第2部 故国瑞祥
第27章 トウロウの翁

 …………また一つ、魂を送るか…………

「あの、リュカ。少しだけ、時間下さいますか」
 海に延びる船足の軌跡を眺めていたリュカの背後から、ピエールが声を掛けてくる。
「ん、ピエール。どうかしたのかい?」
 仮面から垣間見える彼の様子は、実に神妙だった。
「スラりんのことで、相談が――――」
「スラりん……?」
 リュカに遠慮しているのだろうか、ピエールはなかなか言葉を発しようとはしなかった。

「サザンブリーズ島――――?」
 フローラが、きょとんとした表情でリュカを見つめる。
「ん――――先を急ぎたいんだけど……」
 リュカが事情を話すと、フローラはくすと満面の笑みを湛えた。
「行きましょう。サザンブリーズ島へ」
 この清楚で綺麗な妻は、その実、好奇心旺盛で、いつしか誰よりも仲間の魔物たちのことが好きだったことを失念していた。訊くまでもなかった。

 ラマルカスを出航して約半月。殆ど海も荒れず、文字通り順風満帆という感じで航海は進み、日に日に気温が高くなりつつあったのを感じていた。
 そして、遙か南の水平に浮かんだ島影を捉えたメッキーが翼を大きく羽ばたかせて声を上げた。
「サザンブリーズ、南夕刻でやんすー」
 面舵いっぱいの掛け声と同時に、ストレンジャー号は大きく南へと針路を変えたのだった。

サザンブリーズ島

 入江に碇を降ろす。甲板に出ると、その世界は、確実に風が違っていた。南国の熱い空気、ココ椰子から立つ馥郁とした甘い匂い。
 風は一陣に貫き、海を焼く夕陽の色は、言葉にはまさに言い表せないほど橙と黄色、海の群青とのコントラストに満ち、そよぐココ椰子の木が、この景色に強いアクセントを付けているように思えた。
「スラりんは――――」
 リュカがピエールに訊ねると、ピエールは少し困ったような表情で、力なく俯く。
 仲間たちの居室、まだ眠っているプックルの腹部にくるまるように、スラりんはいた。
「…………」
 スライムの表情はよく解らない。いつも愛嬌のあるように笑っているようにも見える。瞳の開閉くらいで、感情を表すのだろうか。ピエールが言うように、一見だけではわからない。確かに、いつものスラりんのような明朗さはここ最近、褪せているように思えた。
「スラりん、おい。起きろ」
「…………」
 もぞもぞと、スライムブルーの体が動いた。そして、円らな瞳を一度リュカに向けると、すぐにプックルの毛皮に潜り込むように身を隠した。プックルは深い眠りの境地にあるのか、起きる気配はない。
「ヤダ。なんかここ、イヤなニオイする。リュカ、早くここ出ヨうよ」
 スラりんにしては珍しく、語気強く上陸を拒んだ。
「何言ってるんだ。ピエールがお前のこと心配して――――」
「リュカ……」
 怒りかけたリュカを、ピエールが横からそっと止める。そして、拗ねるスライムの後背に、諭すように、優しく声を掛ける。
「スラりん、翁ならばきっと、お力になってくれるはず」
「おきな……?」
 スラりんはしばらく考えた後、少しだけ逡巡するように、頷いた。
「わかっタ。ピエールのいう通りにスる」
 不承不承という感じが良くわかる。それでも、ピエールは満足とばかりに頷いた。
 そして、スラりんは珍しく、孑然(げつぜん)と飛び出し、久しぶりの陸地に降りていった。
「ピエール。翁っていうのは……」
 リュカが訊ねると、ピエールは少しだけ思いを巡らせた後、ゆっくりと語り出した。

 サザンブリーズ島は、最大海抜でも大人二人分の背丈程度である。島の大部分が、珊瑚の堆積によって成り立つ。高い波が打ち寄せても、珊瑚が波を砕く。低い割に安全な地。
 ピエールの先導で、リュカたちは世界に散らばる他愛もない賞牌を収集しているという奇特な富豪の邸を目指していた。
「…………」
 リュカはすぐに気付く。道を進むたびに、邪気を感じない魔物の気配。スライムや、メタルスライム……ベホマスライムなど。そう、スライム種だけだった。他の種の気配は全くない。
 スライムたちは、物陰に身を潜めながら、この不可思議な人と魔物の一行を窺っているようだった。
「…………」
 ただ一つ、スラりんだけは懶いの様相を禁じ得ていない。最後尾を守るプックルが、時々心配そうにスラりんの躰に鼻を寄せてくる。それを鬱陶しそうに、スラりんは眼を細めながら、プックルの鬣に身を隠そうとする。
 富豪の邸……それは小さな王城と呼ぶにもいい程の豪奢な建造物だった。このさほど広くはない珊瑚島を見渡すかのように、その『城』はあった。
 夕闇が迫る濃紺の東空。城の窓から煌々とする灯り。
「まあ。サラボナの家よりも遙かに大きいですわね。……賞牌は侮れないのかしら」
 しかし、フローラの疑問に答えられる器量はこのメンバーにはない。
「リュカ。今日はこのお城に」
 生温かくやり過ごした後、ピエールが言う。
 彼が言うには、この豪邸には旅人たちのための宿があるのだという。リュカは言うまでもなく、厄介になることを決めた。
 門番なのだろうか。
 “城門”の側で、時の流れを直に感じている壮年の男性に声を掛けるリュカ。物珍しそうに、門番はリュカたちを見廻した後、少しだけ残念そうに言った。
「王さまは世界旅行に出ていないんだ。いつものように、メダル集めさ」
 “王さま”というのは、どうやらこの豪邸の主人のことらしい。
「あ、でも安心しな。王さまからは“旅人はいつでも受け入れよ”って言われているからな」
 門番はそう言って、愛想良くリュカたちを中に招いた。
 流石は“王さま”を自称するだけのことはあるのだろうか、旅人の宿泊施設は整っていた。
 フローラは殊の外嬉々とした様子だった。
 やはり、富貴たるサラボナ公の薫陶を受けただけのことはある。“王城”の雰囲気に、容易に馴染んだ。
 苛酷。ともすれば極限にも近いぎりぎりの生活の日々。リュカはたとえ一時でも“水”が合うこの場所を重んじた。

 四方から立体感溢れる漣の音。南洋の黄昏はいつまでもリグレットを繋げる。
 食事までの寸暇を、リュカはこの楽園の風に浸ってみたい気がしたからだった。
 暖かい微風は止めどなく通りすぎてゆく。扉の近くにそびえ立つ、ココ椰子の木。さわさわとそよぐその木の陰に、そいつは隠れていた。いや、隠れていたと言うよりも、待っていたのかも知れない。
 リュカの気配を感じて、ぴょこんと小さく跳ね上がった。
「……ゴメん……りゅか――――」
 多くは訊かなかった。わずかに微笑みを与えると、いつものように、自然にスラりんはリュカの肩に乗った。そして、リュカの掌に撫でられると、円らな瞳をそっと細めた。
 外観以上に“王城”は広かった。周囲を散策しようにも、結構これが歩かされる。
 ようやく通りがかった裏門付近で、リュカたちは鍛錬をしているピエールを見つけた。
「ご一緒します」
 リュカの肩に座するスラりんを一瞥して、ピエールの声が少しだけ明るくなった。

 “王城”を囲うように連なる川堀がある。そこはかとなく、時の流れがゆっくりとしたような、水のせせらぎが聞こえてくる。
 そして、リュカたちの視界には、そんな時の流れを象徴するかのように川面に向かっている一人の老翁の姿があった。その傍らには何やら工作道具のようなものが丁寧に並べられている。
「こんにちは」
 自然に、声を掛けていた。老翁は驚く様子もなく、ゆっくりと手を休めて振り返る。
「これは……魔物使いの旅人とはまた、珍しい。良い日和ですなあ」
 微笑みながら、老翁は二匹の魔物を見る。
「お前さんたちは――――」
 すると、ピエールが恭しく辞儀をする。
「お久しぶりです、燈籠の翁」
 すると、老翁は二度ほど瞳を彷徨わせた後、確かめるように言った。
「ピエールであったかのう――――」
「憶えていて下さいましたか――――」
 何やら感慨深げに、ピエールは言う。そして、老翁はリュカの肩に乗っているスライムを見て、一瞬だけ、息を止めた。
 そして、何かに気付いたように、確かめるように言葉を紡ぐ。
「……リンスゥ。もしや……お前さんはリンスゥではないのか」
 その直後、スラりんはリュカの肩を飛び降りて、その背後に隠れるように退く。
「チがう! ボクはそんなんじゃないヨ。ぼくはスラりんだよ」
 声を荒げて、スラりんはぷるぷると身を左右に振り回す。
「スラりん――――」
 ピエールが宥めようと声を掛ける。老翁は微笑んでいた。
「解らぬはずがない。お前さんは間違いなく、ミストゥとランツェの子、リンスゥじゃ」
「…………」
 スラりんは押し黙った。老翁はそんなスラりんの様子に僅かに哀しみの表情を浮かべる。
「……無理もないかのう」
 そう呟いてから、老翁は徐に傍らの工作道具に手を伸ばす。
「良いかな、ピエールよ」
 老翁の問いかけに、ピエールは一度スラりんに向くと、躊躇うことなく、頷く。
「……ミストゥとランツェは――――」
 言葉が止まる。そして、老翁はゆっくりと拵えた工作を眺めた。
 両手で持ち上げることが出来るほどの、小さな舟。そこに載せられた、スライム型の鉄葉の錺。
「灯ろう――――」
 ピエールが少しだけ悲痛な色を込めた声を上げる。
 老翁は用意した種火をそっと、錺の中に射した。すると、鉄葉の錺に空けられたスライムの瞳や口から、ぽうっと、朧なる淡い光が浮かび上がった。
 南国情緒にあって、実に違和感さえ覚える不思議な灯。
 そして、老翁はその舟を川面に浮かべた。同じく、もうひとつの舟にも、火を灯す。
「……見よリンスゥ。これは……ミストゥ、ランツェの、魂じゃ――――」
 老翁の言葉に、スラりんは即座に甲高い声を上げる。
「わかンなイよ! ぼくニは、ぜんぜんわかんない!」
 ぴょんぴょんと力一杯に跳ね上がるスラりんに、ピエールは感情を抑えたような口調で言った。
「スラりん……、あなたの両親は……神に召されのです――――」
「…………」
 その瞬間、ぴたりと跳ね上がりを止める。スライムの表情は一見、わかりにくい。だが、ピエールの言葉にひどく驚愕していると言うことは、リュカ自身、良く感じていた。そして、スラりんの胸中も……。

 サザンブリーズは、汎竜神の恩恵を受ける、スライム族最後の安息国――――。
 彼の夫婦は誇らしげに、『人魔共存』の大望を懐くスライムの少年がいると、語っていた。
 八千世。人も魔も、願っては遠き絵空事としてきた大いなる共存の冀望(ゆめ)を、豈小弱なスライム如き身の程を辨えず夢見るか。
 それでもリンスゥは大いなる種となる。君の円らな瞳の奥底には、魔将軍(ベリアル)にも勝る健かな意志と、艱難に敗けぬ躬の逞しさを見た。
 彼(そ)等は何を託して孤愀の荒野に人の想をもとめ送り出したか。
 外には人の戦士の鉈剣にその小身裁ち斬られ、内にあって魔王に隷従の道を撰びし同族の誹謗と石礫を受け――――それでも、彼等は創痍と成り果てても、リンスゥに冀望を見失わず……。

 老翁は思わず、息を詰まらせた。二つの燈籠は、ゆらり、ゆらりと水の流れに乗り、下る。

 サザンブリーズに流れつき、日を待たずして、竟に夫婦は力尽きた――――。
 彼らはきっと最期まで、君の想いに支えられていたことを誇りに思っていたはず。そして何よりも、この楽園に抱かれた身は安らかに眠り、その魂がリンスゥ、お前さんをここに導いてくれたのかも知れぬ。

「そんなの、あリえないヨ!」
 スラりんが叫ぶ。
「…………」
 小さく青い体から発せられる鋭い声に、思わず圧倒される。
「ボクは……ボクはみんなからキラわれてる」 それは、悲痛に震える声。
「ボくは――――うらギりなんだ。……ぼくのせイで……ぱぱも、ままも…………なぐサめなんか――――イラナイよ」
 そう言って顔を伏せるスラりん。一瞬の沈黙が場を包んだかと思うと、リュカやピエールよりも先に、老翁が渇いた笑いを発する。
「魔帝の威強ければ、そなたならば、どうする」
「…………。まおう…………の」
 ぴくりと、スラりんの体が震えた。

 ――――よもや、忘れたわけではあるまい。
 魔界騒擾の御世、人の身に憧憬を懐きその故郷を離れ、後、救世せしめた天孫の右翼となった王宮戦士を扶けたという、ひとりのホイミスライムのことを。

「あ…………ホイミン……さま……」
 スラりんは、敬愛を込めてその名を口にする。

 神の恩恵を得て人となり、詩歌の大家となったホイミンはスライム族には須く、千歳に語り継がれているであろう。
 かれは祝福を得て人の身を得た。
 ホイミンが伝えた史書はやがて、魔が人の身を得ることの伝説から、人と魔が分け隔てなく生きる……すなわち、人魔共存の理念へとなった――――。

「ボクは……ボクは…………!」
 過去の境遇が波のように押し寄せる。スラりんの青き小さな体を一瞬にして呑み込んでしまいそうなほどの苦痛。

 紛れもなく、“人魔共存”など、絵空事だった。そう、思われてきた――――。
 じゃがな、リンスゥ――――。
 太古に夢現の硲にて闇黒に支配せんとした魔帝が滅び、汎竜神が生まれたときも……魔族擾乱を天空八勇士が戡定せしめた戦いの端緒も……。邪悪を討つ人の尖兵たらんとした魔族は――――他ならぬ。スライムだったのじゃ――――

「…………!」

 魔族随一の孱弱な種族は、有史に何よりも尊き軌跡を遺し今代に伝えている。素晴らしいことだとは思わないか。

 ぷるぷると震える身を、慈しむように見守る、スラりんの仲間たち。その眼差しが、途轍もなく温かい気が、した。
「スライム族は、ひいて魔族の光となれる。…………リンスゥよ、そなたは今もなお大望を懐いてここに在るのであろう」
 かれは茫然としていた。漠然とした、老翁の言葉の中に、途方もなく大きな何かを感じていた。
 そして老翁は、まるで肉親を慈しむかのように、スラりんに温かな手を宛がった。