第1部 英雄関雎
第10章 月影の汀

 眩しいほどの蒼天が広がる翌朝、リュカたちは朝食を済ませてすぐ、レイチェルが控えているルドマンの帆船・ストレンジャー号に搭乗した。長の船旅に備えての各種必要物資は、メッキーを経由してレイチェルが取りそろえてくれていた。
 そして、リュカの計らいでアルカパ、ラインハット、オラクルベリー、カジノ船等へ渡航したい旅人や一般人を同乗させた。
 考えてみれば、リュカとフローラ、そして仲間たちとレイチェルを始めとする数人の水夫たちだけではこの船は広すぎる。また、取りあえずは短期航路のビスタ行だ。フローラのためにも、少しでも賑やかな方が良いだろうという良人らしい妻への計らいであった。
 南北ベレス海に生息する獰猛な蛮戎・海洋魔族は、経験豊富なレイチェルら水夫たち、そしてリュカやピエールらの仲間たちがいれば鎮めることが出来、航海上の安全に深刻な懸念はないという。
 行先はリュカの意志に任せられ、舵はレイチェルが取ることで最終確認をし、いよいよ、文字通り新世界へ向けての船出を迎えることになった。
 ポートセルミ中央埠頭からは、南北に聯綿と続く街の姿が見える。実はこの埠頭から見る夜景は密かなスポットなのだと、クラリスが言っていた。
 そのクラリスがリュカたちを見送るように、桟橋に駆けつけ、二人に大きく手を振る。
(さよなら、また会おうね)
 どこかしか聞き慣れた、月並みな別れの挨拶だが、すうと心に染みる言葉だ。
 やがて、搭乗用の板が収められ、侯家の紋が刺繍された帆が開かれ、潮風を含む。
「出帆――――――――――――!」
 水夫の掛け声が山彦のように続き、艫に立つリュカとフローラの瞳から、ゆっくりとポートセルミの街、そして西大陸が遠離ってゆく。
「…………」
 しっかりとリュカの胸に手を添えながら街を見つめていたフローラ。小さく、呟いた。
「いよいよ、旅立ちなのですね……」
 その言葉に、リュカは右手でフローラの手をぎゅっと握りしめ、左手で風に靡く青い髪を梳く。
「不安になってきた?」
 リュカの言葉に、フローラはゆっくりと首を横に振る。
「嬉しくて、心がすごくわくわくして……。こんな気持ち、初めてなの……だから……」
 リュカはくすと微笑んだ。
「これで正真正銘、君と僕は片時も離れないでいる」
「はい……」
 フローラもまた、リュカを見上げ、微笑んだ。
 しかし……
「っっっ……」
 急に顰め面をするリュカ。驚くフローラ。
「ご、ゴメン。昨夜のお酒が……」
「え……まぁ!」
 軽い二日酔いだった。フローラはほんの僅かに呆れたように声を上げ、すぐに可笑しくなって笑った。

 しばらく船室で身体を休めたリュカ。目覚めると既に昼過ぎ。周囲は人々の声で賑やかである。
 潮の薫りを吸うために、リュカはデッキに出た。
「ビスタの港までは、ほぼ一〇日の日程でやーす」
 一見、船首像かと思わせるメッキーが得意気に言う。やはり風を受ける場所が好きなようだ。彼の方向・時間感覚は当てに出来る。正しく、生きている羅針盤。
「メッキー、その調子でレイさんの補佐、よろしくな」
 リュカが手を振りながら声を張り上げて言うと、メッキーはくるりと振り返り、嘴を大きく開いた。
「がってん承知でやんすー。このまま東北東に針路を取るでやんすよおー」
 笑顔を送り、リュカはデッキを巡った。
 夫々の思いを懐き、ポートセルミから発つ人たちが、海と空の境界線を見つめている。
 リュカの姿に気がつくと、人々は深々とリュカに謝意を示してくる。低頭されるのが得意じゃないリュカは、何となくこそばゆかった。
 そして、舷に佇む青い髪の少女。フローラもまた、潮風に石竹色のリボンを揺らしながら、水平線を眺めていた。
「フローラ」
「…………」
 リュカが声を掛ける。しかし、フローラはぼうっと青の境界を見つめ続け、リュカに気づかない様子。その表情はそこはかとなく切なげに見えた。
「フローラ」
 もう一度、声を掛けてみた。
「……え、あっ――――あなた……」
 突然目覚めさせられたかのように驚き、振り向くフローラ。リュカを見つめ、どことなく無理に微笑む。
「どうした。気分でも、悪いの?」
「え……ううん、違うの。ごめんなさい……。この景色につい、見とれていて」
「…………」
 リュカはしばらく、わずかに潤み輝くその瞳を見つめ、頷いた。
「海の風も、しばらく当たっていると身体に悪いから、しばらくしたら中へ入るんだよ」
「はい……ありがとう、あなた」
 リュカの言葉に表情を綻ばせたフローラ。だが、リュカが離れようと足を踏み出した途端、思わず良人を呼び止めていた。
「あなた」
「……ん?」
 立ち止まり、振り向くリュカ。
「…………」
 フローラは結んだ可憐な花の唇を僅かに震わせ、時折澄んだ瞳をリュカに向け、逡巡する。
「どうか、したの?」
 リュカは妻の様子に不安を覚えずにはいられなかった。声にも、少しずつその色がにじみ出す。
 しかしフローラは一瞬、視線をずらしただけで、すぐに繕ったような微笑みを向ける。
「ごめんなさいあなた。す、少しばかり慣れないせいですわ。心配なさらないで」
「いや、しかし……」
 気遣うリュカに、フローラは小さく首を振る。リュカはそれ以上、何も言わなかった。
「そうか。とにかく、ここに長くいれば身体に障る。落ち着いたら、部屋で休むんだ」
「ええ。ありがとうございます、あなた……」
 再び、フローラは水平線へと視線を戻す。リュカは気になりながらもフローラの側を離れた。
 マーマン、しびれくらげ、プクプクなどの海洋魔族には日に二、三度の頻度で会戦した。舳に監視するメッキーを中心に、海上戦が不慣れなピエール、アプールらは退避し、スラりん、ドラきち、マーリンらがこれに対峙し無難に処した。
 一方、幽霊船長、シードッグなどのベレス海の蛮戎は、頻繁にストレンジャー号に対し攻撃を仕掛けてくることはなかったが、攻撃を受けると彼らはさすがに手強く、リュカを先鋒にレイチェルらの水夫勢が都度撃退していた。
「ルドマン様は多少、ベレス海の危険を案じていた。正しくその通りだ」
 リュカは行動を共にする他の旅人たちの安全も図り、極力デッキに常駐せざるを得なかった。
「すまない。向こうに着いたら、少しゆっくりしよう」
「私のことはお気になさらないで下さい、あなた……くすっ」
 フローラはそう言って微笑んでくれるが、リュカは舷で見た彼女の寂しげな横顔がどうにも気になって仕方がなかった。しかし、今はそれを話しているゆとりはない。ごめんと一言を残し、デッキに向かった。

 十日が経った。
 北ベレス海は年間を通じて、所謂“北ベレス海高気圧群”と呼ばれる高気圧のたまり場であるために、海も余程のことがない限り時化ると言うことはない。安定期からすれば、ビスタ港からカジノ船、ポートセルミの航路は、操舵仮免許向けのイージーラインなのだ。
 ストレンジャー号は幾度の魔族蛮戎の攻撃を経て、ほぼ目下の予定通りにビスタ港の影を水平に映した。
「寄港まで後、二刻でやんす――――」
 メッキーの持つ翼の神速は、ビスタ港とストレンジャー号の距離を測り、正確な到達時間を割り出してくれていた。
 “生きる羅針盤”メッキーの掛け声を受けた水夫たちはいよいよ寄港準備のために動き出す。既に他の旅人たちもそわそわとし始めていた。
 リュカもようやく長丁場のデッキ暮らしを終わらせることが出来る。思わず両腕を思いきり空に伸ばし、深呼吸をした。
 船旅の際にルドマン一家が在していたとされる特別室に向かうと、フローラは鏡台に向かって何かを考えている様子だった。
「フローラ、もうすぐ着くから。準備して」
「…………はい」
 リュカに向き、こくんと頷く。やはり、どこかしか元気がない。
「フローラ。……大丈夫か」
「…………ええ」
 力がなかった。
「あなた……?」
 不意に良人を呼び止める。
「うん?」
「…………」
「…………」
「ううん。何でもありませんわ」
「…………」
 リュカは小さく頷くと、ドアを閉めた。そしてそのまま扉に寄りかかり、ため息をつく。
 やがて、霧笛が数度鳴らされる。眼前には久しぶりに見る緑と土の景色が広がり、船の速度がゆっくりと落ちてゆく。
 桟橋に立ち、信号を送っている水先人。それに答えるかのように、霧笛信号が鳴る。
 やがて、目測よりも意外に時間が掛かり、ストレンジャー号は所定の位置に停船した。
「…………」
 いざ、下船へと身を動かしたその時だった。
 不意にリュカの目の前を、鴎が数羽、過ぎった。そして、一陣の柔らかく、涼しい潮風が鼻を掠め、陽光が雲の切れ間に隠れ、すぐにその姿を戻す。幾何学的模様の雲の影が、世界を彩った。
 その光景に、リュカの心の奥底に懐かしさを芽生えさせ、まるでマグマの如く溢れ出してきた。
 あの瞬間は忘れたことがない。パパスに連れられて、降り立った幼い日の港。

 ばたん……!

「…………!」
 何故かリュカは扉を猛然と開いていた。すると、酷く驚いたフローラが目の前に立っていた。危うく、扉でフローラを叩きつけるところだった。
「あ、あなた……どう、なさいましたの?」
「あ――――いや……ごめん……大丈夫?」
「え、ええ……」
 リュカは顔を紅潮させて項垂れた。何故かフローラの顔を直視できなかった。
「…………」

 旅人たちはリュカたちに仰々しく辞儀をしながら下船してゆく。人から頭を下げられるのが苦手なリュカ、赤面して困惑する。フローラが、リュカに代わった。
「あなたって、本当に雲心月性な人なのですね、ふふっ」
 最後の乗客を見送った後、フローラはそう言って微笑んだ。
「そんなことはないよ。ただ、ああされるのが苦手なんだ」
 照れ笑いするリュカ。そんな良人を愛おしげに見つめたフローラだったが、すぐに切ない色に変わり俯く。
「御主人、長の船旅お疲れでしたな」
 マーリンが笑顔で労いの言葉をかけてくる。
「ああ、マーリンも初めての船旅お疲れだったね。みんなにも取りあえず休息を取るように伝えてくれ」
「お気遣い感謝しますぞ。皆には既にかように申し伝えておりまするじゃ」
「さすがだね。言うまででもなかったか」
「時に御主人、御内儀も久方の地上。少しばかりならしてゆかれた方がよいのでは」
 マーリンはフローラを一瞥した後、リュカに向かってそう言った。知嚢の言葉の意味を、リュカは判っていた。
「そうだね。フローラにとってもここから先は――――」
 言いかけて、何故かリュカは言葉を失った。
「? いかがされた、御主人」
「ん……あ、いやごめん。何でもない。そう――――ここから先も、気を引き締めて行かないと……」
 時宜を外れたリュカ。マーリンは二人を見回しひとつ唸ると、思いを巡らすかのように瞼を閉じ、ゆっくりと下船していった。
 ラインハット城下まではほぼ二週間の道程である。しばらくは休むことになるストレンジャー号は、このままビスタの船渠に碇泊することになった。レイチェルが滞在し、リュカたちの戻りを待つことになる。
 ポートセルミと較べればそれはもう何も目立った物がない、寂寥とした港。嘗てはオラクルベリー、サラボナ間の航路の要衝、ラインハットの主要貿易港として絶大な繁栄を誇ったとされるのだが、それははや遠い昔日の時代が遺す伝説なのか。一〇余年前に父パパスと共に見た風景の記憶よりも、またひとつ寂れている気がした。
 ビスタの管理棟。本来は港を統括するためにラインハット王室に任命された、貿易省官僚の駐在所だったのだが、今は壮年の水先人夫婦が事実上住居にしている。それほど多くは泊まれないが、一部改築して宿としても営んでいる。船舶の入出港が激減した昨今、これがそれに勝る唯一の収入源だ。
 下船した多くの旅人は気が急くのか数時の休憩を挟んで旅立っていった。サンタローズの滅亡を知らず行ったのだろう。少なくとも、ビスタ港に留まるよりは、サンタローズの村の方が旅程上は便利で融通が利くとされる。
 結局、水先人夫婦の宿にひと晩与るのは、リュカたちと、老年の旅人数人程度であった。
「そんなに慌てることもないから、ゆっくり行こうね」
 妻を気遣うリュカ。フローラは少し肩をすくめて頷く。リュカとしては、出航以来元気のないフローラに原因を訊ねるよい切っ掛けであるような気もしていた。

 『ビスタの宿』は自炊である。まあ、寝床はもとより、船乗りたち用の浴場がある分だけ文句は言えないのだが。
 備え付けの調理道具を用いて、リュカやピエールが捏ねた小麦をフローラが火で炙り、麺麭を作る。
 それでもフローラにとって、料理の腕は上達している方である。それどころか、焼き方の絶妙な加減は、フローラ天性の資質と言えるほど、長い日数炊事担当をしてきたリュカやピエールたちのそれよりも上手かった。
 一通り炊事がこなせるようになれば、粗忽な男の手料理などよりもうん万倍も美味な食事が期待できよう。
 諸々の事情を込めて、ほぼ一ヶ月弱という船上での生活は初めてと言うこともあり、結構疲労をもたらしていた。
 仲間たちは揺るがない地上に安心するかのように、食後しばらく経たないうちに眠りの淵に即落ちしてゆく。
 リュカは疲れもあってか、なかなか切っ掛けが掴めないままに時は過ぎてゆく。
 やがて、波の音遙かに、リュカとフローラもとうとう微睡みの境を漂っていた。

 ふと、夜気に誘われてリュカの意識が明らかになった。視線を横に向けると、眠っているはずの妻の茵は空だった。
「フローラ……?」
 起きあがり、窓を見遣った。皓々たる月明かりが差し込み、青白い幻想的な雰囲気を醸し出している。
 窓からは右手にストレンジャー号が寝ている船渠の影、左手には長く続く砂浜の汀が続いていた。漣が月光を映しながら、静かに寄せている。
 リュカは妙に落ち着いた様子で外に出た。何となく、フローラの居場所がわかるような気がしたからだった。
「…………」
 月光のシルエットが、汀にあった。時折通り抜けてゆく微風が、その美しい髪をさらりと撫でてゆく。
 フローラの背中に、リュカは声を掛けるのを躊躇っていた。もどかしいほどの胸のつっかえが、心とは裏腹に焦燥させてゆく。
 フローラの背が小さく竦み、ふと向いた横顔に、リュカは愕然となった。
「あ…………」
 妻の瞳から一つ零れた透明な宝石を見た瞬間、それがスイッチのように、突然きゅるきゅると投影機の映像のように、リュカの記憶が激しく遡ってゆく。

 それは、遠い日のセピアの記憶。
 月並みの事。港に、ビスタの港に着いたと、水夫たちは知らせる。
 あの日も、同じ空だった。鴎が出迎え、白い雲が空を彩り、涼しい潮風が薫っていた。
『そうか。よし、それでは準備だ、リュカ』
 乗下船の客が一通り落ち着いた後、リュカはパパスに手を引かれてデッキに出る。
『眩いな。久方ぶりの外気だ。空気が旨い』
 胸一杯に、パパスは潮の香を吸い込む。
 船の昇降に使う舷梯。水夫たちが数人掛かりで設置する。手慣れた感じだが、やはりそれは相当に重量があるのか、汗だくだった。
『船長、世話になったな』
 ここまで旅を共にして頂き、送別のために姿を見せた船長にパパスは礼を述べた。挨拶もそこそこに、父子は舷梯を伝おうとした。
 その時、四十前ほどの壮年の男性が、パパスに軽い会釈をしてデッキに上ってきた。
『これは旅の方。失礼致します』
 どこぞの貴族・豪商かと思わせる出で立ちに似合わず、恭謙に挨拶を述べる。リュカは子供心ながらも、その壮士の持つ気品さは感じていたのかも知れない。
 そして、それは本当に刹那の事。
『…………』
 壮士の子供なのであろう、青い髪の少女が船縁を乗り越えられず戸惑っていた。
『おお、お嬢ちゃんにはいささか高すぎたか。どれ、私が――――』
 パパスは少女の両脇に腕を差し入れ、軽々しく持ち上げ、デッキに優しく下ろした。
『あ、ありがとう……』
 純粋で大きな瞳をぱちぱちとさせながら、少女はぺこりと頭を下げた。
『おお。実に良いお嬢ちゃんだ』
 パパスが優しく頭を撫でて上げると、少女はこそばゆいとばかりに眼を細める。
『…………』
『…………』
 リュカとその少女は、そのとき一瞬だけ瞳が合った。
『おお、もしやあなた様がパパス殿――――』
『ん――――だとするならば、貴方はサラボナの……』
 パパスと壮士は見識があったのか、二人は丁寧に挨拶を交わし、子供にはわからない雑談を交わしている。
 どうするわけでもなかったが、パパスと壮士の話が終わるまで、リュカは短い時間だが空いた。
『すぐに話は済むからな、リュカ』
『ははは。娘とお友達になってくれたのかい』
 壮士の言葉。リュカは恭々しく船室へと向かったその少女の後を追った。
 旅先ではほとんど見かけなかった、自分と同じ歳ほどの子が珍しかった。話がしたかったのだろう。
 少女は特別室と呼ばれる広い部屋にあった。そこの扉は開いていた。
 そっと覗くと、少女は鏡台の椅子に静かに坐り、鏡に映った自分をまっすぐ見つめている。どこかしか寂しげであり、可愛くて可憐であった。
『こんにちは』
 リュカが声を掛けると、少女は驚いたように肩を竦め、振り返る。見知らぬ少年の姿に、少しばかり不機嫌そうに返した
『あなた、だあれ?』
『ぼく……ぼくはリュカ! パパスのむすこのリュカ』
 リュカは満面の笑顔で自己紹介をした。
 その不審な少年の瞳をじっと睨むように見ていた少女の表情から、次第に曇りが消えてゆく。
『え? お父さんと一緒に旅してるの?』
『うんっ! きみも?』
『わたしも、お父さまと一緒に来たのよ』
 こくんと頷き、少女はにこりと笑った。
 リュカと少女は、二三他愛もない話を交わした。そして……
『あ、わたしは――――』

 …………フローラ…………

「…………!」
 フラッシュバックが中断し、リュカは妻の背中を見つめた。間違いない。あの日あの時、刹那の出逢い。記憶の筺に仕舞われたままの青い髪の可憐な少女は、この愛おしき女性だった。

『海って、なんだか広くて怖いのね』

 フローラがそう呟いた後、リュカはパパスに呼ばれ、そのまま船を下りた。挨拶もそこそこに、さよならもないままの、一期一会。
 ただ、それだけの出逢いだった。それからリュカを巡る数多くの運命の中で、埋もれてゆく記憶の筺。それが今、何よりも強く輝き出し、リュカの脳裏を包み込んでゆく。

「海は、やっぱり怖い?」
「え……!」
 突然声を掛けられたフローラは愕然となり、振り返った。
「あなた……?」
 月光に映える良人の優しい表情。リュカはまっすぐ、何かを訴えるかのようなフローラの瞳を見つめる。
「船はちょっと苦手だったかな。長いとね、特に……」
「…………」
 リュカは自然に声を掛けていた。フローラの傍に寄り、肩を並べる。
 月光が波間に揺れていた。
 一定の間隔で寄せる漣の音だけが心地よきその静けさは、一人心を追憶の場面に導き、感傷にひたり、そして何よりも、忘れかけた大切なものを甦らせるような不思議な景色と雰囲気を作り出していた。
 月光に照らされたフローラの横顔。本当にこの美少女は儚げな月影がよく似合う。放っておけば、本当にこの景色に解けてしまいそうだ。それほどに、胸を突かれる程に、彼女の美しさを引き立てていた。
「思い出したよ……」
「…………」
 リュカの言葉に、フローラは息を呑んだ。
「君と初めて……出逢っていた日のこと」
「…………はい」
 フローラの返事は、嬉しさと温かさに溢れていた。
 そして二人はしばらくの間、波に揺れる月明かりを見つめていた。
 とても静かな夜半。漣のリズムが心地よい。疲れた身体や心がすうと癒されてゆく。呪文や薬草を使わない、自然のヒーリングという言葉は厚かましいか。夜の浜辺で二人こうして見つめる宇宙は、本当に不思議な気分にさせる。
「そうだったんだ…………」
 リュカはそう呟きながら、自らも鼻の奥深くがつんと熱くなるのを感じていた。