紫連山脈大チゾット高原・チゾット村
旅館『シークラウド』
フローラは目を覚ました。山村にたどり着いた頃と較べれば、遙かに具合がよい。と言うか、落ち着いていた。
瞳を開くと、年期を感じさせる、くすんだ木の天井。そして、視線を横に移すと、椅子に腰掛けた見慣れない高家の使用人風の少女がこくこくと船を漕いでいた。
「誰?」
フローラが声を上げると、少女はびくんと電撃を受けたかのように瞼を振動させて意識を取り戻す。
「あふっ……お、おはようほはいますっ」
「……あなたは?」
中途半端な寝起き眼の少女に怪訝な眼差しを向けるフローラ。サラボナの邸にこんな使用人がいたかと、靄がかる思考を廻らす。思い当たらなかった。
「あ、わ、わたしはシ、シフォン。シフォン・スーリアと申しまふ――――」
孅細(かよわ)な少女シフォンが、思考回路を訥々と繋ぎながら、事の経緯をたどたどしく語った。
「そうだったの……それはお互いさまですわね」
心配と迷惑を掛けたことをフローラは自嘲も含めて微笑する。
「それでシフォンさん。良人は……? リュカさんは今何処ですの?」
「リュカさんは“これからフローラへの医師の先生の検診があるから”と、食堂に。朝食は先に食べているからとのことでした。それと、身体が冷えているから、すぐに温泉に入るようにと」
シフォンが伝言をありのまま伝える。如何に良人、伴侶といえど、医師の検診を端でじっと見ているのは少しばかり恥ずかしいものだろう。フローラはリュカの心情を察して小さく笑った。
「ありがとう、シフォンさん。お礼を申します。本来ならばドリスさんの側にいなければならないのに」
「いいえ、このくらい。リュカさんは、お嬢さまの暴走を止めて頂いた恩人ですから」
シフォンが笑顔でそう言うと、不思議とフローラも笑顔がこぼれた。
「お医者さまは、いつ頃いらっしゃるのかしら。もし、余裕があるようなら、私も汗を……」
倒れたフローラを診た医師がいつ来るのか、詳しいことは知らされていなかった。故にリュカも妻の体調を配慮して、一旦シフォンに任せたのだ。
「先に身体を温められませ。先生がいらっしゃった時は、わたしが対応いたしますので」
「ええと……それじゃ、お言葉に甘えてもよろしいかしら?」
こういう時のフローラは、積極的に好意に縋る。
「はい!」
シフォンは何故か嬉しそうに満面の笑顔で頷いた。
着替えなどを胸元に抱えて、フローラが浴場に向かう途次、広間を兼ねたロビーのテーブルに、伏して眠っている良人リュカの姿が目に入って立ち止まった。リュカの傍らには、見知らぬ男性が杯を呷っていた。
「あの……もし――――」
怪訝そうに良人に近寄るフローラ。男性はおおと声を上げると、顔を綻ばせてフローラを見た。
「これは、リュカどのの奥様で。お身体の方は、大事ございませんか」
「あ、はい……。あの――――」
「ああ。ご主人はつい先に仮眠を取ると仰っていたようですが、眠ってしまわれたようです」
男性の言葉に間を置かず、食器類の片付けに現れたシークラウドの主人ウィートが温かい笑顔で言う。
「焼き麺麭と山鷄の玉子焼き。紫連特産の山菜サラダを鱈腹とお召しに。眠気誘いにグレープリキュールを数杯。部屋ではなくて、ここで眠ってしまった。ほほ、うちの料理は余程旨いと言うことでしょうなあ」
卓の上で寝ては風邪を引くとフローラが言うと、ウィートは言った。
「大丈夫。こう見えてうちは防寒設備には気を遣っています。保温効果もある、身体に良い食材も使った料理を出していますんで、あぁ、湯冷めもしませんよう。それに、せっかく休まれたんだ、目を覚ますまでそっとしておいてあげて下さいな。夕べは殆ど旦那さん、寝てませんでしたので」
そう言って、ウィートは思い出したように手にしていた毛布を渡すと、仕事に復す。
愕然とするフローラ。妻にはとにかく寝ていろと諭しながら、当の良人は妻を案じて休めなかった。それは、もともと鼾というものをしないリュカなのだが、今、深い眠りに落ちているであろう良人からは、それに似た微かな息の音が聞こえることに、フローラは強い印象を受けた。
「……わかりました。良人がもし目を覚ましましたら、部屋へと――――」
毛布を良人に掛けながらそう言うと、男性が承諾する。
「ええと……」
フローラが躊躇うと、男性はゆっくりと居住まいを正した。
「申し遅れました。私はアンシェル・ウィラム――――ドリスお嬢さまの近侍でございます」
アンシェルがそう自己紹介すると、フローラは気づき、慌てて恭しく挨拶を返す。
「お話はシフォンさんから概ね伺いましたわ。あのお方……女性でしたのね」
フローラの言葉に、アンシェルは深々と頭を下げる。
「ドリスお嬢さまの危機をお救い頂き、リュカどのにはいかなるお礼も足りません」
「それにしても、随分と思い切ったことを。同じ女として、ドリスさんの勇気には感服いたしますわ」
少しだけ、フローラは皮肉を込めた。アンシェルはますます低頭する。
「命の恩人に大変失礼ながら、事情はひらにご容赦を。……ただ、ドリスお嬢さまもやはり様々に欲求不満とでも申しましょうか……お恥ずかしいが」
アンシェルの戸惑うばかりの言葉に、フローラは妙な親近感を覚えた。
「わかります。何かの型枠から一度は自由になってみたい……。その気持ちは当然ですわ。私も、ドリスさんがどの様な理由で、そうなられたのか、興味がありますわね。ふふっ、きっとお話が合いそう」
「お恥ずかしい限りと、この御恩は一生……」
「ご無事でしたから良かったではありませんか。それに……私も助けて頂きました。ここまで連れてきて頂いて。ありがとうございます」
フローラが礼を述べると、アンシェルは当然のことと返す。少しだけ返礼の応酬が続いた後、フローラは温泉場に向かった。
ドリスはリュカがダウンしてしまったことを聞くや、何故か不機嫌そうに“せっかくだから村を散策する!”と宣言し、旅館を飛び出したと言う。村の外に暴走することはしないと確約をつけてアンシェルとシフォンの許しを得たと聞いた。
心地良い熱さに、身体の芯まで温まる。過酷な旅の中での、一時の安らぎ。温泉は故郷サラボナの近辺にもあるのは確かだ。しかし、フローラは思った。
良人リュカと共に行くこうした過酷とも言える旅路。サラボナ公令嬢としての生活のままであれば、きっとこの熱さはさもない、日常の一環として受け流していたかも知れない。
だが、今こうして全身に沁み入る優しい温かさは、そう言う生活ではきっと味わえたとは言えなかっただろうと改めて実感させられる。
同じ“令嬢”であろう、ドリスの経緯を聞いたときに、フローラは改めてリュカと共に歩む旅の意味を考える端緒になったのかも知れない。
十二分に温泉で身体を温め汚れを落とし、毛布を掛けられて食卓に伏している良人の寝顔を見つめながら、ウィートが誂えた山菜・溪魚中心の食事を摂った後には、どこかしか残っていた倦怠感というものがすっかりと消え去っていた。
今度は東麓に通じる終始下りの岨道。リュカの旅のためにも、しっかりと体調を整えておかなければと、フローラは久し振りにクリアになった思考でそう決意した。
(目覚めたならば、今度は寝台でお休み下さいましね、あなた……)
リュカの背中に身を寄せて、その頬に唇を寄せたフローラは、シフォンが対応しているかも知れない、部屋へと向かった。
フローラが戻ると、案の定、医者がシフォンと語らっていた。フローラの姿を見ると、ぱっと表情を変える。
「フローラさん。丁度良かったですっ」
シフォンの微笑みに続いて、医者が口を開いた。
「チゾットの医師クリシュと言います。時にご夫人、体の方に、不調はありませんか」
「はい。お陰様ですわ」
するとクリシュは、むうとひとつ態とらしく唸ると、シフォンを向く。
「差し障りがなければシフォンどの、五分ほど席を外してもらえるかな?」
「あ、は、はい。もちろんです」
フローラに確かめるまでもなく、クリシュの勧告に従うシフォン。彼女が部屋から外れると、二人きりになった宿の一室で、クリシュはフローラに着席を勧めた。言葉に従うフローラ。
クリシュは真顔でフローラを見ると、声を抑えるように口を開いた。
――――どうやら、夫人は懐孕されているようです――――
「……えっ……!」
当の本人が愕いていた。
「まあ、あなた方は察するに、なんぞ事情があるように思えるので、取り敢えずご夫人に先んじて申しますが、懐孕のこと、間違いはないようです」
天に昇る心地というのは、こういう感じなのかと思った。
一瞬、本当にフローラは自らの体の重みを無くした。驚喜に躍り、魂が離脱してしまうと言うような感覚とでも言おうか。
「ご夫人が服されていた薬丸は、山登りと薄い空気からの身体の負担を和らげる効果を兼ねた、調整薬です。なるほどと思いましたよ」
クリシュは、ドゥーラの薬丸を指してそう言った。
心から愛する人と共に人生を歩む。終生の伴侶。恋人を昇華させたそれを、皆『夫婦』と言う。
夫婦は愛を育む。フローラ自身も、また良人のリュカも、その摂理にありつづけている。
男も女も、心を通わす。身体を交える。愛の言葉を囁き、また、時には苦言悪口も浴びせることもあっただろう。
歴史は人の生誕と死の繋がりで紡がれて行く。修道院での修業を良く思い起こされた。
父がいて、母がいて、自分が今、ここにいる。ごくごく当たり前なことだ。しかし、それが数千、数万、或いは数億の歴史の輪の中にあると思うと、さて自らがその場に立ったときの実感はなかなかわかないものだと思う。
しかしフローラは、本能的にそれが妻として、また夫を愛する一人の女性として、無上の至福であると言うことを気がつくのに、時間はかからなかった。
その直後に見せたフローラの表情は一言では言い表せない。ただ、この時にフローラを診たチゾットの医師の記録には、『妃、只声を抑し制(とど)めて歓喜せり』とあるだけだ。
リュカとの子……巷間よく陳腐な言葉で比喩される、『愛の結晶』が今、自分の胎内に生まれた。
正直、ぴんとこなかった。
でも、深くよく考えて顧みれば、実は望んでいたこと。
リュカとの子供を作りたい――――。
苦悩、杞憂、嫉妬……。正直、難しく考えたこともあった。表情には出さずとも、苛立ちを忍んだこともある。
でも、実はそんな単純なことをフローラは求めていたのだろうか。歴史の輪廻の中で、恋人達や鴛鴦連枝が最終に求めること。我が子――――。
(ああ、そう言えば、サラボナの――――スナッツさんも半年後には子が産まれるとか――――)
故郷の友人が言っていた禧話を思い出してフローラははにかんだ。
町外れの街道沿いにある雑貨屋の跡取り娘。リュカと較べるべくもないが、本当にただ生真面目だけが取り柄という、杢の次男を婿に迎えた。
それでも、スナッツは懐孕したと知らされたとき、何よりも嬉々として。大枚の金銭、貴重品、商売の成功……それなど比較にならない程に、フローラが知る表情の何倍、何十倍も、幸福そうな満面の笑顔を湛えていた。声が震えて、時に涙声で、喜びを語っていた。
“あの人との子……この子が元気に産まれて、育ってくれるなら、ぶっちゃけ家が破産しちゃっても良いわ!”
当時は勿論、それは冗談として、一笑に付した。
しかし今、フローラは、スナッツが冗談めいて言ったことの言葉の持つ意味が、真綿に水の如く、すうと胸に沁みて行くような感覚に、思わず目頭を閉じて、熱くなった瞳を堪えた。
「辛いですか?」
すうと、一筋の涙が伝ったことを心配したクリシュがそう訊ねると、フローラは慌てて涙を拭い、笑顔を返す。
「あ、いいえ。大丈夫ですわ。少しだけ、思いを致しておりまして」
「そうですか――――。それで、ご夫人。ご主人に、懐孕のことを――――」
クリシュの勧めに、フローラは小さく、首を横に振った。何と! と、声を張り上げ、愕然とするクリシュに、フローラは言う。
――――無茶なことだとは、解っているつもりです。
……でも、あの人の――――リュカさんの旅を阻害する訳には行きません。
良人はそう言うことを嫌うことも解っているつもりですが、今のお話を聞いて、今度だけは、リュカさんの意に逆らいますわ、ええ。何があっても……グランヴァニアへ、共に……。
生命を宿したばかりの身での過酷な旅を決意するフローラに、クリシュは職業柄か、強い難色を示していたが、フローラの熱意に押し負け、リュカは勿論、ドリス主従、ウィート以下チゾットの村人に至るまで、口外はしないと確約してくれた。
「ならば、ご主人らには、疲労と軽い高山疾患と申しておきましょう。……ドゥーラ先生には及びませんが、一応、東麓に至るまでの分の薬丸を処方しておきます。最悪、悪阻を軽減させるためだけですが――――。ただし、無理はせぬように。おわかりですね」
クリシュの表情は当然、険しかった。
「はい。大丈夫です。すみません……」
フローラのその決意が、大きな運命の岐路になったと言うことを、今は未だ知るよしもない。
そのころ、山村を散策すると言って外出していたドリスがシークラウドに戻ってきた。
ロビーのテーブルの一端に毛布を掛けられて寝入っている青年の姿に、ぴたり立ち止まる。
(リュカさん? こんなところで寝てると――――)
起こそうと思いリュカの側に行こうと足を動かしたとき、同時にドリスを呼び止める声。
「お嬢さまぁ!」
シフォンが待っていたとばかりにぱたぱたと駆け寄ってくる。
「シフォン。なに、なんか慌ててない?」
「いつもの通りですよおー」
「そだっけ? あはは」
「そんなことより、アンシェルさんが……」
「ああ、わかったわかった――――」
ドリスが苦笑する。そして、寝入っているリュカの姿に再び眼差しを向けると、一瞬、固まったかのように思いを巡らした。
そして、突然目の前の曇りが晴れたかのような表情をシフォンに向けると、言った。
「シフォン、行くよ」
「えっ?」
「アンシェルに話した方が良いんだよね」
そう言ってドリスは颯爽と自分たちの部屋へと戻った。
「わかった。帰るよ、グランヴァニアに帰る」
ドリスが真っ先に口火を切る。アンシェルは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「やっとお解りいただけたか。安心いたしましたぞ」
アンシェルが胸をなで下ろした直後、ドリスはこう言って付け加えた。
「ただし、リュカさんたちと同行する。あの人達もグランヴァニアに行くんだよね。ついでだし……」
「何を仰るかと思えば……。ドリス様、無台なことを。城下に入れば、否応なしに……」
アンシェルの言葉を遮るドリス。
「だから、いつまでも隠したりすることなんて出来ないって。グランヴァニアに入れば、いずれ知られるんだ。……それに、あたしは別に困らないさ。何だったら、今言っても良いよ」
「あぁ、それは止めて下され。……むう、確かに旅慣れた彼らが居てくれれば城下までの途も安心ではございますが……」
「でしょ? ここまで来るのだって、かなりやばかったじゃない。だからさ」
(ドリスさまの暴走に、アンシェルさんが命を張ったからでは……)
「え、何か言った? シフォン」
「あ、いえいえ。何でもありませんです……」
苦笑を浮かべるシフォン。
「私どもがそう望みましても、あの方が由と思わなければ」
アンシェルの言葉に、ドリスは何故か自信満々と親指を突き立ててみせる。
「説得なら任してよ。ま、リュカさんだったら、絶対にウンって言うと思うけどさ」
それは根拠のない自信。しかし、それが時に虚から真へ物事が運ぶように、妙な説得力というものがある。アンシェルもシフォンも、そう言ったところをよくよく目の当たりにしてきた気がする。
太陽が天頂と西の稜線の中央にかかりし頃、目覚めたリュカは眠気払いを兼ねてシークラウドの外に出た。
山間の村はさすがに地上に較べれば閑静としている。しかし、逆に言えば煩雑としている訳ではなく、質素だが、平穏に暮らしを営む分には全く困らない、どこかしか懐かしいような、暖かな佇まいでもあった。
時折すれ違う村人と気軽に挨拶を交わす。何気ないことだが、それがとても心地良い。
人里から離れたところに住んでいる人たちというのは、どこか心が温かい。リュカはそう思った。
断崖を繋ぎ、東西山麓へ抜ける釣橋。
英嘉王が瑞煙九界へもたらすと謳った場所。リュカはそこへ向かった。
遙か眼下、深き森林の彼方に、グランヴァニアの城廓が見えるという。幸い、この日は天気がよくて空気も乾いていた。よく見えるだろうと、村人は言っていた。
リュカは躊躇わず、故郷の姿を見たい衝動に駆られた。
山村の東郊。眼前には紫連山脈の峭峻たる絶壁が空を突き、釣橋が真っ直ぐ、遠くに見える岨道に続いて延びていた。
ゆっくりと、リュカは歩む。きしきしと釣橋は軋む。だが、チゾットの山村民が永年、慣例としてきた保守のお陰で、実に頑丈な造りとなっていることが伺える。闌干は太い蔓草でびっしりと網の目に結われ、リュカの腰の上まではある。まかり間違っても、ここから転落すると言うことは出来ない。ドリスが落ちかけた西郊の柵とは雲泥の差だ。
釣橋の中央を歩む。谷風と人の重みもあるのか、微震ほどの揺れはあるが、恐怖は感じない。まあ、釣橋が苦手な人はどうあっても苦手なのだろうが。
谷間。釣橋の中央辺りに来ると、南北の視界が開けた。リュカは立ち止まる。そして、一度、南を見た。
紫連の山脈、眼下は遠い底に、流れる川が見えた。
そして、リュカは振り向いた。
遙か北の空。澄み渡る青空に融けるような遠巒の影、白い雲が絵を描く、穏やかな風景。視線を下に向けると、緑の海。深き森林地帯。そして、リュカの目に映った、その場所――――。
白堊の城……と言うには少しばかり語弊があるかも知れない。お伽話や夢みる少女が思い描くような決して、そんな美しい景観ではない。遠望したラインハット城、レヌール城と云ってもあながち間違いではない。鉛灰色の石壁が緑の海から僅かに突き出ている。まるで、停泊している石の船。城影もある。僅かながら、その天辺に翻るグランヴァニアの牙旗を視認できた。
リュカが願い、求めてきた故郷の姿は、何の変哲もない、自然のまま、ありのままの形を、そこに映し出していた。ある意味、拍子抜けもしたし、安心感すらリュカの心に生じた。気張っていた何かが、すとんと取れたような気がする。
蔓の闌干に歩み寄り、頭を突き出して城影を下瞰するリュカ。思わず、声を出して笑ってしまう。
「あなた――――、どうされたの」
不意に声がかかる。リュカが振り向くと、フローラがそこにいた。追ってきたのか、偶然か。リュカの目に映る妻は、いつもの見慣れたドレスではなく、ごく普通の町の若い女性が着ているようなワンピース。身体が冷えないように、ストールを羽織っていた。青く長い髪が、乱れぬ程度に風に靡いている。もしも妻でなく初めてその姿を見れば、誰もがひときわ目を引く美少女。
「ああ、ご覧」
少しだけ頬を染めたリュカが妻を手招き、再び下瞰する。フローラはゆっくりと良人の側に身を寄せ、眼差しを同じくした。
「まあ。あの石壁は……」
フローラが感嘆すると、リュカは微笑みながら頷いた。
「グランヴァニア――――」
「あなた……あなたが目指した故郷が、あの場所なのですね」
フローラは感激したのか、瞳が潤んでいた。
リュカはそっと妻の肩を抱き寄せると、くくくくと、喉の奥で笑った。
「どうしたのです? 何が可笑しいのですか?」
心配そうにリュカを見つめるフローラ。
リュカは言った。
――――いや……面白いなあって。
なんかほら、外観が凄く綺麗だとか、景色は花畑に包まれて風光明媚で、青い空と緑の草原が周囲に広がっているような感じがあって、凄く期待していたのに、実際に見たら、そんなんじゃなくて。
レヌールやラインハットのようで、周囲は森林、背後は大東嶺の嶮しい山。
なになに、なんて言うのかな。期待していたのとは正反対。天然の要塞……みたいな場所だったなあ、とか。
そんなこと思っていたところがあった僕自身が可笑しくてさ。
フローラはそう自嘲するリュカの胸に強くもたれ掛かる。
「でも……あの場所が、リュカさんの生まれた――――故郷。あなたにとって、どこよりも温かい場所に、違いはありませんわ」
フローラの言葉に、リュカは笑みを浮かべながら、頷く。
「ああ。だから、逆に安心してる」
「え?」
「僕の生まれた国は、全然気取ってないなって。そう思ったら、急に安心してきて、力がすうと抜けるようで……とても楽になったような気がするんだ」
「あなた……」
嬉しそうに微笑むフローラ。リュカも優しく妻と見つめ合い、軽い口づけを交わした後、言った。
「フローラ、辿り着いたら……暫くの間、骨を休めようと思う」
「…………」
「暫くの間、ゆっくりと君と過ごしたい」
その言葉に、フローラの胸がかあと熱くなる。
「嬉しい……凄く嬉しいわ、あなた……!」
まだ言わぬと誓ったこと、そして良人の暖かな想いに、フローラはこの先更なる幸福の予感を覚え始めていた。