあるか、良くても遠い記憶の中に止めている程度だろう。……だから、この絆はお返しするべきなのだ。追憶は我が心に刻み、それぞれにある遐代への起点とすることを望み、願っている」
 過ぎた事を想い出にかえて、新しい時代へと歩み出す。ルキナスの言葉はリュカの胸に真綿に水の如く染み入るようであった。

 ルキナスからの依頼を承けたリュカたちは、ルラフェンシティを発った。一路、港湾都市ポートセルミへと向かう。
「……ねえ、あなた?」
 不意に、フローラが話しかけてきた。
「ルキナスさまはああ仰有ってましたけど……、その勇士の子孫たちも……もしかしてディアス家への想いを引き継いできたのでは、ないでしょうか」
「ん――――そうかな」
 リュカの反応に、フローラは僅かにはにかむ。
「そうあれば、良いと思いませんこと?」
「でも、僕がルキナス侯だったら、同じ事考えるなあ、きっと――――」
 と、リュカはじっとフローラを見つめる。
「え……そ、そうですの?」
「うん。そうでありたいと思うよ」
 小さく微笑み、空を見上げた。細い雲が、ゆっくりと東へと流れてゆく。フローラもリュカと同じ視線に重ねる。
「僕はさ、フローラ――――」
「はい?」
 不意に言葉を発したリュカにフローラは視線を戻す。
「僕は、それほど出来た人間じゃないんだ。――――全てを容易く割り切れるほど、強くない」
 そう言った後、ほんの刹那、沈黙が流れる。
 そして、すっとリュカの背にフローラの掌が触れた。
「……それは、私も同じですわ――――。私も、あなたと同じ――――。だから、ふたりで支えあって行ければ……」
 切なげに、フローラは頬をリュカの背中に当てた。
「そうありたいよ。……思えば君を連れ出したのは、きっと僕の本心だったのかな」
「え……?」
 フローラは少しだけ驚く。
「君がたとえサラボナに残りたいと思っていたとしても、僕は君を攫っても連れ出していたかも」
「まあ……それは本当ですの?」
 嬉しそうに、フローラの声が高まる。リュカはこくんと頷いた。
「君と出逢って、ビアンカとも出遇って……僕は今までの生き方で、それで良かったと思っていたことが変わったんだ。……よく判らないけど。きっと、今君が側にいなかったら、僕は寂寞の中で悶え苦しんでいたと思う」
「あなた――――」
「君と出逢う前に、アンディス卿の伝説を聞いていたとするならば、僕はきっと、卿に擬していたはず。……でも、今は卿の想いに肖りたい気持ちで、いっぱいだ」
「私も……同じ気持ちですわ」
「それにしても、子から孫へ受け継がれる想い……かぁ」
 リュカは徐に深呼吸をした。ほんの少しだけ感じる潮の薫りを、胸一杯に溜める。
「すごくいい言葉だと思うけど、さすがに千年後の僕たちの子孫にまで残るっていうのもね……ちょっと複雑かな?」
「まあ、うふふっ。それでは、私とあなたの愛はどのくらいの遐代まで残るのでしょう」
 冗談半分で、フローラが訊ねると、リュカは真顔で考えた。そして、言った。
「僕たちの子孫が、僕たちのことを忘れ去ってしまうまで……って言うのは?」
「あら、それではルキナスさまと同じではありません?」
「ただひとつだけ、違うところがあるよ」
「えっと……」
 リュカがぐいと、少しだけ躊躇うフローラの手を取り、引き寄せる。
「あっ……」
 どきりとして、少しばかり瞳が泳ぐフローラ。
「僕たちは今こうして、夫婦として共に歩んでいると言うことだ――――」
「まあ……それではきっと、忘れ去る事なんて、出来はしませんわ」
「違いない」
 唇を重ねる。
「僕たちの子孫か……」
 リュカは自分の言葉を意識した。その意味に、今更ながら羞いを覚える。
「あなた……?」
「う、ううん。何でもない。何でもないよ」
 しかし、フローラもその言葉に思いを巡らせ、頬を染めた。
 その時だった。
「あのー……お取り込み中のところ悪いでやすが、旦那――――」
 パタパタと羽根をはためかせ、メッキーが申し訳なさげに声を掛けてくる。リュカとフローラの他に、馭者のマーリンと彼が護衛当番だったのをすっかりと失念していた。
「あっ――――ごめん、ごめん」
 すっかりと恋愛モードの主人夫婦を、じとっと坐り目で見るメッキー。
「はい。何かしら、メッキー?」
 花の笑顔を向けるフローラ。これには敵わない。
「ええっとでやすね。ポートセルミの町までは、どうやら後二日ほどのようでやす」
「ええ、もうそんなに歩いたっけ」
 驚愕するリュカ。呆れ眼のメッキー。
「実はそうなんでやす。もう、旦那も奥様も互いを見つめ合ってそら時の経つのも早い、早いんでやすね」
 魔物だって愚痴のひとつもこぼしたくなる。
 それはあらかじめ、ピエールとマーリンが“二人の蜜月には、諸方覚悟しておくように”と言っているのだが、実際のリュカとフローラの仲の良さというのは想像に超え、目を背けたくなる時があった。
 まあ、皮肉まじりに言うメッキーも多分、リュカと共に行くまでには個々の事情があったのだろう。
「う――――ん。レイチェルさん待ちくたびれているのかな。結構、時間掛かってるかも知れないし」
 実際、流離いの旅人・魔物使いとして、ポートセルミからサラボナへの行程を推し測ると、二,三日の遅れはあった。
「メッキー、悪いけど、先遣お願いできるかな」
 よしきたとばかりに、羽根を一際大きく羽ばたかせる。
「がってん承知。何か物入りなどは」
「すぐに追いつくから、レイチェルさんの話し相手にでもなっててもらえればいいな」
「そーしますでやす。では」
 颯爽と、メッキーは飛んでいった。さすがはキメラの翼を備える魔物である。
「うふふ。本当に、皆さんって個性的で楽しいですわ」
 フローラはもう既にリュカの仲間たちと厚い信頼関係で結ばれていた。いや、簡潔に言えばフローラはリュカの仲間たちのアイドル的存在になっていた。そこはさすがは美しい少女の特権。リュカが苦労して馴らした魔物も、フローラはあっという間に手懐けたのだった。
 リュカが時々、魔物使いとしての自信を疑うほど、フローラは仲間たちから好かれている。内憂は完全に消えた。

 そして、二日後。
 一行は港湾都市・ポートセルミの町にたどり着いた。様々な意味で、リュカの人生の分岐点とも言うべき町。大きく、それでいて静かな潮風が吹き、漣の調べを聴く町――――。
 ポートセルミは外界へと旅立つ冒険者の夫婦を、ありのままに迎えた。