ラインハット山地の稜線に朝陽が燃える頃、リュカは寝台から起きあがり衣を羽織ると、ゆっくりと窓辺から差し込む清々しい朝の色を身体全体に浴びた。
振り返ると、昨夜いつになく激しく愛を交わした妻が、その劫炎の影微塵もなく、穏やかな寝息を立てていた。
リュカはそのはだけた肩にシーツをかけ直してあげると、小さく微笑んだ。そこで寝顔にキスをするところなんだろうが、朝も早い。口づけをした拍子に目覚めさせるのも悪い気がした。
そして愛を交えた、甘く火照る独特の空気を、新鮮な冷たい空気に入れ換えるのも憚ったリュカはそのままそっと部屋を出ると、まだ薄暗い廊下の突き当たりにある展望所に向かった。
静かな城中。耳を澄ませば、微かに厨房から腹の虫を煽る音が聞こえてくる気がするが、全く気にならない。
「テルパドールか……」
何げに南方を見つめながら、リュカは呟いた。
父公・ルドマンが指し、ルキナスから負託された至宝を待つ、南国。いつまでもヘンリーたちとの友誼に浸っている場合ではないくらい承知していた。
稜線から火輪が青空に姿を現し、リュカの顔を眩く照らす。
何気なしにリュカが振り返ると、いつしか見慣れたドレスに着替えたフローラが、両手を前に合わせ、控え目にそこに立っていた。少しだけ驚いたリュカの眼差しに、小さく頭を下げる。
「おはようございます。あなた……」
「おはよう、フローラ。ああ、起こさないようにしたつもりだったけど、起こしてしまったようだね」
リュカが少し顔を赤くしてはにかむと、フローラは首を横に振って微笑んだ。
リュカは招くようにフローラを見つめ、再び朝の空を見る。両手を後ろに組みながら、すうと大きく息を吸ってみた。
「あなた……?」
リュカにぴたりと身を寄せたフローラが、少しだけ不安そうな声で言う。
「んん?」
「あなたって……優しいですわね――――」
不意にそんなことを言うフローラに、リュカは首を傾げる。
「どうしたの、急に」
するとフローラはくすっと微笑みながら、リュカの腕に、自らの腕を廻してくる。
フローラは切なげな表情を浮かべながらうっすらと頬を染め、消え入りそうな声で言った。
「あなたの……リュカさんのなさりたいように………………を…………して………い…………」
するとリュカは徐にフローラの頭の上に掌を載せると、軽くくしゃった。
フローラの青い髪は、それでも形を崩さず、まるで青く輝く砂のように、さらさらと光を鏤めながらリュカの指を滑り落ち、元に戻る。
「フローラ。僕は君を心から愛したい。身体を重ねるのは、君へのまごう事のない、僕の証。君を感じることが出来れば、僕は満足なんだ。君が嫌なことを、僕は望まない。僕が望むのは……君の笑顔を見つめつづけながら、この旅を続けられることだよ」
リュカの言葉に、フローラはきゅんとなった。
「でも……でもあなたは……。……私……」
リュカは言葉を遮るようにわざと大きくため息をつく。
「じゃあ、今からサラボナに帰ろうか?」
「え……!」
「僕の言うことに不安があるなら、この旅が終わるまで、君はサラボナで待ってた方が良いよ。終わった時、それを証明できるから」
「い、いやっ!」
思わず、フローラが悲痛な声を上げる。澄んだ瞳に一転、悲しい色を滲ませてフローラは縋るように良人を見る。
リュカはゆっくりと掌をフローラの後頭部に回し、優しく、その悲しい瞳に唇を押し当てた。
「あなた……」
それはフローラの心にふつふつと這い上がってくる不安を掻き消す、リュカの不思議な力だった。
「……それじゃ、焦らないで。ゆっくりしていこう?」
「…………」
リュカは照れ臭くなって失笑する。
「でも、僕は正直嬉しかったよ。フローラにしてもらえるなんて、夢のようだから……。出来ることなら僕だって……なんて。でも、焦ることなんか、何もない。だから今はこう言おう。ありがとう、フローラ」
「あ……は……はい……」
フローラはすうっと胸が軽くなる気がした。そしてより一層、リュカに密着するように身体をすり寄せる。
「優しい……あなたって本当に優しい人。本当……今でもあなたの妻になれたなんて……私の方こそ、夢のよう……」
リュカとフローラにかかれば、清晨をも激愛の情熱に変えてしまいかける。そんな雰囲気を押し止める、声がかかった。
「お取り込み中悪いなあ。んー、ちょっといいか」
申し訳なさげにヘンリーの声がする。二人はそれに慌てて身を離し、襟を正す。
「お、おはようヘンリー」
「お、おはようございます、ヘンリーさん……」
取りつくろったような挨拶。特にフローラは昨夜のぞき見てしまった光景が脳裏に甦り、赤面してしまう。
ヘンリーが二人を交互に見廻しながら苦笑する。
「おはよう、二人とも。……それにしてもお前ら、毎朝そんな感じなのか?」
ヘンリーの言葉に思わず顔を見合わせるリュカとフローラ。
「なんて言うか……ばカップルって、お前らのようなこと言うんじゃねえかと」
「な……、ばかっぷる……って?」
聞きなれない言葉に驚くリュカ。しかしヘンリーは嫌味のない苦笑いをしてから返す。
「まあ、その意味はおいおいとな。……ところで、単刀直入に聞くが、いつ出立する?」
旅立ちの話だった。
「そんなに長くは居られない。……出来れば、今日にでも発とうかなと思ってる」
「そいつは実に矢庭な話。引き止められるか」
「どのくらい? あまり、長くは出来ないけど」
「なあに、ほんの三日でいい。旅の贐(はなむけ)に、お前らに見せたいものがあるんだよ」
リュカはちらりとフローラを見た。
「あなたさえ良ければ、私は一向に構いませんわ」
「と、言う訳だヘンリー。何かはわからないが、君の厚情に期待してるよ」
「良い判断だ。持つべきは良妻だな、リュカ」
ヘンリーの言葉に大きく頷くリュカ。そして、フローラは言葉を失して赤面してしまうのだった。
それから二日、リュカはヘンリーと共に旧交を温め、日帰りでオラクルベリーのカジノに繰り出すなどして旅の目的を一時に忘れて遊んだ。
フローラの婿候補としてサラボナに下向してきたことのある、太守オラクルベリー伯エラン・フェルインへの挨拶をそこそこに、純粋にリュカはカジノを楽しんだ。元々リュカは全てに対して無欲、無頓着と言うべきだろうか、むしろカジノにはまって一喜一憂に燃えていたのは他ならないヘンリーだった。
「もっと、楽しんでいらっしゃればよろしいのに」
フローラの淹れたハーブティーを飲みながら、リュカは苦笑する。
「うーん、あははは。どうも、華やかな場所は苦手なんだ」
「まあ。それでは私たちの結婚式も、実は苦手でしたのね?」
「ああ、そう言うつもりじゃないんだけど……」
困惑するリュカに、フローラはくすくすと笑った。
「そう言えばマリアさんからお聞きしましたわ。ヘンリーさん、明日私たちに『狂言』を披露したいとか」
「狂言……ああ、ヘンリーが今執心しているという、オリエンタルステージの事か」
「…興味ありません?」
淡々と返すリュカに、フローラは訊ねる。
「また君が仮面に驚いて失神してしまうんじゃないかと、それだけが心配だったり」
するとフローラは少しだけ拗ねたように眉を上げる。
「あ、あの時はその……本当に不意打ちでしたから……。もう、わ、私は大丈夫ですわ」
「あはははっ、そうだね。うん、君なら大丈夫だ」
「もう……」
屈託のない笑顔が、滅多にないフローラの毒気を抜いてしまう。本当に、こんな素敵な良人とどうすれば喧嘩なんて出来るのだろうと、フローラは少しだけ思った。
翌日。朝食を終えたリュカたちは、そのまま采女に案内されてラインハット城中庭へと足を運んだ。
中庭へ抜ける扉を開いた時、フローラはヘンリーの戯けによって思わず失神したが、さすがに今日はそんなことはない。
眩いほどの青空が、中庭を突き抜けている。
いつもは手入れの行き届いた緑の芝生が一面に広がるその中央に、ブラウンの毛氈が敷き詰められている。
何が起こるのかと呆気に取られかけた二人を、采女が導く。
国王デールの座する上座の側らに用意された席にマリアがいた。彼女はリュカたちの姿を見ると、微笑みながら手招きをする。リュカたちはそれに軽く会釈をしてから、ゆっくりとマリアの臨席に着座した。
「ここで披露するんだ、ヘンリーのオリエンタルステージ」
「ふふっ、ええ。本来ならば、狂言というのは“檜舞台”という立派な高床式のステージの上で行うのだそうですが、突然の事なので、急拵えも間に合いませんでしたわ。思いつきで言ってしまうヘンリーさまも悪いですわね」
「無理しなくても良いのに」
「そんなこと仰有らずに、ご観覧して下さいませリュカさま。いつか、リュカさまに観ていただくためにと、狂言を国劇として取り入れた時から、ずっと練習を重ねていた舞台ですのよ?」
「あなた……、ヘンリーさんのお気持ち、しっかりと受けとめましょう」
マリアとフローラの懇願に、リュカは少しはにかみながら頷いた。別に嫌なわけではなかった。逆に、ヘンリーたちの気遣いが嬉しくてたまらなかったのだ。
それから間もなく、いそいそと国王デールが姿を見せる。
「上座なんて要らないと言ったのに、気の利かない奴らだ」
「まあまあデール様。これもすべてデール様のご人徳。それに本日はリュカさんとフローラさんへの贐ですから……」
「そうでした。いや、お二方、この数日まさに光陰矢のごとし。お名残惜しいです……」
「畏れ多いことです、デール王。いずれこの旅が一段落した暁には、ご尊顔を拝したく思います」
「お待ちしております、心より……」
その時だった。
突然、聴き慣れない笛や太鼓の音が中庭に鳴り響き、中庭に通じるもうひとつの扉が開かれ、東洋の礼装に身を包んだ楽士が、続々と敷き詰められたブラウンの毛氈で誂われた舞台に並んでゆく。まるで、しきりのように、その舞台を後ろで囲うように楽士たちは並び、腰を落とす。それぞれ、木笛を唇に当て、肩に担いだ小さな太鼓のようなものを打ち鳴らしながら、演奏を続けている。
「ホイミン・デ・リュシアン――――英武真記第二十二章『天孫降臨』――――」
儀仗の一人が声高らかに宣言する。
「始まりますわ」
「ホイミン・デ・リュシアン……?」
フローラはその名前に、思考を巡らせる。マリアが頷く。
「天空八勇士の一人、英武侯ライアンと共に旅をしたと言われる、吟遊詩人ホイミン・デ・リュシアン。……彼が晩年に著したと言われる伝記を基に脚色した、ヘンリーさま独自の狂言舞台ですのよ」
「そう、そうでした。高名な吟遊詩人ホイミン。確かその昔、彼はホイミスライムだったとか。戦士ライアンと共に旅をしながら功徳を積み、遂に人間となることが出来た……」
フローラの話はリュカにとっては初耳だった。モンスターが人間となる。それは得てして神話的なものだろう。
「……ふふっ。でも意外とその話、真実かも知れませんわね」
フローラの笑顔に、リュカもまた思いを巡らし、微笑みを返した。
(シテ方・ヘンリー=山奥の若樵)
――――これはやるせない。
ここの長雨未だ止まずとは、内蔵は来る厳冬に薪を収めず、良木をして良炭と成すを焦らす。
これでは明日を食するに心許なし親爺殿、私は小屋を発ち、市朝のため斧を背負いましょう。
(シテ方=樵夫)
土が乾かず山に出で立つとは。お前はその命、無駄に抛つのか。愚かな。愚かぞ。
(若樵)
行かせて下さい親爺殿。今行かねばならぬ、ならぬ気がするのです。胸が騒ぐ、この胸がざわめくのです。神が、我らが主竜神の天声が、私を導くようなのです。
(樵夫)
何をこだわるか。そこに何がある。そこに、お前は何を求めているのだ。
〈若き樵夫は不思議と惹きつけられるようなものを感じていた。
秋も終わる頃の長雨。聖泰王の洛中は越年の殷賑の中にあり、山奥の荒陬は吹き込むバトランド山地の颪(おろし)に雪を含む凩に、静寂の最中にある。
若き樵夫は六十路近き父の止めも聞かずに、斧を背負い荒屋を出た〉
〈――――颪が吹き荒び凩が薙ぐ。いかほど若き樵夫は山を下ったのか。途次、木葉が雪崩のように道を変え、積もり、時に足を取られて空を隠す〉
(若樵)
これはまずいか、慣れし山道、これでは心許ない。いずれの洞で夜を明かそうや――――。
〈誰か……誰かお助け、下さいませ――――
凩の喧噪にのせてうら若き乙女の、玲瓏たる声が聞こえてくる〉
(若樵)
おお、これはまさに掃きだめに鶴。よもや京師の迷い人に非ずや。
その時突然、すくっとマリアが立ち上がり、しゃなりしゃなりと舞台に歩み出た。
(マリア=天女・ユリア)
私は天空の民ユリア。聖朴の槇を蒐(あつ)めるため天上より降りましたが、油断がたたり身に傷を……。
(若樵)
それは大変だ。ブランカの山嶺は時に夜明けを半時遅らせ、日没を一時早めるるほどに雪に覆われ、吐息から銀の宝石を恋人に手向けるほどに冷え込む。
あなたが何者であろうと構わない。傷が癒えるまで、我が家にて傷を癒してゆくことだ。
〈若樵は天女を荒屋に招いた。
時が過ぎ、それがさも運命かのように、若き男女は惹かれ合ってゆく。しかし、父である樵夫は何故か天女に辛く当たった〉
(樵夫)
天女よ、何故にブランカの里に降ったか
竜主も帝室も、外つ国も、我ら野辺に息づく草民に関わりなきや
日がな一日斧を背負い、高木の幹を打ち
木葉を蒐めて火を灯し、飯を炊き
十日に二度、熱きに湯に浸かり乍ら唄う
ただそれを僥倖として良かれしものを
天女も卑賤もこの荒屋には災厄の火種ぞ
(若樵)
ああ、悲しや親爺殿よ
遍く生命ある限り、運命もまた無疆
この出逢いがたとえ遠く距たれた綺羅星を繋ぐ一糸に過ぎずとも
たとえ至上の大命に自らの命絶とうとも
心に秘めし細糸は誰にも断てぬ
明日に百億の諸人を敵としようとも
三年(みとせ)の後に天空大海を紅蓮の劫火に灼き尽くそうとも
私は捨てぬ……捨てぬぞ親爺殿
(樵夫)
千歳を生す天女と、幽寂の隅に生す蒼氓
いかに六合(りくごう)を照らす主竜神といえども許すまい
神罰を得る覚悟をしてもなお、不毛の愛を貫くか
(若樵)
不毛の愛ではございません
ユリアには今、新たな命の息吹を……
〈樵夫はそれ以上、止めることはなかった。
天女ユリアの身体に芽吹く、子の命の存在。それが、樵夫の凍えた不安を融けさせたのか〉
フローラは息を呑みながら、まるで食い入るように演技を見つめている。リュカがそっと声を掛けても、フローラは不思議と耳に届かない様子で、一心に思いを寄せているようだった。
〈それから約一年の時が過ぎた。出産を間近に控えたユリア。寂しげな表情で若樵に語る〉
(ユリア)
あなたはいにしえ“麗国”の血筋。
大魔王を討ち鎮め、上帝の降臨を護り立てた勇者と、苦難を共にした大いなる母との末裔。
今は樵夫に身をやつしながらも、廻る運命が私たちを引き合わせたのです。
(若樵)
なんと。ならばお前と私がこうなるのは、神が、上帝が決められた事だというのか。
そは、なにゆえだ
〈ユリアは語った。
那由他(なゆた)の時を経て、再び大地に魔王の蠢動ありきことを。
麗国の後裔たる若樵と、主竜神の分枝である天女が結ばれ、生を受けた天空の子が、暗黒の大地に一条の光明をもたらし、それが大いなる希望になるということを〉
(若樵)
君は始めから私と結ぼうつもりで舞い降りたのか。
ならば私は、主竜神の手の内に踊る道化に過ぎぬのか。
(ユリア)
違います……違います……。
初めは運命と諦めておりました。
世界を……この世界を救うためならば、地上人の妾に身を窶すのも仕方ないと。
でも今は……今は違います。
あなたの優しさに触れ、あなたの深い愛を感じながらこの一年……
ずっと……私はずっと幸せです。
あなたのことを、心から愛しているのです……。
(若樵)
そうか……そうであるなら、嬉しく思う。
お前の子……世界を救える勇者となるか…。
(ユリア)
あなたと……私の子ですよ……
〈しかし、幸福は長く続かなかった。神を疑った若樵。そして、地上人に心を捧げた天女ユリアへの神罰は酷なものだった。
若樵はその日、青天を貫く烈しき雷霆の鎗に脳天を割られたのである〉
(若樵)
これもまた、運命なのか――――
〈そう言い残し、若樵は事切れた。
生まれたばかりの天の子を抱きながら泣き叫ぶユリア。しかし主竜神はユリアを天空に連れ戻し、天孫に苛酷な運命を科した。
魔王復活の脅威を祓い、魔族擾乱の鎮撫という運命を着せて……〉
(樵夫)
天空の子がなにぞ、上帝。
我はただ……ただひとつ……。
我が子が先に旅立つこと、甚だ悲しや。
運命が何ほどのものぞ
夫婦を引き裂き悲嘆の鎖繋ぐことが宿命か
ああ、ならば上帝よ、儂は天孫を捨つることにしょうぞ
この胤(たね)がまこと退魔の運命を背負うのならば、生きつづけよう。
それまで、儂は孫とは思わぬ。孫とは思わぬぞ……。
〈樵夫は業を背負った孩(ちのみご)を、名も知れぬ頂の村、小さな牧師の門前に置き去った。
それが我が子に非業の罰を与えた上帝・主竜神へのせめてもの抵抗。
樵夫にしてみれば、そのまま天孫を慈しみ育てる事は出来ぬと。明日は知れぬが、今は愛せぬ。
赦せ……赦せ……赦せ……
譫言のように、樵夫はくり返していた〉
(若樵)
ただひとつだけ、お前に言い残したいことがある
〈涙も枯れ果てたユリアの夢に、若樵の姿が浮かび上がる。それは幻――――〉
(若樵)
今生の短き縁――――決して悔いはない
もしも那由他の後に上帝の赦しを得たとき……
而していま一度、ユリア……君とまた巡り逢い、愛するだろう。
それまで、生きよ。確かに君を愛した我が想いを忘れずに、天の子を見守ってくれないか。
私は忘れない。いつ、いつまでも御心に、この想い、温めていよう……。
………………………………
………………………………
「……フローラ……、フローラ?」
リュカが妻の横顔に愕然となった。
良人の声も耳に入らずにヘンリーたちの狂言に見入っていた、フローラの美しい瞳から、ぽろぽろと止めどなく涙が溢れていた。それはただ、感動の涙とは違う、悲しみの嗚咽。
そんなフローラの表情を見たのは初めてだった。
「フローラ……」
リュカがそっとフローラの肩に腕を廻すと、涙に濡れたフローラが切ない眼差しでリュカを見つめ、そのまま胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
「…………」
リュカは何も言わずに妻を優しく抱きしめ、そのまま半時、合わせて一時ほど続いた狂言舞台をじっくりと目に焼き付けた。
雅楽が終わると、観覧していたデール王は、リュカたちを気遣うようにそっと去り、やがてリュカの胸をしっとりと濡らしたフローラが、ようやく身を離す。
「……落ち着いたかい?」
「ご、ごめんなさいあなた……私……」
「いいよ。悲しかった?」
「……何故でしょう。こう……心の奥からしくしくと切なさが溢れてきて……。ヘンリーさんたちの演技に私……いつの間にか、激しく泣いてしまいました……」
「思い入れがあるんだね、きっと」
リュカの言葉に、フローラは寂しげな微笑みを浮かべる。
「天孫降臨……なんて言うのかしら、こう……どこか懐かしいような……哀しいような……。ふふっ、きっと幼い頃に読んだご本のお話が印象に残っていたのでしょうね、きっと」
すると、狂言衣装を纏ったままのヘンリーが、憮然とした表情で、マリアと共に歩み寄ってくる。
「よう。どうでもいいが、せっかくお前らのために演じたラインハット狂言の最中にいちゃつくのはやめれ」
「え……あっ!」
その言葉に、身を寄せ合い、手をしっかりと握り合っていたリュカとフローラは慌てて身を離す。
「素晴らしい。良いよヘンリー。狂言て、すごく味があって面白いオリエンタルステージじゃないか」
リュカの美辞にも、なお下がり目でリュカを見るヘンリー。
「お前らが抱き合っていた、ものの半時が一番の見せ場だったんだがなあ」
「え……っと――――」
フローラが真っ赤に顔を染めて羞じらう。
「くすっ。ヘンリーさま、良いではありませんか。ヘンリーさまがリュカさまたちにお伝えしたかったことは、伝えられたのでは?」
と、マリア。かく言う狂言の後半は、狂言特有のユニークを交えた演技。心なしお堅い表現で演じられた前半の肩の凝りをほぐす内容だったという。
ヘンリーは後半の見せどころをつぶさに語った後、こう言った。
――――魔王復活を止め、魔族擾乱を収めたと言われている天孫……天空の勇者は、生まれる前から逃れられねえ運命を必至で歩き、生きつづけてきた。
この意味を、お前らに見せたこの話……、これを選んだ俺からの贐を、気に入ってくれたらいいなあ。
「ヘンリー……」
リュカがじっと朋友を見つめる。
「ま、まあ、どの意味合いかはお前に任せるが、余計なお世話だったら、勘弁しろ」
「……許す。更に精進したまえ」
偉そうな面持ちで鼻を鳴らすリュカ。本当は別なことを言おうとしたのだが、ヘンリーの言葉を聞いて言い換える。
笑いながらヘンリーはフローラを一瞥してから言い返す。
――――正直、今度はいつ会えるかわからねえだろうから、最後にはっきり言っておくぜ、リュカ。
……お前らの旅は、人智を超えた……いいや、俗っぽく言や未来図のねえもんだ。
お前の母上も、世界を救う勇者も、今この世にいるかどうかなんて、ぶっちゃけわからねえ。最悪を思えば、結果不毛な旅になるかも知れない。
……それでも、全てを前向きに信じて旅を続けるならば、二人ともこの先、たとえ何があっても互いを信じ、愛し抜け。
未来図のねえ、暗闇の旅を続けるお前らならば、それは簡単なことだろう。
そして何よりも――――
何よりも、血ヘドを噛み砕くくれえ胸の苦しみを乗り越えてきたならば大丈夫だ。
お前らが若樵とユリアになるか、リュカとフローラという伝説の“バカップル”を後世に伝えるかは、全てお前ら次第と言うことだな……。
最後の最後に、ヘンリーは雰囲気を自ら壊す。
「ばかっぷるって……?」
「ばか……ぷる?」
眉をぴくつかせるリュカ。戸惑いがちに両手の人差し指をクルクルと交差させるフローラ。そしてマリアの溜息。
「私、ヘンリーさまのそう言うところ、すごく好きですわよ?」
「そ、そうかー? あははは、いやー照れるなあ」
皮肉もマリアの言葉ならば全て良しに捉える。ヘンリーは心底嬉しそうに、笑っている。すでに説得力はない。
「ヘンリー……、ありがとう。君の心遣いはいつも感謝しているよ」
リュカが身を正してそう言うと、ヘンリーが照れくさそうにはにかんだ。
「……ばかやろ、何度も言ってるじゃねえか。俺はお前に気遣った事なんて一度もねえんだよ」
「ああ、そうだった」
互いの肩に手を掛け、揺すり合う二人。
「一段落ついたら、また会おうじゃねえか」
「ああ、必ず」
リュカが大きく頷くと、マリアがくすりと微笑みながら言った。
「今度お越しになる時は、もっと賑やかになるかも知れませんわ」
「へえ……そうなんだ」
リュカの感嘆に、マリアはぽっと頬を染めた。
「多分、ですけど」
「それは楽しみにしておくよ」
「はい」
しかし、額面通りに受けとったリュカ。それがどういう意味なのか、真意はよくわからなかった。
太陽が中天を過ぎた頃、リュカとフローラは、ヘンリーたちに一時の別れを告げる。
「良い旅を。幸運あれ」
盃の神酒を交わし、旅の安全を祈念する。
「色々ありがとう、ヘンリー、マリア。また……」
「フローラさん」
マリアがフローラを呼び、耳元に囁く。
(喧嘩もそうですけど……早くリュカさんとの――――)
「まあ……ぽっ……」
フローラ、思わず両手を頬に当て顔を逸らす。
「んー……そろそろ行こうか、フローラ」
「あ……は、はいあなた――――」
名残惜しみつつも、別れの時。再び固い握手を交わし、友誼は次の再会へと持ち越される。
「初々しい感じでしたわね、リュカさまたち……」
そう語るマリアに、ヘンリーはやれやれと言った感じで応える。
「大丈夫かな……って感じだぜ。危なっかしい」
「そうですの?」
「まあ、なんだかんだ言って、それがお似合いなのかもしんねえな。そうじゃなかったら、あんな波瀾を越えて結婚なんてできゃしねえよ」
「本当ですわね……。本当に。あの時、もしもリュカさんの立場があなたでしたらって思うと、色々と憶測が立てますわ」
「埓もねえことを考えるよなあ、マリア。……で、どうなん?」
かといってヘンリーも興味津々だった。
「そうですね……きっとあなたでしたら――――……うふふっ」
言いかけて、マリアは突然踵を返して駆け出した。
「あ、こらマリア! 教えろ、教えろよぉ!」
もったいつけるマリアの後を小走りに追いかけてゆくヘンリー。
ラインハットの朋友たち、そしてその街のひたむきな明るさは、不変であった。
そして、ビスタに向かったリュカたちは、一路南へ、テルパドールへと向かうのであった。