それは大聖堂のヴァージン・ロード。ステインドグラスの十字を仰ぎ、檀下に坐すリュカ。決して凝り固まった石像でもない、命尽きた聖人でも、精巧に作られた蝋人形などでもない。フローラは、リュカの優しさとしなやかさを湛えながらも、決して身動ぐこともなく極限に意識を集中している彼の背中に思いを強くした。
『リュカ……さん?』
ルドマンの招集に応じた婿候補たち。その中に、彼はいた。
フローラが知る、どんな王侯貴族風の男性よりも凌駕する、凛々しく雅な容姿。リリアンを抑え、微笑みを向けてくれた、決して忘れえぬあの襤褸の青年。見違える程の美しさ。その懸隔。
(こんにちはフローラさん。僕はリュカと言います)
高貴で雅な雰囲気をたたえるリュカの微笑みは、出逢った瞬間の激しい稲妻と同じ。素朴で優しくて、寸分も気高くなどない。
(この子は、あなたの――――)
リリアンをあやす泰然とした姿。出逢った瞬間に、その青年に恋に落ち、その見違えた姿に心を奪われる。狂おしいほどに、自分でも驚くほどにリュカを愛してしまった。
それはきっと着飾ることで、人の本質を変えることは出来ない。決して変わらないリュカの男性としての『想い』
「竜禽の束帯……」
桐箱には、リュカとフローラにとって、生涯決して色褪せることのない、甘く切なく、それでいてこれ以上にない程の幸福が凝縮された日々を知る、漆黒の生地に竜と不死鳥の浮き彫りが施された、東洋の礼装・狩衣烏帽子。そして毀敗したアイヴォリーではないが、櫟で作られた艶のある美しい『笏(こつ)』が、整然と収められていた。
「…………」
フローラが切なげに、小さなため息をつき、両手を合わせる。
極度の緊張に、まるで極冠の雪原に裸で立つかのような震えが奔る。ナウルの名節いかに心を捉えようとも、一瞬でも心を緩めれば、無様に崩れ落ちるかと思うほどの大広間だった。
上辺に平静を装えるリュカの強靱な精神力は、なまじの経験では育まれはしない。
フローラの艶やかなコバルトブルーに対して、黄金色の真っ直ぐな長い髪を三つ編みにした絶世の美女、リュカの幼なじみであるビアンカに、リュカは竜禽の束帯で向かい、アイヴォリーの笏を割った。
それはさながら鋭刀で喉を突き、胃を切り裂き、肝腎を潰すような痛みを乗り越えて、竜禽の形式に囚われず、リュカはフローラを抱きしめた。
(出逢った時と同じ、ありのままに。この想いを、信じよう)
それが、リュカとフローラ、二人の全ての始まりだったのだ。
「父公……何故、これを――――ん?」
パーチメントが覗いた。フローラ宛の手紙とは別の、リュカに宛てたルドマンの言葉。
――――リュカ君。君も知っているだろう。
夏修に伝承される、常人(とこびと)はその一期、三度纏うという竜禽の束帯。
……しかし、君はただの常人か。魔族を随え、火山の守護を討ち沈め、瀑布の深遠に入り至宝を手にした時こそ、汎神の冥賀をして四度目の時を得ると思えたものだ。
君は二度目の神功を捨て、初見の襤褸に戻りフローラを選んだ。君の衷心を知れば、私は殊更に嬉々として余念がないこと。
しかし、常人は神功を求め救済を得ようとするもの。故にいかに君が竜禽を打ち捨て真心を示したとしても、一縷の残念は決して拭い切れたものではない。
フローラは君を深く愛している。まごう事のない透明な蒼き想いを、直向きに君を信じ君を見つめている。
邪推なのかも知れぬ。愚かな親心だと思って聞いてくれ。
私はそのような激しい想いが故に、君がフローラに向ける愛にいつか潰されはしまいかと、君の愛情が、フローラを苦しめることになりはしないかと、あり得ぬ事を考えたりするのだ。
私たちが仰ぐ神功を超えた想い。
だがリュカ君、後生だ。フローラに、もうひとつ凭れる場所を与えてあげてくれないか。時にひとり膝を折り、足を伸ばして眠れるような、フローラの場所を、君が……。
読むのを止めたリュカ。慈しむように東洋の朝衣を手に載せ、指をなぞっている妻に眼差しを向ける。
するとすぐに良人の眼差しに気がついたフローラが、リュカを向き、微笑む。
「どうかなさいました? お父さまは、なんと?」
リュカも微笑みを返し、小さく首を横に振る。
「君のこと、くれぐれもよろしく頼むってさ」
「え……まあ。お父さまったら、リュカさんにまで……むううう……」
拳を握りしめ、頬を膨らませるフローラ。初めて見る表情に、リュカは少し戸惑う。
「それくらい、君のことを思っているって事だと思うな」
「もう……少しお節介が過ぎますわ」
「あはは……」
リュカはフローラと話をしながらルドマンの手紙に目を配る。そして、次の一節に目を奪われた。
“君に嫌われたくないと、いつも気を張っている。どんなに辛くても、哀しくても、それを決して表に出そうとしない。フローラは、そういう娘なのだ”
(そんな……そんなこと、たとえこの身が滅んだとしても、あり得ないのに)
リュカは胸の裡でそう叫びながら、再びフローラにそっと視線を向ける。愛おしい妻は、微笑みながら朝衣をなぞる。
『私――――この良人(ひと)と……、リュカさんと一緒に、旅に出たいのです――――』
『私のことは、フローラとお呼び下さい。リュカさんと同じでありたいから』
『今、こうして夫婦として一緒にいて、一緒に旅をしていることが……あの時に決められた、私たちの運命だったのかしらね』
『あなたの……リュカさんのなさりたいように……………を…………して………い…………』
――――お気になさらないで下さいましね。
私も、ビアンカさんも、
全ての覚悟を決して、臨んだのですから……。
あなたと、ビアンカさんのことも――――
あなたのお気持ちも……
「フローラ」
「はい?」
名を呼ばれて振り向いたフローラ、その瞬間、リュカの腕に優しく抱きしめられる。
「あ、あなた?」
一瞬、胸の鼓動が高鳴った。掌から、するりと朝衣が滑り落ちる。
「…………」
「…………」
リュカはただ、美しいコバルトブルーの髪に唇を当て、真新しい香を胸一杯に吸い込む。
そっとフローラの細い腕がリュカの背中に回される。
「あなた……」
「愛してる……言葉だけじゃ足りないくらいに……。泣きたいほどに……世界中に向かって……父さんにも、魔王にも向かって大きく叫びたいよ……。僕はフローラを愛している……心の底から、愛しているんだ――――!」
リュカの声は震えていた。まるで気づかされた孤独に立ち竦む少年のように、フローラという優しい聖母に甘えるように。
「うれしい……私もリュカさんを――――リュカさんだけを愛しています……言葉だけじゃなくて……世界中の人たちに、私はこんなに幸せなのって、大きな、うんと大きな何かで伝えたいくらいに――――」
フローラと抱きしめ合うことが、心地よかった。身体を重ねる快楽とはまた違う、心の抱擁。互いの想いを確かめ合える“静”の褥。
言葉だけでは足りない。フローラの胸に抱かれて、その心地良さに身を委ねるだけでいいのか。
リュカもフローラも、互いを強く求めすぎてはいないのか。
『お前ら二人とも、胸のつかえ、ずっと封じ込めたまま生きてゆくつもりか』
ヘンリーの言葉が過ぎる。
そう、まるで二人は崖っぷちに背を向けて立っている。そんな危うさと漠然とした焦りを懐いていないか。フローラの可憐な姿に万遍なく愛を刻み、ただがむしゃらに渇きを癒そうと藻掻く沙漠の旅人ではないか。
「フローラ……僕――――」
その時だった。食事の用意が出来たと、宿の女将の声。結局、それから沙汰やみになってしまった。
厳寒の沙漠の夜。備えて夕食のメニューは体温を高める物が並べられた。日中の酷暑を考えれば何とも口にするのを躊躇いがちになると言うのだが、そうせずば必ず後悔するだろう。宿の主人や女将の“脅し”に、リュカたちは胃に掻き込む。しかし、それが正解だった。
暖炉を焚いてもわかるほど冷たい気が立ちこめてくる。熱く辛い物は喉を通さぬなどと我を張っていたとするならば、おそらく身体中が自ら暖を求めて発振し、寝る間も惜しんでいたことだったろう。
フローラはやはり大事を取る形で早めに眠るよう促され、それに順った。
フローラが眠ったことを確かめてから、リュカは今し方誂えた鍋を手に、仲間たちが留まる馬車へと足を運ぶ。中の様子を見ると、ピエールのみが眠りに就かず、武具の手入れをしている様子だった。
「ピエール、みんな、眠ったのかい?」
「これはリュカ。ええ――――先ほどまでは実に囂しかったのですが、ようやく皆、眠ったようです」
ピエールは仮面から微笑んでいるという気を伝えると、リュカは少し苦笑しながら、蓋の隙間から湯気が立ちこめる鍋を差し出す。
「さっき、宿の女将さんに作ってもらったばかりの鍋物なんだ。ティルダリアの夜は本気で寒いらしい。これを食べて暖まればと思ったんだけど……」
リュカが見廻す。
ガンドフ=毛むくじゃら=不要
スラりん=ガンドフ右腿部潜入=不要
アプール=同じく左腿部潜入=不要
ヌーバ=馬車下砂地潜伏=不要
ピエールと微睡中のメッキーくらいしかいなかったか。
「ありがたく、頂戴致します」
ピエールが恭しく鍋を受けとると、相棒のスライムも心なしかヨダレを流しそうに見えた。
「メッキー、リュカから差し入れをいただきました。御相伴にあずかりませんか」
すると、メッキーはもそもそと羽を動かし、むくりと嘴を上げる。
「旅立ちでやんすね……ちょいと待ち……」
「寝惚けないで下さいよ。暖まる食事だそうです。ガンドフやスラりんたちは目覚めてからでも良いでしょう」
「クケーッ」
キメラの欠伸をしてから、メッキーはなおも微睡みから抜けきれないままピエールの側に這い出、よそわれた熱い具を啄む。
「う、うまいでやんす――――」
途端に目が覚め、メッキーは煮込まれた辛肉を貪るように食べ始めた。
「ゆっくり食べなよ、メッキー」
リュカがそう言って笑うと、メッキーは嘴を大きく開けてコクコクと鳴らした。
「……いかがされましたか、リュカ」
不意にピエールが訊ねる。
「ん?」
「リュカ。あなたは思いを致すとき、必ず唇を真一文字に結ばれます――――すぐにわかるんですよ」
ピエールの言葉に、思わずリュカは舌を出し、唇をなめ回した。さすがに一年以上も行動を共にしていると、些細な癖や仕種で、考えていることがわかってしまうのだろう。気心が知れているというのは、時に心臓に悪い。
「敵わないな。さすがはピエールだ」
「お気を悪くされましたか、申し訳ありません」
「違うよ。……その通りだ」
「フローラと、何かありましたか」
ゆっくりと首を横に振るリュカ。
「寧ろ、“何か”があった方が、ずっと気が楽になるよ」
「……ぜいたくな悩みでやんすね、旦那」
メッキーが声を上げる。思わず振り向くリュカ。
「あっしたちは、旦那の理想に共感してますですよ。この世界がどんな形でも平和になれば、あっしたち魔族も、人間やエルフと諍いなく安心して暮らせるってさあ。だから、旦那の理想に賭けたんでやんす」
「メッキー……」
「フローラ姉さんは素晴らしい人でやす。こんなあっしにも優しくて、いつも笑顔でいてくれて。あっしなぞ、そんな姉さんのお側にいることだけで嬉しいんでやんす」
「…………」
ピエールが言葉を呑む。
「旦那の目指す世界とフローラ姉さん……。あっしは魔物でやす。人間の複雑な心境はわかりやせん。……でも、これだけは言わせていただきやす」
メッキーの剣幕は非常に珍しい。思わず、居住まいを正し、この風の魔物に向く。
「あっしは、フローラ姉さんを悲しませる奴らを、絶対に赦さんでやんす」
「…………」
一瞬、強く迫る鬼気に不覚にも怯み、無言で真っ直ぐメッキーを見つめるリュカ。
「メッキー…………お前もか」
そして、側らのピエールが安堵にも似たようなため息をつく。
「リュカ。かく言う私も、メッキーと志は同じ。……いや、我らリュカの同志は、すべてフローラをただ、一途に慕いお守りするだけ。そう誓い合って久しいのですよ」
ピエールの言葉に、リュカは深く息を吸い込む。メッキーは何故か嘴を隠すように身を縮込ませている。
「それにしてもメッキー。お前がフローラさんのこと、それほど慕っていたとはな」
「くぅ――――――――」
白々しく寝たふりをする。苦笑するリュカとピエール。
「――――リュカ。貴方には今まで数多くの『仲間』に支えられて、此処までたどり着いたはず。ヘンリー殿、マリアさん、ルドマン殿……ルキナス侯……ビアンカ……。その貴方の『仲間』に、私たちがいること、そしてかけがえのない、貴方自身の比翼……。もしも、もしもどこかに心残りや空白があるとするのならば、私はそれを探しだし、埋めても良いと思います」
「ピエール……」
「リュカは優しい人です。優しくて、強く、私たちのような者にも分け隔てない情を下さる。……しかし、ただ一つ、貴方は何よりも責任を一人で背負い込もうとするところがある。苦しみも、笑顔で担ごうとされる。それが、私たちから見て、あなたの悪いところかも知れません」
「…………」
「目指すところがひとつならば、どんなに遠回りしたとしても、私たちもまた、ひとつです」
ピエールの言葉に、リュカの胸がぐっと熱くなる。
「ありがとう……君たちの思い、本当に嬉しいよ」
偽らざる心だった。仲間たちはフローラを深く慕っている。彼らとフローラの間に、隔壁があるなどというのは杞憂に過ぎなかった。
「もしもこの先、僕に不測が起きたとしても、君たちにフローラを任せられるな」
「お断りします」
リュカの言葉に、ピエールが即座に断然と言い捨てた。驚き、思わず目を瞠るリュカ。
「そのようなことで、フローラを任せられる謂われはございません。それはリュカ、貴方は決して、フローラの傍を離れられることはないからです。貴方がいるのに、なぜ私たちがフローラのことを任せられるのですか」
「……ピエール」
「ただ……。貴方とフローラ、二人のことを任せられることには及ばずながら身を粉にしてお尽くし致しますが」
するとリュカは笑った。
「そうだね。たまには君たちに全てを任せてみることにしよう」
「微力ながらも」
リュカはメッキーの嘴に指先を軽く触れると、馬車を後にした。くすぐったそうにもごもごと身動ぐメッキーが可愛く思えた。
リュカの場所を空けるように、フローラは身を端に寄せて寝息を立てていた。ルドマンから送られた宝箱。丁寧に仕舞われたフローラの召し物、そして木製の几には桐箱。
リュカがそっと蓋を開き、竜禽の束帯に指を触れる。過ぎるサラボナの想い出。ルドマンがこれを送ってきた意味……。
「二度目の神功……結婚――――か」
誕生、結婚……そして、死。
人が三度体験する、神の試練。ルドマンの言葉にある、リュカは四度目の時を得るという言葉。
その言葉の意味はともかくとして、リュカはこの竜禽の束帯が持つ二度目の試練を打ち捨て、フローラを選んだ。
「…………」
フローラは安らかに眠っているようだった。
リュカもフローラも、互いが側にいること。それがまごうことなく当たり前の様に思えてきていることは事実だ。互いの瞳を見つめ合うだけで頬を赤らめ、闇夜でなければ肌に触れあうことにも躊躇う境地に、いつまでも留まることはあり得ないだろう。
リュカはそっと寝台に腰をかけ、眠るフローラの唇に人差し指をなぞった。絶妙な柔らかさと温かさが指先から全身を駆け抜ける。
「言葉だけじゃ足りないから……気を張るのかな――――」
「……んっ……。……すぅ……、……すぅ……」
安らかな寝息が、リュカの心を優しく撫でてゆく。
「このまま君と…………ははっ。なんて言ったら、怒られちゃうかな」
言葉を呑み込み、リュカは苦笑する。そして、ゆっくりと身を横たえ、顔を傾け、フローラの寝顔を見つめる。
「ずっと……ずっと君をこうして、見つめているよ……」
フローラの手に指を絡めて瞳を閉じる。
すると無意識に、フローラが身を寄せてきて、リュカの胸に貌を埋めた。静かで安らかな沙漠の夜に見る夢は一体、どのようなものなのだろうか。リュカはフローラとの将来を願い、夢の世界の扉を叩くのであった。