第1部 英雄関雎
第15章 Tenderly

 リュカと話がしたいと言うヘンリーに諭されて、マリアはフローラと共に、互いの伴侶から少し席を離す。
「正直申しますとね、男の人同士でする話って、興味があるのです」
 マリアはそう言って微笑む。
 フローラが良人とヘンリーを向くと、二人は眼をつき合わせ、時に肩を揺らし、時に唇を真一文字に結びながら笑い、顰めながら談笑しているようだった。
「あ。そう言えば私、リュカさんが他の男の人と親しそうに会話する姿を見るのは、初めてですわ」
 フローラがリュカの対人関係に関して特に印象深いのは、男性の知人が思ったよりも少ないこと。
 それは目の前のマリアや、ポートセルミの踊り娘クラリス、そしてビアンカなど、傍目から見ても気が休まらないほどの美女と親しげに話す姿が思い浮かぶ。
 同じ男性と言っても、父であるルドマンを除けば、幼い頃に刹那の印象にあるリュカの父パパス。自分の幼なじみであるアンディとは決して胸襟を開く間柄であるとは言えないし、ルラフェン安定侯ルキナス・ディアスらとも、ささやかな知遇を得ただけの関係であり、深い親交とは言えない。
 リュカとヘンリー。あまり自分には見せない喜怒哀楽が混淆した良人の横顔の表情に、思わずフローラは見とれ、そして何故か小さな嫉妬を感じる。
「修道院の人たちの話に事欠きませんでしたわ、リュカさまって」
 リュカたちが修道院近くの海岸に漂着して間もなくフローラが復飾のために修道院を退院した。それからしばらくの後に、マリアが洗礼を受けた。当然、フローラが在籍していた時に、リュカのことを深く知るはずもない。
「まあ。そ、そうなのですか」
 フローラの言葉がどもる。
 確かに修道院には若いシスターもいた。彼女たちは皆朝夕に祈りを捧げ、敷地の畠を耕し槇を彫刻し、それを名産に自給自足に与る敬虔な使徒である。
 それがリュカにちやほやし見とれるなど想像に難い。
「ヘンリーさまって、あの通りの感じですし。リュカさまは寡黙でいつも遠くを見つめるような瞳をされていて……。それでもお話をする時は真剣に聞いてくださって、優しく微笑んでくれますの。シスターばかりでなくても、リュカさまが人々にこよなく慕われるのも、わかりますわ」
 マリアの言葉は尤もだった。良人がそう思われるのは悪い気分ではない。しかし、それと同時にそこはかとない妬みもまた、漣のように心を包んでゆく。フローラは親友と談笑している良人に数えきれないほどの視線を送りながら、自分の知らない時のリュカの話に興味を惹かれていた。
「そうね……もう時効でしょうから、言っても良いでしょうね――――」
「?」
 マリアはヘンリーたちを一瞥すると、フローラに向き直り、顔を近づける。きょとんとするフローラに、囁くように言った。

「実は……私もリュカさまのことをお慕いしてましたのよ」

「え――――――――!」
 どくんと、フローラの胸が鳴った。マリアは過去を振り返るかのように、屈託無く笑う。
「大神殿で奴隷となった時、二人と出逢ったのですが、リュカさまは超然とされていて……ずっと気になっていましたの」
「…………」
「私は奴隷になって幾日も経っていない。お二人は十にも満たない内から、もう十年以上も虜囚の辱めを受けてきているはずなのに、生気を失わない瞳が印象深くて……」
 マリアが二人の美青年に視線を向ける。フローラもマリアの視線を追い、向き合いながら話に花を咲かせている青年を見る。
「私が悲しくて涙を堪えていると、ヘンリーさまは……くすっ、冗談や駄洒落などをおっしゃって、笑わせようとして下さるの。リュカさまは逆に、とても優しい瞳で、泣きたければ、泣けばいい。僕らが側にいるから……っておっしゃってくれて――――」
 マリアの話は回顧に満ちたものであったが、それでもフローラは、少し胸がつまる思いがする。リュカの優しさ。それは決して、自分だけに向けられていたものではなかった。しかし、それは当然かも知れない。リュカはそう言う人間だ。
 でも、フローラの心の底では、そんなリュカの優しさを独り占めしたい、誰にも見せたくない。そんな、劣悪な疚しさがあった。
 無意識に眉を顰めがちにしていたフローラに、マリアは続ける。
「……でも、リュカさまは身近にいて優しくても、私には手が届かない存在でしたわ」
 驚くフローラに微笑みを向けるマリア。また、振り返る。今度はヘンリーを見た。それはリュカに向けられた『親愛』の眼差しとは明らかに違う、『深愛』が込められた、温かい眼差し。
「リュカさまにはすごく不思議な感じと言うのでしょうか……何か大きな存在があって――――私がつけいる隙が無かったのですよ」
「大きな……存在ですか」
 わずかに頬を染めて瞳を伏せるフローラ。
「二人と別れて、修道院に身を寄せてから考えました――――」

 心の何処かで、まだ諦めきれない部分があるの。
 淡い期待……共に旅の空の下で語らい、眠る日々……。
 でも不思議ね。
 そんな思いも時間が過ぎてゆくうちに薄れてゆくと言うのに、ぼうっと海を眺めていては、思いを巡らせている自分がいるのですから……。

 『想い』と『思い』の矛盾の鎖――――。
 でも、それを断ち切ってくれたのが……
 ヘンリーさまだったの。
 白馬に乗ったヘンリーさまの差し延べられた手に手を重ねた瞬間に……ぷちんっ……て。

 その時、不意にリュカとヘンリーが顔を向ける。
 思わず二人と目が合ったフローラ。戯けた感じに翳した手のひらを揺らすヘンリーに、照れ隠しの微笑みを返すと、すぐにマリアに向き直る。
「ヘンリーさまはリュカさまとは違って……んん――――なんて言うのでしょうか……」
 違いを探るも、それに難渋し、言葉がつまるマリア。
「かいつまんで言えば、私にとって、一番居て欲しい時にいてくれた人……。それが、ヘンリーさまだったんです――――」
「まあ」
 感嘆するフローラ。彼女の驚きに、自分の言葉に思わず頬を染めるマリア。そして再び互いの伴侶に眼差しを向ける。
 “ひょっとこ”のように唇を窄めてリュカの鼻先に人差し指を突きつけているヘンリーと、迷惑げに顔を後ろに傾け、苦笑しているリュカ。
 二人の表情に、フローラはくすぐったいような気持ちになる。マリアもまるで不慣れなように、堪えきれない笑いが溢れる。
「普段はああして、まるで子供のように戯けているのですが、私が心の中で想っていることをまるで知るかのように、今もそばにいて欲しい時は穏やかで、優しい笑顔で私をずっと見つめてくれて……、逆にひとりになりたい時は、はかったかのように“公務”でいないのですよ」
「そんな時宜があるなんて……」
 情操(フィーリング)の合致と言うものを聞いたことがあった。互いの思いや行動が、図らなくても不思議と重なり合う、正しく神が夫婦恋人に与えた奇跡だ。
 マリアの話はいつしかヘンリー一色となって行く。マリア自身、リュカの話をしていても無意識にヘンリーのことを挟んで話している。
 フローラはそれで、マリアが今は完全にヘンリーのことだけを愛しているということを確信し、安堵していた。どうしょうもないそんな気持ちが、嫌なものだと思った。
「フローラさん?」
 思いを巡らし、少しばかり自分の世界に入りかけていたフローラの貌を、マリアはじっとみつめ、声を掛けた。
「えっ、あ。は、はい!」
 吃驚して思わず頓狂な声を発してしまう。その瞬間、リュカたちの視線を浴び、フローラは両手で唇を塞ぎ、羞恥に紅潮する。
「ご、ごめんなさいマリアさん――――そ、それで、何か――――」
 気を持ち直そうとするフローラに、マリアは落ち着いた様子で微笑み、フローラの同様の沈静化を待った。そして、声を潜めて囁くように言う。
「フローラさん、リュカさまと喧嘩されたこと、ありますの?」
 その言葉に、フローラは愕然となり、目を見開いてマリアを見た。
「け、喧嘩なんて……そ、そ、そんなこと――――」
 考えたこともない。そして、想像もつかない。
 言葉に迷うフローラの様子に、マリアは納得したように小さく頷いた。
「リュカさまがあなたのような方と諍いを起こすなんて、想像もつきませんでしたけど……」
 そう言ってくすっと笑う。
「リュカさまは凄くお優しいし、あなたもそんなリュカさまに、きっと不満なんて、ありませんわよね」
 新婚惚けかと言われてしまえばそれまでかも知れないが、フローラから見て、良人に対する不満は見つからない。
「不満なんてそんな……。逆に私の方こそ、リュカさんの足手まといではないかと思う時があるのです。リュカさんの優しさが、気遣ってくれるのはすごく嬉しいのですけれど、本当は…………なんて、ふふっ。こんな事を言えば、リュカさまに笑われてしまいそうですけど」
 やや自嘲気味にフローラは笑う。
「それにしても、あなたとリュカさまのお仲間との経緯。リュカさまらしいですわね」
「?」
 マリアはわずかに瞳を潤ませながら、リュカとフローラを交互に見廻す。
「包容力……なのかしら。んん……リュカさまの不思議さって、そんなところにあるのかも知れませんね、きっと――――」
 多くを語らないマリア。心の中で呟いた言葉に、自己納得したように小さく頷く。
「あら……お話が逸れてしまいそう……いけない」
 マリアは気がついたように料理を装い、フローラにも勧めた。
「ありがとうございます」
 野菜クッキーをしずしずと唇に運ぶフローラ。マリア得意料理のひとつは、正しく美味。そして、その見事な美貌とスタイルを維持できる源泉と確信する。
「あなたたちも、たまには喧嘩をされてみるのも良いかも知れませんわ」
「えぇ――――」
 本題に戻したマリアの発言に驚くフローラ。
「そ、そんないきなり……喧嘩をと言われても――――」
 戸惑うフローラに、マリアはくすと小さく笑うと、言った。

 ――――何も今すぐになんては申しませんわ。
 それはもう、喧嘩もせず、ずっと仲良く共に歩いて行ければ、どんなにか幸せでしょう。
 ……でも、やはり夫婦と雖もれっきとした人間同士。時にはすれ違いや、相手のしようとする事に疑問が生じる事もあるはずです。
 それがこれから二人の歩むべき道で避けられない事であるならば、我慢も出来ましょう。
 でも、もしあなたの中で別の道があると確信できるのなら、その道を示すことが大事なのです。
 それが原因で諍いになったとしても、決して無駄にはならないはず――――。
 喧嘩をすることで、気づかなかった事に気づき、二人を繋ぐ絆の大切さや、お互いがどれほど、かけがえのない存在であることを知ることが出来るでしょう――――

「……マリアさん、ヘンリーさんと――――」
 フローラが憚るように訊ねると、マリアは微笑みながら答えた。
「私たちはこう見えて、実はしょっちゅう喧嘩をしているの」
 と言いながら、愛おしそうにヘンリーを見つめるマリア。事も無げにそんなことを言うマリアに、呆気に取られてしまうフローラ。
「ほら――――、ヘンリーさまってあの通りですし、結構わがままで傲慢な人ですから、多分……人並みの夫婦以上は喧嘩してますわね、きっと」
 その時、何故かリュカの鼻を摘んでいたヘンリーが嚔をする。何げに振り向いてきたヘンリーが「悪い噂」を訊ねる。
「酒精に当たりすぎですわ、あなた。ほどほどになさいませ」
 するとヘンリーははにかみながらこくんと頷き、リュカに向き直った。
「…………」
 フローラはそんなヘンリー夫婦の様子に、思わず見入ってしまっていた。
 冗談とはいえ、夫を貶すマリア。しょっちゅう喧嘩しているという割には、微塵も仲の悪さを感じさせず、寧ろ臣民に忌避されてしまうかと思うほどに仲がよいという。そして、柔らかくも堂々と夫に非を忠告できること。もはやそれは、語る言葉の全てが説得力を通り越して、同じ年頃なのに段違いの貫禄すら感じさせる。
「どうかされました? フローラさん」
「あ――――いえ。何か……素晴らしいなと思いまして」
「え?」
 少しだけ頬を染めるマリア。
「私も、いつかマリアさんのような奥様になれますでしょうか」
 そんなフローラの言葉に、マリアははにかんだ。
「私のように――――だなんてそんな……。私もフローラさんのように、ひたむきにずっと、愛する人を、愛しつづけたいですわ。それに……くすっ。こんなにも、裡にため込まない性格、自分でも驚いてますのよ。少しは忍耐力を身につけないと、いつかヘンリーさまに愛想を尽かされそうですわね」
 それを俗に言葉を悪くすれば、『尻に敷く』と言う。
 しかし、ヘンリーとマリアの関係をこそ、鴛鴦・連理と呼ぶのだろうか。
 マリアが側にいるからこそ、ヘンリーはヘンリーらしくあり、マリアもまた、甲斐甲斐しくそんな子供のようなヘンリーの傍らにいることで自分らしくいられる。
 時に喧嘩をしても、深い契りがあればこそ自ずと仲直りをし、かつ更に絆が深まってゆく。羨ましい関係だった。
 フローラはふと、寂しげに微笑み、わずかに睫を伏せる。
「リュカさんと話が出来ないのが辛くて……、リュカさんに、嫌われてしまうのが……そんなことを考えたくないのです――――」
 どうしても、マリアと較べてしまう。
 すると、マリアはそっとフローラの手に自分の手を合わせる。ひやりとした感覚と、ほんの微かに、緊張が伝わってきた。
「フローラさん――――」
 マリアの穏やかな声が、まっすぐフローラの惑う意識を全て包み込む。フローラは、その碧い瞳を、重ねた。

 ……そんなに気負わないで。
 力を抜いて、あなたの愛をリュカさまにぶつけて……あなたも、リュカさまの愛を受け容れた方がいいわ。
 リュカさまの愛を信じるの。リュカさまのありのままを、飾らずに受けとめて――――。
 そして、ありのままのあなた。裸の心をリュカさまの前にさらけ出すの。
 あなたやリュカさまにとって、もう恐れるものなんてないはずでしょう――――。
 最初で、最后の。あれほど甘く切ない責め苦を乗り越えて結ばれたお二人ですもの。誰にも、どんなことをしても、お二人の絆を壊す事など出来ませんわ。

「…………」
 不思議だった。フローラの胸の中に、マリアの言葉がすうと溶け込んでゆく。そして、その胸の奥に残っていた何かに、手が届いたような気がした。
 フローラは再び、親友と冗話に耽っている良人を見た。ヘンリーに向ける苦笑いの表情すら、自然のように思えた。
「リュカさまはきっと、思っています」
「え――――?」
 思わず振り返るフローラ。マリアはフローラと同じ視線を向けている。
「ありのままのあなたと、いつか喧嘩をしてみたい――――なんて。ふふっ」
 そんな憶測に、マリア自身照れ笑いをして打ち消す。
「でもね、フローラさん。考えてみれば夫婦って、これからずっと、ずっと一緒にいるわけでしょう?
 だから、焦ることなんてないと思うの。
 人間って、体力も精神力も、本気なんてずっと出しつづけられるものではないわ。
 だから、その人の良い部分以上に、悪しき部分を目の当たりにすることのほうが多いと思うのです」
「はい…………」
「リュカさまの悪しき部分――――、あなたの悪しき部分……。気取らないでさらけ出せる関係が、幸福のひとつなのかも知れませんね」
 マリアの言葉に、フローラはきゅんとなった。彼女の言う言葉の意味があまりにも深く感じて、一瞬意識が白んだ。それでも言葉のひとつひとつが、しっかりと胸の奥に刻まれ、何度も反芻されてゆく。

 すっかりと神妙な表情になってしまった新人妻役に、マリアはあっとなる。
「あ、ご、ごめんなさいフローラさん。私、すごく偉そうなこと――――」
 酒精の所為でいつになく饒舌になると言うマリアに、フローラはふるふると首を横に振る。そのたびに石竹色のリボンが大きく揺れる。
「私……マリアさんのようなお姉様が欲しかったんです」
「えぇ……そ、そんな――――」
 ぽっと顔を赤くしたマリアが慌てて顔を背ける。
「これから……リュカさんとヘンリーさんのように私も……」
 フローラが遠慮がちに言葉を止める。それをマリアは理解し、顔の赤らみが薄れたところで絶世の微笑みを上げ、優しくフローラの手を握った。
「私で良ければ――――、時々夫の“わる愚痴”を言い合いましょう?」
 そんな冗談で良かった。フローラは心から嬉しそうに、マリアの手を握り返した。
「あ、そろそろだんな様がたのお話も終わりのようですわね」
 マリアがそう言うと、フローラはにこりと頷き、ゆっくりと良人の方へ歩み寄っていった。