第2部 故国瑞祥
第35章 暗闇の危機

 その夜、ドリスがリュカらの部屋を訪ねてきた。リュカとフローラは、保温安眠効能があるとされる薬湯を、宿の主人ウィートから勧められ、それを飲み乾し、ちょうど就寝するところであった。
(うそッ。は……早ッ)
 ドリスは思わず口に出しかけて抑える。普段なら全然、眠ることを意識する時間帯じゃない。
「どうかされましたか、ドリス」
 リュカが訊ねる。
「え――――っと。あ、でも……もう、寝るんでしょ」
「ああ、構わないよ。用があるなら、遠慮無く言ってみて」
「そう? じゃ、じゃあ――――え、えっと……お願いがあるって言うか……その――――」
 ドリスにとって、屈託のないリュカの対応は正直予想外であった。
 アンシェルやシフォンに向けた意気込みもその場だけ。リュカとフローラの二人の注目を浴び、逡巡するドリスに、フローラが優しく声を掛けた。
「“西麓に行くのにつき合いなさい”ということ以外ならば、承りますわ。ね、あなた?」
 振られたリュカがほくそ笑む。
「そう言うこと。実はさっきまで、君の話をしていたんだ。本当、丁度良いお客さんだ」
 ほんの少し酒精の影響もあったのか、リュカは陽気だった。からかわれたと思ったのか、ドリスは臍を曲げて唇を尖らす。
「無礼だなあっ。せっかくリュカさんを見込んで、頼みたいことがあったのにっ!」
 ドリスが思わず語気を荒げても、リュカは笑顔でその毒気を中和してしまう。
「もう……最低――――」
 無論、言葉の綾。
「それで、願いとは。僕で出来ることならば」
 リュカは瞳を素に戻し、ドリスを見た。
 気を取り直して、ドリスは言った。
「あたしさ、グランヴァニアに帰る」
 その言葉に、リュカとフローラは暫時きょとんとしていたが、顔を見合わせ目で語らうと、すうと表情を綻ばせた。
「それは良い決断です。君のご家族も喜ばれるでしょう」
 リュカがそう言うと、ドリスは意外にも不満げに返す。
「別に“親父”のためじゃないって。ただ……その――――」
 うら若き令嬢の口から『おやじ』などという俗っぽい呼称が発せられて、一瞬、二人は怯んでしまう。
「やっぱり、まだ早かったかなって」
「早かった?」
 リュカが訊き直すと、ドリスはこくんとひとつ頷いた。
「実際に意気込んで来たのは良いんだけどさ、あんなところで死にかけてしまうなんて、ハズいのも、いいとこかなあ――――なんて思ってさ」
 するとリュカ。
「まあ、僕たちが通りかかったのも、幸運だと思えば良い訳だし。そんなに気に病むことはない」
「んー……えーっとね。つまり――――」
 リュカがまじめに受け答えをしてしまうので、どうしても鋭気を挫かれてしまう。恥ずかしそうに頬を染めるドリスの様子に、フローラが微笑みながら、助け船を出してくれた。
「あなた。ドリスさんは私達と一緒に、グランヴァニアに行きたいと仰っているのです」
 フローラの言葉に、リュカは目を瞠る。
「あぁ、そうか――――!」
 可か否か、どちらとも受け取れないリュカの反応に、ドリスは戸惑った。
 そして、しばらく何かを考えていたかのように沈黙していたリュカは、すっと温かい眼差しでドリスを見ると、口を開いた。
「ん――――ドリス、ひとつだけ、訊きたいことがあるんだけど」
「は、はい?」
 意外な“問いかけ”に、ドリスは思わず、素頓狂な声を上げる。
「君は、剣を持つか、それとも、杖や棒を得手とするのか。ああ、レイピアでも、偃月刀や三日月刀でも良いけど」
 リュカはいきなり、見当違いとも取れるような質問をドリスに投げかけた。半ば慌てて、フローラが言葉を挟める。
「あなた、何ですの突然。ドリスさんは名家の……」
 フローラの言葉を、リュカはやんわりと遮った。
「フローラ、僕が旅立つときに君に言った事、忘れた訳ではないはずだ。隷人でも、王侯でも、旅は常に危機と隣り合わせている。……彼女がグランヴァニアを離れ、この村にいることは、彼女がその間、旅をした事だ。魔物も天災も、尊卑を選ばない」
 リュカの言葉に、フローラは思い出したかのように息が止まり、良人を見て慚愧に顔を曇らせた。
 ドリスはリュカが漂わせる、そこはかとない威厳に気を呑まれかけた。そして、躊躇い気味に答える。
「剣も、槍も……少々。でも……ダガーならば、こっそりと練習してる――――」
 その言葉に、リュカは微笑みながら、頷いた。
「十分です」
 きょとんとするフローラとドリス。
「フローラも復調したことですから明日、村を発ちます。共に参りましょう」
「あの……」
 問いの真意を量りかねてドリスは不安げに声を上げる。
 リュカは言った。
「ああ、勿論だけど君たちも魔物と遭遇したら戦う事です。相互協力という事で、グランヴァニアまで共に……」
「え、う、うん。わかったよ。て言うか、わかってるよ、そのくらい」
 どうも調子が狂わされる気がして内心焦りを感じてしまう。
 ドリスは戸惑ったまま、ぎこちない足取りで自分の居室へと戻っていった。
「あなた、ドリスさんに何故……」
 それでも納得できなかったフローラが、訊ねる。リュカは答えて言う。
「君も識っているだろう。遙か古に、お転婆と呼ばれた深窓の美姫が、その類い希なる勇武の才をもって魔界を討つ大功を成し得た事を」
「はい――――もちろん存じております」
「古の美姫に倣えと言う訳じゃないよ。ただ、それ程の気概があってここまで来たのか。そして、どんな思いで再び、帰るというのか。世間知らずの“令嬢”では済まされない『覚悟』と言うものを知りたかったんだ」
 フローラにとっては、ある意味、耳につく言葉。だが、それは逆に、サラボナを発つと押し切った、かつての自分に重なる。むしろ、ドリスに対する親近感、共鳴すら感じた。
「彼女自身、武芸を嗜んでいるだけでも、十分だった」
「ああ――――。でも、少しだけ、冷たいですわね」
 良人が快く引き受けてくれなかったのだと思ったフローラ。そして、リュカは言う。
「それともう一つ。……もしも、僕に妹がいたなら……って思うとさ、彼女のような感じなのかなって」
「妹――――ですか?」
 フローラの反芻に、リュカは照れ笑いを浮かべながら頷く。

 ――――僕には物心がついた頃には、父さんしかいなかった。
 ……ああ、ビアンカは姉のようだったけどね。言い聞かされたなあ――――。でも、年下の弟妹って、知らないから。
 きっとね、妹って彼女のようなのかなあって思ったんだ。そう思うと、何か無性に気になってしまうっていうか、余計にいらないことまでも言ってしまうような。

 リュカの言葉に、フローラは思わず笑いを堪えきれない。
「そのお気持ち、解りますわ。――――私も兄弟はなくて――――ただ一人だけ、ずっと、アンディが“兄”のような存在でしたから」
 リュカにとって、異性の姉妹。フローラにとっては同性の姉妹の存在があれば、きっとまた大きな意義を持っていただろうと、思った。
「せっかく“お姫様”が我が儘を翻して帰城されると言うんだ。それならば、つき合ってあげようかなって――――ね。もし、そんな覚悟がないままだったならば、僕がかりかり怒っていたな」
 リュカの言葉は、常に相手を思う気持ちに満ちている。しかし、時としてそれがあまりにも率直的で、希に誤解をしてしまうこともある。フローラはやっと安心した。
「なあ、フローラ」
 リュカが突然、顔を近づけてフローラを見つめる。思わず、ドキッとなる。
「は、はい」
 その優しい瞳に見つめられると、今なお恥ずかしくなってしまい、思わず顔を逸らしてしまう。
「僕たちに、もし子供が出来たら……」

 えっ――――――――!

 フローラが思わず裏声を発してしまう。一瞬、驚くリュカ。
「どうしたの、フローラ?」
「え……あ、ううん、何でもないですわ、あなた。……それで?」
「ん――――。僕たちに子供が出来たら……、たくさん、たくさん兄弟を作ろうか。毎日が楽しくなるように。泣いたり、笑ったり、怒ったり……子供達のはしゃぐ姿を見守りながら生きてゆく――――どうかな」
 リュカの理想に、フローラはあからさまに顔を真っ赤に染めて恥じらう。
「リュカさんは……その……子供がたくさん欲しい……と?」
「う、うん――――あ、君はいやだったかな?」
 その言葉をフローラは秒速で否定するように首をぶんぶんと横に振る。
「そんな……そんなこと……あるわけない……。うれしい――――すごく、すごく嬉しいの! ああ、私も……あなたの子が……欲しい……」
 恥ずかしさに最後は消え入りそうな声色。それはリュカには気づかない躊躇。それを打ち消すほどに、フローラはリュカの想いが嬉しかった。
「たくさん生みたい……五人でも、十人でも……あなたの子なら――――」
 フローラがそう言うと、リュカが屈託なく哄笑する。
「たくさん子を授かるよう、神に祈らなければ。毎日。よし、そうするよ、僕は」

 やがて生まれ来る子孫の話をするとき、愛し合う男女――――夫婦は、何故自然に瞳を細めるのだろう。心の奥底が、まるで重い津波のように、全身を揺さぶるような幸福感。
 そして突然、無性に全身が軽くなる。麻薬のように、気持ちが高ぶるようでもある。人の本能なのだろうか。
 リュカも、フローラも、特別な恋人夫婦ではない、それを語り合っているときは、そんなごく普通の様相であった。
 夜、嬉しさのあまりなかなか寝付けなかったフローラは、ただじっと良人の寝顔を見つめながら思いを巡らせていた。
(親兄弟……。そうですね――――とても、楽しくて、とても幸せになると思いますわ。だって…………)
 何故か無意識に、その眦からすうっと透明の筋が伸びた。
(今は……言えない。許してください、あなた……)
 それを言えば、リュカはきっと自分をいたわり、優しくしてくれるだろう。それを判っているからこそ、なおフローラは切なくなる。
 ひと通り静かに泣きはらした時、フローラはいつしか眠っていた。

 朝。チゾットを発つために準備を整え終えたリュカたちは村の面々に挨拶をした後、馬車を伴い釣橋へと向かった。
 橋の前では、ドリスが待ち倦ねているように腕を組みながら、ショートパンツから伸びる、細く、健康的な形の良い脚を、だらしなく交差させていた。
「待たせたかい?」
 リュカが声を掛けると、ドリスは瞬時に整容し、リュカを向いて満面に微笑んだ。
「ったり前。三時以上待ったかな」
「暁時から? ははは、それは実に性急な」
 リュカに深々と一礼したアンシェルが言う。
「リュカどの、こたびは誠に申し訳ありません」
 アンシェルの言葉に続いてシフォンも戸惑い気味に言う。
「足手纏いにはならないよう、がんばりますぅ」
 とにかく平身低頭だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 リュカにとっては念願の故郷入りへ、ドリスにとっては本意ではなかったはずの帰参のため、アンシェル、シフォンらにとっては安堵の心地。それぞれの意義は違えども、グランヴァニア入りを目指し、チゾットの山村を発った。

 東麓へは緩やかな下り道が続く。人の足で半月まではかからないと聞いた。しかし、下り道だからこそ逆に疲れが顕著に出る。
「ドリスさまが強行軍で山登りをされたので十日足らずでチゾットにはつけましたが」
 アンシェルの皮肉混じりの言葉に顔を赤くするドリス。
「べ……別に良いじゃない。お陰でリュカさん達とも会えたんだし」
「勿論ですよ。リュカどのとお会いできなければと思うと、身の毛がよだつ思いです」
 その言葉に笑いが巻き起こる。方やドリスは頬を膨らませ、細い眉を逆立てた。
「ちょ……ひどッ」
 リュカまでが哄笑していることに、余計恥ずかしさを感じてしまう。

「シフォンさん、慣れていらっしゃるのね」
 フローラが仲間たちと差し障り無くふれ合っているシフォンの様子に興味があった。
 イエッタの毛むくじゃらを手慣れたように梳いていた手を止めて、シフォンが振り返る。
「はい。全然平気なんです――――今まで一度も、怖いと思ったことはないんですよー」
 それが自慢だとばかりだ。
 実際に仲間達は違和感なくシフォンと打ち解けている。逆に、彼らとずっと共にいたリュカよりも、その世話における手際の良さは優れているかもしれない。まあ、だからといって、シフォンに対しこのままずっと旅の空にいろなどと言うことは出来まいが。
「いい方です、シフォン殿は」
 あのピエールが弱々しげに呟き、スラりんも色がやや紫っぽくなっている。
「いくら君たちが気に入っても、彼女たちはグランヴァニアまでだぞ」
 今度は何故かリュカが微妙に面白くない様子。

 チゾットを発ってから五日。
 東路は確かに西路と較べれば急峻な地形は無くこつこつと進むことが出来そうだった。しかし、進む事に木々が林となり、やがて森となり、鬱蒼とした密林に包まれていった。
 しかも、固い岩壁が道なりに続いてゆくことに変わりはなく、空が殆ど映らない。つまりは日中も薄暗く、空が曇れば途端に闇となってしまうのだ。
 ドリスたちはこの道を歩いてきたのだという。遭遇する魔物も、死神兵やデッドエンペラー、ベロゴンロードなどの強敵が控えていた。それらを切り抜けてきたというのは、あながち間違いではなかった。
 アンシェル・ウィラムは鉄鑓の使い手、シフォン・スーリアは驚くことに、完癒呪文(ベホマ)に特化した魔法を駆使した。
 ドリスもチゾットの山村でリュカに言ったように、軽量の武器を見事なほどに使いこなした。しなやかな身体を利用した動きで、アンシェルの補佐的役割を十分に果たしている。
「凄いな、これほどまでだとは……」
 リュカが感心すると、ドリスはえっへんと胸を張る。
「だーかーらー、言ったでしょ。ねね、ちょっとは見直した?」
 岩穴での焚き火を囲む一行。フローラがリュカの右に隣り合わせれば、左隣を正位置とするドリスが、ぐいぐいとリュカに詰め寄ってくる。
「お見逸れしたよ。ドリスたちは凄いじゃないか。何も僕らと一緒じゃなくても、十分だったかもね」
 リュカがそう冗談を言って苦笑すると、ドリスもしかり、アンシェル、シフォンまでもが苦しい表情を見せる。
「それだけは言わないでくださいな、リュカどの」
「あわわわ。わたしの呪文も無尽蔵ではないですから――――」
 フローラが言葉を繋ぐ。
「お互い、すごく助かっていることは事実ですわ。西麓からの登りよりも、今のほうがとても楽ですから――――」
「古人に曰く、旅は道連れ世は情けとはよく言ったもの。賑やかなことに闌けたことはないですからな」
 マーリンがそう言って笑う。
「博識ですね、マーリンさん」
「おお、そんなことはないぞお嬢ちゃん。ただご主人と旅をしている合間に、人間界の書物をな――――」
 シフォンが微笑みを向けると、マーリンは年甲斐もなく照れてしまい、言葉数が多くなってしまうのだ。
「どうよリュカさん。どうせならば、このままあたし達、あなたの旅の仲間になってあげても良いよ」
 ドリスが仄めかす野望。すぐさま、アンシェルの制止がかかる。
「あーっ、わーってるわよッ。冗談よ、ジョヨーダンッ。もう、一挙手一投足諫止されまくり!」
 愚痴も大きくなる。
「あははははっ」
「もう、笑うなっ」
 リュカの哄笑に、真っ赤に羞じらう表情で抗議する。そんなやりとりなどが続く。飽きない面子。緊張感がないわけではない、気持ちの良い賑やかさだ。

 喧噪も止み、必ずしも充分とは言えない睡眠時間に入る。幽谷の深林は耳が痛くなるほどに静寂だ。山村に向かう途上の岨道とは真逆の、仙境の惣闇。
 リュカの傍らで眠っていたフローラが、不意に眠りの深淵から浮上する。食器を打つ匙の音すらもけたたましく聞こえる静寂。彼女は何の気配を感じたのだろうか。眠気が覆う漠然とした意識の中でも、フローラは何かを感じていた。
 衣擦れも抑えるように、ゆっくりと身を起こす。目が慣れ見回すと、焚き火跡を囲むように、身を横たえている面々。リュカと身ひとつ分離れてドリスが熟睡していて、その隣にシフォン、アンシェルと寝息を立てている。
 フローラは抜き足でその場から少しだけ離れた馬車に忍んだ。仲間達が同じように眠りに就いている。
「…………」
 何を思ったのか、フローラは馬車の入り口の角に置かれていた、唯一の得手・明星鎚(モーニングスター)を手に取った。

 ――――じゃら――――

 殺伐とした鎖の金属音。草木も眠る深夜に立つ、異音。
 フローラは自らたてたその音にはっとなり、目が冴えた。
「っ…………」
 相も変わらず、周囲は静寂に包まれている。誰も起きる気配はない。声を抑えるフローラ。しかし、不思議と魔物たちとは違う、幽霊や妖怪など、得体の知れぬものに恐々となることは無かった。自分でも驚くほど、淡々と得手を構えて野営から離れようとしている。
 踏みつけては起こる石礫を弾く音、土の塊を砕く音、艸を潰す音……。
 フローラの瞳が光を湛えた。まるで梟の如く、その眼光が鋭い。

「誰――――」

 それは低く、玲瓏と響く声だった。
 やっと、素人の手腕から段階を上げたばかりの明星鎚の技法。フローラは判っている。今の自分の腕で、この附近の魔物どもと物理的に戦うというのは、猛虎に兎が挑むようなものだと。
 ならば魔術か。しかし、破障呪文(ルカナン)や、幻影呪文(マヌーサ)など、補助魔法ばかりで特効がない。攻撃呪術を忌む修道院の教育がここになって枷となる歯痒さだ。
「何者ですっ――――姿を見せなさい」
 氣を読むのは、良人リュカは段違いに鋭い。フローラはこの長い旅の中で、それなりに氣を読むことに慣れてきていた。
 敵であるならば邪気、殺気というものがある。しかし、今のところそう言った氣を感じられずにいた。
 異様なまでの静寂。フローラの声も幽寂の闇に吸い込まれてしまう。
 フローラは明星鎚を握る細い腕をぐぐと振り上げた。じゃらりと、鎖がフローラの目の前に垂れ、鉄球が振れる。その表情は、何ともはや万人ぞ知るフローラとはかけ離れた極度の緊張に包まれていた。
 月の女神をも雲に隠れんばかりのうつくしい女性も、こうまですれば九泉の“しこ女”にもなるかとばかり。
 リュカたちは眠っている。もしもそれが強敵だとして今、寝所を急襲されればひとたまりもない。奇しくもフローラが得体の知れぬ氣からの防波堤のような位置にあった。
(これ以上先には……)
 顰めた貌に、冷たい汗がつつと流れる。
 重い。使い慣れた筈の明星鎚が非常に重い。振り上げた腕、元々孅細な腕力にこの武器。長時間振り上げたままというのは、しんどい。
 今、少しでも気を抜けば落としてしまう。そうなれば、きっと瞬殺だろう。
 幻影呪文や破障呪文など、意味がない以前に、詠唱自体間に合わない。
(あぁ、あなた――――――――私は、やはり……)
 硬かった表情が、ぷつりと糸が切れたかのように崩れかけたその時だった。
 フローラが見据える暗澹の向こうから、低い声が響いてきた。

 ――――武器を収めよ、人間の女(むすめ)よ。御前の伴侶は、既に昏睡呪文(ラリホーマ)にて当分は起きぬ――――

「――――――――!」
 フローラにも聞こえる“敵”の声に、愕然となった。
 昏睡呪文・ラリホーマ。創世神話時代に遡る、伝説の超高等呪術の一つと聞く。それが今、敵の言葉で、リュカたちに掛けられたこと。
 フローラの血の気は瞬く間に引いていった。
 力の抜けた腕からは明星鎚がじゃらんと、殺伐とした音を立てて大地に墜ち、フローラもまた、膝をがくりと落とす。
「そんな……。グランヴァニアが……リュカさんの故郷がもうすぐなのに……そんな事って――――」
 フローラは絶望と恐怖に、全身の震えを覚えた。