サンチョの実家であるバラック家は、極官ですら儀仗勲(収穫祭や慰霊祭などの宮廷の祭礼儀式を監督する役職)という、大臣・伝奏格の上級貴族と比較すれば非常に低い下級貴族格ではあったが、グランヴァニア初代・開闢王アムルに近侍し、開闢王と私的に強い信頼関係があったとされる厮養・パチロウの直系の子孫という、実は由緒正しい家系の現当主なのである。
サンチョが玄佑王に召されて、懐明王子トムスンの近侍になる前は、玄佑王から将来の要職も仄めかされたと言う。名家オタクの玄佑王らしい計らいだった。
しかし若きサンチョは、厮養として開闢王の覇業の牛馬として働いた先祖パチロウを誇りに思い、極官以上を望まなかったという。
パパスが英邁王となり、践祚・登極した際に、この亭をバラック家の居とするように言われた。
グランヴァニア城下の東の郊外に、百数十年ほど前に断絶した貴族の旧邸が残されていたのを、バラック家が下賜されたのである。
英邁王はサンチョのために廷臣に良く改築せよと命じたが、サンチョは
『今でさえ身に余る大館でございます。この厮養に相応しき亭がよろしゅうございます』
と、旧邸を解体し、その外壁や煉瓦、木材に到るまでを全て再利用して、平屋の亭を造ったのだ。勿論、余材で小さな厩舎、薪や食糧を保管する倉庫をひとつ建てた。旧邸を解体した材料が全て使われ、それだけで、ごく普通の小さな亭が建った。
バラック家はもともと他貴族のように、多くの使用人を雇えるほどの裕福な家系ではない。サンチョが幼い頃から知る、給仕の老女がひとり、サンチョのサンタローズ仮寓の留守を預かっていた。
そんなサンチョ亭にリュカ夫妻と、その仲間たちが一同に食卓を共にすることくらい造作もないことだった。何と言っても、庭が広いからである。
サンチョの料理の腕前は、なまじ大都市の繁華街に乱立する有象無象の食い物屋などとは比べものにならないくらい秀逸である。
リュカの仲間たちへ出された素っ気なき魔物の餌も、サンチョに係れば豪華なピューレに変わる。スラりんなどが瞬く間にサンチョに傾倒する素振りを見せるのも理解できよう。
リュカとサンチョ。互いに重ねてきた艱難辛苦の日々。積もる話は尽きることなく、より良く語ればゆうに五日は徹夜が出来そうだ。 しかし、ありのままにそのような感傷に浸るのはただこの時期には似つかわしくない。それは阿吽の呼吸という言葉のように、口に出さずとも互いに解っていた。
「叔父さ……いや、オデュロン王は踐祚されていないのか」
リュカの問いに、サンチョは頷く。
「代王殿下は旦那様……いえ、パパス王の親征の留守を預かるとして、その御帰還を待ち続け、王位に昇られることを由とされておりませぬ。リュカ坊ちゃんが帰還されたとなれば、すぐにでも坊ちゃんの登極の儀を図られるでしょう」
リュカはその言葉に、深い溜息をついた。
「それでは今まで父さんや僕がいない間にこの国を守ってくれていたオデュロン王や、この国の人々に示しがつかない」
語気を強めるリュカ。フローラは良人を心配そうに見つめる。
「オデュロン王には登極して頂きたい。僕みたいな人間が王座目当てに帰ってきたのかと思われるのも……心外だ」
それは、カボチの村邑での苦い経験がリュカの心に鈍い古傷として疼くようなものであるのは間違いがない。
「坊ちゃん。それは、ございません。代王殿下のお優しき心に付け入ろうとする奸佞の臣は確かにいましょうが、蒼氓は遍くパパス王と、坊ちゃんのご帰還を永らく待ちわびておりました。帰還を布らしめれば、万民挙って御登極を歓喜致しましょう」
「それはまた……随分と大袈裟な話だね。僕もまた、父さんの遺志を継ぐ身と判っていてもか」
「グランヴァニアの民は、それ程までに旦那様と坊ちゃんを思っているのです」
サンタローズでの離別後に、故国に帰って久しい英邁王侍従の、裏打ちされたグランヴァニア臣民の声は、なおも故国参内に逡巡するリュカの心を打って止まなかった。不思議に酔えぬ酒盃の数だけが増える。
繁華街から少し遠く離れたグランヴァニア東郊は夜半になると静まりかえる。虫の音が実に心地良い。
酔い醒ましにと湯浴みを終えて、リュカは寝所の窓から出で、中庭に立つ。その手には寝装に似つかわしくない剣が握られている。見上げるその空は高く澄み、淡碧の月が映えていた。
「あなた、ここにいらしたの」
フローラもまた、濡れ髪を乾かしたてで、良人の傍らに寄った。
「フローラ」
「はい、あなた……」
リュカは月を見つめながら、妻の名を呼び、言った。
「僕は縦しんば叔父に求められたとしても、グランヴァニアの王になるつもりはない」
「…………」
フローラは驚くどころか、冷静に良人を見ていた。
「なるつもりはないけど……ただ。ただ……、父さんはこの故郷に戻ってきたのだと、この国の人々に伝えたいと思っている」
そう語りながら、リュカはゆっくりと剣を抜く。それは言わずもがな、パパスの剣。ドゥーラの蹈鞴法の研磨でその光輝、よく淡碧の月光を含み燦然と輝く名剣と化した。リュカはその剣身を高く突き上げる。
「父さん……英邁王パパスの帰還を、先ずは宮廷に示そう。明日、竜禽の装束を纏い、登城しようと思う」
竜禽の装束。一生のうちに三度のみ着用するべきとされる、神聖な異国の礼装。厳かな『狩衣』と、リュカの胴ほどもある高い『立烏帽子』。サラボナでリュカが授かり、フローラとの婚姻の儀礼に身につけた。リュカやフローラにとっては格別な思いのある、異国の朝衣だ。
「それはよろしいですわ、あなた」
フローラも笑顔で賛同した。
リュカはパパスの剣をじっと見つめ、剣身に映る自らの貌を睨む。
『ドゥーラ媼の話を、しっかりと胸に刻まなければ』
チゾットの山小屋で聞いたドゥーラの話をリュカは思い起こした。
いかなることがあっても、パパスの息子として故国に帰還したことを正統に王廷から認められ、グランヴァニア王国の後援がなければ、今後の魔界との戦いは一層厳しくなることは必定だった。パパスは旅上、王位を捨てた訳ではなく、サンチョを通してグランヴァニア王国の支援を受けていた。
リュカもまた正直、今後の旅を思えば、仲間たちの扶養等も考えれば、馬車の旅ひとつでは先が見通せず、故国の支援は不可欠だった。
永らく宮廷を不在にしていた国王が既に故人となり、更には一見得体の知れぬ見窄らしい姿の者が、英邁王の嫡子と名乗って父の座を寄越せなどという誤解を受けては元も子もない。叔父である安寧王の治世下で、執政を施してきた権臣たちの猛反発が炎上し、国外追放とでもなってしまっては、確実に野垂れ死にだ。
リュカは思っていた。大目標の前に立ちはだかる、故国王家嫡流という矜恃への自覚。
国王という地位は要らないが、父パパスが常に背負ってきた、グランヴァニア王という矜恃を、リュカもまた、背負わざるを得なくなってきているというのが、宿命というのか、皮肉なものではあった。
フローラは、じっと剣を見つめて思いを致す、そんな良人の様子を理解していた。と、言うよりも誰よりも理解できた。良人の決意、葛藤、逡巡。逃れられぬ血脈や貴種の位の喜びも煩わしさも、誰よりも知っている。だから、良人の心を、今の気持ちを裸のままに感じることが出来た。それが、リュカの気持ち以上に、何よりも嬉しかった。
「サンチョ・バラック儀仗、罷り越す」
雀や鷄、犬猫のさんざめきが止まぬ早暁に、サンチョは宮城に駆けていた。
「これは、儀仗勲殿、お珍しい。こんな早朝に、一体――――」
「代王殿下……い、いや――――ん……ラッフェル。レデル・ラッフェル殿に取り次いでくれませぬか」
サンチョの抜き差しならない様子に、内侍寮の当直は、眠気を覚ますために自ら両頬を打つと、頭を下げた。
「ただいま、お呼び致します」
内侍副官・レデル=ラッフェルは、丁度、誰よりも早く軽い朝食を済ませたばかりであったらしく、眠い様子も見せずにサンチョの前に現れた。
「これは、サンチョ殿。珍しい。しかもこのような陽も出ぬ中になんぞ急なことか」
「そうです。レデル殿、本来代王殿下に御注進すべきことなのだが……殿下の御気性や、大臣閣僚殿らのことを思えばそれも俄に――――。ならばまず貴殿ならばと……」
「あいやあ、待たれサンチョ殿。何でも良いが、面倒なことは勘弁してな。駆け引きは性に合わぬのよ」
おっとりとした口調でサンチョの言葉を探ろうとするレデル・ラッフェル。
「違いまする。吉報でございます。レデル殿、これは佳き報せですぞ」
「ほうほう、佳き報せとな。なんぞ悪しき癰疽でも取り落ちたかなあ」
「実にもです。癰疽を祓う神医の到来のようなものですぞ」
「おうッ! それは佳い。その神医を早う、殿下に」
言葉通りに受け止めたラッフェルが相好を崩すと、サンチョはラッフェルの肩に腕を回して場所を移した。そして、小声で囁く。
「宗子でございます。宗子の還郷でございますぞ」
その言葉に、一瞬ラッフェルは耳を疑った。
しかし、驚き瞠目し、サンチョと目を合わせると、サンチョはことの経緯を簡潔に話すと、力強い眼光で頷いた。
ラッフェルは土くさい色の顔面を紅潮させ、声を押し殺し、震わせた。
「すわ……何という僥倖――――。これも北陵におわす開闢大王のご加護あればこそか――――」
そう言いながら、ラッフェルは北に向かい、胸に十字を描く。
サンチョは胸を熱くするラッフェルに感慨余韻に浸らせる島を与えずに続けた。
「それで、でございますレデル殿。坊っちゃ……オホンッ……えぇ、リュカ王子には早速、代王殿下への朝覲の儀を……」
サンチョの言葉を、レデルは小さく震える掌で肩を掴んで止める。
「気持ちは解りますぞサンチョ殿よ。……しかし、執政殿が由とするまいな」
「……実にもです」
ラッフェルの言葉はサンチョの不安を中てていた。力なく、サンチョは肩を落とす。
「代王殿下ご自身はすぐにでも謁見なされようが、執政殿は必ずや咎め立てられよう。代王殿下への拝謁は容易ではあるまいよ」
「ほふぅ……。すぐにでも代王殿下へ報せるべきところなれども――――」
サンチョの呟きに、ラッフェルは首を横に振る。
「代王殿下は執政殿に頭が上がらぬからのお。先王恩顧の廷臣もいつしか、無難に柳に風とある。……まあ、このレデルもそのうちの一人じゃがなあ」
「何とか、ならぬものでしょうか。出来うれば、リュカ王子の前途に、波風は立てたくはございませぬが」
サンチョの言葉に、レデルは眉を顰める。
「グランヴァニア王家。開闢王嫡流の還郷ぞかし、サンチョ殿。波濤は時化か凪か。いずれにしろ隠せぬもの。善き波を選ばずば船も敢えなく沈もうほどに」
「ふう……。今日の参内は憖いですか」
「そうだなあ。代王殿下よりも、ドリス様にそれとなく諮ってみましょうか」
レデルの言葉に、はっと顔を上げるサンチョ。
「ドリス様……。おお、ドリス様がお還りなされたのか」
「ああ、つい先日のことよ。清々しきご様子で、“家出”からのご帰還だわい」
失笑するレデル。実際、ドリスはこのレデルに良く雑事から公事を問わず、頼み事をするのだ。
「それは天助。執政もドリス様に対しては二の足を踏まれる。頼るべきではありますが……」
サンチョの語尾に力が入らない。それもそうだった。ドリスはもともと、父オデュロンの踐祚即位によって、自身が後嗣となる王女の身分には極めて消極的な考えを持っているが、その一方で、誰よりも孝心篤く、グランヴァニア王国を愛する心を抱いている。言動こそ貴顕らしからず、俗人に準ずるが、将来の才媛であると言うことも知っている。
パパス王の子の帰還が、ドリスにとって王女の地位から解放されることは由とは思うだろうが、孝心から素直に、いわば青天の霹靂とも言うべき嫡宗の帰還を承認する保証はない。英邁王の永き外征の間、国都を守ってきた安寧王を慮れば、ドリスとて春の土筆の如きリュカを否定しかねない。
「ドリス様の“ご出奔”は、執政殿の壟断も一因にある。その心の在りようでよもや……」
レデルの言葉を、サンチョは暗に遮った。
「いや。准姫様の心をお量りするのも憚れます……。レデル殿、時を待たれますか……いや、坊ちゃんは……きっと」
言葉や感情を混淆とさせるサンチョ。レデルはそんな朋友の背中をぱんとひとつ叩くと、言った。
「安心しなさいサンチョ殿よ。この僥倖秘しておく訳にもゆかぬだろう。執政卿に思いを致す諸卿にはそれとなく伝えておいた方が良いと思われるが」
「そこは、レデル殿の裁量にお任せ致します」
安寧王が当座を代行するようになってから事実上、執政に干されているサンチョよりは宮廷についてはレデルの方が舵取りが利く。 それでも、リュカの登城・拝謁が順風に適うという事は考えてはいなかったが、レデルの言葉は予想以上にサンチョにとっては痛かったようである。
サンチョが内侍寮を後にした時は既に吏僚の登城時間帯だった。早朝によもや浮かぬ表情で下城してくる廷臣を、誰もが訝しそうに振り返った。
サンチョの戻りをリュカは待っていた。玄関の扉が開き、姿が見えた途端に、リュカは駆け寄る。
「待っていた。サンチョ、ところで……」
その問いに、瞳を伏せて不首尾を返すサンチョ。
「そうだろう。やむを得ない。故に……」
リュカが傍らのフローラに視線を送り、フローラがゆっくりと相槌を打つのを確かめてから言った。
「明日、叔父上……オデュロン王にお会いするために、登城させて頂く」
その強い口調に、サンチョは愕然となった。
「坊ちゃん、それは――――」
「天孫を迎え魔界を討ち、母さんの行方を捜すには故国の力なくしては果たせない。この先、更に過酷な旅を強いられるはず。意は決した。王位は望まないが、何としても、パパス王の子として認めて頂かなければならない」
「そは、頼もしきお言葉。先ほどこのサンチョめが会い、話したラッフェル内侍副官は、このままだと坊ちゃんと代王殿下の拝謁は儘ならぬと言われたばかりで……正直、どうすればよいかと――――」
肩を落とすサンチョに、リュカは声高に返す。
「廷臣諸卿の思惑を気にしていても先に進まない。もう逡巡するのは止そうと思う」
そんなリュカの言葉を、サンチョは満面の笑顔で受け止めた。
「おお。よくぞおっしゃいました。……ああ、亡き旦那さまも、后妃さまも、きっとお喜びのことと思いまする」
微笑みを浮かべながら、力強く頷くリュカの表情に、サンチョは若き日のパパスの面影を重ねていた。
その日の夜、リュカはフローラの手で随分と久しぶりに髪を切り、梳いてもらっていた。
肩の後ろでひとつに束ねていなければ、無造作に伸びたさんばら髪だった。フローラは立烏帽子を載せるに似つかわしくするために、良人の髪を整える。いわゆる、ぱっつん髪。うっすらと生え茂った顔髯も、剃刀で落とした。
それは実にゆっくりとした、時間の流れだった。
リュカを理髪すると、フローラはいつも思う。さすがはグランヴァニア王家嫡流の子孫。元から気品のある美男である事はわかっていたが、今こうして改めて見ると、それがよく映えるようだった。
真っ直ぐに梳かれ、背中で揃った髪を、フローラはゆっくりと纏める。リュカは瞼を閉じながら、口を開いた。
「よくここまで、来てくれたね。ありがとう」
ふと、手が止まるフローラ。
「ふふっ、何ですの、唐突に」
「いや。もしかすれば、こんなゆっくりとした時の流れを感じることが出来るのも、今日で最後かも知れないからね」
「それはまた……何故ですの?」
「グランヴァニアの廷臣や、僕自身がどう思っているのであろうと、父さん……パパス王の子として顔を出すことになる。一介の流離いの旅人としての生活は、おそらく出来なくなるだろう。それを思えば、こうして君に髪を整えてくれていることが無性に愛おしい時間のように思えてならないんだ」
するとフローラはくすっと微笑み、再び手を動かしながら言った。
「嬉しいですわ。……ですがあなた。これで最後だなんて、少し大袈裟ですわね」
「そうかな……」
「はい。だって、あなたが勇者さまを捜し、魔界を討てば……世界が平和になり、いつかきっと、毎日でもこうしてあなたの髪を梳いてさし上げられるようになります」
「…………」
リュカは瞳を伏せて、息をつく。
「その日を求めるためにも、私は今日この日まで、あなたとともにいるのですもの」
フローラが髪留めの輪を束ねたリュカの髪に通す。
「ああ。そうだ。此は僕と君の悲願だな。ははは。最後だなんて言ってごめん。果たさねばならない、果たさねば……」
(……この子と――――三人でこうして……)
「……フローラ。何か、言ったかい?」
フローラ、驚き慌ててリュカの髪を仕上げる。
「何でもありませんわ。……はい、あなた。こんな感じかしら」
鏡を寄せるフローラ。整然とされた頭髪・容貌に、リュカは鏡に映った自分の顔に恥ずかしく感じてしまう。
「こんな顔だったか。まるで、別人のようだ」
「ふふっ。素敵です、あなた」
これが、リュカの言葉通りに、何の変哲もない、“一介の旅人”として過ごしてきたリュカたちの最後の夜となるのである。
リュカはフローラの手伝いを得て、竜禽の装束を纏った。西グランヴァニア・ペテルハーバーでのささやかな婚儀。フローラはそこの宿主ネッドから、装束の着付けを通して覚えた。リュカ自身が理解していたので、その助力となれた。
漆黒の装束と木笏を身につけた良人・リュカ。
異国の装束から醸し出される画にも描けぬ気品溢れしその姿に、フローラはやはり見惚れる。
とかく竜禽の装束姿のリュカに、フローラは思いが深い。人生最大の岐路が、脳裡に強く蘇るようだった。
「黴臭くはないかな」
「ええ、大丈夫です……わ」
ぽうっとした表情で、フローラは異国貴族の良人を見つめてやや上の空。リュカは戸惑い、苦笑する。
準備が出来た頃は朝陽がやや暑いとも思う時刻であった。
扉がノックされ、サンチョの低く落ち着くような美声が響いてくる。
「リュカ坊ちゃん。朝でございます。食事の支度が調いましたので……」
「入ってくれ、サンチョ」
「はい、坊ちゃん」
扉が開く。そして、一瞬部屋いっぱいに覆う朝陽の眩さに、サンチョの視界が白む。
この時、後の英傑王リュカが還郷の日、初めて宮廷に朝覲さる時の朝の様子を、サンチョはこう述べて大いなる感動の集約としている。
『その御身成、これぞ開闢王誅魔の体ぞかし』
サンチョは幌馬車を呼んでいた。リュカの盛装を街路に示すのはさすがにまだ早いことだと、ここは譲らなかった。
フローラはいつものドレス調の仕立てを、瑪瑙色に近い淡色系と、肩・腰回りの宝玉を琥珀にした真新しいものにした。ルドマンからの仕送り品の中にあったもので、要事に纏う色調のドレスであった。
馬車に並ぶリュカとフローラ。リュカはフローラに向かい微笑む以外は、緊張のためか表情は素に戻り、唇をきりと真一文字に結んでいた。背筋は自然と真っ直ぐに伸び、木笏も、サラボナの教会に鎮座した時のように、構えていた。
「これはサンチョ儀仗勲、本日は――――」
挨拶する衛士に、サンチョは声高く叫ぶ。
「竜使、竜使でございます――――早打ちであります。代王殿下に、取り急ぎ拝謁致す」
竜使――――。すなわち国家の大事がもたらされた場合に発する、廷臣最大の切り札。それは、越権的に至上、すなわち国王に直訴できる事であるが、逆に一身の職務家柄を未来に擲つ覚悟をせねばならないと言われている。初代・開闢王アムル以来の臣下に与えられし、唯一の越権条項なのだ。
正門守衛兵は竜使発動に畏服し、跪いた。
サンチョの竜使発動を聞いた吏僚が、よもや魔界軍の大挙を想定したかのように、慌忙の体で城内を奔った。
「竜使、竜使でございます!」
「バラック儀仗勲の竜使でございまする!」
吏僚、女官、厮養。言伝のように、城内に竜使発動の怒号と跫音がさんざめいた。
「さあ、リュカ坊ちゃん。どうぞ」
「ありがとう……」
幌馬車の扉が開き、竜禽の装束に身を包んだリュカと、フローラが降り立つ。正門守衛兵は皆、驚愕の面持ちで異国の礼装に身を包んだ若き青年を凝視する。
サンチョを先導として、リュカはフローラを傍らに、騒然たる様相のグランヴァニア宮城内を後目にしながら、淑然と、歩を進めた。さながら、サラボナのあの日のように、リュカの心はよく泰然としていた。
「シフォン、いる?」
ドリスが大きく怒鳴って、シフォンを呼びつける。ばたばたと、騒動に負けぬ足音を立てて、シフォンが息を切らして現れる。
「な、何でしょう――――か――――はぁ」
「ずいぶんさ、外うるさくない? いったい何なの」
父・安寧王からまた怒られたばかりなのか、明らかに不快の様子のドリスだ。
「はいいぃぃ……ええと、何でもバラック儀仗勲の竜使と言うことで――――廷内は……」
シフォンは言伝のサンチョの竜使発動の事実だけを伝えた。
「竜使……? ずいぶん穏やかじゃないわね。何よ、いったい」
ドリスはリュカと急用と称して別れた時のサンチョの姿を思い浮かべる。そして、周囲から見れば飛躍した憶測が脳裡に勝手に過ぎり蓄積し、例によってこの御転婆王女の好奇心を擽った。
「シフォン。ついてきなさい。竜使の経緯、見届けるよ」
「あ、あっ……ドリスさま~」
ふらふらとした足取りで、シフォンは颯然と駆けだしていったドリスの後をついて行った。
宮廷太空殿へ通じる深紺の天鵞絨廊。廷臣たちは、その漆黒の生地に金刺繍の竜を描きし異国の高き帽冠と裾・袖の長き直衣を纏い、右手に木笏を携えた、気品高き異国の貴顕を目の当たりにし、まるで庶民の野次馬の如く天鵞絨廊に群がり、どよめく。また、宮廷に仕える女官や給仕たちも、老若を問わずに、異国礼装のリュカに羨望と憧憬の眼差しを向ける。
リュカは左腕に腕を絡めながら歩調を合わせるフローラを気遣いながら、涼しい表情を向けていた。
「殊に騒がしい。旅装の方が良かったかな」
はにかみながら、リュカが呟く。するとフローラは小さく首を横に振りながら囁き返す。
「いいえ。国を預かる叔父上様に会うためですもの。最高の礼を形にと思えば」
「ありがとう、フローラ」
リュカがそう答えて微笑むと、フローラは頬を染めて、リュカに絡める腕をそっと強くした。
興奮に沸き立つ宮城。ざわめき犇めく人の波の中にあって、ドリスの存在も詮無き事だった。
黄色い歓声を上げる女官たちの一群に割り込み、かき分けて最前線に這い出るドリスと、後からついてくるシフォン。もみくちゃにされ、髪や衣服は大いに乱れるも、一向に気にしないドリスに対し、眼前の状況よりも身形の崩れに狼狽するシフォン。
やがて、老若問わず、女たちの甲高き歓声が怒濤のように巻き上がる。
ドリスは、女たちが一人残らず向ける視線の先、すなわちその原因を目で追った。
そして、今までドリスが見たことのない、漆黒の偉影に、必然的に目を奪われる。
「……ちょっとシフォン。あの素頓狂な格好の奴、誰?」
観衆の隙間から竜禽の装束姿に目が入ったドリスが、傍らのシフォンに問いかける。
「は…はいぃ。あのお方はー……リュカ――――さんだそうです」
シフォンが漏れ聞いたことをそのまま、まったりとした口調でそう答えると、ドリスは一瞬、目が点になった。
「は? アンタ何言ってんのさ。リュカって、あの、ただの旅人のリュカさん?」
シフォンはこくん、こくんと頷く。
ドリスが愕然となり、また、思わず血の気が薄れてゆくような感覚に、頭がくらくらとなる。
「え……だ……だって、リュカさんて、あのリュカ……リュカさんで――――、ただの旅人で……グランヴァニアには……え……っと、あ、あれ?」
ドリスは再び、リュカの方を向く。その瞳に映るのは、チゾットの山頂で知った、煤や土にまみれ襤褸をまとい、魔物を随い、杖を揮い敵を撲ちのめす、逞しき魔物使いのリュカではなく、そんなイメージからはよもや真逆。そは飄然とした、言葉を貶めれば、怜悧なる気品に満ちた、深遠なる瞳。神々しさすら漂う、異国の大貴公子然だったからだ。
「…………」
いつしか、ドリスは言葉を失って、ただ眼前をゆっくりと通り過ぎる、リュカの姿を追っていた。