第2部 故国瑞祥
第33章 無謀なる令嬢

 英嘉王グリュンヘルゼの主導下、紫連山脈の中腹を経て西麓に通じる山路が開拓されたとき、その労働に従事した文民や兵士、果ては土匪に至るまで、その大業の足跡を現在に伝える山村・チゾット。

 “寥廓は悉く淡青の彩
  北天の瞰下、深緑の樹海
  其の涯は神境如何に東瀛の波打つ
  南天は紫連の峭峻、蒼穹を貫くこと延々たる
  英嘉帝、釣橋より雲海を望み瑞煙九界に齎すを詠う”

 グランヴァニア国史の『英嘉王(グリュンヘルゼ王)伝』に、チゾットの山村についての記述があるのだが、そこにあるような光景が、今リュカ達の眼前に広がっていた。
 岫(くき)に差し込む白みがかった光を辿る。それまで、地熱もあってなのか、気温自体、服を剥ぐほどではなくても、変に汗ばむような籠もった薄い空気に、さすがのリュカも息が上がりそうなときがあった。
 やがて、岫の薄闇に外界の光が見え始めると同時に、ひやりとした新鮮な空気が吹き込んでくる。
 リュカはとにかくフローラに厚着を勧めた。
 新しい空気は気持ちは良かったが、その特有の冷たさは、今自分たちのいる場所が、紫連山脈の余程高い位置にあると言うことを示しているようであった。
 それは、不慣れな者が防御を掛けなければ、すぐにでも質の悪い風邪に罹ってしまう危険性をも孕んでいたのである。
 岫を抜けた。一瞬、真っ白な光が瞳を潰してしまいそうなほどに眩く、久し振りの天道の下に出たことに、リュカやその仲間達は思わず歓声を上げる。
 やがて目が慣れると、淡白さに覆われた蒼穹、太陽はやや西方にあった。峭峻たる紫連の山岳を南北に望み、足下は僅かにくねりながらも、きちんとした道として奥に続く。
 そこは村へ続く道なのだろう。その道端には大人の男性程の高さがあろう木柵が設けられていた。どうやら、その先は断崖となっているようで、万が一落ちれば、洒落にならない事態になる。チゾットの山村に住まう人々には紙一重の危険があると感じた。
「だいぶ疲れたな。フローラ、宿に着いたら、しばらく休むぞ。僕もそろそろ、寝台の夜具が恋しいし」
 リュカがそう言って笑うと、フローラも微笑んでいった。
「あともう少しなのですね。わかりましたわ。鋭気を養ってから、参りましょう」
 光のせいなのか、ただでさえ美しく白いフローラの肌が、いつも以上に生白く見えた。
 リュカはフローラの手を握り、歩をゆっくりと進める。

 しばらく進むと、道の彼方からなにやら騒がしい音が聞こえてきた。
 それはドゥーラの山小屋以来、聞かれなかった人の声。それも何か言い合いをしているかのような喧噪だった。
 リュカは一応、気に掛けるようにしながら歩を進める。
 やがて岩陰の向こうから疳高い声と同時に、駆けるような靴音が響き近づいてきた。
「何でしょう……何か、もめ事でも――――」
「君は何も心配しなくていい。大丈夫」
 ここまで来て、余計なもめ事に疲労の妻が巻き込まれるのだけは勘弁して欲しい。リュカは一瞬、喧噪を憎ましく思った。
 そして、上体は頭をすっぽりと包む深い革のキャップに旅人の服、リュックサック。下は腰に一応の護身用サーベルか(?)を穿き、ハーフパンツにトレッキングブーツと、いかにも登山旅行者風情の人物が駆け足でリュカの視界に現れた。
 リュカは旅人の直感として、その人間に危うさを覚えた。フローラの手を握っている力を緩め、片方の手でそっと佩剣の紐を弛めた。
 高山は思いも掛けずに突風が吹く。セントヴェレスにいた頃、吹き飛ばされそうな程の上昇気流が奈落から生じているのを、幾度と無く体験している。そうでなくとも、どことなくこの通路は、いまいち、がっちりとしているようには見えなかった。
 旅行者風情の人間は、何も知らぬかのように、傍目から見ても、オラクルベリーなどの地上の歓楽街界隈で浮つく若者のような軽い足取りで駆けてくる。
「イエッタ、後ろに」
 リュカの言葉に、イエッタがもすもすとフローラのクッションとなるかのように、彼女の後ろにつく。リュカが振り返ると、メッキーが高々と、天空の四方を見回していた。
 しかし、漠然とした不安と言うものは当たるものかも知れない。

 僅かに吹き続けていた谷風だったが、その瞬間、岩肌を打ちつけ、まるで巨大な怪鳥の悲鳴のような音を発したと思ったその時、猛烈な気流が上へと昇っていったのだ。
 リュカが目を瞠る。
 目の前の人間の悲鳴と風の音が重なり、人は飛ばされかけた。木柵にぶつかったが、何と木柵はまるで意味を成さぬかのように崩れると、奈落へと倒れ消えた。
「メッキー、いざ」
 リュカはフローラの手を離し、佩剣を捨てると同時にそう絶叫し、猛然と駆けた。
 メッキーは喚声を上げるとリュカの意を汲んだかのように翼を大きく広げて谷の方へと急降下する。
 弾丸のようなリュカの俊足。足を踏み外したその人物に手を伸ばし、胸から飛びかかる。固い岩盤に胸板をすりながら、リュカは間一髪、その人間の手首を掴んでいた。
「あなた――――ッ」
 フローラの悲鳴。
「おおッ」
 リュカは声で無事を返す。
「あっ……あぅ、あぁ……」
 手首で繋がれた命に、その旅人風情の人物はまともに声すら上げられない。
「全く、無茶をする。高山を甘く見ていないか」
 リュカは踏ん張りながらそう苦言を言った。
 しかし、思った程、腕に重さを感じなかった。
「メッキー、胴を貸してやりなさい」
「はいでやんす」
 メッキーは嘴を仰け反らし、胴体を落ちかけた人物の足下に当ててあげた。取り敢えず、引力を弱める急場凌ぎにはなるだろう。
「大丈夫か、君。いいか、引っ張り上げるぞ。しっかり捉まっていろ」
「――――ッ」
 風が今度は横殴りに吹き付けて身体を揺らす。思った以上に細い腕を、リュカは力を込めて引き上げる。メッキーも下から翼を強くばたつかせて持ち上げる。
 その人物の被っている革のキャップがぐらぐらと揺れ、顔面を隠す。
「そっちの腕を伸ばすんだ。僕の首に腕を回せ。早くしろ」
 リュカの大きな声に、その人物が震えながら従う。リュカのうなじにはとても華奢な肌の感触がした。
「そのまましっかりとしがみつくんだ。いいか?」
 こくんと、人物が頷いた。その瞬間、ぐらついていた革のキャップが外れ、風に飛ばされるように谷間に消えて行く。
 その瞬間、ふわりと栗色の長い髪がこぼれた。そして、その人物の鳶色の瞳が、リュカと一瞬、重なった。
「――――あ、え……と」
「君、良いからしっかりと捉まれ――――」
「あ……うん」
 恐怖か何か、顔を紅潮させながら、リュカの言うとおりにリュカの首に絡めた腕に力を込める。
「ぐぇぐぇぐぇぐぇ――――!」
 メッキーが気炎万丈に持ち上げる。その隙にリュカは片方の腕でその人物の背中に腕を回して胸元を掴む。
「ひゃわ!」
 奇怪な声を上げる。しかしリュカは気にとめることなく喚声を上げて一気に引き上げた。

「メッキー、ご苦労」
 リュカは生きる羅針盤を先ずねぎらう。
そして、次に身動きが取れない風の無謀な旅人に目を向けた。
「おい、君」
 呼ばれた旅人はびくんとしてリュカに向いた。相当に乱れた栗色の髪に、疲れた鳶色の瞳。リュカと目を合わせた瞬間、思わず、紅潮した顔を逸らし、両手で胸元を押さえてしまう。
「ん――――、君はもしかして、女の子か」
 リュカがようやく気づく。彼女は仕切り直したかのようにゆっくりとリュカに向き直る。
「た、助けてくれてありがと」
 九死に一生を得た割には、その言葉はいささかぶっきらぼうっぽくも聞こえる。ただ、まだ幼さが残っているが確かに少女の声だった。
「土ぼこり……ごめん――――」
 一応、気遣ってくれている様子。
「それはどうでもいいけど、僕たちがいなかったら、君、谷の底だったな」
 リュカの言葉に、少女は顔を紅潮させる。
「ま、まさか柵がこんなに柔だなんて……思いもよらないよそりゃあ」
 少女はそれに怒っていた。リュカは焦点が違う言動をするこの少女が、チゾットの村人ではないと言うことを察知した。
「何かもめるような喧噪が聞こえてきたけど、君か、もしかして」
 リュカがそう訊ねると、突然少女は褪めてひび割れそうな唇を歪めて肩を落とした。
「うあああ――――そうだった。やばっ……どうしよう……」
 死の恐怖が一瞬にして吹き飛んだか、或いはそれを超越するかのように、彼女にとっては別の恐懼がある様相だ。
 そして、しばらく考えこんだ後、まるでリュカに縋るような視線を送る。
「命を助けてくれた序でに、もう一つお願いしてもいい?」
「?」
「あのね、まずはこの事、絶対に内証にしてくれってこと。後は――――」
 その時だった。
「ょうさま――――!」
「どこですか~~~!?」
 ごつい初老の男性の声と、これがまた気弱げな少女の悲痛にも似た叫び声。この少女にしろ、続く二人の声にしろ、峭峻な高山地域にはどうも似つかわしくない。
 この図々しい少女はその声を聞くや“ちっ”と、はっきりと言葉としてわかる舌打ちをする。
「早いよあいつら。うーん……隠れるって言ってもなあ」
「君の知り合いなんだろ。何でそんな」
「えーっと……まあ、ちょっと複雑な事情があってってと言うか――――取りあえず、隠れてもいいかな」
 少女の一方的な頼みも、さすがに聞き入れる限界がある。
「駄目だ。心配して君を捜しているのなら、嘘をついて匿うことは出来ないよ。……まあ、崖から落ちそうになったことくらいは言わないであげてもいいけど」
「ぶー、聞き分けがないんだー」
 恨めしそうに唇を突き上げる少女。
「そう言う問題じゃないだろ、死にかけたんだぞ、君」
 リュカが語気を強めると、少女は反論できず、観念する。
 やがて、少女の知り合いと見られる初老の壮士と、声に比例する、何ともか弱げな小柄の少女が並んで現れた。走り回っていたのか、息が切れている。二人とも、同じ旅装だった。
「ああ、すみませぬ旅のお方。つい今し方、ここを――――」
 壮士がリュカに声を掛け、止まる。視線の先に少女がいたからである。
「あ、ひ……とと、お嬢さまっ、見つけました~」
 孅細(せんさい)な少女がへなへなと安堵の声を上げる。
「はぁ――――」
 壮士に睨まれた少女は、長嘆し、蛇に睨まれた何とやらのように、肩をすくめている。
「溜息をつきたいのは私の方ですぞお嬢さま。何ですか、そのお姿は――――。これ以上、無謀な行動をなさるのならば……」
 怒気に満ちた壮士の声。観念したように縮こまる少女。
 そんな三人の様子に、リュカは微笑みながら口を開いた。
「私の名は旅の魔物使いでリュカと申します。実は彼女が岨道を抜けて――――山を下りたいと言うので、この先は魔物が殊に強く、そのままではとても危険だと助言したところです。彼女は思い止まるつもりみたいでしたが」
「そうだったのですか、ああ、良かった……」
 孅細な少女がぺたりと座り込む。
 壮士は毅然とリュカの前に蹲踞すると、胸に手を当てて敬礼した。
「これはご親切に。私はアンシェル=ウィラムと申します。故あって素性は明かせませんが、お嬢さまを押し留めて下されたこと、御礼申す」
「あ、あのぅ。お、同じくシフォン=スーリアです。お嬢さまの日ごろのお世話をしています」
 何故か自己紹介の遅れに慌てるシフォンと名乗る孅細な少女。
「あー……そう言えば、名乗ってなかったね。ええと、リュカ――――だっけ?」
 いきなりの呼び捨てに愕然とする暇もなく、アンシェルと名乗った壮士が叱咤する。
「いきなり他人様を呼び捨てにしてはなりません! それと……お嬢さま、名乗りは――――」
「ああっ、ご免なさい。そうだね、失礼だった。……んー……と、あ。それとアンシェルさ、別にあたし、名乗ってもいいんじゃない?」
「ダメです。お辨えを」
「でもさ、どうせ後で判ることなんだから、こそこそ隠しても意味無いじゃん。ま、名前だけでもいいでしょ」
「お嬢さま!」
 アンシェルと言う“執事”の諫止も後目に、少女はリュカを見て微笑んだ。ぱっと見は端整な顔立ちをした、少年のような彼女。

「改めて、ありがとう、リュカさん。あたしの名はドリス。あ――――今はこれだけね。素性は勘弁。アンシェルがうるさいから。……ええと、それと――――」
 失望に似た表情を浮かべるアンシェルを他所に、ドリスと名乗った少女は、リュカの後方に停まっている馬車の方を見て動揺した。
「あの……お連れの人――――様子が……」
 リュカは愕然となって咄嗟に振り返る。イエッタにもたれ掛かっていたフローラが、意識を失っていた。
「フローラッ!」
 猛然と妻の元に駆け寄るリュカ。その様子を、驚いたように見るドリス。
「妻のフローラです。ああ……」
 リュカが妻を抱きしめる。苦しげな息づかいではないが、深い眠りに陥っている様相だ。
「リュカの名前を叫ばれた直後に、急に眠りに――――」
 ピエールが言った。
「何と、こうしてはいられまい。シフォン、すぐにこの方を宿にお連れしよう」
「は、はいぃぃ!」
 アンシェルの掛け声にシフォンは頼りなげに慌てるが、アンシェルと共にぐったりとしているフローラを馬車に運び、布団代わりの敷物を敷くなどの手際の良さはリュカやその仲間達を超えていた。
「大丈夫です。あなたの奥方は眠られている。しかし早く宿にお連れして、医師に診てもらわねば」
 リュカがほっとしている間に、アンシェルとシフォンを伴った馬車は先立ち、山村へと向かっていた。
「フローラ……無理をする」
(奥さん……。この人、結婚していたんだ…………)
 焦燥の色を強めるリュカ。何故か動揺と小さな苛立ちを感じるドリス。
 リュカはドリスの死地を救うために放り投げた武器や諸々の小物を拾い集めると、会話ももどかしそうに、ドリスと共にチゾットの村へと早足に向かっていった。

 チゾットの山村の旅館『シークラウド』。一見はこぢんまりとした感じで華やかさは無いが、英嘉朝、つまりグリュンヘルゼ王政下でチゾットの山村が開かれた時から続く、由緒ある宿なのだという。
 宿の支配人・ウィートは昏倒したフローラを見るや、すぐに暖炉が調い、かつ日中、陽光の差し込む部屋を用意させ、医師が訪れるまでの病人に対する手際の良さを見せた。それはまさに我が事・我が身内のように手厚い世話を掛けてくれた。
 驚き感謝するリュカに、支配人のウィートは言う。
『英嘉王の御代から、何かしらよくそういう急病人はつきものだった。多分、不慣れな高山病のようなものだろう。うちの宿はそんな人たちを放置せず、すぐに助けてあげることを原則としてやっているんですよ。それが長く存続できた秘訣かも知れませんね』
 ウィートは茶化すようにそう言って笑っていたが、この山村の宿は、リュカから見れば特に温かい気がした。
 ウィートが手配した村の医師がフローラを診た。
 医師はドゥーラがフローラに渡した薬丸を見て、さすがドゥーラ先生だ、よくわかっていらっしゃる。と、感嘆した。そして気掛かりで止まないリュカに、こう言った。

 ――――ドゥーラ先生の薬丸がなければ、症状はもっと酷かったでしょうな。先生に深く感謝されよ。
 半日も眠られれば、意識も体力も回復する筈。ただし、東麓に下るまではそうそう無理は出来ませんが、私がそれまでの薬丸を調合しておきましょう。
 そのためには二、三日ばかり逗留された方がよいが……。

 リュカは当然、了承した。
 やっと落ち着いた頃には夜もとうに更けていた。フローラは気がついたが、リュカはそのまま睡眠を勧めた。医師が提示した、二、三日の時間は不可欠な機会だった。
「明日すぐに湯に浸かりなさい。今日は寝た方がいい」
「ごめんなさいあなた。そういたしますわ」

 リュカは、ウィートが勧めた湯に与った。
 紫連山脈遙か南方の休火山・キルウェルの熱脈の末節が、丁度この地に延びていることと、冬季に降り積もる雪の融水からの恩恵。その快癒力を秘めた源泉は、リュカの心身を癒すには十分だった。明日はフローラの冷えた身体を十二分に温めさせよう。
 リュカが宿のロビー兼広間で、備えられている冷水を一口、木のコップで呷った。
 温泉に火照った身体に、心地よく沁みる。
 この宿の窓からは、夜景などと言う情緒は味わえようはずがない。窓から見えるのはどこまでも続く暗澹、数える程しかない、チゾットの山村の民家の明かりだけだ。
「あ、リュカ――――さんだ」
 敬語を忘れかけたお転婆っぽい少女の声。雰囲気に浸っている訳ではなかったが、場所が違えば、確実にお邪魔となろう、声色。
 必ずしも歓迎するというような表情じゃないリュカが声をする方に顔を向けた。
「あたしも温泉に入ったよ。すんごい気持ちよかったなあ!」
 思わず、目を瞠った。
 ドリスと名乗った、少年と見まごうばかりの少女。さらさらの栗色の髪は後頭部で結ばれ、少しばかり気の強さを窺い知れる、僅かにつり上がった、大きな両瞳、すらりと伸びた鼻梁に、小さすぎない、形のいい唇。
 その容貌は、確実に美しい少女だった。
 しかし、穿った見方をすれば、美少年と言っても良いほど、中性的な魅力を湛える、美“少女”。
 それは、筒衣(シャツ)の上からも判る、男性にはない僅かなふくらみ、そして、なめらかな、首筋から腕への線。
 そして、ショートパンツから伸びる、細く長い形のいい健康的な脚。所々に残る怪我の痕が、このドリスという少女らしさでもあるようだった。
 一瞬だけ、彼女がビアンカとイメージがだぶったが、違った。それは見た目だけではなく、直感。
 ビアンカやフローラには、大人の色気があるが、この少女は、確かに美しいが、性的なものに欠けていた。そんなことを考えるのはやはり男ゆえなのかと思ってしまう。
「どうしたの、あたしに何かついてる?」
 不意にリュカに見つめられたためか、恥じらいを感じなかったドリス。
「いや。ただ、君もきちんとしていれば、やはり、女の子なんだな――――って」
 その言葉に、ドリスは初めて意識する。
「失礼ね! こう見えても、もう十四なんだから」
「そうなんだ」
 リュカは驚く風でもない。
「な、何よ。まさか、そんな積もりであたしのこと見てたの?」
 頬を染めながら、ドリスが突っかかる。
「普通に褒めてるんだって。あははは」
 リュカの笑顔に、からかわれたと思ったドリスが不機嫌そうに頬を膨らませる。
「もう。口説かれたって、奥さんに言ってやる」
 ドリスがすごんだ。しかしリュカは泰然とした微笑みを、フローラが眠っている方角に向けてつぶやく。
「構わないな。ただ、僕たちが無事に東麓に辿り着き、グランヴァニアに入ることさえ出来れば……たとえフローラに嫌われることなんて……命に較べれば、大したことじゃない――――なんてね、冗談」
 笑う。リュカにとって、ドリスに向けた笑顔は、躊躇いのない、素直なものだったのかも知れない。
 リュカと出合ったばかりの少女。奇跡的に墜死の危機を救ってくれた、目の前の青年。笑顔の意味に、何故か静かに苛立つ。
「奥さん、無事で良かったじゃん」
 どこかしか当てつけがましい口調でドリスが言う。
「それは君もな」
 そう切り返すと、ドリスは顔を綻ばせる。
「それ、言いっこなしでー」
「あはは。ともかくアンシェルさんと、シフォンさんのお陰だよ。有り難う」
「リュカ……さん。あなた、どうしてそこまでしてあんな国……えーっと……グランヴァニアになんて行くつもりなのかな」
 ドリスの問いに、リュカは簡単な経緯を答えた。パパスの素性や母親の事は伏せ、旅の目的と、フローラとの馴れ初めだけを語った。
「そっか、なんて言って良いんだろ――――」
 慰めか、激励か。上手い言葉が思い浮かばずに、ドリスは逡巡する。
「有り難う、ドリス。その気持ちだけで嬉しいよ」
 リュカの言葉と笑顔に、ドリスは思わず顔を赤く染めて狼狽する。
「い、いや。あ、あ、あたしはただ……その……」
 リュカに名前を呼ばれた瞬間に、彼女は心の奥に何かが響いたような衝撃を感じた。
「僕も、一つ訊いてもいいかな?」
 リュカがそう切り出すと、ドリスはいちいち驚いたように目を瞬かせる。
「は、はい」
 無意識に、少しだけ身を強張らせてしまう。
「君はあの時、僕の仲間達に驚かず、奇異な表情も見せなかった。どうして?」
 一瞬、きょとんとしたドリスだったが、まるで当たり前のことを訊かれたかのようにほっとした表情をする。
「当たり前だよ、そんなの。うちの国……ええとグランヴァニアじゃ、先代王の王妃さまが魔物の心を浄化する力……みたいなのがあったらしくてさ、最近は減ったけど、あたしが物心ついた頃は結構、お城の中や街にも浄化した心の魔物が子供達とかと遊んでいたんだ」
「そう……だったんだ」
 ドリスの答えに、リュカは感慨深げに息をつくと、優しい微笑みを浮かべながら瞼を閉じる。父が捜し途上に斃れ、未だ見ぬ母への想い。グランヴァニアへの郷愁が、近づくにつれて一段と強くなって行くのを沸々と感じて止まなかった。