タリムシュから西へ約十日。覇王樹の道標とメッキーのコンパスを頼りに、一行はようやく国都・ティルダリアを臨んだ。
ロマの言葉で『臍のオアシス』と言う意味を持つらしい地名から曰く、テルパドールが世界の安定の要だという自負が具に感じられる。
「フローラ、大丈夫か」
「は、はい……ありがとう、あなた――――」
馬車の入口を覆う緞帳の隙間から様子を覗う良人に、フローラは微笑みを返した。
隠修士シュオンから勧められた深層水の効能で、体調が大幅に改善したフローラだったが、やはり砂漠の乾燥気候は容赦なく体力を奪ってゆく。
タリムシュを発ってからは、殊に優しいリュカが、共に外で戦いたいとごねるフローラの願いを押し切り、彼女を馬車で休息させることとなった。
(真砂と熱風に晒したくはない)
リュカもやはり男性だった。
男ならば誰もが、愛する女性をさも苛酷な環境に晒すのは、激しい抵抗感があるはずだ。
義父ルドマン公も忠告していた、極限の中で魔物の屍肉をも喰らわねばならぬ……。しかし、リュカならばきっと、自らが屍肉を喰らおうとも、フローラには籾殻を差し出すだろう。それでもだめならば、自らの肉を切り、血を水とするに違いない。フローラの美しさと気品、そして何よりも、人として、女性としての気概を守るためには、鬼にでも、邪にでもなれるような気がした。
『良人の役に立ちたい』と願い、健気な振る舞いを見せるフローラを、リュカは基より、仲間たちも、そんな彼女を自然に支えている。
フローラは嬉しく、幸せだった。決して楽な旅ではない。寧ろ、苛酷という言葉が慣れてしまうほどに、リュカや仲間たちと過ごす時との紙一重を実感する。
氷系の呪文を操るイエッタがいればきっと、どことなく乾いた細い鍼で刺激するような暑さが漂う今よりも、ずっと快適だっただろう。
しかし、それが旅の現実というものの一つだった。
それは砂漠を旅慣れぬならば蜃気楼かと思うほどの美事なオアシス都市。『琥珀城』との異名を持つティルダリア城を始めとする、吹き荒ぶ砂漠の風にも耐えうる程の強化煉瓦造りの家々。砂塵に風化し難い理由は、ティルダリアの遙か南にある街・クービスから採れる『燃える水』によって特別に焼成された煉瓦ゆえだという。
黄土の風景に、整然と立ち並ぶ琥珀の建造物は、なんと殺伐とした地に、精神的にも安堵感をもたらしてくれるようだった。
農耕に不向きな流沙国テルパドールを支えている主産業は、他ならぬこの強化煉瓦と言える。最近ではラインハットなどの北大陸、ポートセルミ、サラボナなどの西州諸都にもその質の高さを買われているという。
「そんな細い身体でラマルカスから旅をしてきたのかい。すごいことだよ、そりゃ」
宿屋の主人が息嘯づき、フローラを見る。微笑んでいたが、やはり砂漠の旅は細身にかなり辛かった。今にも倒れそうなほどに立ち居振る舞いが覚束無い。
「昼は砂に蒸し卵を誂えるほど熱く、夜は甕の水面に薄氷が張るほどに冷え込む。さぞやしんどかっただろうに」
「いえ……良人が私を気遣ってくれたので……」
フローラの言葉に、主人は息を延ぶ。
「お若い旦那さん、良い判断でしたなあ」
その言葉の意味を思うと、リュカは無意識に背中に汗を流した。
地下にある客室。砂漠の環境を考えれば、地下に住居を構えるのは全くの道理。
リュカはフローラを寝台に導き、腰をかけさせた。緊張から解放されたのか、フローラの肩からすうと力が抜ける。
「オアシスから引いた浴室が向こうにあるそうだから、少し休んでから身体を温めておいで」
「まあ……お風呂がありますの。ありがとう、あなた……。あ、ところで、あなたは?」
嬉しさもあったのか、少しばかり上気した表情を良人に向けるフローラ。リュカは相変わらず、優しい微笑みを妻に向けながら言った。
「少しこの街を散策してみたいと思う。それに、女王アイシス様にも拝謁をね……」
するとフローラははっとし、身を乗り出そうと両手をベットに突き立てる。
「フローラ――――」
咄嗟にリュカが妻の細い指に指を絡め、制止する。互いの瞳が、互いを捉えた。
「……わかるね?」
「…………」
全てを語るまでもない。フローラは睫を伏し、きゅっと良人の手を握りしめた。
「女王陛下への御拝謁は、明日と言うことで」
「ご配慮、感謝致します」
テルパドールへの来朝を司る公使寮へ足を運んだリュカは、女王拝謁の手続きを済ませた。
女王アイシス。後に『孝嬋王』と遠洋の史書に名を刻むまで高名を轟かせる砂漠の女王は、その美しさもさることながら、叡算二十九にして広く拝謁の牆を取り払い、人臣の声を聞いたので声望殊の外高く、不毛なる砂漠の王国を大いに隆盛させている。
しかし、女王の忠臣はそんな寛容な君主を案じ、自主的に拝謁希望者の選定を行い、そのために、実質女王への拝謁は容易ではないとされる。
そんな中でリュカが翌日の参朝許可を得たのは、ルラフェン侯ルキナス・ディアスの用件を携えてきたことが殊の外大きかったと言える。ルキナスの負託が渡りに船だったのは言うまでもない。
その公使寮からの帰途、琥珀城正門前に、明らかに外つ国からの使者とおぼしき礼装の男性が誰かを待つかのような様子でいる。
そして、回した視線の先にリュカに気づき、少し思いを巡らせたが、確信を得たかのように表情を晴らして駆け寄ってくる。
「お訊ね申します。もしや、フローラお嬢様の御夫君リュカ殿では?」
「はい、そうですが。――――あなたは?」
リュカが男性を見遣ると、男性は安堵したように深く息をつき、拝礼する。
「サラボナ公の使聘パックと申します。主命によりお待ち申し上げておりました」
「御父公の……。それはまた足労でしたね」
リュカが倣い拝礼する。
「いえ、ほんの二十日ばかりのこと」
「二十日もこの様な地にておいでとは。もしも僕たちがこれより三月遅れたならば、心痛の極みというものでした。御父公も随分と難儀なことを」
「お気遣いには及びません。百日の手当を頂いておりますので……」
パックが笑むと、リュカはなるほどとばかりに顔が綻ぶ。
「ああ。それはともかく、リュカ殿とお嬢様にと、主から負託されたものがございますれば……」
「サラボナからわざわざ使聘を遣わすとは、何か火急の事でも」
リュカの言葉に軽く瞼を伏せると、パックはリュカを導くように歩幅を速め、リュカたちが逗留している宿へと入った。
パックが滞在している部屋はリュカたちの部屋から離れた突き当たりの小さな個室。
休んでいるだろうフローラに気づかれないように足音を殺し、パックの部屋に通された。
「私の使命は、主からの宝物をリュカ殿にお引き渡しするまでお守りすること。どうか、忌憚なくお納め下さいますよう」
部屋の中央には衣装筺並のやや大きな宝物箱が置かれていた。
「これはまた、随分と大きな……」
唖然とするリュカ。しかし、こう言うところが何ともルドマンらしいと言えばそうだ。
「主の話では、フローラお嬢様がこの箱の鍵をお持ちとか。リュカ殿にお会いしたらそのように伝えよとのことでしたので」
「それならば、わざわざ城門近くでなくても、ここでお待ちいただければ良かったのに」
リュカの気遣いに、パックは苦笑しながら首を横に振った。
「いえいえ、これも使命ですので」
リュカは少し首を傾げて思いを巡らせると、納得したように小さく頷いた。
「確かに、承りました」
リュカがゆっくりと宝物箱に手を添えると、パックはほっとしたように息をつく。
「任務といえど、やはり宝物を預かるというのは気が気ではありませんでした」
そう言って、パックは大きく深呼吸をして肩の力を抜くと、疲れたように微笑む。何よりもこの様な大きな荷物をサラボナからポートセルミを経由し、ラマルカスからティルダリアまで運んだ手間暇を振り返ると、自分の仕事の大きさというものを改めて実感させられる。
「それは……御父公ならば、直接僕たちを見舞うという奇抜な行動もあり得たこと。お察しします」
パック、今更ながら身震いの心地。
「あなたはこれから……」
宿の外。リュカの言葉に、小さく頷くパック。
「はい。サラボナに戻ります。主にご報告申し上げて、ようやくお役御免です」
そう言ってキメラの翼を取り出す。
「ならば、帰参序でに御父公に伝えてもらえませんか。フローラともども、恙なく旅を続けられていると」
「承知仕ります。……それではリュカ殿、旅のご無事を心より……」
パックは胸元に祈りの十字を描き軽く会釈をすると、ゆっくりとキメラの翼を放る。淡い光が全身を包んだかと思うと、その刹那パックの姿は光芒の残影となっていた。
ルドマンからの宝物箱を抱え、部屋に戻ると、フローラは安息を立て眠っていた。仄かに石鹸の香りがする。余程疲れていたのだろうか、多少の物音では目覚めるとは思えなかった。
宝物箱を寝台の脇に置き、リュカはしばらくフローラの寝顔を見つめる。
「お義父さんなら本気で僕たちの旅の途次に……。君のためにこの様なことを、ははっ」
ルドマンの奇抜で豪胆な一面を持つ性格ならば、それも満更ではないだろう。だが、一方でサラボナ公として、西州諸郡の執務をこなさねばならぬ重責を思えば、愛娘のためとはいえ、公を優先せざるを得ないジレンマに顰める表情が容易に想像できて可笑しく思えた。使聘を遣わしたことが、ルドマンのもどかしさを寸分なりと感じられた。
リュカも砂埃を洗い流す。砂漠で入浴できるというのは、何となく贅沢な趣があった。そして、砂漠気候の地上とは対照的に、宿屋の地下は乾いて涼しく、湯上がりの身体には非常に心地よい。
リュカもまた、真新しくメイキングされた寝台に横たわると、深い眠りに落ちるまでに時間はかからなかった
浮遊する漠然とした意識が一瞬、真中に集中し、リュカの瞼がわずかに開いた。
薄暗くちかちかする光が、眼球の筋肉を伸縮させ、リュカの眠気を覚ましてゆく。
静かな雰囲気にリュカは瞼を瞬かせた。
「ん……」
声を上げると、側らにいた人影が嬉然と身を乗り出す。
「あ、お目覚めですね、あなた」
フローラが微笑みながらリュカの瞳をのぞき込んでくる。
「フローラ……今は……」
「お夕食の支度がもうすぐ調うそうですわ。ふふっ、私がお湯に与ってから、三時ほどでしょうか。私も先ほど目覚めたばかりですのよ」
「そうか――――少し、眠ったようだ」
いささかこめかみがずきずきとする。そっと人差し指をそこに当てた。
「小さな鼾がまるで……ふふっ」
思い出したように微笑むフローラ。
「あ……ごめん。もしかして、うるさかった……かな」
するとフローラははにかみながら小さく首を横に振る。
「もう少しお休みになっていてもよろしかったのに」
「良いタイミングだったみたいだね」
少しでも後に禍根を残すことがなくて助かったと思ったように苦笑し、安堵の息をつくリュカ。
「あなた? ところでこの筺……」
ずっと気になっていたのか、フローラが寝台の脇に置かれていた見慣れぬ宝箱に目を配る。
「ああ、そうだった。フローラ。父公の使聘が来ていたよ。君を思っての為送りのようだね」
「え……まあ、お父さまったら、わざわざ人をお遣わしに?」
リュカが使聘の経緯を話すと、フローラは泰然と微笑む。
「お父さまらしいですわ。もしかすると、この先も何処かに使聘を遣わしていらっしゃるかも」
「落ち着いて旅が続けられません」
リュカが言うとフローラは事も無げに返す。
「大丈夫ですわ。もしもその気になれば、届け物を私物として持ち去ることも出来ますし」
リュカは迂闊だと思った。あの名士ルドマンが人物鑑識眼にも長けていることを。愛娘に対して送り届ける物を託す人物が横領などするはずもない。
「忠義に篤い蔵人なんだ」
「レイチェルもそうですわね」
納得。ルドマンの人望を改めて知らしめられる。
「鍵が……掛かっておりますわ」
唇に片方の人差し指を当てながら、箱にもう片方の掌を当てるフローラ。
「そうそう、フローラが鍵を持っていると言っていたけど……」
リュカを見つめてきょとんとするフローラ。
「私が……? ええと……」
身に覚えのないとばかりに、左右に首を傾げる。
「筺の鍵なんて、預かっておりませんのに。……あっ」
不意に閃いたように貌を上げる。
「あなた。筺の鍵ではありませんけど、“祠の鍵”ならば、ずっと……。お父さまにお返しするのを忘れておりましたわ」
「祠の鍵……って、エッツ島の――――まさか」
一笑に伏さんと思ったその直後、笑みが凍結し、思わず目を見開いて妻を見る。フローラは真剣な顔で「その通り」と言うように頷く。
リュカはおずおずと部屋を出、乾いた風が吹く外に駐している馬車へと駆け込む。
「あ、旦那。どうしたでやんす?」
厚布にくるまって休んでいたメッキーがリュカの姿に驚き、思わず羽を広げる。かたやガンドフは相変わらずマイペースに熟睡している様子。
「ちょっとね、捜し物なんだけど」
祠の鍵はフローラの言う化粧箱の隅に控え目に置かれていた。使わないものでも懇切丁寧に整理されている。男所帯ではこういう色気などなかったものだと思った。
「そう言えばピエールとアプール、ヌーバはどうしたんだ?」
「オアシスの畔に行くって言ってたでやんす。ピエールの兄貴はともかく、アプールとヌーバは水っけが欲しいとか言ってやんしたね」
するとリュカは小さく笑った。
「無理もないことだよ。んー……ピエールがいるなら心配はないな」
「何か、あったんでやんすか?」
鬼気迫ったような様相をリュカに感じ、ごく当たり前なメッキーの疑問に、リュカは真顔で答える。
「この先の旅を考えると、極めて重要で、捨て置けないほど瑣末な事なんだと思う。君たちにも少なからず関わりがあるだろう」
「…………」
メッキーの頭上にクエスチョンマークが舞う。
「よくわかりやせんけど、よく伝わりやんした」
「ごめん!」
リュカがぱんと手を打ち鳴らして引き返すと、メッキーは再び厚布に身をくるませて思った。言葉の違和感というのか、リュカの言ったことが何となくむちゃくちゃだということを感じながら、気にするまでもないかとばかりに自己完結させ、メッキーは再び眠りに就いた。
「…………」
「…………」
扉の鍵を見合う若き夫婦。何故か互いの瞳は真剣そのもので、心臓が無意味に高鳴ったりしている。
リュカがこくんと頷くと、フローラは微かに震える手で鍵を取り、宝箱に向かう。
「き、緊張しますわ……」
まるで三千年の禁忌の匣に向かう冒険家のような心境。頑なに閉ざされている封印を解く術がすぐ傍にあったことへの拍子抜けと嬉しさが混淆する、何とも言われぬ心地良さ。
鍵穴は良く見ると確かに見覚えがあるような気がした。期待感が先行して膨らむ。こう言う気持ちというのはきっと、カジノに初めて挑戦し、文字通り一攫千金を想定して将来像を描き浮かれているに等しいものなのだろう。当然、期待が外れた時の衝撃は計り知れないものだが。
リュカがごくりと唾を飲み込む。同時にフローラもこんこんと可愛らしい咳をする。そして、一度リュカと顔を見合わせると、鍵穴に祠の鍵を差し入れた。
「……っ」
きゅっと唇を窄めて、フローラは手首を捻った。
……がちゃ……
鈍く耳当たりの良い金属音が一瞬の静寂に包まれた空間に響いた。
「……!」
「あ…………」
再び見つめ合う二人。思わず表情が、だらしなく綻んでしまう。
「お父さまったら……」
呆れたようにため息をつき、肩を落とすフローラ。
「さすがは父公。裁知の賜物」
リュカが顎を引いて苦笑すると、フローラは思わず赤面してしまう。
「もうっ、お父さま……。いつかサラボナに戻ったら、うんと言ってやりますわ」
「まあまあ。父公らしいじゃないか」
ルドマンの趣向に嗟歎するリュカと、それを貶すフローラのやり取りもそこそこに、興味はようやく、ルドマンの贈り物に向けられる。
「……それにしても、わざわざ送り届ける必要がある物って、何かしら……」
フローラが呟く。
「僕はともかく、君への配慮は言うに及ばずだろうね」
「まあ。そんな……」
リュカに勧められるままに、フローラは蓋をゆっくりと持ち上げる。
「あ……こ、これは……」
中を見たその瞬間、フローラは思わず絶句した。
「へえ……」
傍らで見ていたリュカも、感嘆する。
ルドマンが用意した、二千ゴールド分の為替。フローラの直筆サインによってのみゴールド銀行での換金が可能な物と、やはりフローラのための衣類、長の旅に必要不可欠な保存食や薬草類などがきちんと整理されて収められていたのである。
「お父さま……」
フローラは一通りそれに目を通すと、箱の片隅に包まれていた円筒を取り出し、中からパーチメントに記されたルドマンの手紙を取り、それに目を通す。
「ええと……
『我が愛しの娘フローラよ、リュカ君との旅は恙ないか……』」
そなたたちがサラボナを出で立つこと、正直母と共に案じていた。出来うることなら、いっそリュカ君に旅を諦めてもらい、このまま私たちと共に暮らして欲しければとも思った。
だが、そなたたちが居なくなりて早四月にもなろうか。
今になりようやく、心を無にして思いを巡らせるゆとりを取り戻しつつある。
お前を還俗させたのも、そなたの意に反しての婿取り……全てはお前が愛する、リュカ君と巡り逢うための運命だったのかと。そう思えば、私は寧ろ嬉しく思えるのだ。
やはり、お前がリュカ君と一緒になってくれて良かったと思う。リュカ君がお前を選んでくれたことへの喜びを、私たちは生涯の欣舞としよう。
フローラ、お前は今やリュカ君の妻として、神前で誓い合った言葉を忘れることなく、たとえどの様な運命がこの先待ち受けていても、逆らうことなく、ただひたすらにお前が愛したリュカ君を信じつづけよ――――。
ルドマンの言葉に、フローラは頬を赤らめる。こみ上げてくる感情が溢れそうなばかりに、続けた。
――――だが、やはり私としても、お前たちの親として、少なからず支援をさせてくれ。
当座の路銀としては少ないかも知れぬが、取りあえず二千ゴールドは用意してある。足りなければ、行く先々の街に我が名を用いればいくらでも用立てられるはずだ。資金の懸念はなくて良い。
……それとフローラ、やはりお前も我が娘としての誇りを失くすな。
いつも美しいままで、リュカ君の傍にいるのだ。
男というものは、愛する女にはいつまでも綺麗でいて欲しいと思うもの。美しさのためには妥協はするな。たとえそれがリュカ君であろうともな、わっはっは。
「手紙の中まで笑ってるなんて……さすがお父さま」
「僕としてはそのまま読んでいる君こそ、さすがだと思うけどね」
リュカも笑う。
「ええと……『それで、一つだけわがままを言わせてもらえれば、出来れば早く――――って、まあ!」
フローラが言葉を止めた。文章を目で追いながら更に真っ赤になる。
「やだ……お父さまったら」
「ん? どうしたの?」
「な、何でもありませんわ……そんな……ぽっ」
「?」
どうしたことか、フローラは少しの間、リュカと顔を合わせようとしなかった。
箱の中身を一つ一つ確かめてゆく。殆どが新たに仕立てられたフローラの召し物。清楚な彼女の雰囲気に即した見立て。当然、フローラは殊更に満足して止まない。やはりそこは富豪の令嬢の顔だ。
「美しいまま……だなんて、うふふっ。ねえあなた。私ってもしかすると、結婚してからずっと、容姿に気が回らなかったかも知れませんでしたわ……。その……、お気になさってました?」
するとリュカは一瞬きょとんとフローラを見つめ、やがてくすと笑う。
「ばかだなあ。僕はどんなことがあっても、ありのままのフローラを愛しているんだよ? んー……でも、欲を言えば、やっぱり君にはもっと綺麗でいてもらいたいかな」
「まあ……嬉しいですわ。あ、でもそれってやっぱり今まで……! ううっ、明日から気をつけますわ。もっと、もっとあなたに愛してもらえるように、綺麗を追求しますっ」
「あまり綺麗になりすぎると、他の男性が……それも嫌だなあ」
リュカがそう言って苦笑すると、フローラが強く首を横に振る。
「私はあなた以外の男性なんて、興味がありませんわ」
「束縛はしないよ、フローラ」
「はぁ――――意地悪ですのね、あなたって」
頤を放すリュカにフローラは軽く拗ねた。
「……あ、これは……!」
箱の奥底。一際厳かな気が立つ薄い桐箱。
フローラはゆっくりと、ゆっくりと丁寧にそれを手に取り出す。
「フローラ?」
「あなた……これ――――」
フローラの胸が一瞬、きゅんと締めつけられた。
「これは……?」
リュカが促されるようにその桐箱に手を添える。
その瞬間、ふわりと、そこはかとない千歳の香がリュカの鼻腔を掠める。そして、それはまたリュカにとっても忘れがたいものだった。