第1部 英雄関雎
第9章 華の未来

 踊り娘たちの舞台が続く。港町のちょっとしたホールは普段よりもワンオクターブ高いテンションに包まれていた。
「若さはいつまでもつづくもんじゃネエぜ」
 唇を歪めて濁声を発するクラリス。その後、なーんちゃってと戯けて笑う。
「クラリスさん、お綺麗ですから」
 フローラがそう返すと、クラリスはけらけらと笑った後、フローラをまっすぐに見つめた。
「そう言ってもらえるのって、すごく嬉しいことなのよねえ。ありがと、フローラさん」
 素直に言葉を受けとめるクラリスに、フローラははにかんだ。
 目立たぬ町娘の普段着姿とはいえ、クラリスは贔屓目でなくてもフローラに劣らない美貌を持ち合わせている。敢えて較べるとするならば、フローラはクラリスほどの色気に劣り、クラリスはフローラほどの清楚さに劣ると言ったところ。
「でも、いいなあ。フローラさんって、リュカくんにすごく愛されてるーって感じ」
「え……? そ、そうですか」
 その言葉にどきりとなるフローラ。
「幸せだって空気がゆんゆんと伝わってくるわよ。あー、熱いなあ」
 決して惚気ているわけではないのだが、フローラがリュカに向ける眼差しから、感情の余熱が周囲にも伝達されているようだった。
 フローラは羞い、頬を染めて俯く。
 ホールの熱気は続く。小休止を挟み、第2部へのボルテージを上げてゆく。
 その間に訪れる観客たちの喧噪すらも、実に静寂にも似た空しさを覚える。
「クラリスさんは、お好きな方はいらっしゃるの?」
 ワインボトルを鄭重に傾け、クラリスのグラスに注ぎながら、訊ねる。
「んん、好きな男ねえ――――」
 途中で言葉を止め、意味深に喉を鳴らすクラリス。
「リュカくんっ!」
 いきなり、突っ伏している男を指さした。
「えっ……あ、あの――――」
 全身の血の気がすうと引く感じのフローラ。しかし、クラリスはけらけらと笑う。
「なーんてね、冗談よ。……うーん、いないっては言えないかな」
 少しだけほっとした。
「クラリスさんは、その方にご自分の想いを告げようとは思いません?」
「私? そうねえ……。この性格で好きな人になかなか告白できないほど神妙なところがあっちゃあ笑っちゃうでしょ」
 自嘲気味に、クラリスは笑う。
「そんなこと、ありませんわ。私だって――――」
 フローラは不意にリュカと出逢った時を思い起こしてしまった。清楚可憐で従順な自分が、いきなりリュカを自室に引き入れて唇を求めた。考えられないほど、大胆な行動。それを考えれば、クラリスのことも納得できる。
「ねえ、フローラさん。私、思うんだなあ」
「…………」
 ぐいとグラスを呷るクラリス。そして、フローラのグラスにもワインを注ぐと、思いを致すかのように瞳を閉じて頤を上げた。

 ――――好きだって、言葉にするのはすごく簡単。
 相手がそれを受けとめても、拒んでも、きっとそれはすごく簡単で、良いことなのかも知れない。
 ……でもね、好きって何だろうなあ。
 その時の、一瞬の気分の高まりが、相手を好きだって思わせているんじゃないかな――――なんて、ちょっとネガティブ入っちゃってるけど。
 『好き』って言って、相手が自分の気持ちを受け入れてくれなかったならそれでも構わないのよ。
 一時はすごく哀しくなっちゃうかも知れない。ううん、実際そうだし――――って、まあそれは良いとして。
 一時の哀しみなんて時間が経てば忘れてしまうかも知れない。むしろ、それが自分にとってすごく良い経験になるわね。

 でもね――――。

 もしも、相手が『好き』を受け入れてくれた時……。もちろん、嬉しいよ。すごく嬉しい。もう、郊外の灯台の天辺から飛び降りたくなっちゃうくらい。でも……それが、一時の気分の高まりでそうだったとしたら――――どうかな。

「クラリスさん……」
 フローラはグラスに指を添え、クラリスの話にじっと耳を傾けている。

「今の自分が好き。昔からずっと好きだった……。何かが切っ掛けで惹かれ合っているとしても、それがずっと続く訳じゃないしね」
 クラリスのグラスが空になる。ルームの洋灯の光が、グラスにうっすらと浮かんだ水滴を黄金の粒に変える。
「人間って、変わるものよ。一〇年、二〇年想いが変わらずにいつづける事なんて神様じゃなければ出来ない」
「…………」
「この世界(踊り娘)と男女の恋愛ってすごく似てるの。これ以上にないほど華やかで、充実した気分になれる、そう。まるで、伝説に聞く有翼人(天空人)になって、雲に身を委ねているような気分になるわ。……だけど、それは長くない。すごく短いから、素敵だって思えるのよ」
 やがて、二度目の伴奏が静かに始まる。観客たちの喧噪がすうっと引き、音楽はゆっくりとサンバ調の盛り上がりに満ちてゆき、静まりかけた人々の熱を煽る。
 宝石に彩られたティアラや、七宝のブレス。玉の衣に着飾った踊り娘たちが、若さ溢れる魅惑的な舞いを再び披露する。
「今は私が“一応”トップって事になってるけどさ、その座もすぐに、あそこで踊っている誰か後輩の娘に譲り渡すことになるのよ。華の生命は、短いのよねえ」
「クラリスさん……」
 フローラは、クラリスが何を言いたいのか、何となくわかるような気がした。
 やがて、クラリスは自嘲気味にけらけらと笑うと、にいと白い歯を見せてフローラに空のグラスを突き出す。
「…………」
 フローラは少し慌てて、クラリスのグラスにワインを注ぐ。彼女はそれをくいとひとあおりすると、瞼を閉じているリュカを一瞥した。
「リュカくんが、あなたを選んだって話。……すごいなあ」
 その言葉にフローラは思わず瞠目してしまう。
「普通だったら、情に負けてそのビアンカさんって人、選んじゃうよね。あなたも、最初はそう思ったんじゃない?」
「そ、それは……」
 フローラは言葉を詰まらせた。
 確かに、リュカを巡ってのビアンカとのやり合いは、一言では言い尽くせないものがある。フローラもまた、ほんの一瞬でも、リュカがビアンカと一緒になった方が良いと思い込み、退陣を考えたことがあった。
「でもさ、それに逆らってあなたを選んだって事は、いよいよリュカくんは本気? ううん、大人ね」
 ぐっと、握り拳に親指を突き立て、フローラに向ける。その指先に向かってフローラは寄り目になる。
「そ、そうなんでしょうか」
 不安げに、フローラは聞き返す。するとクラリスは当然よとばかりに大きく口を開いた。
「そりゃ、そうでしょう。人間って、男も女もそんなに強くないわ。リュカくんとあなたの話を聞けば、他人から言わせればきっと多くがビアンカさんを選ばなければ人でなしーって、思うでしょうしね」
「はぁ……」
 まるで、自分が悪党のように思わせる話に、フローラはショックを受ける。
「ああ、気を悪くしないで。私ってちょっと偏屈なところがあるから思うだけだけど――――」
「いえ、良いんです。私……私はそれでもリュカさんと――――」
 ややしょぼんとするフローラに、けらけらと笑い声を浴びせるクラリス。
「判ってるわよお。フローラさんて、意外と意志が固そうだし、一時の気の迷いなんて、無縁だと思うわ」
「それ……リュカさんからも時々言われます。フローラは“ガンコ”だって」
 少しばかり、拗ねているようだ。
「それでさ、仮にリュカくんがビアンカさんを選んだとすれば、私に言わせれば彼は一時の感情に流されたとしか思えないわね。『幼なじみ』っていう奇麗な御題に凭れた、甘々のメロドラマだわ」
 その痛烈な批判に、さすがのフローラもちくりと胸が痛んだ。
「あ、あの……そこまでとは、思えませんが」
 隣で寝ている良人が気になるのか、フローラはちらちらと絶えず視線を向ける。
「いいえ。だいたいそのビアンカさんも大したタマね。だって――――」
 クラリスは熱弁を振るう。リュカに対する論説、フローラに対する提案、選択の場面での独自見解。それよりも何よりも、ビアンカ批判が、クラリスの独演会の大半を占めた。聴いているフローラもさすがにビアンカに対する憐憫の情に事欠かない。
「ふう……まあ、色々あると思うけど、私はリュカくんが情に流されないであなたと結婚したことは絶対に良かったことだと思うね」
「ありがとうございます。何か、そこまでおっしゃって下さると、すごく自信がつきますわ」
「だけど……問題はこれからかな――――」
 新たな疑念を投げかけるクラリス。全く、話に落ち着く島がない。
「リュカくんも、あなたも――――」
 その時、観衆の歓声がどおっと津波となった。舞い上がる紙吹雪、飛び交う花束。
 その圧倒的な雰囲気につられて、フローラとクラリスは舞台に振り返った。
 ひゅん……
 時機を推し測ったかのように、白薔薇の茎が弧を描き、フローラの膝にぽとりと落ちた。
「あ……」
 驚くフローラ、クラリスは笑いながら、ゆっくりとそれを摘む。
「そう言えばあなた、白薔薇って呼ばれてるそうね」
「あ――――」
 恥ずかしくなって俯いてしまう。
「名付けた人、センスがいいわあ」
 そう言っても、嫌味など微塵も感じられない。クラリスの天性の爽やかさが、伝わってくるようだった。
「花の種、大事に育てられるかなあ。綺麗な花ほど、かなりデリケートなんだよね」
 差し出された白薔薇を、フローラはそっと受けとる。
「そうですね……」
 愛おしそうに白薔薇を見つめるフローラ。クラリスは優しく笑うと、腕を振り上げて背伸びをした。
「あーあ、何か話してて私も急に恋愛してみたくなっちゃったかも」
「クラリスさん……」
「ははっ。ごめんねえ。私ってさ、ホントの事言うとさ、家出ちうな訳よ」
「え……?」
 愕然となるフローラ。クラリスは淡々と笑いながら続ける。
「ちょっとばかし親と大喧嘩しちゃってね。もう、勘当同然。だからからかなあ。なんて言うの? 逆境というものが好きでねえ、こう……応援したくなっちゃうって言うか――――」
「どのくらいに、なるのですか? お家を出てから」
 思案顔をクラリスに向けるフローラ。
「んー、そうねえ。かれこれ、3年くらいにはなるかなあ。……ははっ、なあに? 気になる?」
 にやりとするクラリスに、フローラはあっとなって俯く。
「その……クラリスさんの御両親、きっと心配されてますわ」
「……そうね。そうであって欲しいよ……うん――――」
 ふと、クラリスの瞳に映った寂しげな色を、フローラは見逃さなかった。
「クラリスさん、やっぱり……」
「ん――――そうね。でもさフローラさん。私はあなたやリュカくんみたいに強くないの。きっと、偉そうなこと言っているけど――――」
「…………」
 安易に慰める言葉も見つからない。クラリスが抱える事情は、フローラの憶測を遥かに超えるものがあった。
「まっすぐ信じていれば、花は綺麗なままでいられると思うな」
 突然の声に、フローラとクラリスは愕然となる。
「あ、あなた。起きていらっしゃったの?」
「も、もうっ、驚かすなー」
 リュカはゆっくりと頭を上げて鼻の頭を指で擦る。
「こんな所で眠れるならば、宿の意味はないかもね」
 やや気怠そうな声。酔いは冷めていないようだった。
「クラリスさんは、未来が怖い?」
 リュカの言葉に、クラリスはどきりとなる。
「そ、そんなことは……ないよ」
「僕は、過去も未来も信じている。いや……信じていたいと思う。だって、今僕がここにこうしているのは、過去があって、そしてこれから歩んでゆくはずの未来があるからじゃないかな。それを信じていられなければ、綺麗な花も、くすんでしまうよ」
「……じゃあ、リュカくんはこの先もずっと、今の気持ちのままで、フローラさんを愛しつづけることが出来る? 約束できる?」
 僅かながら語気を強めたクラリスの質問に、フローラは息を呑んで良人の答弁を待った。
 リュカはちらりとフローラを見ると、小さく微笑み、クラリスに向かい答えた。
「約束は、出来ません」
「え――――?」
「…………」
 愕然となる二人。しかし、リュカはすぐに続けた。
「『今の気持ちのままで』って言うことには、約束は出来ない。だって、クラリスさんも言ったじゃないか。一〇年、二〇年も変わらずにいつづけるなんてできないって」
「う、うん……そりゃ、そうだと思うけどさ」
 リュカは徐に肩をすくめるフローラをぐいと引き寄せた。
「あっ……!」
 良人の胸に抱かれるフローラ。人前で抱き寄せられ、酔いで上気した貌が、さらに真っ赤になる。
「僕はこの先、今の気持ち以上に、フローラを愛することが出来るって、信じているから。何があっても……僕は信じている。どんなことがあっても、僕はフローラを離さないでいる」
「あなた……」
 アルコールがいつも以上にリュカを達弁にさせていた。フローラは恍惚となり、リュカの胸にきゅっとしがみつく。
「……そっか。信じている――――か」
 小さく、クラリスは笑った。
「すごく、良い言葉ね」
 そこはかとなく、哀しげな感じがするクラリスの笑顔。
「リュカくんだったらいつか必ず、その言葉が結実するのねえ」
「いつか……?」
 リュカの言葉に、クラリスはまるで何かを見透かしているかのように、けらけらと笑う。
「花はね、大事にしすぎても枯れちゃうんだよ。それに、沢山並んでいても、目にはいるのはひとつだけ……。それが他の花より短い生命でも、その人にとっては、その花以上のものはないんだなあ」
「クラリスさん?」
 そっとリュカの胸を押して離れたフローラが、にいと笑っているクラリスを振り向く。
「なーんてね。ちょっと物語の受け売りやってみましたー」
「…………」
 リュカとフローラの眼差しを一身に受けるクラリス。思わず羞ってしまう。
「や、やだ二人とも……そんなに見つめないでよ。……ああ、そうだ!」
 突然、クラリスはグラスを磨いているバーテンを呼ぶと、何かを話す。そして、ちらちらと舞台の方を見ながら頷くと、バーテンはカウンターを出て、奥の方へと姿を消していった。
 クラリスは笑いながらリュカたちに向き直る。
「うーん、柄にもなく湿気た話になっちゃったから気分転換しよ。今日はオフだけど、せっかくリュカくんに再会できたし、おまけにフローラさんとも知り合えたし、結婚記念も兼ねて、クラリス、踊らせていただきます!」
「ええっ。クラリスさんの踊り、鑑賞させていただけますの」
 歓喜するフローラ。
「良いんですか。今日は用事が――――」
「今からフラフラと暗い夜道に歩き出せと?」
「そうじゃなくても、お酒が入っているのに舞台は……」
「ははは、ばかねえ。私はお酒が入っているほど、踊りに磨きがかかるのよ」
 と、自信満々に席を立ち、身をくねらす。確かに、美しい曲線を描いているように見えた。
「初めて聞きました」
「ふふんっ」
 じゃあねえとリュカたちにウインクを送り、クラリスは素朴な香りを残し、バーテンと同じ方へと消えた。
「…………」
「クラリスさんって、すごい人ですわ」
 フローラの呟きに、リュカは小さく微笑む。
「すごく戯けているように見えるけど、時々いいこと言うからなあ、あの人」
「クラリスさんはきっと、今のご自分よりも、ずっと先のことを考えているのです」
「見えない、未来か……」
 リュカの呟きに、フローラは小さくため息をつく。
「未来が怖い……と言うよりも、クラリスさんは本気の“想い”を求めているのではないでしょうか」
「本気の想い?」
 リュカは妻の言葉にはっとした。
「ひとときの感情に囚われることがない、ずっと……ずっとその人だけを想いつづけることが出来る恋を――――」
 言いながら、フローラはそっと良人の腕に手を添える。
 やがて、ホールのスポットライトが一斉にダウンし、司会の声がホール全体に響いてゆく。
『今日のお客さんはラッキーだ。なんと本日はオフで予定のなかった我らがスター、クラリスが特別に参加するぜ』
 思いもかけない幸運に、どよめきと更なる歓声がホール全体を圧倒する。
「ラッキー? クラリスさんが出るとラッキーなのか」
 リュカの疑問に、フローラが答える。
「何でも、クラリスさんが出演される日は、割高らしいの」
「あ、なるほど」
 妙に納得できる。
 やがて、司会のトークが終わると、スポットライトが一点に集中し、いよいよ主役を出迎える。
 衣装の着付けから丹念な化粧、舞踊の手順。踊り娘の職はただ数十分の舞台のために、ほぼ一日を予行に費やす、見た目以上にハードな職業であるはずだった。
 観客の声援に持ち上げられ、高露出の妖艶な衣装に身を包んだクラリスが幕から飛び出し、躍動する。
 ほんの数十分前まで心象に残らないような町娘の格好だったクラリスが、今は舞台の上で全ての観衆の視線を受けている。さすがはトップスターの貫禄というものなのか。
 サンバ、ボサノバ、レゲエなど、様々な曲調に合わせて、クラリスの舞いが続く。人々は時に歓声をも忘れて魅入る。リュカとフローラも、自然と食い入るように、ポートセルミ一の舞姫のドラマを堪能するのだ。
「生命が短いから美しい……か」
 ふとリュカが呟く。
「あなた……」
 いつからかフローラは、リュカの横顔を見つめていた。
「僕は、どんなことがあってもこの想いを消さない。生きて、ずっとフローラ、君を離さない」
 自分に言い聞かせるかのように、リュカは言った。
「はい……」
 そっと手を握り合う二人。
「花の種は……僕と君で育てるさ。どんなものにも負けない、強くて美しく、永遠を求めるような花を……僕は作りたい――――」
「うれしい……ほんと? ほんとうに、そう思ってくれますか?」
「…………」
 リュカは妻を引き寄せ、抱きしめる。
 クラリスの舞いは様々な想いを秘めているように時に激しく、時に哀しく、ホールを別世界へと引き込んでゆくようだった。

 時は過ぎ、その日の公演は終わりを迎える。
 熱気に包まれたホールから続々と観衆たちが帰宅の途に着き、或いは旅人や船乗りたちがまばらに酒場に与る。
 フローラはともかく、リュカはいよいよ良いが全身を駆け巡り、足元が覚束無い様子だった。
「あらー、リュカくんもうダウン?」
 踊り娘の服から見える仄かに上気した肌。フローラに支えられたリュカが、その艶姿を堪能するには時機が悪い。
「あ、クラリスさん……すごく良かったですわ。ありがとうございます」
「あははっ、ありがとう。……って、それよりもリュカくん大丈夫?」
「ええ。もう今日はこのまま寝かせますわ」
「んん――――…………」
 リュカは立っているのもやっとという感じでフローラの細い肩に腕を廻している。
 クラリスはその様子に、何を思ったか急にけらけらと笑ってしまう。
「いいっ。良いわよ何か。うんうん、それそれ」
「?」
 フローラは首を傾げて大笑するクラリスを見る。
「フローラさん。リュカくんのこと、絶対に放しちゃダメよ。あなたがいないと……ふふっ」
「え、え?」
「じゃ、お幸せに。元気でね!」
 クラリスはそう言って笑うと、フローラに向けて掌を振り、身を翻して去っていった。
「んん――――…………あれ、今クラリスさんが」
 むくりとリュカが顔を上げる。フローラの心配そうな表情が映った。
「あぁ……フローラ。眠い――――」
 嗄れた声。苦笑するフローラ。
「あなた――――リュカさん。お部屋まで頑張って下さいな。しっかりして下さい」
 フローラが取った部屋は階段を上ったすぐの部屋であった。
 一歩、一歩、良人を支えながら階段を上ってゆく。気怠そうなため息、足取り。フローラは懸命にリュカを支える。
 やがて上りきり、すぐの扉にフローラは手を掛けた。
 その瞬間、フローラは背後から抱きしめられ、扉に背中を押しつけられた。
「きゃっ!」
 小さな悲鳴もすぐに封じられる。
 おぼろげな表情のリュカが少し乱暴にフローラの唇を塞いでいた。アルコールの臭いの息がフローラの口に広がり、苦い味のする舌が絡まる。
「んん……あなた……だめです……」
 必至で唇を離し、困ったようにフローラが言う。
「フローラ……僕は君が欲しい……君だけが好きなんだ……」
「…………」
 甘えるような良人の切ない表情に、フローラは麻薬にでも冒されたかのように力が抜けてゆく。
 リュカの腕がフローラの背中を包み、フローラの細い腕が、リュカの首に絡まる。そして再び、酔った良人の激しいキスが降りそそいだ。
 誰も歩いていない廊下に、下階の客の笑い声、そして片隅で抱き合う若い恋人の唇と舌が絡み合う音が響いていた。