第2部 故国瑞祥
第22章 崇美の女王

 体調が不良な時と言うのは、些細な変化も身体に応えるというものだ。
 女王・アイシスへの拝謁も、今のフローラにとっては容易に果たし得る事ではない。
「今日は僕一人で行くことにするよ」
 リュカの言葉に、フローラは不承不承に得心する。さすがに公的な立場にあって一縷のわがままも困難となることくらい、フローラ自身よくわかっているつもりだった。
「お気をつけて、あなた……」
 まるで暫くの別れでも交わすかのように、不安な表情を向けるフローラ。
「せっかくだから、ゆっくりと休んでて」
「ええ。そうさせていただきますわ」
 フローラの微笑みを確かめると、リュカはルキナスから負託された至宝・銀のタロットが収められた木箱を手に宿を出た。

ティルダリア城

 城門衛士に導かれて、琥珀城内へと踏み入るリュカ。通された公使寮で、リュカを待っていた人物が声を上げる。
「足下はリュカ殿」
 リュカも思わず、顔を綻ばす。
「サーク卿、サラボナ以来です」
「風の噂に聞いていた。何はともあれ、祝着至極――――」
「お心遣い、感謝致します」
 上二位公爵近衛将軍リアル・サーク。
 彼もまた、フローラの婿候補として名乗りを上げた貴族の一人である。
 亜麻色の長髪と蒼い瞳、ほっそりとした首筋と体躯は、一見女性と見まごうばかりの美丈夫。
 ルドマンが提起した炎水両リングの話を聞いて、断念した。リュカとは一、二度、挨拶程度の会話を交わした間である。
「フローラ殿のお相手が足下でなくば、悔いても悔やみきれぬところであったかもれしれぬな」
 リアルがそう言って笑う。見識のある貴族たちは挙ってリュカとフローラの馴れ初めを喜んでくれる。悪い気はしないのだが、リュカとて万能の神人ではない。褒めそやしに何か裏でもあるのではないかという蛇足も考えてしまう。
「それはともかくとして、陛下へのご拝謁とのこと、確かに承りましたぞ」
 早速案内しようとするリアルに、リュカが訊ねた。
「身形はこのままで、よろしいのですか」
 するとリアルは笑って答える。
「陛下は元より旅客を好まれる。堅苦しい身形は、反って宸襟を患わそう」
「正直、助かります」
 胸を撫で下ろすリュカ。その表情に、リアルが笑う。
 琥珀城内は、灼けつくような外界の暑さとは打って変わって、殊の外涼しい。琥珀色が実に温かみがあり、陽光も万遍なく採り入れているのに、実に過ごしやすい環境が整っていた。
 アイシス女王の父・熙明王メンフィスの時代に改修された琥珀城。茫洋とした砂の風景にあって、遠目ではさほど大きな建造物には見えないが、実際中を歩くと実に広い。
 廊下から各空間、階下を覘くヴェランダなど、見て回るだけで逆に疲れてしまいそうなほどで、もしかするとティルダリアの住民を全て収容出来るかと思うほどだ。
 サーク公爵家が務める近衛軍も、王城を守護するどころか、首都を守ることすら心許ないと思ってしまうほどに少なく思える。
 しかし、如何に魔族と雖も、熱砂の国土を蹂躙するには十倍の数でも頼りにはならない。
 沙漠自体が、天嶮の要塞のようなものなのだと、リアルが言う。リュカは経験上、その言葉に強く納得出来た。
「陛下は御座所か」
 正殿の扉の両脇に屹立していた女性の衛士が、リアルに恭しく拝礼し答える。
「アイシス様は水花園に」
「旅の方のご来訪を心待ちにされてます」
 リアルは衛士を労うとリュカに言った。
「陛下は地下庭園に御遊とのことです」
「地下庭園……」
 沙漠の地にあって実に不思議な響きのある言葉に、リュカは気が惹かれた。
「まあ、行かれてみればわかる。アイシス様の御威徳を識ることが出来ようほどに」
 そう言って笑いながら、リアルは通路を左に右に折り歩きながら、地下へ通じる石段を前に立ち止まった。
「この先にアイシス様がおわします。どうか陛下の宸襟を安んじられまするよう、お願い申します、リュカ殿」
 リアルはそう言ってリュカに拝礼をすると、件の柄に指を当てて屹立した。
 リュカは懐に抱いていた木箱を両手で持ち、ゆっくりと石段を下りてゆく。何故か一歩下るたびに緊張感が増してゆく心地がした。
 ざっと数えて五十余段。女王が御遊する地下庭園は、想像以上に深い場所にあるように思えた。
 そして、濃い茶色の煉瓦で誂えられた扉の前で、リュカは息を整えた。
「御前をお騒がせいたします。サンタローズより旅をするリュカと――――」
 名乗りを上げたその時だった。
 ぎぎぎと重く軋む音と共に、ゆっくりと扉が隙間を空け、眩い光がリュカを照らしてゆく。その明るさに思わず眼を細めるリュカ。
「あなた様の御来朝、主アイシスは深くお喜びでございます」
 眩さが和らぎ、白い視界に色が戻ると、目の前には、まるで待ち受けていたかのように、朝衣を纏った女官が両手を膝に合わせ、軽く会釈をしていた。
「…………」
 そして、リュカはそこに広がる光景に思わず眩暈が起き、息が止まりそうになる。
 そこは確かに、地下空間へ続く石段だったはずだ。
 だが、今目の前に広がる景色は、まるで旅の扉に迷い込んだような、その下る感覚すら錯覚かと思わせるほど、地上と何ら変わりない。
 唯一にして最大の違いと言えば、そこは緑成す土壌に四季の花々が繚乱と咲き誇り、清冽な小河が肥沃な養分を植物の根に伝え、気温も容赦のない寒暖差に人を苦しめる砂漠気候とはかけ離れた、異世界の温暖。
「ここは……ティルダリアでは、ないのですか――――」
 思わず、リュカがそう呟いていた。すると、女官は図ったかのようにくすくすと笑みをこぼし、リュカを見た。
「紛れもなく、ティルダリアでございます」
 リュカは眦に皺を作りながら首を傾げ、女官の後に従う。
「女王陛下の威光とは素晴らしい。地下に四季花を咲かすほどに」
 リュカがそう言うと、女官はそれまでの表情を一変させ、少しだけ悲しげに瞼を伏せて、肩を竦めた。
「ここは、先代・熙明王メンフィスさまが、アイシス様のためにお造りになられた場所でございます……」
「女王陛下の父君が――――」
 リュカにはこの女官が何故急に表情を曇らせたのか訊く間もなく、やがて女官の足が止まった。
 リュカが、足元に落としていた眼差しをゆっくりと上げる。
 そこにはやや大きく、深そうな円形の池が広がり、透明な水がまるで鏡のように周囲の景色を反転させていた。
 そして、その池の畔を囲むように、白い水花が整然と咲き連なっている。
 リュカはゆっくりと跪いた。
 その白き花々の中に、かくも引けを取らないほどに対照的で美事な黒百合が一輪。
 それは、そこに佇むだけで自然と一体となり、決して驕らず、ひけらかさず、かといって目立たぬ訳ではない。
 風もない地下の人工庭園に、その艶やかな御髪が、リュカの気に触れ、さらりと靡く。
「エティマ。一連、記します――――」
「畏まりました――――」
 見目麗しき黒百合の後姿から、温かく心が安まるかのような穏やかな美声が響く。
 エティマと呼ばれた女官は、側らの木卓からパーチメントとペンを載せた木盆を持ち、黒百合の美女に拝した。
「今日は、特に自信があるのですよ」
 ペンにゆっくりと指を絡めながら、黒百合の麗人がそう言って小さく微笑む。
「それは、よろしゅうございました――――」
 かり……かり……。
 ゆっくりと、ゆっくりとパーチメントに、ペンを滑らせてゆく音が聞こえてくる。
 静かな空気だ。まるで、深夜に眠りを誘引する水振子のようなリズム。
 リュカは無意識に心地よい気分になり、瞼が重くなるのを必至で堪え、誤魔化すように首を垂れる。。
「旅の士よ、ようこそテルパドールに。妾(わたくし)が、この国を預かる、パロのアイシスです」
 女王陛下の言葉に、リュカは木箱を再び懐にしまい、居住まいを正して低頭する。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。女王陛下におかせられましては、ご機嫌麗しく――――」
 リュカの言葉は続かなかった。

 すっ――――――――

 ひやりとした、女王陛下の滑らかな指先がリュカの頬に触れた瞬間、言葉が吹き飛ぶ。
「硬い挨拶は要りません。昨日はとても良い風が通り抜けてゆきました。いつになく、妾の心は晴れやかでありましたから――――」
「はっ――――」
 しかし、緊張のためか俯いたままのリュカを、優美なる美声が解きほぐす。
「ここに足を運ぶのは、幾年振りでしょう。きっと、貴方のご来訪が、私の心を昂ぶらせてくれたのですね」
 女王陛下は、まるでリュカを口説くかのようなお言葉を連ねられる。
「面を、お見せ下さい」
「御意……」
 リュカはゆっくりと顔を上げる。
 紫の頭巾越しに瞼に掛かる、長くしなやかな黒髪の隙間から、リュカの眼差しが、女王陛下の瞳と重なった。
「…………!」
 その瞬間、女王陛下が愕然としたように目を見開く。
「そ……んな――――……パスさ……ま?」
 まるで白昼夢にでも魘されるかのように、女王陛下は茫然と、リュカの瞳に釘付けになっていた。
「……女王陛下?」
 リュカはそんな女王陛下の様子を心配し、顔を傾ける。
「あ――――……」
 女王陛下はリュカの声にはっとなり、青年に向き直った。そして、そこはかとなく切なげな微笑みを浮かべる。
「良い風が通り抜けた兆しというのは、このことだったのですね……」
 女王陛下の言葉の後、リュカは名乗った。名前を聞くと、女王陛下はまた、ほんの微かにため息を漏らす。
「貴方もまた、伝承の天孫を求めておられるのですね」
 リュカは驚き、思わずアイシス女王を見る。
「リュカ――――我が国にも、天空四至宝の一つが伝えられています」
「――――――――!」
 不意打ちとも言える朗報に、リュカは思わず声を上げそうになり、慌てて呑み込んだ。

 アイシス女王は侍女エティマを伴い、リュカをティルダリア城北の王家聖廟へと導いた。
 聖廟の地下深く、まるで全ての悪しき気を祓い遠ざけるかのような幽静の櫃に、その至宝は鎮座していた。
「これが――――天空の兜」
 兜と言うにはあまりにも軽装な風で、今は静かだが偉容を湛えるその気に、千年の時を越えて来るべき魔を討つ天孫の再来まで眠り続けているように思えた。
 リュカは剣と盾のことを話した。すると、アイシス女王はまるで知っているかのように、静かに頷く。
「全ては神のお導き。……そして、この至宝が、貴方を求めていないと言うことも……」
 それは天空の剣、盾ともにリュカの身には過ぎたる物であった。
 そして、天空の兜がリュカを主とせざることを誰よりもよく解っていたのは、リュカ自身であった。
 魔族擾乱を鎮めた天孫が八勇士の一人に負託した天空の兜。それを代々守護し続けてきた王家の使命。
「この先の旅において、必要とするならば……」
 アイシス女王は兜をリュカに託すことを申し出た。しかしリュカは意外にも、静かに首を横に振ったのである。

 ――――もし万が一、私が征途に仆れることがあれば、勇者の手掛かりを悉く失うことになりましょう。
 本来ならば、私の手元にある剣や盾も、その時に至るまで、いずれかに預かり置きたいところ。
 ……しかし、剣は亡き父が形見。盾も、義父が私を信じ託してくれたもの。これを手放すのはあまりに忍びなく――――。
 故に、畏れ多いことながら陛下、我が求めし天孫を求めし時が至り、陛下の御前に進み出でしときに、再び至宝を拝したく思うのです。

 リュカの言葉を、アイシス女王はじっと聞き入っていた。そして、柔らかな笑顔を浮かべると、こくりと頷いた。
「わかりました。それならば、貴方の願いが叶うその時まで、ティルダリアは天空の兜の守護、全うすることに致しましょう」
「心強く思います、陛下」
 リュカが深く拝礼すると、アイシス女王はくすっと笑い、呟く。
「それにしても、本当――――よく似ていますね……」
「はっ――――?」
 リュカが思わず顔を上げると、女王陛下は深い色の瞳を少しばかり潤ませて、真っ直ぐリュカを見つめていた。
「リュカ。先を急ぐ旅なのですか? もしも時が許すならば、この妾にあなたの旅の話を聞かせて下さいませ」
 アイシス女王は、ほんのわずかに震える声でそう嘆願するように言った。
 リュカは一瞬、宿に留め置いたフローラや、馬車にある仲間たちを思い、考えを巡らせた後、言った。
「陛下の無聊をお慰め出来るかどうかは解りませんが――――」

 水花園を一眸出来る、白き四阿。エティマが調えたティーセットを携えて、主と客を迎える。
「旅慣れた貴方にとってみれば、瑣末な茶葉しかありませんが、許して下さいね」
 アイシス女王の言葉に、リュカは肩を竦める。
「畏れ多いことでございます……」
 ヘンリーや、デール・ラインハット国王の様に昔なじみの間柄ではない、全くの初見識。それは言わば無頼の徒に等しいリュカが、王国の最高指導者である女王と、卓を挟んで対等に座するとなると、否が応でも緊張してしまう。
 そして、思い出したかのように声を上げる。
「危うく失念するところでした……」
 リュカは逸る気持ちを抑えて、懐に手を差し入れ、木箱を取り出す。
「ルラフェン安定侯、ルキナス・ディアス様より、陛下にとお預かり致したものにございます。どうか、お納めを――――」
 リュカが拝しながらそれを差し出すと、アイシス女王は小さく、感嘆の声を上げ、ゆっくりとそれを受け取る。
「ルキナスから――――――――」
 アイシス女王は、そこはかとない親しみの口調で、リュカに伝家の秘宝を託した貴人の名を呼ぶ。
 そして、木箱の蓋を、態とらしく時間を掛けながら、懇切丁寧に取ると、中に収められた古ぼけた革のケースに目を止める。
「…………」
 アイシス女王はきゅっと唇を結び、眼を細めながら、それを取り出す。そして、リュカを一瞬見上げると、穏やかに微笑んだ。
「……ルキナスの意、確かに酌み取りました。……千余年の時を経て、今再び“銀のタロット”が妾の許に還ってくることになろうとは……、これもまた、運命なのですね――――」
 アイシス女王は、全く色褪せていない銀色に輝くカードを取り出した。心なしか、以前ルラフェンで拝したそれよりも、輝きが増しているように思える。
 まるで、古の記憶を辿っているかのように、銀のタロットを見つめつづけているアイシス女王。憂いをモチーフした美しい彫像のように、その表情には目を惹く。
「これがあれば、あの方は…………いいえ、これがあっても、あの方は信じては下さらなかった……」
 独り言のように、アイシス女王は呟いていた。
「陛下――――?」
 リュカは心配そうに声を掛ける。すると、アイシス女王は愕然としたように目を見開き、リュカを見つめる。
「あ……リュカ……でしたね」
 しかし心なしか、落胆の色が滲んでいる。しかし、それもすぐ笑顔に戻った。
「妾も八勇士の一人、占術師縁の者。いかがですか、貴方もこの先の旅の時運、照らしてご覧になってみては?」
 父パパスは、あまり占いや宗教というものに頓着しない性格であったのを覚えている。
 しかし、リュカは盲信するというまでではないが、それをせめての心の拠り所、気晴らしとしたい意味で、信じてみたい気はした。
 オラクルベリーの水晶占術師・マーズの託宣には、リュカも良く助けられてきたからだ。
「陛下のお心遣い、とてもありがたく……」
 それでもやはり、一抹の不安がついてくる。良い結果が常にあるというわけではないからだ。
「高祖の言葉にあります。“占術は闇夜の道を照らす、小さな蝋燭のようなもの”だと。信じることよりもまず、心に留め置くことの意味を、示しているのでしょう」
 アイシス女王の言葉に、リュカは得心した。

 水を得た魚という言葉には少しだけ語弊があるかも知れない。だが、タロットカードを捌く女王の姿には、伝説にのみ名を聞く八勇士の占術師の姿を彷彿とさせるようだった。
 そして、リュカが示されたカードを引き、それをアイシス女王が法則に則りながら並べ、占いをしてゆく。
「貴方はおそらく、見え透いた美辞を必要とはしないでしょう。ありのままを申し上げてよろしいですね」
「はい」
 リュカの覚悟を確認するように、アイシス女王は瞳を見つめ、やがて頷いた。

 未来は必ずしも明朗な道に非ず。
 ささやかなる幸運よりも、暗澹とした道。
 時に生涯の岐路に休戚としながらも、殊の外、胸切り裂くかのような傷悴を得る。
 蠱惑の情に克つ勇気。真実の宝玉を求め彷徨える寛容。
 長い闇の中に常に二条の光芒ありて往く道を照らす――――。

 アイシス女王の深い瞳を、リュカは真っ直ぐ見つめる。
「貴方は、今連れ合う御夫人を、深くご寵愛されていますね」
 フローラのことを指され、リュカははっとなる。
「……そして、貴方の心の奥底には、ひとつだけ、ほんの小さな残影があるのでは……?」
 リュカの胸の鼓動が一瞬、高鳴った。
「そ、それは…………」
 目を逸らそうとして、アイシス女王の静かな瞳の圧力に拒まれる。
「ご結婚に至るまでには語るに尽くせぬほどの事情があったのですね。それも、余程のことが……」
 アイシス女王の表情は、まるで疲れを癒すシスターのようにリュカに向けられている。
 リュカ自身、自らその領域に目を向けることを憚っていた。振り返らず、真っ直ぐにフローラを見つめ、愛することが、課せられた使命なのだと。
「…………」
 しかし、アイシス女王の瞳に触れていると、不思議とそんな張りつめた想いが抜けてゆくような感じがした。
 そう。この人にならば、フローラには話せない胸の中を語れば、肉親のように良き道を示してくれるかも知れない。
 何よりも、アイシス女王には話さなければならないような、そんな気がしていた。