第2部 故国瑞祥
第30章 君の青~featuring Tokunaga Hideaki~

 リュカに向けられていた若い娘たちの黄色い声も、東洋の整然たるその麗姿に、ついに絶句する。端正で凛々しい顔立ちのリュカ。その瞳に宿す美しさはもはや語るまでもない。
 リュカは知ってか知らずか、襤褸を纏って、苦難の旅を続けていようその悲愴な背中は、女性たちの心の深部を直に刺激し、恋心を奪って止まない。
 そんな男が一変、異国の貴族足る装束に身を包み、髪を整え唇に淡朱を差し、宝剣を佩き、たおやかに笏を掲げればどうか。
 御伽噺か夢見の話か。それが現と信じられず、少女は今ぞ夢とばかりにリュカに理想像を重ねて止まず。白薔薇を永遠の伴侶と識っても、絶世の美女となれば嫉みの念も湧かず、ふたりの成り行きに、自らといずれ連れ合う未来の伴侶の姿を重ねるのだろう。

「……………………」
 茫然と良人を見つめるフローラ。何があったのか、意識が混沌とする。何故かがくがくと震え出す両脚。びくびくと痙攣する肩。
 リュカはそんな妻の様子に、彼女の弛まない一途な愛を見る思いがした。そう、痛まし程、張りつめていた彼女の心。
 リュカはゆっくりと足を踏み出す。

 かつ……かつ……。

 あの日と同じ、木沓の乾いた音が、どれだけ、フローラの心を摩耗させていたのだろう。
 仲間たち、ネッド。そして、ペテルハーバーの人々。サラボナの時とは勝手が違う、いや、決してあの日のような大々的な雰囲気などではない。
 しかし、リュカ。そしてフローラの間には、あの日と同じような緊張感が広がっていた。まともに互いの瞳を見つめられない。夜毎激しく絡み合い、躰の奥底まで、互いのツボを知り尽くしているというのに、まるで生まれたばかりの初恋のようなふたり。
 ゆっくりと、リュカの木沓が、フローラの前で止まる。
「…………」
 頭を伏せる。破裂しそうなほど高鳴る鼓動。隠しきれないくらいに真っ赤になる顔面。

 する――――

 絹地の滑らかな衣擦れがフローラの胸に直接響くようだった。

「竜禽の装束に誓い、汎神の祝福受けし縁の笏をもて、そなたがこれより先、生涯の伴侶と成すべき者の前に立ち、笏を捧げよ!」

 ネッドの声が高らかに響く。
 半ば茫然とするフローラの瞳に、木笏を握る良人の手の甲が映った。

「我が畢生、示したり縁の笏――――。今ぞ真のこの分躬を、フローラ……貴女に――――」

 リュカはそう言うと、ゆっくりと跪き、笏を両手に拝した。
「…………!」
 愕然となるフローラ。予期せぬ出来事、俄然と甦る、あの日の情景――――。
 あの日と同じ、竜禽の装束姿の愛する男性が、恋敵に捧げた縁の証――――。自分には決して下されなかった、ひとつの愛のかたち……。
 リュカの目に映る足元の白砂に、ぽつ、ぽつと淡い雫が垂れた。
 頬を朱に染めたフローラの瞳から、止めどなく落ちて来る、大粒の宝石。
 ぽろぽろと、それはまるで今まで無意識に彼女の心を強ばらせていた何かが融解してゆく、形なのだろうか。
「あな……た…………」
 震える両手をおそるおそると差し出し、フローラは羮に触れるかのように、指を添える。
 リュカはそのままフローラを見上げ、優しく微笑むと、笏を戸惑い気味の妻の手にしっかりと指を重ねて握らせる。
 あの日と同じ、高貴たる良人の雰囲気に、フローラは恥ずかしくなり、まともに瞳を重ねられない。ただ、しっかりと絡められた、互いの指の感触が、何よりも、嬉しかった。
 立ち上がったリュカに、笏を愛おしそうに、その胸にしっかりと抱きしめたフローラが、もたれ掛かる。
 リュカは柔らかく妻の背中に腕を廻し、狩衣でその華奢な身を多い包み、髪の芳香を胸の奥に吸った。周囲の歓声は、聞こえなかった。
「……何故ですの? リュカさん……何故――――。あぁ、嬉しい……ごめんなさい……嬉しくて……嬉しくて、涙が――――」
 少しだけパニック状態のフローラ。瞳が泳ぎ、笑顔なのに、大粒の宝石が、ぽろぽろと溢れおちる。
 リュカはフローラの肩をしっかりと包み、その耳元に囁く。
「郷都を前に、君へ……いや、多分自分自身への、ひとつのけじめと、区切りをつけておきたかった」
「……けじめ? 区切り……」
 リュカはゆっくりと、力強く頷く。

 ――――背負いすぎた荷物を返して、忘れものを受け取りに来た……。
 竜禽の装束が秘める二度目の神功――――その恩恵を、受けよう。

 今――――僕の郷都への大地に足跡を刻んだこの地で――――。

「――――――――!」
 愕然と、フローラが目を瞠った。良人の胸の中から、見上げるその瞳には、堰を切ったように涙の粒が、夏の驟雨の如く溢れ出す。
 リュカの言葉の意味を、フローラはすぐに理解できた。
「うっ……あっ……あぁ……」
 声を抑えることが出来なかった。清楚嫋々とした深窓の令嬢。幼い頃から両親の薫陶を受けて、修道院に出家、華胄界の肝煎・サラボナ高家の気概を背負い続けてきた。
 リュカと出逢い、彼女は生まれて初めて、“自らの意志”の存在をしっかりと感じることが出来た。
 リュカと結ばれて、旅を共にするようになった。
 フローラ自らの意志。しかし、それは彼女の白く華奢な双肩に背負うには柔らかく辛い、令嬢の気概だった。
 リュカはあの運命の日、“ありのまま”の自分で、フローラを選んでくれた。何よりも嬉しかった。
 しかし、それは同時に、フローラにとって、高家の矜持を棄てずに、“リュカの妻”であり続ける事への確信でもあった。
 竜禽の装束ではないが故に、フローラが背負った、想い。……いや、もしかするならば、竜禽の装束――――サラボナに伝わる習わしに準じた良人が向かった先にあった、金色の髪の美少女への嫉みか。
 見た目や、形などどうでも良い。大切なのは心なんだ――――。出会った人はそう言う。
 それが正しいのか、間違いなのかはわからなかった。答えが必要なのかどうか、それを考えることすら及ばないのかも知れない。
 しかし、今、フローラの脳裏には押し込めていた感情が涙となって溢れ出している。
 竜禽の装束――――狩衣烏帽子に身を飾った彼は、ずっと……ずっとあの金色の髪の美少女に向かったままだったのだ。

 欲張りな心の疚しさが嫌いになる。
 心だけじゃ、やっぱり物足りない。“形”も欲しい。彼の――――リュカの全ての姿が、自分のものでならなければ嫌。
 フローラは今、そんな自分の本性に、焼けつくような羞恥を感じていた。
 しかし、そんな彼女の仆れてしまいそうな繊麗な想いすらも、この青年はまるで神の手のように受けとめ、包み込んでしまう。

 ――――今、改めて言おう……

 僕と、結婚――――してくれますか。

 言葉というのは夥多の日々の、ほんの数秒の間に紡がれる。何気ない音の響きが、無意識に相手との結びつきを示している。
 喜びの言葉も、哀しみの言葉も、怒りや素っ気のないもの、陰口でさえも、風景の色は決して変わらない。
 今、リュカが胸に抱くかけがえのない伴侶に紡いだ言葉。それでも、ペテルハーバーの景色に吹く風は潮の薫りが強く、空は水平に厚い雲を湛え、紫連山脈に雪を齎している。決して、変わらない、いつもの景色。
 それでも何故だろう。強く抱き合い、小刻みに震えるリュカの愛しみを目の当たりにすると、そんな景色さえ彩りを変えて未知の街並みに辿り着いたような高揚感、幼い日々のような好奇心を覚える。
「拍手、拍手だ! みんな、これを祝わずにいられるか!」
 誰かの叫びが発端となった。仲間たちが歓声を上げ、ネッドの合図に、町衆も拍手喝采を巻き起こす。

 魔王の脅威忍び寄る、名もなきに等しい小さな港甼に、ワンオクターブ高い空気が満ち溢れていた。
 不意に訪れてきた、魔物を引き連れし若い男と女。怪しさも刹那に通り越して、不思議なほど打ち解ける、この一体感。
 リュカにも、フローラにも、そこに知り合いなどいない。何もかも初めて、新たなる出会いの人たちだ。
 それなのに、何処かしか懐かしさに似たような感じがする。
 仲間たちの声、町衆の喝采、吹き抜けてゆく潮風、山脈にかかる雪雲、水平を隠す靄。
 融けてしまいそうなほど、安らかだ。この自然と喧噪が、途轍もないくらいに愛おしい。

 ウェディング・ドレスはない。小さな貨物倉庫を控え室代わりに、フローラは『化粧直し』をした。着慣れたドレスに、白絹の面紗(シルクのヴェール)。
 ネッドに促されて、倉庫の中、フローラが腰掛ける木椅子の傍らに歩み寄ったリュカ。フローラの貌を脇からのぞき込み、くすりと笑う。
「今度は、逆だね」
「?」
「僕が、正装しているから」
「あ……ほんとう」
 思わず、フローラもはにかみを見せる。
 少しの間だけ、頬を寄せ合う。キスもせず、躰にも触れず、ただあたたかな互いの頬を合わせてみるだけ。
 それだけなのに、今までの快楽よりもより深く、より強く互いの存在を感じられる。気負うことのない安心感だった。
 自然に、指を絡め合う。額を合わせ、極至近距離で瞳を見つめ合い、苦笑する。こんなことなのに、どうして肌を重ね合う事よりも恥ずかしく感じるのだろうか。
 リュカとフローラは手を繋いで、控え室がわりの倉庫を出た。
 不思議だった。ついさっきまで目にしていた風景。何も変哲がない、それだけなのに何かが違って見えた。
(わー、フローラ、きれいだね!)
(おおお、何と美しい。これぞまさに女神の降臨というものか)
(これほど美しい娘は見たことがないのう)
 竜禽の装束を纏ったリュカが傍にいることで、高貴たる様相のフローラがより引き立つ。
 サラボナの時のような、華やかさはない。較べれば、本当に小さな村の結婚式のような雰囲気だった。見渡す人々、仲間たち。誰もが、心からの笑顔をリュカたちに向けている。
 人々が列を成した道を、リュカとフローラはゆっくりと教会へ向けて並び歩む。止まぬ歓声、羨む溜息。
 教会の扉が開く。大きな街の教会のように、立派な彫像や、ステンドグラスがあるわけではない。壇の代わりに手製の机、聖書、燭台、ブロンズクルス。神前儀式に必要な、最低限の装備に留まっている。
 そして、壇上に待つ神父に、フローラは驚いた。
「マーリン?」
 フローラが思わず横を振り向くと、良人は僅かに口許をほころばせて、言った。
「僕がマーリンにお願いしたんだ」
 すると、フローラは嬉しそうに微笑む。
「あなたって、本当に優しい人――――」
 そう言って、絡める腕に力を込めた。

 知者マーリンの“神父”は、迫真のものだった。
 あの運命の日を仕切ったアロン神父にも匹敵する威厳を感じた。

 ……爾――――健やかなるときも、病めるときも……
 身、地にありて連理の枝
 天空にありて比翼の鴛鴦となりて
 畢生永劫、寄り添うことを誓うか――――

 はい――――誓います……

 生涯を掛けた厳かな儀式、違わぬ言葉。確かめあう、ひとつひとつの言葉と仕草だ。

 誓いの接吻(くちづけ)を――――

 ゆっくりと白絹の面紗に隠された白薔薇の容を顕す。
 今になってこうして妻の貌を見つめると何故か照れてしまう。リュカはこの厳かな空気を胸いっぱいに吸い込み、真っ直ぐに妻を見つめた。
「フローラ……」
「リュカ……さん……」
 小さく呟き合うと、それから自然の理の如く、二人は唇を重ねた。
 いついかなる時よりも、その瞬間が燦めいていた。サラボナでの眩い時間以上に、互いの心に強く焼きつけられた、想い出――――。
 そして、ふたりを祝福する仲間たち、この小さな港甼の人々。波の音、風の音……。どれもが心地よく胸に沁みる。
 お披露目もそこそこに、ふたりを囲むようにして宴が始まる。港甼の人々も、久しぶりの慶事に胸を躍らせていた。謡い、踊り、愛飲家が是非にと勧めた美酒を呷る。主役の美男美女を祭り上げて、祭好きの男たちは場を盛り上げ、女たちは音曲を奏でるのだ。
「おめれトう、リュうカ、ふろーら、ははぁ!」
 何故か呂律が回らないスラりん、その躰はやや紫がかっている。滑らかな肌がますます、しなやかに形を変えた。
 ピエールは黙々と勧められる食事や酒に与る。何か言葉を発してしまうことに彼なりに抵抗があった。些細な事情なのだろうが。
 プックルは美酒には興味がない。上質の骨付き肉にがっついている。ガンドフは香草を好み、メッキーは何でも喜んで呑み込んでいる。
 仲間たちは本心から、この時を喜んでいた。
 眺海台から街の賑わいを風に乗せて聞くだけだった、主人リュカが得たサラボナの慶事。
 人間が“番う”その瞬間――――結婚式と言うのはどんなものなのだろう。魔族と較べて、どういう想いを、互いに懐くのだろうか。
 実は仲間たちは、よくそんなことを話していた。リュカとフローラの結婚式を間近で見たかったという言葉も一度出たことがある。でも、それはマーリンが諭した。決して、二度と言ってはならないと……。
 リュカが迎えた、人生の転機。それは仲間たちにとっても、大きな転機に他ならない。
「今日は、真に佳き日じゃな、ピエールよ」
「ええ。本当に、そう思います」
 リュカのため、リュカと苦楽を分かち合いたいという彼らの想いは、きっとこの日にひとつ、報われたのではないだろうか。魔族それぞれの喜びの表現で、リュカとフローラを祝福する。久し振りに、酒がしみじみと身体を浸したリュカ、朗笑。貴族然とした装いなのに、“流離いの旅人・リュカ”を失わない。本当に彼は不思議な青年だった。

 宴も酣となり、酔客は散らばり始める。
 リュカとフローラは絶え間なく語りかけてくる客たちから身を隠すため、間隙を縫って会場から離れた。
「灯台下暗しってね」
「まあ。そうなの? うふふ」
 小さく舌を覗かせて悪戯っぽく笑うリュカに微笑むフローラ。宿屋の屋上、とは言っても雀榕の太い枝を利用した天然のバルコニーなのだが、ここから見渡す南ベレス海、紫連山脈の眺めは実に素晴らしかった。
 海からの匂い、山からの清冽とした風。こんな小さな港甼が、青く輝いていた。

「お脱ぎにならないの?」
「今日は、一貴族でいようかな」
 狩衣の長い袖や裾がはためき、立烏帽子は風に吹かれて外れてしまいそうな感じに揺れている。
 リュカはフローラを袖で包む。
「暖かい……」
 そっと、リュカに凭れた。
 ふたりはしばらく景色に心を預けてみた。リュカの狩衣に身を包まれ、妻の身体の温もり以上に、暖かな感じは確かにした。
「とても美しい青色ですわね」
 不意に、フローラが呟いた。眼差しを景色から妻に移すリュカ。
「あの日と似ているかな。あの日も……景色が青色に満ちていた――――。遠く抜けるような青い空と、街が空を映していて……」
 リュカがそう言うと、フローラは僅かに溜息を漏らして微笑んだ。
 そして、リュカの身体をそっと指で押して離れると、手摺にそっと身を靠れた。
 風が長い青髪を撫でてゆき、さらさらと流れる。鏤む青の光の粒が、きらきらと空に昇ってゆく。
 フローラは切々と言う。

 ……あの日のサラボナの街は青くて
 私が知る、どんな日々よりも、青く美しくて……眩しくて――――
 眩しくて――――ただ……眩しくて……
 このまま、融けてしまいそうなほどの青色に――――不安すら感じて……
 ずっと……あなたを愛しつづけなければ、きっと……そのまま――――

「……フローラ……」
「くすっ。正直に言いますわね」
 切なげな吐露かと思いきや、僅かに戯けた口調に変わる。
 そして、リュカに振り返ると、竜禽の装束をじっくりと見つめる。
「本当は……、そのお姿でも……して、欲しかったのです」
「…………」
 リュカは頷く。
「私……本当はものすごく欲張りなのです。嫉妬もします。独占欲もあります……だから――――」

 ――――これでやっと、ふたつのリュカさんを、私のものに出来ましたわ――――

 思わず瞠目するリュカを、フローラの微笑みが受ける。何故だろうか、今までの彼女の微笑とは違う、何か雰囲気の変化のようなものを、リュカは感じていたのかも知れない。

「リュカさん?」
 見つめられ、無意識に顔が赤くなるフローラ。リュカはゆっくりとフローラの傍らに足を進め、手摺に靠れた。
「……クラリスさんと話したとき、僕は今の気持ちのままで、君を愛しつづけることは出来ないと言った。……そして、この先、今の気持ち以上に君を愛することが出来ると信じているとも言った」
「はい……」
「フローラ、僕も正直に言うよ――――」

 ――――僕も本当は君と同じだった。君を直向きに見つめて、愛しつづけることが大切だって。
 君とビアンカを掛け合ったことは本当にしんどくて、君を愛し、ビアンカを掻き消すことを、無意識に焦っていたのかも知れない。
 テルパドールで義父さんから贈られてきたこの装束を見たときから、僕はずっと考えていた。何が大切で、これから何が必要なことなのか――――。
 愛することが出来る、出来ない……とか、信じる信じないとか。そんな事じゃなくて……。ただ、君が僕の傍にいると言うこと。プックル、スラりん、ピエール、マーリン……仲間たちと共にいると言うこと……。白黒じゃないような気がするんだ。

「リュカさん――――」

 ――――愛することが出来た……とか、信じることが出来た……なんて答えが必要だとするならば、これからゆっくりと探してゆけばいい。僕か君が何十年も後に天に召されるその時に見出せばいい。……そう。最後の竜禽の装束を身に纏うその日に。
 ……だから、僕は今、その時のために置き忘れてきたものを取りに行った。
 来るべき日に見出す答えに必要なものを……。

 二度目の神功を、君に届けるために……。

 フローラは満面の笑みを浮かべながら、瞳に大粒の宝石を浮かべていた。よく泣く日だと思った。うれし涙の震える声で、リュカの言葉に答える。

「確かに、お受け取りいたしましたわ、リュカさん――――ありがとう――――本当に……ありがとう……」

「ご主じーん! どこいかれたー?」
 遠くから呂律の回らない叫びが聞こえる。
「すんっ……あら、マーリンですわね。ふふっ、あなた、そろそろ参りません?」
 少しだけ鼻を啜り、フローラが言う。
「ん――――ああ、そうだね」
 心ならずも雰囲気に水を差されて苦笑するリュカ。きっかけを失い、頷く。
「フローラ」
「はい?」
「どこへ行っても……決して僕から離れるな」
「……は、はい……」
 唐突と毅然たる表情のリュカに、ドキッとするフローラ。
「……じゃ、行こうか。もう少し、飲めそうだ」
 すぐに微笑みに変わり、リュカはバルコニーを出た。思えば、何故今そういう言葉が出たのか、リュカは判らなかった。
 リュカの後に続き、一歩足を踏み出したフローラ。
「…………?」
 その瞬間、突然身体の奥から、気怠さに似たような淡く重い衝撃が、全身に駆けめぐった。しかし、すぐにそれは収まり、気にするまでもなく、良人の後に続いた。