第2部 故国瑞祥
第19章 流沙の国

 ビスタを発ってから、ほぼ二ヶ月の時が経つ。
 北ベレス海を西南西に。その間、西州大陸の沿岸に点在する小さな港に寄りながら、ストレンジャー号は海路南へ、南ベレス海の涯に位置する砂漠の王国・テルパドールへ着実に針路を取っていた。
 そんなある日のこと。
「ん――――――――」
 船内夫婦の部屋。鏡台の前に腰掛け、フローラは唸り声すら鈴の音の如く、鏡に対している。
「フローラ。ん、どうしたの?」
 部屋に戻ってきたリュカが、そんな妻の様子を気に掛ける。
「あ、あなた。お疲れさまでした」
 慌てて振り返り、にこりと微笑むフローラ。
「何かついてる?」
 徐に近づき、リュカは妻の真剣な様子の美しい貌を見廻す。
 するとフローラは、途端に恥ずかしそうに顔を赤らめて俯くと、上目づかいに小さな声で言った。
「笑わないで下さいます?」
「約束しよう」
「実は……、“目をまん中に寄せる”練習を、しておりましたの」
「…………はい? より……より目ですか」
 思いもよらない返答に、リュカは唖然となる。
「あぁ……可笑しいでしょう。でも、笑わないで下さいませ」
「誰の影響?」
 笑いを堪えて、リュカは極めて危なっかしい冷静さを保ちながら訊いた。仲間の誰かとの話題が発端となったんだろう。フローラは事の端緒を思い起こし、さらに恥ずかしくなって俯いてしまう。
 リュカはすんでで笑いを堪えながら、フローラの背後に回り、後ろからそっと抱きしめた。
「あなた……」
 頬を寄せてくる良人に、フローラは少し戸惑いながらも、胸に廻された腕に、そっと両手を重ねる。
「面白い。良いよフローラ、それ。で、出来たの?」
「…………」
 小さく、首を横に振るフローラ。心なしか、無念そうだ。
「フローラのより目かあ……可愛いんだろうなあ、くすっ……あ――――」
 思わず吹き出してしまう。抑えたつもりだったが、遅かった。
「もう、ヒドイですわ。笑わないって仰有ったのに」
 ぐいと身を離そうと、少しだけ藻掻くフローラ。しかし、その隙をつかれ、リュカと顔を合わせた瞬間、リュカにその可憐な唇を塞がれていた。
「んんっ……」
 フローラはリュカのキスに弱く、そして何よりも好きな交歓。観念したように力が抜け、瞼を閉じて舌を絡ませ合う。
 ちゅく……ちゅ……
 薄荷の香りを充分に堪能してから、唇を離すと、銀の糸が繋がったまま、フローラは恍惚とした眼差しとは遠くかけ離れた、切ない怒りの表情でリュカをじっと見つめている。
「ずるいですわ……」
「ごめん、怒った?」
 リュカの言葉を、フローラは小さく否定する。
 唇に微笑みをたたえながら、リュカの掌が、フローラの頬を優しく撫でる。ふと、フローラは睫を伏せ、小さくため息まじりに言った。
「あなたと……かなりの間、こうして旅を続けている気がするのに……。なぜかドキドキが止まらないの。おかしいでしょう?」
「どうして?」
「……もう、またそう言ってはぐらかそうとする。わかっていらっしゃるのでしょう?」
 恨めしげな上目づかいをするフローラ。リュカはわざと真顔を作り、徐に掌をフローラの胸に重ねる。
「ひゃあ!」
 突然触れられて素っ頓狂な声を上げてしまうフローラ。
「どれどれ……」
「きゃ……あん!」
 フローラの細い身体が強張り、速くて控え目な鼓動が掌に伝わってきた。
 しかし、そのままリュカは手の力が抜けてしまいそうなほどに絶妙で、抜群の柔らかさと、程良い大きさの乳房を味わいながら少しだけ悪戯する
「あぁ、ダメですっ。まだ明るいのに……あなた…っ」
 そう言いながらも、自然と声に甘さが滲み、電流が奔るかのように身体が痺れる。
 しかし、リュカは小さく笑いながら、そっと愛撫を止めた。
「も……もう……あなたって本当の本当に……」
 リュカは本気で理性を奪うつもりはなかったようだった。良人の悪戯に拗ねるフローラ。宥めるリュカ。しかし喧嘩には程遠い。
「気分を紛らわすためと思ったのですけど、なかなか出来ないからついムキになってしまって……」
 無理矢理話を本筋に戻すフローラ。微かな怒りと悲しさが交錯したその表情が、たまらなく可愛らしく見えた。
「フローラは、がんばりやさんなんだ」
 屈託のない笑顔と、まるで幼子に語るような口調に、フローラはぽっと頬を染める。
「がんばりますわ。えーっと……ふぁいっ!」
 きゅっと唇を窄め、柔らかく握りしめた拳を胸元に当ててガッツポーズをする。
 その仕種に、リュカの臨界点は一気に突破した。
 大笑がストレンジャー号の隅々にまで響くようだ。
「も、もう! そんな大声で笑うなんてひどいっ!」
「あははは、ごめんごめん。すまなかったよ。あんまり可愛いから、つい……」
 他人が見れば一気に士気を挫いてしまうかのような夫婦のやり取りだろう。
(……リュカ、少しよろしいですか)
 そのとき、ドア越しにパーティきっての沈勇の士・ピエールの声。彼の言葉は時に良く冷えた氷嚢。熱った空気を心地よく冷ます。仲睦まじき若き夫婦の暴走しかけた交歓を、このスライムナイトがたびたび諫めている。
「まあ、ちょうど良いところへ来てくれましたわね」
「ああ……」
 リュカが苦笑しながら頷く。仲間たちを取りまとめるだけあってさすがに智勇を兼ね備えていて、時に主人であるリュカをも唸らせる正論が冴える。リュカにとってピエールの存在は新たに『諫臣』という言葉が相応しいものに思えた。
「どうした、ピエール」
 扉を開けると、諫臣はいつものように恭謙とした様子でリュカに向かう。
「陸地が水平に。おそらく、テルパドール大陸ではないかと」
「なに、そうか」
 リュカが思わず嬉然と身を乗り出す。
 長の船旅、初めのうちは見渡す限りの蒼い海原もおつなものかと感じたものだが、やはり幾日も似たような風景では、飽きるというか、不安にもなる。陸地発見の報せに、我先にと駆け出したくもなる気持ちが、フローラにもよくわかる気がした。
「わざわざ報せに来てくれてありがとう、ピエール」
「い、いえ……。これも御主人のためですので」
 フローラの微笑みに、ピエールは照れくさそうに頭を掻く。
 何げに間が空く。フローラとピエール。かつては先入観に忌諱していた魔族と、忠義を尽くすリュカの妻。今にして思えば、溝が深かった両者がこんなに深く打ち解け合える関係になれるなど思ってもいなかった。
「メッキーによると、テルパドールは四方黄土の流砂国にて風常に強く、旱天に熱せられた真砂が視力を奪い、鼻口を焼き付け、体力を激しく奪い去るとのこと。もしよろしければ、リュカがお戻りになるまでご待機あればと……」
 ピエールの言葉に、フローラはあけらかんと答えた。
「お気遣いありがとう。……でも私は大丈夫。どんなときもあの人の傍を、離れたくないの。どんな苛酷な旅の先でも、ずっと……ずっと……」
「……これは失礼なことをお伺い致しました」
 訊くまででもなかったかとピエールは思った。
「うふふふっ、いいのよ。ありがとう、ピエール」
 フローラの優しい笑顔に、ピエールは言葉を失って伏した。
 ちなみに、それはリュカの意向ではなく、自分の一存で訊ねたのだと、ピエールは付け加えた。
(貴女の身、一命を賭してお護り致す)
 ピエールは思った。この美しきリュカの内室が旅を共にするとしたあの日に誓った、自身への思いを新たにすること。
 それはリュカたちの忠僕、そして何よりも人と魔族という域を超越した、淡く儚い、特別な想い。

テルパドール王国・ラマルカス

 ピエールの報せがあった翌日。ストレンジャー号は、小さな港町・ラマルカスに接岸した。
 そこは既に黄土色一色の砂漠。東洋史書には『四方どこまでも続く強風と熱砂の荒野、高天は茫々と黄埃に日輪をして暈となり夷狄を阻む。ここぞまさに遐環沙洞(テルパ・ドール)国』と記述されているように、まさしく緑滴る他大陸とは風景がまるで違う。
 昼は大地が燃え盛り陽炎が絶えず、夜は身を凍らすほどに冷たき月が大地を青白く照らす。
「馬は止めておけ。駱駝が良いだろう」
 ラマルカスの荒くれがそう言った。
 テルパドールの国都・ティルダリアまでは最短で二十日。
 渇いた大地と、吹きつけてくる黄土の真砂は悪路そのものだ。馬は勿論、徒歩などは話にならず、駱駝を用いることが最も有効な交通手段なのだが、魔族が凶徒化している昨今、まともに往来する旅人は激減していた。
「いえ。パトリシアは類い希なる駿馬ですので、ご心配なく――――――――」
「へえ、見た目のたおやかさとはかけ離れた、北方の汗血馬かい。もしやその駿馬、はるか伝説の天馬の血脈だったりしてな、あはははっ」
「もしもそうだとするなら、オラクル屋は大損ですね」
「ちげえねえな。……ま、馬が使えりゃ駱駝よりゃずっと“楽だ”。なんてな、がははははっ!」
 ごり押し陽気な荒くれの駄洒落に苦笑しながら、情報収集を続けるリュカ。
 元々温厚な魔族として知られている炎族(炎の戦士)、ケムケムベスなども、折からの瘴気に中り、人間への襲撃事例が後を絶たないのだという。
 ラマルカスの町で砂漠国の情報を一通り得たリュカたちは、休息を取るために宿に入った。
 海に面する港とはいえ、陸からの乾いた風はやはり頬に痛い。建物もやはり摩耗に耐えうる石造。黄土色の風景から一歩中に入ると、打って変わって薄暗い。
 ラマルカスの宿屋は三人用の二部屋しかなかったが、時世のためかとんと暇であった。
 もしも平穏な時代で旅をしようものなら、プライバシーなどこの地にはない。相部屋は当たり前だ。
 また、砂漠にとって水は金銀の価値。風呂などは全く与らない。ラマルカスは海が側だから良いが、内陸に入れば途端に衛生が悪くなる。せめて点在するオアシスが砂漠の民の浴場。
「ティルダリアまでは苛酷な道。フローラ、君の肌を黄砂に打ちつけ、強い陽光に灼くことは忍びない。ストレンジャーで待っていても良いんだよ?」
 リュカは敢えて訊ねた。フローラの答えはひとつしかない。そして、その答えに、リュカは頷いた。
「良い答えだ」
 そう言って、リュカは荷物から衣装一式を取り出し、フローラに差し出した。
「これは……?」
「砂漠の陽射しと熱砂を防ぐブルカという服とスカーフだ。ラインハットを出る時、ヘンリーに勧められて買っておいたんだ」
「まあ……!」
 差し出された漆黒の衣装をゆっくりと受けとるフローラ。
「せめて僕にもわがまま言わせてくれ、フローラ。……君の綺麗な肌をそのままに。渇いた風に傷めるのは、耐えられないから」
 感情を抑えたリュカの言葉に、フローラは胸が熱くなった。すごく、嬉しく思えた。
「ありがとう、あなた……。すごくうれしい――――」
 瞳を潤ませながら、リュカの気遣いを胸に抱きしめ、良人を見つめる。
「テルパドールにいる間、君のことを絹ごしにしか見られないのは残念だけど」
「うふふっ。あなたのためにお肌のお手入れはしっかりしますわ。……それに、夜くらいなら……あなたのことずっと見つめていられますから――――」
 まずい。見慣れぬ土地で一段と疲労している状況でこの雰囲気。身体を休めることが最優先。
「そうだったね。寝る時はずっと一緒だったんだ」
 リュカはわざとそうはぐらかして笑った。
「?」
 きょとんとした眼差しで、フローラは良人を見つめた。

 翌日。
 漆黒のブルカとスカーフによって全身を覆ったフローラの姿は、さながら出で立つシャドウのようだ。
「違和感、ございません?」
「ああ、大丈夫。よく似合ってるよ」
「姿をすっぽりと隠してしまう衣装が似合うというのも、不思議な気持ちですわね」
「そうかな? ああ、確かにそうかも知れない。でも、本当にそう思う……」
「うふふ。冗談ですわ。ありがとうございます、あなた。着ている服を似合うって言われると、すごく嬉しいものですわ」
「うーん……難しいもんだ」
 それは見た目の薄さに較べて意外と外気の遮断性に優れているようだった。日光の紫外線、吹きつける砂から、ほとんどフローラの肌を庇護してくれていた。
 フローラの白い肌はとてもきめ細かく、外見でも白薔薇の名に恥じない。ゆえに些少の傷でも目立ってしまうのだ。
 魔物などから受ける物理攻撃や呪文による傷は回復系魔法で霧消できるが、天象や生理による傷みは癒せない。それを思えば、リュカの選択は正しかった。
 ドラきち、イエッタ、マーリンらは超低湿の乾燥気候に激しい消耗を受けると言うことでストレンジャー号に残留。常勤のピエール、自称『フローラの世話係』スラりんを除けば、アプール、ガンドフ、ヌーバ、メッキーと、比較的守勢に傾く編成をしてティルダリアへの往路とした。特に『生きる羅針盤』メッキーはこういう土地では絶対不可欠な存在である。
 テルパドール中央公路は、大陸の東西南部を囲むウスライア高山嶺の麓を迂回するように続く。
 所々に育っている覇王樹を道標として、平坦な道がほぼ直線にティルダリアへと伸びているために、想像しているほど道なき道というわけではなかった。
 また、ウスライア高山嶺に囲まれたいわゆる盆地であるこの大陸は、山裾を伝う風は絶えないが、飛ばされるほどの暴風に見舞われることはほとんど無い。乾期から、短い雨期に移る春先あたりには時々竜巻のような現象も起きると言われるが、それも中央公路から遠く離れた、人跡未踏の砂海のただ中で起きるため、余程不用心でなければ、落命するほどの危険はない。
 ただ、確実に緑ある大地を長く旅するのとは訳が違う。
 リュカはティルダリアまでの大部分をフローラに馬車にて休息を取っておくように勧めた。初めは意気盛んに黄土の景色を楽しんでいたフローラも、さすがに慣れぬ砂漠。十日目には遂に体調を崩して馬車に伏してしまったのだ。

「……ん……あ……」
 そっと瞼を開くと、白い幌から太陽が透けて見えた。
「だいジョうぶ? ふろーラ……」
 ぴょんとスラりんがフローラの額から熱くなった身を跳ね下ろす。フローラはゆっくりと上体を起こし、瞼をそっと擦る。
「んん……おはよう、スラりん……。うーん……ごめんなさい。迷惑かけちゃうなんて……」
「ボクはぜん然へーきだけド。と言うか、一緒に居らレるからウレシイ」
「くすくす、コーラ。不謹慎ですよ」
 嗄れた声が少しばかり痛々しい。
「エヘヘヘ」
 スラりんはその青色の姿を活かして氷嚢代わりになっていた。その感触の良い柔らかさがまた、気持ちが良いのだ。
「リュカさんは……?」
「リュカ、オアシスを探しテいるみたイ。メッキーのヤツがしばらく行ったトコロに、ミドリを見つけたみたいだカら」
「そう……。迷惑、かけてしまうわね……」
 フローラが沈むと、スラりんがぴょんぴょんと跳ねた。
「そんなことナイってば。リュカ、何かうれしそうダよ。フローらが来てから、スごク楽しい」
「そう? そうね。何言っているのかしら私……。ゴメンねスラりん。ちょっぴり、弱気になってしまったみたいね」
 少し疲れた感じに俯くフローラ。スラりんはぷるぷると全体を振り子する。
「ボクもウレしいんだっテ! フローラと一緒にいられるモン。エヘヘー、リュカに勝っタ。ピエールに勝っタもんネ!」
 はしゃぐスラりん。人よりも無邪気で純粋な魔物。フローラはこの旅をして随分と時が経つに連れ、聖なる心を持つ魔物たちだけにあり、人にはない特別なものを、少しずつ感じ始めていた。
「……そうね。今日はリュカさんには会えないかも知れないわ。うふふっ、今日はスラりんとずっと一緒」
 嬉々と跳ね、フローラの膝に乗るスラりん。
「イッしょ、一緒! ずうッと、いっしょー」
 スラりんの言葉が、フローラの本心に思えた。

タリムシュ

 ウスライア高山嶺東麓に差し掛かると、朽ちかけた道標に、その地名があった。
 タリムシュ…『影なる沼』という意味合いを持つように、かつてはその周辺はオアシスが広がっていただろうと思わせる、動植物・人の居住らしき痕跡が広がっていた。
 そして、その地に、小さな石造りの庵がひとつだけあるのを、リュカは見逃さなかった。
「あそこで、休息を取らせてくれないか訊いてこよう」
 リュカがピエールと共に、小走りに駆け、庵の扉を叩く。周囲を見ると、ひとつ井戸があった。驚くことに、その井戸には満々と水が湛えられている。人が住むには、それだけでほぼ大丈夫だ。
「どなたかね。ティルダリアならばここを道なりに西じゃ。二十日も行けば辿りつく。ああ、ラマルカスならば北じゃぞ」
 面倒くさそうに、中から声がする。リュカは一瞬、ピエールと目を見合わせてから言った。
「ティルダリアまでの旅をする者ですが、連れが体調を崩してしまい難儀しております。ひと晩だけでも構いません。お世話になりたいのですが」
 すると、しばらくしてから扉が開き、渋い顔の老士がリュカたちを見廻した。スライムナイトの姿にも、老士は驚かない。
「魔物使いがこのような砂漠の国を旅するのか。けったいな者よ」
 そう言って手招いた。
「ありがとうございます」
 リュカはピエールに目配せをすると、ピエールはその意を汲み、フローラを呼びに行った。

 隠修士シュオン。老士はそう名乗った。さる国のキャリア文官だったが、世捨て人同然、隠修士となってテルパドールに渡ったという。リュカもまた、旅の経緯を語った。シュオンは唸りながら耳を傾けている。
「テルパドールに伝えうる伝承の秘宝も天孫にまつわるものと聞く。アイシス女王への拝謁は無駄ではあるまいな」
 シュオンの言葉に、リュカは瞳を輝かせた。
 旅の大義。シュオンの話に、そのひとつがまたひとつ近づいてゆく。
「それにしても、かような嫋やかなる細君を伴侶としての旅は、さぞかし苦労も多かろう」
 フローラは筵に横になり、熟睡していた。心地よい温度に保たれた庵、落ちた体力の身にとって、会話も聞こえぬほど深い眠りに落ちるのは造作もない。
 リュカはそれでも、久しぶりに建物の中で身体を休められ、安堵の表情で眠っている妻の姿にほっとした様子だ。
「苦労を買い、それでもこの想(こころ)ありあまるほど佳き妻です」
 シュオンは感嘆する。
「さすがは名高きサラボナ公の御令嬢。ユーリックが到底敵うまい英傑であったようじゃな」「ユー……リック?」
 リュカが首を傾げると、シュオンは気がついたかのように膝を叩き、相好を崩す。
「おお、そうじゃそうじゃ。もしもこの先、時に少しばかりの余裕があれば、ラマルカスの北東にセントミュージアム島という島がある。そこにユーリック・デュ・ラーゼン伯という男が豪邸を構えているはずじゃ。旅の話に一度寄ってみて損はないぞ」
 シュオンはどこか楽しそうに語る。
「是非にも」
「おぉ、話が逸れてしもうたが、細君はよう奮起されておるようじゃな。サラボナ公の娘御とはかくありきか」
「…………」
「御亭主が一番良くわかっておるじゃろうが、かような女性は無量無辺に非ず。無理をさせず、大事になさることじゃ」
 シュオンの言葉に、リュカは思いを巡らせた。安らかな寝息を立てるフローラを優しく見つめながら、答える。
「そうでありたいと願い求む日々です」
「さもとらしい言葉じゃな。儂も昔を顧みるようじゃよ」
 と言って、シュオンは笑った。
「食糧はないが、井戸水はある。テルパドールの深層水は清冽で美味い。細君の体調が整うまで、おるがよいぞ」
「それは……ありがとうございます、隠修士さま」
 まさしく地獄に仏。リュカは深々と低頭した。
 タリムシュに逗留すること二日。シュオンが勧める井戸の深層水によって、フローラの体調の回復は劇的に早まった。
 感謝の言葉も尽きることなく、リュカとフローラはシュオンに別れを告げる。
「この様な場所、忘れなければまたいつでも来がよい」
 馬車が見えなくなるまで、シュオンは手を振り続けてくれた。それがまた、リュカたちにとっては嬉しかった。