“大東嶺は世界四支柱が一なると”
水平線から朝陽が姿を現し、空を蒼に染めてから半時。ようやくその稜線を焦がし、牧場に蒼白き朝を注ぐ。
――――グランヴァニア東方大陸。
ある史書にそう記された、峭峻なる山嶺をグランパールレン(紫連山脈)という。人跡未踏の烈しく険しい崕。その山膚に広く続く、大チゾット高原。そこに降り積もる真白の雪が天空の色を映し、紫がかる。その美景はいかな吟遊詩人の謳う言葉にも、し難いという。
文字通り、世界を支えているのが四つの柱だとするならば、その一柱だと言わしめる、その山嶺を越えなければ、辿り着けないグランヴァニア王国。
ベレス海を航ってきた旅人や行商人たちは、紫連山脈・大チゾット高原を越えて王都に上る。
旅路は至極険難。王国の民もその諺に“火急を求めずば西山を越さず”とされるほどだ。
遠遐たる南ベレス海の旅を経て緑の大地に降り立つ人々は、一様にグランヴァニアへの想いに胸を熱くすると言う。いつも紫連の山なみが映す景観は、旅人を優しく誘惑し、残酷にかき立てるのだ。
「メッキー、ご苦労様ね」
ストレンジャー号の船首で、眩い朝陽と風を受ける、生ける羅針盤・メッキーに、ふわりとした優しい声がかかる。フローラだった。
「あ。おそれいりやす! もうじきに、大陸が見えてきやすです」
相変わらず、フローラの前だと、妙に硬いメッキー。
「いつもありがとう、メッキー。……でも、たまにはお休みなさい。そうじゃないと、あなたの躰が壊れてしまいますから」
“風の申し子”であるキメラへの気遣い。フローラらしかった。
メッキーは無意味に翼を慌ただしくばたつかせてフローラに謝意を示す。フローラがくすりと微笑む。
「フローラ」
水平線の様子を確かめに来たリュカがフローラの姿に気づき声を掛ける。
「あ、あなた」
いつものような、見飽きぬ微笑。しかし、リュカはどことなく生気が翳るような彼女の様子に気づいていた。
「ん――――フローラ、どこか具合でも?」
「え? あぁ……そんなこと、ありませんわ」
再び向ける微笑はリュカの心配をあっさりと払拭するものだった。
「そう。それなら、良いんだけど……」
「そろそろ、朝食を用意いたしますわね」
くるりと踵を返し、身軽に船内へと戻ってゆくフローラ。リュカはそれを見送ると、メッキーに向いた。
「メッキー、東方大陸は」
「順調に行けば、明日の小昼にはペテルハーバーに着港するはずでやんす」
「そうか、ありがとう」
メッキーは翼を広げ、ケーと一声吼えると再び、進路を見据えた。
(いよいよか……)
静かな胸の高鳴りをリュカは感じていた。
紫連山脈・大チゾット高原の影響で、西グランヴァニア地方は原野が多い。
ストレンジャー号が着港したペテルハーバーも、街と言うには烏滸がましい、小さな集落に過ぎず、久しぶりの陸地をよくぞ愉しむというにはあまりにも瑣末で拍子抜ける。まあ、この時世にあって、優雅に船旅を興じて大東嶺を越えようなどと言う奇特な人間はおらず、寧ろリュカ一行のような所帯が現れたとあっては、反って人々の肝を抜く。
この港甼の郊外には東方大陸随一と言われる“雀榕(あこう)の巨木”がある。それは天を衝くほどまでに雄壮で、陽光を覆い隠すほど、緑の葉が覆い尽くす。その雀榕の幹を利用した宿が旅人に頗る評判がよいのだ。
女将は、ペテルハーバーに居留する人々の心の安らぎとも言える、ネッドという女性。大様さと洒落っ気のある性格で、よくよくの世話好き。その名は王家にも聞こえているというのだから、実に大したものである。
壁の一端が雀榕の幹。最初は違和感があったが、これが不思議とすぐに慣れる。
「まあ、素敵ですわね」
フローラなどは瞬時に気に入ってしまったようだった。
部屋でようやくひと息をついた頃、ドアがノックされ、茶盆を手にしたネッド女将が姿を見せた。
「おや。もしかしてサラボナのルドマンさんとこの……」
フローラを見たネッドが、懐かしさを強くにじませた表情で声を上げる。
「え……は、はい。フローラと申します……」
戸惑うフローラ。
「あーあはは。そうか。憶えているわけがないねえ」
ネッドは言う。かつてはサラボナにあって宿を営み、ルドマンとも旧知の仲だった。ルドマン夫妻がフローラを授かり、ネッドも良くルドマンの邸宅を訪れては、稚児のフローラをあやしたという。フローラが修道院に修学する大分前にはネッドは夫と共にサラボナを発ち、グランヴァニアへと向かったのだという。
「まあ、お陰でルドマンさんとは今でも昵懇にしてもらっていてねえ。町の衆みな、ルドマンさんには感謝しているんだよ」
「そうだったのですか……も、申し訳ございません……私、憶えていなくて……」
「あーあはは。そんなことは良いんだよ。……んー、それにしてもあのフローラちゃんがもう結婚していたんだなんて。歳を取るのは早いもんだ」
苦笑するネッド。顔を見合わせて想わず頬を赤らめるリュカとフローラ。
思い出話もそこそこに、リュカの話を聞いたネッドは半ば驚きながら声を上げる。
「今どき、珍しいねえ。それも夫婦であのチゾットを抜けるというのかい」
「…………」
フローラと顔を見合わせながら苦笑するリュカ。
「あたしも今まで多くの旅人を見送ってきたけど――――まあ、この旦那は魔物使いのようだし、腕の方も確かだと見るから心配ないかねえ」
「ありがとうございます」
フローラがたおやかに低頭する。
「嚇すつもりじゃないけどさ、チゾットは生半可な岨道じゃあないよ。魔物は厄介だし、何分道は狭くて空気が薄い。ちょいと歩くだけで、ここから港までの十倍も歩くのと同じさ。女の身には応えるなんてもんじゃないよ」
しかし、このネッドの言葉にフローラは顔色を変えることなく返す。
「このひとがいるから、平気ですわ」
「…………フローラ……」
「…………」
ネッドはこの若い夫婦を見廻した。そして、小さくため息をつくと、くつくつと小声で笑う。
「あーあ、何か野暮なこと言ってしまったかねえ。……でも、気に入ったよあんたたち」
ネッドはそう言うと、滞在中は出来ることがあれば遠慮なく言って欲しいとのことだった。リュカはその厚意を甘受した。
その日の夕刻。ペテルハーバーに別の帆船が入港してきた。ポートセルミ・オラクルベリー経由のサラボナ船籍の小貨物船。ひと月に二度物資の往来のために入出港する。
「ああ、リュカさま。お嬢さま。よかった」
ルドマンの使者が部屋を訪れたのはそう間もなかった。
使者到着の予定からかれこれ十日は超過しているという。時世が時世だけにやむを得ない。使者が差し出した筺は、ティルダリアの時のように大きなものではなかったが、フローラが筺を開けると、ルドマンらしい気遣いをひしひしと感じる。
紫連山脈は峭峻厳寒の険しい地と言うことで、当座の路銀の他に、毛皮の防寒具一式が詰め込まれていた。ペテルハーバーで調達をしようと思っていた分、渡りに船だった。
ルドマンからの手紙はリュカとフローラへの気遣いとサラボナの近況を綴る。アンディが、スーザンという踊り娘と最近殊に親しくしているという内容には、さすがのフローラも興味津々とばかりだ。そして、リュカにも近況が伝えられた。
以前から体調が芳しくなかった、ビアンカの父ダンカンが、ルラフェン安定侯ルキナスの計らいもあってルラフェンの州立病院に入院したと言うこと。体調回復のためには、やはり比較的大きな病院に入った方が治りも早いというルドマンの発起によるものだった。
ビアンカも温泉村にあってサラボナ公用事の山菜、薬草、竈木、内海の魚介類等を採取し納品する職に与っているという。これがまた殊の外多忙で、彼女は根を上げず、良く働いてくれていると記されていた。
「…………」
リュカは内心、ほっとした。そして、ルドマンの高配にはつくづく感謝の念に尽きない。
「ビアンカさん……お元気なのですね。――――よかった……」
フローラがそう呟いて、胸に手を合わせる。そして、心からビアンカの幸福を願い、瞳を閉じた。
「…………」
その妻の姿に、リュカは魅入る間もなく、不意に忘れかけていたことを思い出した。
(フローラの場所……か)
フローラが入浴に向かった後、リュカは馬車に向かった。
馬車の仲間たちも皆、ネッドの宿屋の室で休んでいる。そこには“当直”のマーリンとスラりんがいる。
「おや、御主人か」
リュカの姿にマーリンがすきっ歯を覗かせて微笑む。一方スラりんはすぴーと幸せそうに寝入っている。このスライム、まったく当直の意味がない。
「起こさないで良いよ。そのままで」
スラりんの躰を打ちつけようとしたマーリンを止めるリュカ。
「いかがされた、御主人。何か、火急の事態でも」
「ん……少し違うかな――――」
曖昧気味にそう答えると、リュカは馬車の荷から、葛籠を引き出す。そして、ゆっくりとその蓋を開け、手を伸ばす。
「おお。御主人、それは……」
リュカは漆黒の衣を取り、紋様を眺めた。
竜禽の装束。ルドマンから送られてきた、人生三度のみ許される着衣。
誕生。結婚。そして、死。
竜と猛禽の紋様が刻まれた、何気ない東洋の礼装。リュカは、この服を見るたびに、あの運命の日を廻る激動を思い起こさせる。
「僕はこの衣を棄てて、ありのままの姿でフローラを選んだ。……そう、出逢ったときと同じ、旅人・リュカとして――――」
華やかな結婚式だった。瞳を閉じれば、あの原色の蒼空に映え、サンクチュアリのゴスペルが流れるヴァージンロードを、純白のウェディング・ドレスに身を飾ったフローラと歩いたことを思い出す。
それは、ありのままのリュカ。人生二度目の理を超えて、心から選んだ、リュカ自身の答えだった。
「さぞかし華やかだったんでしょうなあ」
マーリンが呟く。その瞬間、リュカははっとした。
自分の大切な仲間は、あの結婚式を見てはいなかった。ヘンリーやマリアではない、今こうして連れ合っている大切な朋輩が、それを知らないでいた。
「……何をしていたんだろうな、僕は……」
不意にリュカがそう呟き、くくと自嘲する。
「御主人?」
「ああ、マーリン。ひとつ、僕に力を貸してくれないかな」
「ほほ。何を改まっておいでじゃ」
「うん、実は――――」
リュカの話に、マーリンはみるみる顔が上気し、感極まったように顔をしわくちゃにする。
「それは喜びましょうぞ。いや、奥方だけではのうて、我ら魔族も皆、心から……うっ」
「そうか。……そうかな。それだと、嬉しいかな」
「このマーリン、魔法使い属……いや、我ら同朋を代表して、御主人のお役に立ちましょうぞ」
「そうか。ありがとうマーリン……」
リュカはマーリンの手に手を合わせると、葛籠を手に取り、熟睡しているスラりんに微笑みを向けてから馬車を後にした。
宿のカウンターでは、ちょうどネッドが仕事を終えて宿帳の片づけにかかっていたところだった。
「すみません、ネッドさん――――」
「おや、ああ。フローラちゃんの旦那さん。リュカさんだったね、どうしたんだい?」
リュカは照れ気味にカウンターに葛籠を置くと、低頭してネッドに言った。
「ひとつ、ネッドさんにお願いしたいことがありまして……」
部屋に戻ると、湯上がりのフローラが、濡れ髪をタオルで丁寧に拭き上げていた。
「あ、お帰りなさいあなた。お先に頂きましたわ」
「ゆっくり出来た?」
「はい。お陰様ですわ。ふふっ、やっぱり陸は良いですわね。断然、陸は落ち着きますわ」
心なしかフローラは“断然”を強調する。
「なら、良かった」
「あなたも頂いていらして? 雀榕に囲われたお湯というのもまた格別ですわよ、ふふっ」
「…………」
リュカはじっとフローラを見つめた。良人の眼差しに、フローラは上気した頬の持続を更に延ばす。
「いかがなさいましたの、あなた?」
「フローラ。……ストレンジャー号とは、しばらく別離することになる。今後は、ネッドさんが言うように、とても険しい紫連山脈を越える苛酷な旅になるだろう」
「え……あ、はい――――」
「この先は……、グランヴァニアに辿り着いてからのことはどうなるのか……正直言ってわからない。僕は不安だ……」
「…………」
フローラはじっと、真っ直ぐにリュカを見つめていた。
「だけど……。だから……ここまで来た以上、本気で僕も、君も覚悟を決めなければならないと思う……」
「……はい――――」
フローラは決してぶれることなく、リュカの瞳を見つめつづける。
伝わる。比翼の番も及ばぬほど、直に彼女の心の襞に触れる。弛まない信頼と愛情……。そして何よりも――――。
献身的な、その一途――――
リュカは虞ている。いつか彼女は心が壊れはしないか。尽くしても尽くしても、愛しても愛しても、満たされない心の寸隙。そんなことはないとわかっていても、埋まらない、小さな過失――――。
「ありがとう。フローラ」
紫連山脈に映す蒼天の光がペテルハーバーの港甼を照らす。山膚を伝う朝の気が清冽で心地よい。
「ん…………」
目覚めたフローラ。最初に必ず目にする良人の寝顔がそこになく、愕然となった。
「リュカ……さん?」
半ば慌てて廊下に飛び出す。独り残して行ったのか……。そんな有り得ない事すら、一瞬、思い描いてしまう。
「おはよう。あらあら。ひどい顔だねえ――――」
ネッドは笑いながら、茫然と立ちつくすフローラに言った。
「旦那さん、港の方にいるよ。フローラちゃんに、贈るものがあるってさ」
「リュカさんが……?」
本当にひどい顔だった。本当の意味でリュカが傍にいないと、白薔薇の異名は全く形無しとばかり。
「リュカさんかい。ありゃ、本当にいい男だねえ。あたしも、あと三〇年若かったら……なんてね、あはは」
そんな冗談を言うネッド。不思議なことに、それすらもリアリティを感じる。
「フローラちゃん。身嗜み、ちょっと気合い入れてみないかい?」
「……え? あ、は…い……」
ネッドの言葉に、きょとんとなるフローラだった。
サラボナでの日々を離れて以来、万遍なく化粧をしたことはなかった。苛酷な旅の中で、そんな悠長な事を出来るはずもなく、またフローラ自身、自制していた。
そのままでも十分な美貌に、更に彩りと華やかさを備える。ネッドにも手伝ってもらって丹念に、より一層美しく、フローラはサラボナでの令嬢時代に還る。
「あ、あの……ネッド……さん?」
「ま。本当に美しいねえ。あはは、ちょっとさ、あたしに付きあって欲しいんだよ」
「?」
フローラはネッドに引かれるように宿を出、港の方に向かった。
港への小径は結構な人だかりが出来ていた。実に賑やかで喧噪甚だしい。
「ね、見た? すごく格好いい人!」
「うんうん。誰か待っているのかな。あぁ、いいなあ。私もあんな人とおつき合いしてみたい」
「グランヴァニアの貴族さまかな? 玉の輿ってやつー」
とかく若い娘たちのはしゃぎようと言えば絶え間ない。
ペテルハーバーの港。その外れには小さな木造の教会がある。砂浜に面し、棕櫚の木が並び、陽光を鏤める。
「さ、フローラちゃん」
ネッドが教会の方に手を差し向ける。
「は、はい……」
フローラは戸惑い気味にゆっくりと教会の方へと進む。
その時だった。
きぃぃ……
教会の扉が軋み開く。フローラは惹かれるように立ち止まり、そこへ眼差しを向けた。
ハレーションは瞬く間に、記憶の情景を呼び起こす。扉の向こうから流れてくる雰囲気に、フローラは思わず身を竦めた。
マーリンがゆっくりと姿を現し、その後からピエールやスラりん、プックル、ガンドフたち仲間が続き、両側に並び立つ。皆、一様にフローラに向ける優しい微笑み。
「みんな……?」
フローラがそう呟くと、仲間たちは一斉に教会の扉へ振り向いた。
「え…………」
かつ……
乾いた木沓が石段を踏む音。それまでざわついていた野次馬たちも火を消したかのように静まり返った。
かつ……かつ……
フローラの視線の先には、その漆黒一色の威風堂々たりし、東洋の狩衣立烏帽子姿の若者――――紛れもない、フローラの良人・リュカであった。
余分な皺ひとつない美しい狩衣。恭謙と長い袖から持つ櫟の“笏”。リュカの胴ほどの長さがある、整然とした立烏帽子。ひとつに結ばれ、真っ直ぐに背中に垂れたリュカ自慢の黒髪。
「リュ……カ――――さん?」
夢の中かと一瞬、疑った。思わず、立ち眩みをしそうになって自身、驚いた。
そこに見える彼は、今でもはっきり憶えている、陽春サラボナの黄昏――――。一瞬で、心を奪われた瞬間の、あの彼――――。