第2部 故国瑞祥
第36章 グランヴァニア

 フローラの脳裏に、初めて本当の意味で『死の恐怖』と言うものが過ぎったのかも知れない。
 金縛りという状態が本当にあるとするならば、きっと今のようなものなのだろう。
 本当に身動きが取れない。しびれくらげから受けた麻痺攻撃とは、根本的に違う。精神の心底からじわじわと石化してゆくような不快。
 敵の土を踏む音が響くたびに、意識がどんよりとした灰色の砂嵐に巻かれる。
 なんと息苦しいことだろう。
 誰かが言った。人は本当の恐怖に囚われたときは笑うしかない。或いは髪の色素が抜け落ち、真っ白になるとか。
 しかし、それは違った。本当の恐怖とはただ、思考を奪い、眼前に迫っている確実な死を、無防備に受け容れるだけしかない、木偶の坊になると言うことだけだ。

 ――――女(むすめ)を殺そうと思ってはいぬ。負の気を祓え――――

 まるで呪文のような、意識に直接語りかけてくる感覚の声に、フローラの激しい動揺は止まった。

「姿を……、姿を見せなさい」
 フローラは正気に戻った瞬間を逃さず、懸命に、そして凛然とした声を暗澹に投げつけた。

 …………

 フローラに伝わる気配。やがて、その闇にゆっくりと影が浮かび上がってきた。
 フローラを鋭く睨視する眼光。そしてフェードインしてゆく、その“雄壮”な姿。
 メッサーラ。西路の途上、遭遇した魔物。しかし、今、フローラの眼前に立ちはだかったメッサーラは、威圧されるような巨躯だった。
 頭は鋭く反った、二本の大角をひけらかし、さも東洋の牛魔の如き脅威を湛え、千瓲の巨斧すらも軽々と捌かんとするばかりの筋骨隆々たる上下半身。まさしく半人半魔の魁妖。
 もしも今、高名な画匠がいれば、荒ぶる魔界の将軍と、深窓で育った、美しく孅き人間の娘の図。その構図が垂涎の的となるだろう。

 メッサーラとフローラは眼光を戦わせた。
 フローラは良くやった。今や誰よりも心を通わせる刎頸の友たる仲間たちを偏見していた、サラボナを発つときと較べれば、段違いだった。挑めば、たったひとり、確実に敗れ生命を絶たれるメッサーラに対し、眼力で退かなかった。
 フローラは決して、温室令嬢の醜態をさらさなかった。
 良人・リュカとの旅の中で、自分自身が予想以上に鍛えられていた。
 死の恐怖。リュカの生い立ちを思えば、フローラ自身の想像を絶するほどの体験を、良人はしていたのだろう。そう思えば、心の耐性など、瞬時に出来た。
 何と言おうか。リュカに寄せる想いが、自然に自らの思考をも自然に昇華させていったのだ。
「メッサーラ。負の気は祓いました。目的を聞きましょう」
 これぞ令嬢の真骨頂とばかりなるフローラの強い態度に、メッサーラは暫時、気圧されたかのようにフローラの様子をうかがっていた。
 そして、何とメッサーラは徐に片膝を折り、低頭したのだ。
 愕然となるフローラ。
「な、何――――?」
 メッサーラはゆっくりと低く透る声を発した。
「我は魔王府翼少脚サーラ。――――人の女よ。そなたに受けし至恩、そなたに奉仕することで返そうと誓いたい」
 突拍子もない言葉に、フローラは呆気に取られてしまった。
「……え、あの――――」
 魔将が跪いた事に対する激しい躊躇に、フローラは若干混乱していた。
 サーラと名乗ったメッサーラはゆっくりとした口調で語り出す。
「いつぞ、我が伴侶を救いしことあり」
 フローラは気がつき、はっとした。
「まさか――――あの時のメッサーラ……ですか」
 するとサーラは見るも不敵そうに嗤う。しかし、全く敵意はない。
「え――――っと。あれは……その……メッサーラが、仔連れでしたから……何とも――――」
 逡巡するフローラに、サーラは角を折り、深く頭を下げた。
「我らメッサーラは魔族、人族を問わぬ。恩義を受けたことぞ生涯忘れぬ事が誇り。今ぞ大魔王の秩を受けているが、何を代えて伴侶の命に優ろうか」
 すると、サーラの背後から、もう一体のメッサーラがゆっくりと姿を見せた。外見はサーラとさほど違いがないが、よくよく較べれば、サーラほどの刺々しさがない。やはり女性の魔物であると言うことなのだろうか。
「あの時は……助けられました」
 優しさが感じられる声。見た目との懸隔が実に不思議だ
「我が伴侶のミラヌ。命親に挨拶を」
 それが、魔族・メッサーラ族の挨拶の方式。その瞬間に、フローラの緊張は解れた。

「……ならばもう、こちらに?」
 フローラが問うと、ミラヌは肯定した。
「バルバロッサ大翼脚はきっと、我らが家を――――」
 サーラ夫妻は魔界を離脱したのだという。元々、大魔王の世界蹂躙の野望に懐疑的だった魔界の一派の一人であったサーラ。グランヴァニア地方の尖兵としてこの地にあった。
 この前、リュカとフローラたちが遭遇したミラヌたちは、夫サーラの元へ避けるために、魔界から逃遁してきた途中での事であったのだという。
 ミラヌは言い、サーラもこう決意を込めるように言った。
 上将・魔王府大翼脚のバルバロッサは、魔界を裏切ったサーラの棲を滅ぼした。もはや、魔界に帰る場所はないと。
「人の女よ。我らはそなたを支えよう。それこそ、報恩の本懐」
 しかし、フローラは言う。
「良人の意も聞かなければ……私は良いのですが」
 すると、サーラはやや表情を顰めて答える。
「あなたの伴侶は、ミラヌを討たんとした。あなたの伴侶に直接仕えると言うことは出来ぬ」
「あぁ、やはり……良人を、恨んでいるのですね」
「魔族の矜恃と、察しあれ。我が志、反義せず」
 サーラの言葉を、フローラは慎慮する。
 確かにそうだった。いかに恩を受けた人物の伴侶とはいえ、討とうとした人間に心服することは困難なことだ。魔族にも、魔族としての矜恃がある。そんなのは実に当たり前なことだった。それが逆の立場だと考えたとき、フローラは同じ事を言えるか、考えられるか。
 そう思ったとき、よく理解できた。
「でも……そうなるとサーラさん。あなたは私達とは行動を共には出来ませんわ」
 するとサーラは言う。
「承知の上です。私は貴女に仕える。貴女が危機に陥れば必ず、救う魁となり、貴女の命ずることには、死を賭して従おう」
 サーラは臣従の誓いを立てた。フローラにとって、魔族・メッサーラ族の臣従忠誠の証とされる儀礼はわからない。だが、朴念仁の雰囲気を漂わせるサーラが見せる様相は、フローラならずとも得心するに十二分だった。
 魔族の将士・サーラが義によってフローラに従った。それは戦いに捷ち、魔を浄化臣従させる“魔物使い”リュカとは全く違う、義を知る魔を、義により臣従させたことだ。
 魔物使いではないフローラが魔将を帰順させたという事実は、後年何故かグランヴァニアの青史に記述されなかった。史家の間で憶測が飛び交うことになったわけだが、それはまた別の話となる。

 朝。昏睡呪文はいつしか解けていたのだろう。リュカや仲間たち、そしてドリスたちはいつも通りに目覚める。先んじて起きていたフローラと、朝の挨拶を交わす。
 フローラは夜半に起きたことを良人に話した。
「――――そうだったのか。でも、そういう事で良かった」
「しかし私は……あの魔族を順わせるなど……」
 戸惑いの色を隠せないフローラ。リュカは言った。
「“順わせよう”なんて、思わないことだよ、フローラ。サーラは君のために力を貸すと言っている。“順わせる”んじゃない。“力を借りる”んだ。彼はいつでも、君が呼べば、君を助けてくれるだろう。すごい事じゃないか」
 リュカの言葉に、フローラは溜飲を下げた。
「しかし、サーラ翼少脚が同伴しないことは、正直助かります」
 ピエールがそう言うと、マーリンが笑う。
「そなたにとっては、謂わば直属の君長じゃからなあ」
「否定できません」
「超階級社会に生きたボクらの、悲しいところダヨね」
 スラりんがそんなことを言う。ピエールがすかさず突っ込んだ。
「あなたがその社会を一番よく痛感されていたでしょうし」
 皆、笑った。

 そして、それから約十日。多少の悪路と遭魔に手こずったが、一行はようやく東麓へ辿り着いた。平坦な路、何よりも濃い空気が地上を実感させた。
 穹窿に近い地は、上を淡青、四方を赤土の殺風景。今は陽光を秘めたる深緑と黒土が有機的な景色を醸す。リュカたちさえ気づかないほどにその階調は絶妙で、幽玄だった。
 アンシェルの話で翌日にはグランヴァニア城下に到達すると言う。長かった。
 リュカの旅路も、取り敢えずひとつの画期となる。それを目の前に控えて、不思議なほどに心は平静だった。
 グランヴァニア入り直前の最後の野営。佩剣の手入れをしていたリュカに、ドリスが神妙な面持ちで話しかけてきた。
「リュカさん、ちょっと……話があるんだけどさ」
「ん? どうしたの、改まって」
 手を止めてドリスを見るリュカ。彼女はいつものような戯けたような表情ではない、真剣な眼差しで、リュカを真っ直ぐに見つめている。焚き火の明かりに照らされた効果も相乗した少女の真剣な表情は、別の意味で美しさを醸成させていた。
「うん……あのさ――――話ってのは、そう……ひとつだけ……お願いがあるんだ」
「お願い? ああ、勿論。僕に出来ることなら、何でも」
 リュカの言葉に、ドリスは長い睫をそっと伏せながら、ひとつ大きく頷いた
「リュカさん。……グランヴァニアに入っても、今と変わらないで、あたしと接して欲しいんです――――」
 その言葉に、リュカは一瞬、きょとんとした。
「何かと思えば。そのようなことでしたか」
 リュカが気を緩まそうとするのを、ドリスは止めた。
「他愛のない話じゃないんだ――――! あたしのこと、知っても……変わって欲しくなくて――――途端に……その――――」
 ドリスは何かに葛藤している。リュカたちとの関係、リュカたちとの短いながらも、燦めいていた旅。
 そして、リュカへの淡き想い……全てが変貌してしまうかも知れない事に対する虞と、躊躇い。
 リュカはふうとひとつ息をつくと、徐にそっとドリスの片手を取った。そして、そのかすかに震える掌をしっかりと両手で包み込む。
 ドリスの瞳を優しい眼差しで見つめ、微笑んだ。

 ――――ドリス。
 もし君が、この世界を混沌に誘う野心に燃える兇徒ならば、僕は君を蔑み、討つだろう――――。
 もし君が、この世界を混沌から救う汎神勇者の化身ならば、僕は君に随い、今すぐに悪しき野望を砕くことを望もう――――。
 もし君が、そのいずれでもないとするならば――――。君が例え大帝国の主上であったとしても、僕にとって、君は、君だ――――。

 あなたが神でないのならば、私にとって、あなたはあなたでしかない。
 リュカは特にくだくだしい物言いをする時がある。もどかしいほどに、焦燥を掻きたてる術を得ているかのようだ。
「その言葉、信じるから――――」
 嬉々としたうつくしい少女の笑みが気を和ます。リュカは半分冗談に言った。
「君が市井の娘で無いことは判っているけどね」
「え……じゃあ、まさか――――」
 ぎくりとするドリス。
「名も高き貴族高官の御令嬢殿でしょうか?」
「あ――――、えぇと……あはは、うん……まあぁね。名も高きっちゃあ高いかも」
 まるで肩すかしを食らったかのようだ。どうも、リュカに対すると調子が狂ってしまう。
「今日は寝られるかい?」
 リュカが訊ねると、ドリスはあからさまに厭倦とした表情で答える。
「寝られると思う? 故郷が嫌で飛び出してきた女の子が、ほとぼりも冷めないうちに、おずおずと帰って来るというのに」
「あははは、君がおずおずとするような質には見えないけどね」
 笑って言うが、半分本意。しかし、ドリスはお約束のように反論、突っ込みを返す。
「こう見えても、傷つきやすい質です!」
「ああ、わかっているから。褒め言葉の裏返し」
「裏返しって――――あぁ、なんか嬉しくない」
 ドリスがすねた。その様子にリュカが哄笑する。そして、笑いが収まると、憮然とした表情のドリスに言う。
「大丈夫。チゾットからの短い間だったけど、君たちにはずいぶん助けられてきた。僕たちの方が、逆に感謝したいくらいだよ。君がどんな立場の令嬢であったとしても、変わらないで欲しいと思っている」
「そ……そんなこと――――あたりまえだよ」
 照れるドリス。ひっかかっていた懸念がリュカの言葉に払拭された途端、眠気に襲われたのであろうか、頓狂な欠伸をするドリス。リュカの笑いを避け、かわすように身を翻していった。
 目が冴えたと言うわけではない。作業の手を休め、リュカは野営の焚火から少しばかり離れた。
 樹海の中の“孤島”とも表現できよう、開けた場所。穹窿を望める小丘があった。フローラが、そこにいた。叢に腰を下ろし、背筋を伸ばして、星屑を見あげていた。何故だろうか。その姿が、やけに映えた。
「山の頂きから観る星空も良いですけど、やはり、こうして叢に腰掛けて見あげる方が、落ち着きますわね」
 フローラがそう言ってはにかんだ。
「やはり、地上が一番ぽいね」
「はい」
 リュカの感想に、フローラはこくんと頷いた。
 そしてリュカは、フローラの傍らにあって、眼差しを同じくしながら、脈絡もなく、思ったまま、自然とその言葉を紡いだ。

 ――――今まで、よく頑張ってくれた。
 フローラ。今だから言う。正直言うと、君をこの旅に同伴させ続けることは、一縷の抵抗があった――――。
 耐えられないことがあれば、すぐにでも瞬移呪文(ルーラ)で、強引に任せてもサラボナに還すことも吝かでなかった。
 ……でも、君はよく耐えてくれた。今思えば、君と旅を続けられることで、僕自身が救われたことは、数え切れないと思っている。
 だから――――

 ……ありがとう……。

「あなた――――」
 言葉以上の心の絆というものをしっかりと感じることが出来る瞬間。月並みなその言葉で、全てが伝わる、至上の言葉だ。
 万感の想いを秘めた瞳で見つめ合うふたりに、すっと光が過ぎる。
「あっ――――」
 ふたり同時に天空を向く。星の海から、その光芒が伝う。

グランヴァニア王国・宮城
グランヴァニア東陰歴1181年 (前代王18 〔英邁王22〕 年)

「流星か――――」
 安寧王・オデュロン(オジロン)が宮城の尖塔から見渡す、大穹窿からの流星群に嘆息した。
「流星群は、巷間吉兆の証と言われております、代王」
 近衛総管・パピンが、嘆息の安寧王にそう言った。
「吉兆か――――。何か良いことが、我が国にもたらされると言うことなのだろうか」
 安寧王の言葉は聊か、落胆の色を秘めているようだ。
「王女さまの件ならば、春宮執事がおりますので、ご心配には及ばずかと思われます」
 パピンの言葉に、安寧王はこそばゆそうに微笑し、首を横に振る。
「あれは大丈夫だろう。幸か不幸か、私に似ず、兄上の気概を受け継いでいるようだ。西域に飛翔しても、十分であろう」
 その言葉に、パピンは言う。
「そのようなことはございますまい。王女さまも、内心不安でいらっしゃるはずです。どなたか、旅慣れた人が王女さまを支えて下さっているならば、申し分はないのですが」
「旅慣れた……偶然でもよい、兄上の元におればな――――」
 安寧王はもどかしそうに溜息をつく。流星群は紫連山脈西嶺に次々と墜ちてゆく。
「パピン総管、兄上は今、いずれにあるかなあ」
「代王。陛下は大丈夫です。沙汰なきは無事の証と申します。――――王子さまと共に、王妃さまをお捜しに」
「そうか、無事か」
 パピンの言葉にほっとする安寧王。その時であった。尖塔への扉がどんと開き、憤懣な表情を浮かべた初老の貴人が、安寧王とパピンを睨視していた。
「代王、このようなところで何をされておられる」
「執政卿か。なあに、ただ満天の星を眺めていただけだ。そのような怖い顔をするでない」
「何を仰る。代王は陛下の御名代。御身に万が一のことあらば陛下や民に対し申し開きが立ちませぬ」
 そう言って執政卿・ロバート=セイシェルは、パピンに矛先を向けた。
「近衛総管、そなたがお側に控えていながら、ずいぶんと軽率だぞ。追咎の件と思うがよい」
 するとパピンが息を吸い、言葉を返す。
「代王は瑞兆の証、流星群を眺めていただけです。城下の臣民も多く、天を見あげていますが――――」
 すると、安寧王はすっと手を伸ばしてパピンを制した。
「執政卿の申す通りだな。わかった。パピン総管、海風も冷とうなってきたようだ。そろそろ、戻ろう」
「はっ」
 安寧王が踵を返すと、セイシェルは恭しく低頭する。覗けないその表情は、安寧王に対する厳しい心情を表しているようだった。

「執政卿の施政壟断は、臣民の不満が募るところです」
 パピンの言葉に、安寧王は柔弱な笑みを浮かべた。
「気持ちはわかるが、私はあくまで兄上の代王。権限はあって無きに等しい存在だ。パピン総管、私が安寧王と呼ばれることは、むしろ冥利に尽きると思っているぞ、はははは」
 パピンは小さく溜息をついた。
「私は、兄上がお戻りになるまで、玉座を預かるのみ。何度も言うが踐祚をするつもりもない。兄上の代に起用された執政卿に国政を任せた方が、上手くいくと思う。私は、安寧王でよいと思っているのだ」
 確かに、セイシェル執政卿の施政は、領民を直接虐げるようなことをしてはいない。ただ、王侯を蔑ろにする横柄な姿勢は、パピンの言うように、臣民たちの評判はよろしくないと言う。
 しかし、安寧王はそれを言われるたびに、困惑したような表情をするだけで、特に咎め立てるような事はしなかった。
 優遊不断、懦弱な君主。受ける陰口にもその通りだと自嘲さえする。
 近衛総管パピンは、城下衝路にある旅館の出身という、異色の武官だ。今も休職時は実家に戻る。当然のように、巷間の話題も耳に入る。
 パピンは英邁王パパスが玉座にあった頃に、王弟オデュロンの肝煎で武官に登用された経歴があった。そう言う経緯から、パピンは今や数少ない、尽忠安寧王の一人であり、安寧王の本当の姿を知ると断言できる、側近だ。
「何かがあれば、私が責任を負えばよい。暫定王として、執政卿の傀儡であった方が、民に無用な迷惑を掛けることはないだろうからな」
 いつか、微酔いの安寧王が、そうパピンに漏らしたことがあった。
 能ある鷹は爪を隠す――――とは言う。安寧王が実は治世の明君であるという確証は、正直判らない。ただ、パピンが一番よくわかっていることは、惚けたり、懦弱な自嘲をよくする安寧王が、決して暗愚な君主ではないと言うことだった。
 翌日は下城し、実家に戻った。ここのところ、国家政策やら、近衛軍再編などの毎年定期的に行われる予算審議に多忙を極め、宮城詰めの日々だった。パピンの家族が、久しぶりの主人の帰宅を祝う。
 パピンは、流星を眺めていた安寧王を思い、王女の安否を気遣った。
「流星は瑞兆でもあり、また凶兆でもあると聞く――――。こんな時に、王女さま……ああ、もどかしい――――!」
 安寧王の王女が不在と言うこの時に、パピンは心底から家族団欒を満喫するような気分にはならなかった。