第2部 故国瑞祥
第31章 凡庸なる王

 紫連山脈・大チゾット高原――――。
 東国グランヴァニアに通じる唯一の陸路とされるものの、その峻嶮さは旅人を泣かせることに事欠かない。
 ペテルハーバーを発ち、半日も進むとその光景は変わる。平坦だった整備路も次第に凹凸が目立つ様になる。気温から言えば、ルドマンから送られてきた防寒具一式を身に纏うほど冷え込みはない。
 しかし、皆少しずつ険しい表情に変わってゆくのが判る。
 リュカが馬車の中に声を掛ける。
「大丈夫かい、フローラ」
「あ……はい、あなた……。平気ですわ」
 正直な話、その揺れは尋常ではなくなってきている。車輪の音はまるで止めどない雷鳴のようだった。馬車の中に立て掛けている荷物も、些細な振動の加味ですぐに崩れてしまうので、整理を余儀なくされた。
 フローラが山道を歩むのは苛酷だと言うことで、登頂までは馬車で休ませようとしたリュカの気遣いも、寧ろ逆効果のようであった。
「フローラ、歩けるか」
「ええ……。その方が、とても楽ですわ」
 些か疲労の色が滲む表情に微笑みを浮かべて、フローラは差し出された良人の掌に、指を絡ませる。
「辛いだろうけど、登頂までは歩こう。足許が危ないから、しっかりと僕に掴まっているんだ。そして、疲れたらそう言うんだ。いいね。我慢なんてしたら、赦さないよ」
「はい……。ありがとう、あなた――――」
 そっと良人の腕に絡める掌に力を込めるフローラ。
 大東嶺・西路。振り返ればまだベレス海を遠景に、さほどでもない山道のように思えるが、その日一日を円滑に歩み進めると、なだらかなそれもいよいよ岨道となる。
 夕暮れの暗き稜線。切り立つ崖、阻むように生い茂る草木。山頂へと続くであろう道が続く山膚を眺めると、少しばかり気後れしてしまいそうだった。
 夕闇に紫連の画も融けてゆくかと思った時、山道を少し下ったところに仄かな灯りがあることに気がついた。
「山小屋か――――訪ねてみよう」
 この先、グランヴァニアに着くまでにどれくらいの時がかかるか判らない。少しでも故国やこの大高原の情報が欲しいところだった。
 そして、リュカの腕に、その白くか細い腕をしっかりと絡める妻の額に浮かぶ、小さな汗の粒が妙に気になって仕方がなかった。
 リュカは指でそっと妻の額の汗を掬い、そのまま、後頭部に回し、掌にすっぽりと収まってしまいそうな頬を包み、ぐいと抱き寄せる。
「少し、火照っているようだ。平気?」
「ん……はい。今のところは……ごめんなさい……あなた――――」
 瞼をうっすらと閉じ、頬を包んでくれるリュカの掌に両手を重ねて、フローラは消え入りそうな声で、そう言った。
「謝るな。さあ、行ってみよう」
「はい……」
 その山小屋と呼べるものは、小屋や阿舎、さては洞穴と言った粗末な印象ではなく、岩窟を利用した、しっかりとした一軒家と言った建物であった。窓から漏れる灯りこそ薄暗かったが、目が冴えると、岩盤を貫いた煙突から、筋のように立ち上る白煙が歴とした生活環境を匂わせる。
 コツコツと、木扉を軽く打つ。
「もし――――旅の者です。よろしければ、軒先にて夜露を凌がせて頂ければと……」
 リュカの言葉から程なく、閂の外れる音がして扉が開かれた。
 首を垂れるリュカとフローラ。
「旅の者で、リュカと申します」
「妻の、フローラと申します」
「私たちはこれからグランヴァニアに向かう旅の途にて――――」
 すると、首を垂れた二人の視線をのぞき込むかのように、一人の老婆が怪しげな笑みを浮かべて言った。
「ひっひっひ……、それは難儀なことじゃのう。なぁんももてなしは出来んが、身体暖めてゆっくりと休んでゆかれや」
 老婆はフローラを見て一瞬、瞠目する。
 すきっ歯から発せられる笑い声は、妖魔の嗤笑かと間違うばかりで、何とも戸惑うリュカだったが、フローラは笑顔で老婆に謝意を示していた。
「魔物使いの若人に、ほぅ……なんとも美しき伴侶じゃのう――――ひっひっひ……」
 老婆はにやりとリュカとフローラを見廻すと、火鉢にくべられた炭を外に運ぶ。
「さすがに、お仲間の魔物まで小屋の中には入らんからの、火鉢だけで勘弁してもらえるかのぅ」
「これは……我々にまでお気遣い頂なくても……」
 ピエールが驚いて低頭する。
「ひっひっひ。なぁに、これも何ぞの縁じゃ。チゾットの夜は冷え込むからの、西域の魔物には応えようてな」
 ピエールが受けとった火鉢。仲間たちはこぞって暖を取ろうと集まってきた。魔物たちにとっては、底冷えする気候なのだろうか。
「この時世に、こともあろうチゾット越えを図ろうとはのう。物好きか奇異か……はてさて、瘴気を祓う稀世の英傑か――――んー……ひっひっひっひ……」
 老婆の言葉からは、不思議と揶揄や中傷と言った負の思念が感じられなかった。フローラに一歩遅れて、リュカもすぐに老婆に慣れた。
 山嶺に住む者の常食である、冷えた身体を温める、山菜と山鶏、カイエンのスープくらいしかないと言い、老婆は食欲をかき立てる芳醇な湯気立つ皿を出した。
「いただきます……」
 木匙で一口、唇に含むフローラ。
「あぁ……」
 その美味は言うに及ばず、喉から食道、そして胃に到達する、そして何よりもその温かさに、思わず声が漏れた。
 疲れていた身体に染みるスープの熱が、フローラの身体の緊張をほぐしてゆく。
「主たちは実に時宜を得ておる。丁度、湯を湧かしておったところじゃ。美しき内儀の疲れを癒したらどうじゃな?」
「しかし……」
「ひっひっひっひ……遠慮は要らぬぞ。ここを訪ねたのもまた奇縁というもの。どうせこの先、未曾有の嶮難じゃ。今、寛いでも罰は当たるまいて」
「あなた……。私、お婆さまのご厚意に与りたく思います――――」
 堪えきれぬような声色で、フローラが言った。
「そうか。……では、お言葉に甘えさせていただきます――――」
 フローラは言葉を待たずに荷物を漁ると、老婆が指した方へと小走りに行った。

 ようやく、リュカは用意された夕食を食べきり、旅の経緯を簡単に話す。目的が目的だけに一応、パパスの名は避けた。
 老婆は興味が廃れる素振りも見せずに、リュカの話に傾聴。しかし、リュカの話が終わると、何故かその表情は憐憫に変わっていた。

 ――――玄佑王が退位され――――御正嫡の閔譲太子アニキス王子が夭折したことで、立てつづけの王室の不幸に、グランヴァニアの国は、一時混迷しかけたものじゃよ。
 先王のパパス様は、先々代の御庶子ながら英邁な気質でな。践祚された直後から王国を良く導く中興の祖と噂されたものじゃったよ――――。
 それがのう……よもや国を棄て、民心を蔑ろにしようなぞと――――。

 その言葉に、リュカは無意識に強く反応し、語気を荒げて反論した。
「国を棄てたとは……民を――――蔑ろに?」
 老婆は返す。
「旅の魔物使いよ、よう考えんしゃい。いかなる状況にあったとしても、国を統べるべき主上がその本意を臣民に伝えずに国を出たんじゃ。英邁王の名が廃れたとしても、文句は言えんじゃろう」
「パパス王は、魔窟を討ち、世界から穢気を祓うべく、グランヴァニアを出征されたと、聞き及びます」
「大将軍であれば、その理屈も通じよう」
 老婆の返答に言葉を詰まらすリュカ。
「魔界の穢気より臣民を救おうというのに託けて、王妃のために国を発ち、魔界が欲する臣民の不安を増すのは本末転倒と言わぬかのう?」
「しかし、パパス王は――――!」
 更なるリュカの反論を老婆は制した。
「どのような想いや理由があろうとも、『英邁王パパス』は、一国の君主なんじゃ――――。君主たるべき分別を辨えれば、公私の違いも判ろうに」
 明らかに、リュカの表情が不機嫌な色に変わる。老婆はそれを判ってか、なおも奇異な声で哄笑する。
「これは卦体な。街から街へと世界を歩むがゆえ、浅学菲才な僕ですが、一民として、王家の道理は心得ているつもりです。王妃を私情と言われるのは合点がゆきません」
「ひっひっひ。どうやら御前さんは、英邁王によほど心酔していると見うるようじゃ。確かにそうじゃよ。王族は私人であってはならぬ。民の伴侶にして我背子。母にして、娘。都鄙尊卑すべからく君恩を齎す存在でなければならん。わかるじゃろ?」
「言われるに、及びません」
「ひっひっひ……。ならば、答えは自ずと導き出せるはずじゃ。むう……、然様。かりに。仮に御前さんが王として、英邁王の境遇にあれば、どうするか」
「パパス王の境遇――――?」
 リュカの表情がやや強張る。
「すなわち、御前さんの内儀……あの美しいお嬢さんを魔界に失したとき、一国の主である御前さんは何とするかと訊くのじゃ」
「そ、それは無論のこと――――!」
 言いかけて、リュカの声が詰まった。迷うことがあろうか。その様なことがあれば、臣民諸侯の諫言を後目に宮廷を飛び出すだろうと。そう言って当然であったはずだ。
 しかし、老婆の言葉を咀嚼すると、揺蕩うことなく地位を棄てて魔界に連れ去られた伴侶の元へと駆けつけるだろうものと、即答するに憚るものがあった。
 リュカの表情から推し量ったのか、老婆は穏やかな口調で言う。
「まあ、かと言うて王も万民の主たる前に、一介の人間というものじゃあな。長年の連れ合いを一朝に民に置き換えろ言うのも酷な話じゃわい」
 しかし、リュカは絶句したまま、うつむき加減に肩を落とす。
「一国の主は、その伴侶と臣民を汎愛することを良君の標とする。これが、難儀なんじゃな……」
 老婆は暫時、思考を巡らせた後、突然長嘆する。
「其処に較べれば、今上王は実に心許ないわい」
「今上王……パパス王の――――」
「然様。英邁王王弟・オデュロン陛下じゃ。巷間“安寧王”と称される」
 それは紛れもない、リュカにとって叔父に当たる人の名。パパスの弟。リュカにとって、初めて聞く、両親以外の血縁。思わず、心が躍る。
「パパス王の兄弟ならば国民も良く恩恵に与っているのではないですか」
 リュカの言葉に、老婆は惘れたように笑った。
「ひっひっひ……。明君の兄弟子息が同じ明君の器であるというならば、歴史を綴った王朝は皆、万世一系じゃろうて」
「! ……オデュロン王はそれには能わず……と」
 失望とも、怒りともとれる表情で、リュカは老婆を見た。
「能わずば万民が安寧王を推戴することはないじゃろ」
「…………?」
 怪訝な表情を見せるリュカに、老婆は言った。
「要するに、現王は凡庸であるということなんじゃよ。御前さんはオデュロン様が何故“安寧王”と称されているのか、解るかの?」
 リュカは首を振る。
「安寧とは平和の意味じゃ。勇武才略に富む、英邁を称号とする先王陛下とは対照的じゃがの。……しかし、言葉を換えれば、オデュロン様は所詮、平時の明君という皮肉を込めたものに過ぎぬのよ。安寧王が一国の王として今の世を乗り切れるかどうか、手腕が試されておるんじゃよ」
「グランヴァニアは混乱しているのですか」
「そうと言ってはおらんよ。オデュロン様のような方は、平時ならばそれで良いんじゃろうが、今は魔王の威に世界が揺れておる。ただ、王にとって英邁王と比較されるのは酷じゃろうな」
 そのとき、入浴を終えたフローラが戻ってきた。老婆と会話を交わしていたのだろう、リュカの神妙な様子が気になった。
「聞けば玄佑・英邁両王の御代には総務の卑官にすら就けなかったと言う男が今や安寧王の執政卿らしいんじゃ」
 老婆は言った。リュカの祖父・玄佑王、そして父英邁王パパス。明君であろう二王が重用しなかった“ロバート=セイシェル”という男が、安寧王オデュロンに取り入って国政を指導する執政卿になったことが、識者に殊の外、評判が悪いという。
「王を差し置いて、国政を壟断すれば、亡国に拍車を掛けよう。グランヴァニアの先行きが案じられようにの」
 老婆との会話がそこで終わったかのように、しんとなる。
 リュカの様子が気になったフローラが、老婆に向かって言った。
「あの……。お婆さまはいったい……」
 すると老婆は一瞬、目を瞬かせて笑った。
「ひっひっひ……わたしゃ、ここに棲み込んで長うてな。さすれば、厭でも色々な与太話が聞こえてくるんじゃ。ただ、それだけなんじゃよ」
 老婆の言葉に、フローラはつられて笑えず、良人に声を掛ける。
「あなたもお湯を頂かれませ。とても、良うございました」
「あ、ああ。そうだな。そうしよう」
 リュカははっと気づいたように、笑顔を作り、慌てて妻の言に従った。

 熱い湯もリュカの心身を癒すまでに至らない。さもありなん。英邁王の勇名を馳せる父・パパスの弟、リュカにとって実の叔父の思いもよらぬ醜聞。
 リュカは期待に胸を膨らませてのグランヴァニア入りに水を差されたようで、沈鬱していた。
 いつもより湯浴みが長くなった。少しばかり上気が過ぎ、躰が赤らむ。
 湯から上がり、戻ると老婆が誂えた寝所に、フローラがいた。
「あなた、どうぞ」
 よく冷えた果実酒を良人に向ける。リュカはそれを受け取るとひと呷りに呑み込んだ。
 フローラは良人の様子をじっと覗ってから、徐に口を開いた。
「お婆さまから伺いました。……グランヴァニア王――――叔父上さまが心許ない方だと」
「ああ。安寧王の呼称が、そんな皮肉を込められたものであったなんて……」
 リュカが強めに振り下ろすように、空のグラスを机に置く。
「あなたは……そのお話を聞いて、グランヴァニアへの想いが変わりましたの?」
「いや……変わったというか――――随分思っていた様子と違うから、少し途惑っているかも知れない」
 リュカの言葉に、フローラは優しげに微笑む。
「あなた――――私の遠祖……ルドマン家の開祖はご存知ですか?」
「勿論だよ。魔界擾乱を戡定した、天空八勇士の一人・聖商侯トルネコだろう」
 するとフローラはこくんと頷き、そしてややはにかむように続けた。
「トルネコはあの擾乱の後、聖商侯の称号すら受けましたが、実は旅の中では、一番の役立たずとまで言われたことがあるのです」
「…………!?」
「ほら、トルネコは武器商人。武器を扱っていると言うだけで、決して天空の勇者や他の勇士たちほど、戦いに慣れているわけではなかったようです。もちろん、魔法も使えなかったと聞きますわ」
 フローラは恥ずかしそうに顔を染めて、顔を逸らし気味に続ける。
「しかし、トルネコは七人の仲間たちの結束を固める人望の士として欠かせない存在だったと聞きます。……剣技や魔法に劣っていても、心を繋ぐ、癒しの人として、仲間たちの悩みや相談事を聞いていたのです」
「あの聖商侯が――――」
 リュカが思わず長嘆する。
「安寧王はきっと、心が人一倍お優しいのではないでしょうか。パパス御義父さまが英邁な気質……、オデュロン叔父さまが安寧なる気質……。きっと、ご兄弟がいたからこそ、グランヴァニアは繁栄していたのでしょう」
「その英邁王……父さんがいなくなってしまって……叔父上は――――」
 落胆する良人に、フローラは少しだけ語気を強めて言った。
「あなた。ですから私が言っているのは、安寧王に対し不足のところをお見受けされたとき、あなたはあなたとして何をして差し上げられるか。安寧王の治世を良く支えられることが出来るために、何をするべきなのか。……そこをお考え下さいませ」
 フローラの叱咤に、リュカは驚いた。語気を強める妻を見るのは、初めてだった。それだけに、言葉が強烈に胸を刻んだ。フローラは続ける。
「英雄の子は英雄に非ず。そして、たとえ英雄と雖も一人の人間です。完璧であるはずがないではありませんか。……それに、私たちはこれからグランヴァニアに向かうのですよ? 王様の人となりも直接に存じ上げないというのに、他所様のお話だけを信じて沈んでなどいられませんわ!」
 言葉に妙な力が入る妻の様子に、今度はリュカが呆気に取られた。可笑しくて、気を緩めれば笑ってしまいそうだった。
「…………ああ、ああ。そうだな。フローラ。君の言葉がもっともだよ。何を考え込んでいたんだろうな、僕は……」
 リュカは恥ずかしげに唇を噛むと、まだ乾ききっていない髪を掻く。
「あなた……でもそれを抜きに考えても、安寧王はあなたをきっと歓迎して下さいますわ。今は政よりも、肉親として一時も早く、ご拝謁が叶うことを望みたいのです」
「うん、うん。いちいち君の言う通りだ。僕にとっては一番近い肉親。早く会いたい。そうなんだ」
 リュカの沈鬱は嘘のように晴れた。そしてそれよりも何よりも、フローラの叱咤が嬉しくてたまらない自分にこそばゆくて、気分が高まるのを感じていた。
「ところでお婆さま……いったい――――」
 フローラもやはり同じ疑問を抱いていた。
「ただの隠者ではないことはわかるんだけど――――」
 リュカは苦笑する。間もなく睡魔が二人を覆い込む。先行きを思った瞬間、すとんと落ちるように意識が飛んだ。

 どれくらい眠っていただろうか。リュカは一瞬、浅くなった意識の中で、何かを研ぎ澄ますような音を捉え、咄嗟に跳ね起きた。
 隣ではフローラが安らかに深い眠りの中、寝息を立てている。
 リュカは神経を集中させて寝台から降りると、樫杖を取った。そして臨戦態勢を整えながら、ゆっくりと扉へ向かう。その先は居間兼厨房などの作業部屋となっている。
 扉の隙間からは淡い光が漏れていた。杖を強く握りしめ、隙間から覘き耳を澄ますと、研ぎの音はどうやら厨房の盤台の陰からのようだった。
 リュカは扉をゆっくりと開く。音はしなかった。もしも禍つ物がそこにあり、兇刃を研いていたときは、一擲に杖を打ちつけて息の根を絶つもりであった。
 “その物”が視界に近づく。
 そして、ぴたりと研磨の音が止んだと思ったその時だった。

「殺気を引きなされ、魔物使いよ」

 老婆の声だった。リュカは驚き、同時に張りつめていた殺気がすうと引いていった。
 ぬくりと上体を起こした老婆が、お世辞にも怖くないとは言えない、下からの光加減に浮かび上がった笑みをリュカに向ける。
「起こしてしまったかのう。少々、五月蠅かったようじゃな、ひっひっひ……すまんのう」
「いったい、何をされて……」
 その時、リュカの目に入ったのは、プックルと再び巡り合ってから、片時も共にあり腰に佩かれていた、パパスの剣だった。砥石の上にあり、諸々の工具に囲まれたそれは、実に見違えるほど美しく、そして淡い光にも眩いばかりに、リュカの寝起き顔を映し込む。
 愕然となったリュカに、老婆は言う。
「懐かしい得物を見たら、久し振りに杵柄を握りとうなってのう……どれ、魔物使いよ、物打を上にして構えてくれんかの」
「え……あ、はい――――」
 リュカは言われるままに剣を握り、物打を上に構えた。
「どれ……」
 老婆は居間の外れから、細長く柔らかなサリックスの葉を一枚取ると、リュカが構えているパパスの剣の上にそれを翳し、そっと手を離した。
 サリックスの葉は空気に載せられているかのように、ゆっくりと引力に吸われるように、剣の物打に触れる。その瞬間、リュカは驚愕した。
 音もなく、サリックスの葉は二つに割れ、刀身を這うようにさらさらと地に落ちて行ったのだ。
「こ……これは!」
「ふむ……。感覚はどうやら、鈍ってはおらんようじゃったのう、ひっひっひ……」
 思わず剣身を眼前にし目を瞠るリュカ。快活な笑顔を浮かべる老婆。思わず、リュカが声を上げた。
「王家への見識、国情を案ずる憂心、そしてこの剣……! 嫗はいったい、どのようなお方なのです」
 老婆はその問いに苦笑し、一つ大きくため息をつくと、石の框に腰を落とし、リュカを見上げた。
「起こしてしまったんじゃ、今更隠すこともあるまいし……まあ、別に秘する事でもないかのう、ひっひっひ」
 奇妙な笑いの後、傍らの茶碗を取りまだ冷めていない茶を啜ると、老婆は言った。
「儂はグランヴァニアの先々代・玄佑王リオネル陛下に仕えた、鍛冶職のドゥーラと申す婆じゃ」
 リュカは絶句した。