南海の夜は昼の暑さからすれば実に掌を返すかのように涼しくなる。
決して肌寒いというわけではないのだが、どこまでも遠く抜ける蒼天と、海の境界線に馳せる思いとは違い、満天の星に包まれたこの場所には、他所では今や失われつつある、人も魔も穏やかに過ごして行ける、文字通り楽園とはかくやとばかりの世界に変わるのだ。
王城を廻る川堀に空の星を映せば、まさに宇宙の城。翁が燈籠に朧火を灯せばそこは異国。
老翁と一匹のスライム。その対比が妙に惹きつけられる。まるで泰平を得た後にある、理想の絵のようだ。
スラりんの心に、人知れず疼き続けてきた不安があった。
「何も怖れる事はないぞ、リンスゥよ。――――皆はただ、お前さんの勇気と眩いばかりの希望を羨むばかりなのじゃ。
「うら……やむ?」
スラりんが身を傾ける。
リュカは燈籠の茫々とした光に浮かび上がる、スライム族たちの姿に気がついていた。
皆、身を潜めるかのように草木に潜む。スラりんに気兼ねするかのように、円らな瞳や多足、冠の一部が覗く。
スラりんに言葉をかけようとしたリュカの肩に、すっと、温かな感触が走った。振り返ると、それはフローラの掌だった。妻は穏やかな微笑みで、小さく首を横に振る。
ここはスライムの世界。
スラりんがどのような境遇を経てリュカの元に初めて身を投じてきたのかは、今にして思えば深く詮索することもないだろう。
そして、スライム族の間でスラりんがどう言った存在であったのか。それがスラりんにとってどういう影響を今に与えているのかは、リュカの介入する余地はない。
良きにしろ悪しきにしろ、スラりん自身がそれを解決して今後の旅に望むべきなのだろう。
ミストゥ・ランツェ。人魔共存という八千世の希望を秘めし子、スラりんの両親を形取った燈籠。
淡き、儚きスライムの生命のように。でも、何よりも優しい光。ゆらり、ゆらりと、円らなスラりんの瞳に映る。まるで、揺りかごのように、穏やかな灯り。
――――スゥ…………リンスゥ……
――――リンスゥ……りん……すぅ……
翁とスラりんを囲むように、誰ともなくスライム族の魔物たちが燈籠の灯り揺れる堀に集い始めた。
思いもかけぬ同朋たちの集いに、気後れするスラりん。
しかし、そんな畏怖はすぐに消散した。
スライム・ブルー、ワイン・レッド、メタリック・シルバー……円らな瞳に、そんな色の身体が、翁とスラりんをゆっくりと囲んで行く。皆、何かを求めるかのように穏やかで、優しく、羨むと言うよりも、寧ろ敬慕の眼差しで、見つめているように思えた。
魔界が平定されてから五世紀ほどの後、グランヴァニア国記の、リュカの行跡を記した壯賢王伝が、異国人によって東洋に伝わり、訳された伝記『泰和朝紀(りゅかちょうき)』の一節に、この時の様子が描かれている。
“精霊の燈は、遍く南洋の楽都に至りて、神気をもて青獣(すらいむ)の姦気善く浄めると云う。
歌唱晴朗にして魂魄、星河に昇る輦と成し、淡海に平穏を齎す。
琳雛公(=スラりん)、聖詩を紡ぎし祖宗に倣いて魔気を遁る。
人心必ずも破邪に非ずして、善くぞ泰和の御城(=リュカ)に遇えたことぞ八千世の宿願、茲に開かれたりと。
青族(=スライム族)揚々として琳雛公を饗し、泰和の高恩を末葉に伝承せり……”
普段は殊更に甲高いばかりのスライムの声も、重なり合えば美しき音曲となる。
歌声はよくぞ幻想の空間を彩り、リュカやフローラの心を捉えた。
「なんて、美しい歌声なのでしょう……」
スライムたちの合唱をうっとりとした様子で聴き入るフローラ。リュカもまた、言葉を失くしたかのように、ただじっと聴き入っている。
……スラりんはずっと、両親や他のスライム族に負い目を感じていたようです。
故里を離れてリュカと出会うまでの間は長く、魔気を強く受けた外界を旅するスラりんにとっては、それはきっと、辛い日々だったと思います。
彼の両親が亡くなったのも、スラりんの“裏切り”を快く思わなかった同じスライムたちのせいだと……。
ですが、それは間違っています。
スライムたちは、スラりんの勇気をずっと敬い、悪しき気から守るために、燈籠の翁が住むこの島に、導こうとしました。
しかし、どう足掻いても、非力なスライムにとって、その路は決して安穏ではなく、途上、多くの同朋が生命を失い、スラりんの両親もまた、この島に辿り着いた後に、ついに力尽きました。
サザンブリーズの同朋たちはスラりんの両親を手厚く弔い、ずっとスラりんのことを案じておりました。
スラりんが思うよりもずっと、皆は思いを共にしていたはずです。
ピエールが、そう言った。リュカは力強く、頷く。
「スラりんは誰よりも、責任感が強いんだ。僕は、わかっているよ――――」
「ですから……スラりんはここに来るのを躊躇っていたのですね――――」
フローラが両手を胸に合わせて言う。
老翁と一匹のスライム。幻想的に川をゆらりゆらりと下る燈籠と、数多のスライムたち。何故か、その光景を目にしているだけで、不思議と心地が良い。
ピエールは言った。
「スラりんはきっと、リュカに感謝しています。この機会を作ってくれたことに。そして何よりも、スラりん自身のためにも……」
ピエール自身も、何か肩の荷が下りたかのように殊に声が優しかった。
――――ボクは決めたんだ。
リュカのために、悪いヤツらをやっつけるって。
そのために、リュカとともに行くことにしたんだ。……そう、初めはそうだった。
でも、今はね――――みんなも……人も、ボクたちも……ずうっと、一緒に。今のボクたちのようになることが出来ればいいな……って、心からそう思うよ。
おとうさんも、おかあさんも……きっとそう願っていたんだよね。
あはは。なんか――――そうなんだなって思ったら――――ちょっとだけ気が抜けたって感じ。ラクになったかなあ……。
夢はね。でっかいんだ。今だから言えるんだけど。
ボクも、ホイミンさまのように、ヒトになること。
いつか、ボクもヒトになって、人と魔族が共に暮らせるために何かをしたいって、そう思うんだ。
ねえ――――ねえおとうさん、おかあさん……
リュカやフローラ。そしてピエールやメッキーたちと一緒に旅を続けていれば……少しでもボクの夢に、近づいているのかな――――?
少しでも役に立っている?
魔族のみんなが、悪い奴に怯えないでいられるように、力になれていれば、いいなって思う――――。
リュカも、フローラも……、メッキーもガンドフも、マーリンも……ヘンリーもルキナスさまも――――ボク、みんな大好きだよ。
大好きだから、みんながずっと、ずっと仲良く出来るように……頑張ってみるよ。
どこまで出来るかはわかんないけど……やれるところまではやってみるつもり……。
いいよね。いいんだよね――――。
だから、見守っていてくれればうれしいよ……。
おとうさん……おかあさん――――。
スライムたちの合唱がフェードアウトしてゆくと同時に、スラりんの両親を象った燈籠が強い光を発し、光跡が真っ直ぐ、天を衝くように立ち上った。
「あ――――!」
「…………!」
それは、ほんの一瞬。まるで地上から天へと繋ぐ流星のように、白く眩い光の筋だった。
サザンブリーズのはるか東の水平線を、眩い朝陽が灼く。新しいこの日もきっと、清々しく、南洋の暑い風に吹かれながら、青空の中に抱かれるのだろう。
燈籠の灯りに包まれながら、まるで人魔共存の黎明をそこに垣間見たかのような昨夜の幻想的な光景はもうなかった。
富豪の王城を囲む川堀の辺に、翁が朝早くからいる。ここを訪れたときと同じように、静かな時間にゆっくりと身を任せているかのように、翁は燈籠を作り続けていた。
「おじいさん――――ありガとう」
スラりんが笑顔で跳ねた。翁は慈しむかのように微笑み、スラりんの滑る体を二、三度、撫でた。
「信じた道を、進むことぞ。“スラりん”よ――――。されば、夢は拓かれん――――」
翁の言葉に、スラりんはぴょ――――んと、一際大きく、バウンドした。スラりんと同じ色の空に、一瞬、融けた。
そして、別離。
リュカは恭しく翁に拝し、言葉を交わした。
「――――翁は、もしや――――」
会話の終りに、リュカがそう言うと、翁は泰然と笑う。
「儂も、まだまだ夢を語り継がねば、ならぬようじゃなあ」
その時にリュカが確信したことを、スラりんも覚っていたかどうかは定かではない。
束の間の陸での休息を終え、再びストレンジャー号に乗り込むリュカたち。舷梯が外されたときに、不意にスラりんが、ぴょんとリュカの肩に乗った。
そして、いつものスラりんの調子で、言った。
「ボク――――ガんばるカら――――!」
そして、ストレンジャー号は東へ。郷愁の風薫る、グランヴァニアへ、真っ直ぐに針路を取っていた。