第1部 英雄関雎
第16章 Suppress Desire

 内輪で行われたささやかな宴も終わりに近づき、采女が器の片づけにかかり始めると、マリアもそれに倣い範囲の食器を集め始める。
「あ、私もお手伝い致します」
「あなたはお客様ですわ。お気遣いなさらないで」
 マリアはやんわりとフローラの申し出を断る。踵を返すマリアと入れ替わるように、リュカが妻の肩に手をかける。
「フローラ」
 酒精のせいか、自分をまっすぐ見つめる、涼しげで深い良人の瞳が一際映える。いささか呂律の怪しいリュカが、微熱をたたえた掌をそっとフローラの白い頬に当てた。妻の頬も、それと同じくらい、ほんのりと上気して熱かった。
「ヘンリーの奴、僕らのためだと薬湯を立ててくれたそうだ。フローラ、疲れただろう。是非、ご厚意に甘えなさい」
 するとフローラはリュカの手に掌を重ねる。
「あなたは……?」
「僕は後から与ることにするよ。先に君がさっぱりしておいで」
 するとリュカの後ろから、ヘンリーの声がする。
「ああ、気にするこたねえよ。せっかくだ。二人で入ってきな」
 呆れたようにため息をつくリュカ。
「さすがにそうもいかないだろうに……。ふぅ――――」
 リュカは掌をフローラの頬から外し、その滑らかな髪に触れる。
「ヘンリーたちの部屋の隣に、僕たちの寝台を用意してくれているそうだから、休ませてもらおう」
「……わかりました。では、お先に」
 名残惜しそうに良人を見つめてから、フローラは踵を返す。

 ヘンリー夫妻の閨房を石壁ひとつ挟み、書間がある。元々はヘンリー兄弟の父・恭和王の代まで使われていた、勤勉家の王太子のために設けられた、いわゆる勉強部屋なのだが、ヘンリーが太子となってからは使われることがほとんど無くなった。理由は言うに及ばず。
 ただ奇麗に整われた古書や史書が収納された書棚があり、采女が定期的に掃除をする以外は実質的に空き部屋に等しい。
 城下の宿を取るという意志が固かったリュカを引き留めるには実力行使。
 ヘンリーは普段全くひけらかす事のない『王兄の権威』をして宮廷衛士の一部を駆り出し、ここに寝台を作らせたのだ。言うなれば雑務。これではリュカも無下に断るわけにも行かない。呆れ半分で折れた。
 急拵えの寝室の割には、なかなかオラクルベリーやポートセルミのホテルなみの広さ、そして晴月亭のような落ち着きも感じさせる。窓から差し込む星明かりが、白のシーツをくっきりと映している。
 リュカは洋灯に火を点け、暖かな薄橙の光の中、外套を取り、頭巾を脱ぎ、調われた寝台にゆっくりと身を横たえた。柔らかなマットがリュカの前身を柔らかく受けとめる。
 そこに身を横たえるのは、随分と久しぶりのような気がした。
 酒精と心地よい感覚のせいか、体奥から急激に疲労が湧き上がってきた。瞳を閉じると、あれこれと物事を考える暇もなく、意識が薄らいでゆく。
「少し……仮眠――――」
 そのまま、リュカの息づかいは静かになる。

 ノックの音にも反応が無く、ビスチェに淡い水色のレースのガウンを纏ったフローラは、そのまま扉を開ける。
 淡い橙色の部屋。窓際に見える寝台に、横たわる良人の姿。
「あなた……、お先致しましたわ」
 フローラが歩を進めるたびに、サボンの香りが広がる。
 手を胸元で組みながら仰向けに瞳を閉じ、淡々とした息づかいをしている良人に、フローラは思わず可笑しくなってしまう。
「こおら、リュカ――――」
 マリアに言われた言葉が一瞬過ぎる。
(たまには、喧嘩をしないと……)
「――――さん……」
 それは性なのか、呼び捨てに出来なかった。
(……この人と喧嘩なんて……はぁ……)
 フローラは指を伸ばし、リュカの額にかかる黒髪をそっと梳いた。
(ビアンカさんなら……きっと自然に喧嘩、出来るのでしょうね……)
 フローラの指の感触を受けてか、リュカが一瞬表情を動かし、身じろぎする。
(むぅ………ん…………)
 無意識に、リュカの手はフローラの手に重なり、指を絡めていた。
 フローラは微笑みを浮かべながら良人の寝顔を飽きずに見つめる。
 結婚式の翌日もそうだった。リュカの寝顔はずっと眺めていても飽きない。
 寝顔は無防備というが、正しくその通りで、普段は凛々しいリュカの素顔の表情が見られるようで、フローラにとっては密かな楽しみ、願望のひとつになりかけていた。
 静かな夜。幾分入りすぎた酒精も抜け、丁度良い気分になる。
 リュカはふと邪気のない、幼子のような表情をする瞬間がある。それはフローラにとって、広大な星の砂浜に埋もれた、小さな金剛石を探し当てるような価値。
「可愛い……あなた――――――――」
 普段なら決してそんなセリフを言うことはない。フローラは禁忌を犯しているときの様な絶妙な昂揚感を覚える。そして、ここぞとばかりに自分から良人の唇を奪いにゆくのだ。
 何も知らず、美しい若妻に一方的に触れられているリュカ。ここぞとばかりに、フローラは良人にさもない悪戯をする。
 リュカに身を寄せるように横たえ、その寝顔をぼうと見つめていたフローラも少しだけ微睡みかけた。

 どのくらい時間が過ぎただろうか。夜も更け、ラインハットは静寂の頂点にいるかのように、微かに吹いてくる山の風だけを残して音はしない。
 ふと、フローラは喉の渇きを感じて目が覚めた。いささかぼうっとした瞳を横に向けると、リュカは再び仰向けにあって、深き眠りの彼方にあるようだった。
「…………」
 起こさないように気を遣いながら、そうっと足音を殺して廊下に出る。急拵えの寝室に水注子と洋盃は置かれていなかった。
 松明の灯のみの薄暗い廊下。衛士用の水注子が廊下の端に常置されている。
 フローラは睡魔と戦う衛士に声を掛け、水を分けてもらった。
「ごくろうさま。うふふ、大丈夫。ヘンリーさんたちには内証にしておきますわ」
 衛士はなおも睡魔と戦い続けるように全身を不必要なまでにゆすっていた。しかし修行不足か、やがて衛士は睡魔に惨敗してしまう。
 喉の渇きを潤すと、ぐっと気分が良くなった。しかし、酔いは大分収まったとはいえ、視界が少しだけ霞む。
 リュカの腕が恋しいとばかりに戻る。
 そして、ふとヘンリーたちの閨房を前に、フローラは足を止めた。わずかに開きかけた扉。閉め忘れかと、フローラが手をかけた時、思いも寄らない事が起こった。

(あぁ……うぅ……)

 男の呻き声。それは当然、ヘンリーに他ならない。
 フローラはその瞬間、事態を察知し、身が竦んだ。ヘンリー夫妻の閨。そこでこの真夜中、何が起こっているのかくらい、推し量れないフローラではない。
(ど、ドアも閉めないなんて……)
 急にバクバクと心臓が高鳴り出す。酔いも一気に醒める心地がした。
(もう……ダメですよ、二人とも……)
 しかし、ドアを閉めてさっさと退散しようとする心とは裏腹に、少しだけ開いた扉は、鉛のように重かった。
 フローラは心の奥で激しい動揺を感じながらも、意識がそこへ集中してしまう。

(うぅ……マリア――――すげぇ……すごく……いい……)

 荒い息づかいのヘンリー。
 扉の隙間から見える閨房。フローラはまるで極寒の地に薄着で出でるかのようにぷるぷると小刻みに震えを起こす身体をドアに近づける。
 灯の消えた閨房。薄いレースのカーテンが引かれた窓を、星明かりがうっすらと差し込み、照らしている。
 目が慣れ始めたフローラの瞳に、徐々にシルエットが浮かんできた。
 寝台の上に立つ男性の影、時折上体を反らしたり、傾けたりしながら、覚束無い足。
 そして、その男性の前に屈み、膝をついている、繊細な線の女性のシルエット。頭と腕が、頻繁に動き、そのたびに男が悶えるように声を押し殺す。
(なに……なに……? え――――)
 目が慣れてゆく。そして、瞳に映しだされてゆく夫婦の情事に、フローラは愕然となった。 淡く青白い光に照らされる寝台に、逞しい肉体と、細くなめらかな白い肢体が浮かび上がる。
 普段は清楚でしっかりとした女性という感じがするマリアが、ヘンリーの股間に顔を埋め、彼の堅く屹立した怒張を、その小ぶりで形の良い唇に含みながら、右手の細い指を絡め、艶めかしく擦り上げている。
(んんん――――――――っ……)
 そして余った左手を自らの秘部に忍ばせ、気を昂ぶらせている。
 苦しそうに愛する男性自身を銜えながらも、マリアはそれを離そうとせずに、艶めかしい呻き声を上げながら、奥まで呑み込み、時折普段のような穏やかな微笑みをヘンリーに向けて不規則なストロークをくり返す。
 じゅぷ……くぷっ……ずずず……
 粘っこく淫猥な音を立てながら夫を愛撫しているマリアは、さすが修道院で神学を履修した清楚可憐な淑女と謳われる普段の姿とはまるで正反対、娼婦のように男の欲望をかき立てている。
(…………)
 フローラは無意識のまま、まるで麻痺攻撃を受けてしまったかのように固まり、食い入るようにヘンリー夫妻の性戯に見入っている。
(あぁ……)
 口から離し、ヘンリーのいきり立つ怒棒を儚げな舌の先でなぞるマリア。
 直線を描き、時には蛇行や円を描きながら先端に辿りつき、うねる。溢れる秘壺を自ら掘り起こしながら、淫らな声を上げ、マリアの裡に蠢く激しい色欲を、舌や指を使いヘンリーに注ぎ込む。
(うぁ、マ、マリア……も……もう俺――――)
 鈍い痺れが腰の中心から惹起するヘンリー。思わず腰を引き、マリアの攻撃をかわそうとする。
 マリアは必至で堪えるヘンリーを普段のような微笑みで見上げた。それでも指の鎖はしっかりとヘンリーに絡まっている。
(んはぁ……あなた……出して。私に下さい。あなたのものが呑みたいの――――)
 切なげに懇願するマリア。ヘンリーはくくと笑みを浮かべて腕を伸ばし、マリアの程良い胸をまさぐる。
(あっ……!)
 あまり熟し切れていない桃色の蕾を、ヘンリーはつまみ上げ、こね回す。
 そのたびに、マリアの肢体は明らかに快感に痙攣し、怒張に絡めた鎖が、甘美の蟲となってヘンリー自身に波状攻撃をしかける。
(あぁ、お願いヘンリーさま……私――――もう……)
 持て余した左手の指で慰める程度では、マリアの欲情は収拾がつかない。
 ヘンリーしか知らない秘壺からは透明な蜜が細く白い太股を伝い、シーツにしみを作ってゆく。
(マリアって……本当はすげえエッチなんだ)
(え……そんな――――あっ)
 突然、ヘンリーの上体がシーツに沈む。驚く間もなく、体勢が変わる。
 ヘンリーの頭はマリアの太股の間にあり、開きかけた蜜の源泉を拝み、マリアはなおもヘンリーの分身を唇にあてがっている。
(あぁマリア。月明かりがもどかしい。洋灯の中で今のマリアをありのままに見てえよ……)
 そう小さく叫んで、ヘンリーは貪るようにマリアの溢れる秘壺を唇と舌で塞ぐ。
(ああ――――! そんな恥ずかしいこと……と、隣でリュカさまたちが……あぅん……お休みになって……いるのに……んふぅ)
 本能的にマリアが腰を揺らし、ヘンリーの舌の愛撫を増幅させようとする。そして、マリアもたまらずヘンリーを再び銜え込む。

(…………!)
 一瞬の理性を逃さず、フローラは扉を閉めた。すっかりと腰の力が抜け落ちてしまい、その場に座り込んでしまう格好になる。
(い……いけないことを……)
 しかし、こんな場面を目の当たりにしてしまったフローラの意識は拡散どころか、閉じた扉を通り越して中の様子に集中していた。今まで聴こえもしなかった音が聞こえてくる。
(聞こえたって構いはしねえ……。聞いてもらおうか。聞かせてやろうじゃねえか? マリアの可愛いよがり声……)
(あぁ……いや……恥ずかしいこと言わないであなた……)
 そしてヘンリーの嗤い声とマリアの嬌声、そして、薄めた糊をかき混ぜるかのような、淫靡な音。それからは女の荒い息づかいが、言葉を掻き消してしまった。

 フローラは激しい寒さの中に放り出されたかのように全身ががくがくと震えていた。
 いつもリュカと交わしているはずの夫婦の連理。しかし、フローラにとって、他の夫婦のセックスを目の当たりにしてしまうなど生まれて初めてであった。
 そして、つい先までフローラのことを思い、親身になって話をし、また話を聞いてくれたマリアが、夫であるヘンリーに跪くような体勢で淫らに男の物を銜えている。それだけで衝撃的であった。
 なかなか腰に力が入らず、フローラは少し足を引きずるような感じで隣室の扉に向かった。
 せっかく喉を潤したのに、無駄になったような気がした。何故か全身に微熱を帯びている。
 漸く急拵えの寝室に這い戻ることが出来たフローラ。良人の寝顔に幾分安堵感を覚えたのか、立ち上がる事が出来た。
「え……」
 しかし、すぐに腰に違和感を感じたフローラ。
 安らかな寝息を立てている良人に背中を向け、ビスチェの裾から、そっと白魚のような指を忍ばせてみる。
「あ――――」
 指にまとわりつく熱気に、フローラはまるで羮に触れたかのように反射的に指を離した。愕然となって爪先を見る。
(うそ…………)
 きらきらと洋灯の光に輝く分泌液。そして、その直後、突然太股の付け根が熱く湿っていることに気づいて再び、腰砕けになる。
「…………」
 フローラは半ば気が動転していた。
 気づかない、無意識だとはいえ、リュカに愛されている時以外に、こんなになっている自分の身体に、戸惑いと嫌悪感、そして嬉しさにも似た感情が混淆している。
「リュカさん…………私…………」
 リュカは丁度寝返りを打ち、穏やかな寝顔をフローラの方に向けている。大好きな人の無邪気な寝顔。フローラの脳裏を覆い始める甘い霧。
 思いがけず、目に入ってしまったヘンリーとマリアのセックスが、フローラにとってまるで自分とリュカとの行為をのぞき見しているかのような背徳感に、完成しきれていない裡に秘めた性に対する感覚を刺激する。
 フローラはリュカの寝顔を見つめながら、ガウンを落とし、そのまま一度羮に触れて飛び退けていた指を、再びそこへ動かし、辿る。
「ん…………」
 ぴくんと、そこから小さな痺れが発し、一瞬、白い肌の産毛が戦ぐ。
 砂地に降る小雨のように渇きかけていたその部分が、指に起こされ、再び潤いをたたえ始めた。
 くちゅ……
「あ…………っ」
 源泉は音をかき立てた。静かな空間にその音はあまりにも官能的である。
 思わず声を上げかけ慌てて抑えるフローラ。しかし、泉に沈む度に立つ波紋がフローラの全身に伝わると、そんな理性だけで冒険を止めることは不可能に等しいものがあった。
「はぁ……んぅ……」
 深く分け入る洞窟。植物にとって美しい花を咲かせ、蜜蜂を誘い、動物が異性を惹くために様々なアピールをするかのように、フローラは自分を高めるたびに、自然にその美しい脚が開いてゆく。
 核を刺激するたびに上げたくなる声を、フローラは左の人差し指をきゅっと噛みながら押し殺そうとする。
 ぐっ……くぷっ……
 眠っている良人の前でこんな嬌態をさらけ出し、欲望を煽り立てる蜜を溢れさせている自分にフローラは羞じ入った。
 しかし、思えば思うほど、そんな背徳を犯している自分を責める気持ちと、どきどきが交錯し、更に性欲を敏感にさせてゆく。
「はぅぅ……あう……んん……!」
 なぞりながら、時に強くいたぶりながらフローラは自分自身を責め立てる。くぐもった声が実に淫猥だ。
「はぁ……はぁ……あなた…………」
 呑気に寝息を立てているリュカを、フローラは潤んだ瞳で少し恨めしげに見つめる。
「お願いです…………あなた………」
 熱い溜息が、リュカを求めていた。
「すぅ――――――――くぅ――――――――」
 しかし、そんな若く美しい妻の欲求を何も知らずに、リュカはひとり夢見心地のようだった。
 もどかしくなったフローラは、力が入らない身体を起こして、ゆっくりと寝台に近づいていった。