第2部 故国瑞祥
第40章 安寧王謁見

「シフォン、ついてきて」
 ドリスがシフォンの腕を掴み、語気を強めて命じる。
 リュカが通り過ぎていった後はまるで、竜禽の装束の長い袖裾がまるで彗星が尾の如き霞む光の塵のように、給仕たちや吏僚らの歓声と混乱に拍車が掛かってしまっていた。とてもではないが、そのど真ん中でじっとしていられる状態ではなかった。
「ひ、姫さま~~ど、どちらに……」
 激しく狼狽、逡巡するシフォン。いきり立つドリス。
「決まってるでしょ、太陽殿ッ」
 すると、シフォンは途端に身を固くして足を突っぱねる。
「そ、それは無理ですよぅひ、姫さま。太陽殿に私のような者が入れるはずなど……」
 すると間髪入れずに、ドリスの怒号が鼓膜を突く。
「いいのッ。竜使よ、竜使。それに、アンタも当事者なんだから、事の経緯を見るの」
 ある意味、ドリスらしい無茶苦茶な論理でシフォンの抵抗は敢えなく灰燼に帰してしまった。
 太陽殿。即ち、玉座がある正殿はいつも以上に廷臣・吏僚に埋め尽くされそうな雰囲気だった。ドリスはシフォンの腕を強引に曳きながら、上階へと大股気味に歩を進めてゆく。
 太陽殿正扉へ続く廊下もごった返していた。竜使発動の緊急事態には、貴賤階級も超法規的に平等自由となる。犯罪的な行為に及ばなければ、基本的には大臣も厮養も立ち位置が同じになる。
 喧噪さんざめく廊下。忿怒やるせない様子の一人の貴族が、声を時折荒げる様子で貴賤の隔壁を外し、溢れる人波を掻き分けてきた。
「わ、“失政卿”――――」
 その呟きにぴくりと反応する大尽。眉を逆立てて声の主を捜す。
『ひ、姫さま~ま、まずいですよぉ』
 シフォンが恐懼に肩を震わせる。さもありなん。ドリスの我が儘が度を過ぎた時、決まって上官大臣から怒られるのがドリス扈従のシフォンなのだ。まあ、その後に必ずドリスがフォローに入ってくれるのだが、度々怒られるのも正直億劫であり、憂鬱である。
「わかってるわよ、もう。……ええと、“執政卿”」
 もう一度声を張り上げると、執政卿ロバート・セイシェルがドリスを見つけ、軽く頭を下げてから歩を寄せる。
「これは准姫(ひめ)、良きところに」
「普段は平身低頭する廷臣給仕なのに、形無しじゃない?」
 軽い嫌味も、セイシェルには通じない。
「それについてです。何ですか、この騒ぎは」
「は、それはこっちが聞きたいわね。あたしだってサンチョが大権を行使したってことしか聞いてないけど」
「儀仗勲が大権竜使をですと……!」
 舌打ち紛れに、執政卿は吐き捨てるように言った。
「あれ? グランヴァニアの官職に就く者なら、遍くたった一度だけ行使できる権利でしょ。異論は唱えられないはずだけど」
 ドリスの言葉に、執政卿はあからさまに不快の様相で嘆息する。
「そうです。しかし、超越権的に王室陛下に上疏される分、詮無き案件であった場合は、九族末裔に至るまでこの地に留まることは出来ません。それもご存知でしょうな」
(バカにしてるな、糞大臣)という心の呟きを抑え込み、ドリスは続けた。
「パパス伯父……じゃなくて、パパス大王の侍従だったサンチョのことだよ。よっぽどの事じゃないと、そんな大権……」
「全くですな。陛下御還幸の竜使とならば、このセイシェルも胸、撫で下ろしましょうが」
「そうねぇ。もしそうだったら、あたしも楽になるんだけどッ!」
 何故か終始トゲが立つ、一国の王女と大臣の会話。
「まあ、竜使が発動された以上、儀仗勲は代王殿下に拝謁することになりますゆえ、私も臣位の一人として上疏を聞きまする。准姫も太陽殿に」
「え、ええ。そうね。是非そうさせてもらうわ」
 こめかみに浮かび上がる青筋を隠そうともしないドリス。その表情を見ることもなく、セイシェルは踵を返して人混みを煩わしそうに掻き分けていった。
「んべ~~~~~~~~ッっっだッ!」
 セイシェルの姿が見えなくなった途端、人目も憚らず舌を突きだし、人差し指で眦を引っ張る“あっかんべえ”をするドリス。こうなればシフォンの諫言も届かない。
「はははは。ドリス様、せっかくの美貌が台無しですよ」
 舌を震わせる彼女の横から、温かみのある笑い声が聞こえてきた。その声に慌ててその卦体な表情を素に戻すドリス。
「全くさ、ほんと暢気だよねー、パピン」
 半ば呆れ気味に半開いた瞼を、父・安寧王側近の近衛総管・パピンに振り向ける。
「暢気……ですかね」
 いつも微笑んでいるかのような顔立ちのパピンは、笑面散木と陰口を言われることも多い。ドリスも、時々そんなことを意に返さない彼に苛立つことも多い。
「総管、未曾有の事態よ。儀仗勲サンチョによって竜使が発動されたわ。外征の陛下に代わり、代王である父上にその上疏を御承允賜るように力を尽くしなさい」
 がらりと口調を変えてパピンに諭すドリス。その時は普段の様相から一転して王族の子女たる威厳を見せる。
 パピンは胸に手を当て、深く頭を下げると、言った。
「代王は儀仗勲の竜使を心強きことと……当に故国においてこの上なき瑞祥であろうかと……」
 パピンの言葉にドリスは嘆息する。
「あんたでさえそれか。全く……どんだけのものよ竜使って……。ま、いいわ。何か途轍もない大事だって事くらい、親父もわかってるってことだろうし――――」
 その瞬間、異国礼装姿のリュカが脳裡に過ぎった。そして勝手に顔面が紅潮する。
「あの――――そろそろ太陽殿に……」
 こういう時に限ってとかく親しい周囲は核心を突くものだ。シフォンの言葉の直後、ドリスはキッと、この近侍の少女を一瞬にらみ付け、大きく頷いた。
「そうよ。総管、早く行かなきゃ。正直言って、頭ン中がぐちゃぐちゃするからッ」
 そう言いながら、髪の毛を掻きむしろうとして留まる。
「そうですね。では、ドリス様も共に。混沌としておりますので、お守り致します」
「あ、た、頼むわ。……ほら、モタモタしないで、シフォンも早くしなさい」
 急かすドリス。しかし、そんな言い掛かりも、シフォンは当たり前のように受け流すのである。

グランヴァニア宮城・太陽殿

 グランヴァニア城大講堂。小規模な日常業務をこなす国王在所である紫雲殿とは違い、文字通り大会議を催すべく設けられた神聖壮麗な大広間・太陽殿。
 開闢大王アムルの建国以来、千数百年の歴史を刻み、国王踐祚・即位式は勿論、元老元勲・諸大臣が一堂に会し、多事多端の国難大事を評議議決してきた聖なる間。
 その中央を貫く天鵞絨の緋絨毯。その先に備わる高御座の背後に聳え立つ神像と、壁一面に陽光を受けて輝く、様々な紋様が嵌め込まれたステインドグラス。白堊の太き石柱が計九本、整然とその神聖なる間を支えているのだろう。文字通り、グランヴァニア城最上にある、尤も尊い場所であることの証明だった。
 リュカとフローラは、サンチョに導かれこの間にある。御座を真っ直ぐに見上げる緋絨毯の中央に、夫婦寄り添うように立つ。
 太陽殿は階下とは打って変わって静寂だった。三人の他に誰もいない。太陽殿に入れるのは、いかなる場合でも君臣神子、そして天意を受けた勇者英雄とされる。
 サンチョが発動した竜使の特権。彼はそんな異例の事態を示すように、太陽殿に控えて、現王である安寧王と大臣諸卿を迎えることになったのである。
「疲れていないかい? 少し腰を下ろしても良いんだよ」
 リュカがその竜衣の長い袖を外套代わりにしてフローラの肩を包む。
「ええ、大丈夫ですわ。……それに、このような時こそ、あなた以上に毅然としなければ」
 そう言って容を引き締めてみせるフローラ。
 リュカは小さく息をつくと、フローラの肩から腕を外し、笏を持ち直した。ざー……ざー……と、やたら長い袖裾の衣擦れの音が空間に響く。
 竜禽の衣、そして佩剣には、父パパスの剣。
 リュカはそっと瞼を閉じて思いを致す。それは人生の大いなる転機を得たサラボナの日、そしてあの運命の日の前後とは違う、そしてペテルハーバーの優しい光の思いでともまるで違う、緊張に震えるその心を感じていた。 父の故郷、そしてリュカ自身にとって初めて会う親族への思い。グランヴァニア王族としての名乗りへの不安。今後の旅の行方……。
 幾重にも、小刻みに降りかかる不安と希望が、不覚にもリュカの心身を戦慄させるのだ。
「寒うございますか、リュカ坊ちゃん。確かに、ここは炉を入れねば少し冷えますなあ」
 サンチョが気に掛けるが、リュカは声を上げて否定した。
「少し考え事をしていただけだから、大丈夫。だが、僕よりもフローラのことを」
「ととっ……そうでしたね。これでは奥様のお体に障りかねますな。ただいま、暖炉を」
「ありがとうございます」
 フローラが安堵の表情を見せた。
 この大講堂を暖めるのに、いかほどの時間を要するのか未知数だ。本来は給仕たちがこの場所を使う時を通告され、予めそうするものであって、竜使発動の緊急事態が、思わぬ事を招く。
 サンチョが四方に複数備え付けられている暖炉に歩を進めようとしたその時、突然ばたばたと給仕たちが駆け足で現れ、手慣れた様子で次々に暖炉に火をくべる。灯りをともしたかのように、全ての暖炉が淡黄色の光を放つ。
 そして、間を置かずにそれまで静寂だった空間に、人間の喧噪がフェードインしてくる。

 居住まいを正し、笏を持ち直し、曲折の揖という、半低頭の姿勢をするリュカとフローラ。
 厳かな喧噪が破れたと思った直後、廷臣・貴族の装束を纏った人物達が続々と緋絨毯の両脇に連なってゆく。
 がやがやとした空間は、余程聴覚を際だてなければ個別の会話を聞き取れない。
 しかし、聞き取れずとも総じて判るのは、異国の礼装を身に纏ったリュカの容姿容貌や、九族の命運を賭けし大権を発動した、サンチョへの好奇か。少なくとも、その殆どが良い意味での囁き合いではないと言うことくらいは予想がつく。
 リュカはその状況が、サラボナ公に初めて会った頃の、周囲の反応と重なって見えた。だから自ら両側に居並ぶ貴人の様子を窺おうとは思わなかった。
「――――それは、代王殿下に奏上する」
 かたや廷臣の波状的な突き上げに、サンチョはただの一言居士と化した。

 代王殿下、お越しになります――――

 給仕の疳高い声が太陽殿に響いた。
 その瞬間、場の喧噪が引き汐かかりとばかりに静まってゆく。群臣はそれぞれの定位置に整列し、給仕達は後方に一斉に退いた。
 リュカは三歩退いて身を正し、一度、袖をふわりと払うと、縁の笏を両手に挟み、跪いて正式な曲折の揖を取る。フローラもまた跪き、膝許で両手を合わせてリュカに倣った。そして、サンチョがリュカと入れ替わるように、最前に立つ。
 今なお動揺の色濃い群臣達に較べて、リュカ夫妻は身じろぎなく、泰然と故国の主を拝跪する姿勢にあった。
 侍臣を先頭に、奥の大扉から貴人がゆっくりとした足取りで姿を現した。
 ドリスが身を正すと同時に、群臣も静まり、姿勢を正す。
 グランヴァニア安寧王・オデュロンは、高御座の背後に立つ神像に対し一礼をすると、登壇するどころか、その高御座の真下、左右居並ぶ群臣に挟む中央に立ち振り返ったのである。玉座に腰掛けるどころか、群臣と視線を同じくしたのである。その姿勢に、リュカは驚いた。
「儀仗勲。竜使の事、聞き及んでいる。構わぬ。申すがよい」
 すると、サンチョは間を置かず軽く一礼をした後に言った。
「畏れ入ります、代王殿下。臣、一度の大権ここに行使することを相応とした大事を奏上致しまする」
「許す。儀仗勲、忌憚なき大事述べよ」
 その瞬間、場に緊張が奔る。ある者は、滅多に見られぬ竜使発動の顛末を興味本位に。またある者は、魔界騒擾の大いなるうねりが、竟にグランヴァニアにまで到ったのかという、新たなる絶望感。またある者は、サンチョの無為な竜使発動による、バラック家に対する厳罰への危惧。
「代王殿下――――」
 サンチョはそっと半身をずらして、安寧王の意識をそこに向けるようにした。
「ほう。これは珍妙な。遠き異国の黒衣礼装……とな――――」
 安寧王は竜禽の装束に身を纏った青年と、彼の傍らのあからさまに情緒が違う、高家の令嬢風情のドレスを纏った女性に目がいった。
「儀仗勲、その者たちは一体――――」
 するとサンチョは突然大きく身を揺り動かして、額を床に打ちつけた。そして、顔を紅潮させ、目を真っ赤にしながら、震える声で安寧王に言った。

 ――――こちらの方こそ、パパスさまの御嫡子にて、我がグランヴァニアの宗子嫡宗、リュカ王子。そして王子の御伴侶・フローラさまでございます――――

 一瞬にして静まり返る空間。こんなに人々が密集しているというのに、暖炉の薪が熱で弾ける音が、やけにうるさく感じる。
「…………??」
 ドリスは言葉の意味がわからなかった。シフォンに訊ねても、彼女は困ったように首を横に振るだけだった。それでも、不思議なことに頭に血が遡上する感覚に襲われ、軽い眩暈を覚えた。
 いつまで経っても、茫然とした空気が破られない。サンチョが、もう一度、落ち着いた声で言う。

「開闢大王に始まり、十三代宗神王アルフ三世陛下より続く王家宗子嫡宗・デュームパピュス王が嫡子・リュカ様でございます!」

 沈黙を破った瞬間、空間は堰を切ったように、わっとどよめき出す。その場にいた名だたる大臣諸卿誰ひとり、平静を保った様子を見せていた者がいなかったと、後にサンチョは日記に記している。
「あ、兄上の……御子――――パパス王の……御子だと」
 安寧王が珍しく興奮気味に声を上げた。
「は――――――――ぁっ」
 とうとうドリスが気を失いかけ、仰向けにシフォンの胸に倒れ込む。慌てるシフォンを他所に、パピンは悠然とした様子でシフォンと共にドリスを介助する。
 どよめき以外に声にならない群臣諸卿を横目に、リュカはゆっくりと腰を上げ、曲折の揖を取ったまま、安寧王に意識を向ける。フローラも目を伏せたままリュカの傍らに並び立つ。
「グランヴァニア王陛下、拝謁お許し頂き、恐悦至極に存じます。御前に控えます私はリュカ。父パパスと共にサンタローズに寄留し、大望を以て流浪の旅を続けておりましたが、数奇な因果にて、今こうして父の郷里・グランヴァニアに、我が妻フローラと共に、辿り着きましたる次第でございます」
 続けてフローラが言葉を発する。
「陛下への御面奏の機会を頂き、感謝致します。私、サラボナ太守ルドマンが娘、フローラと申します。主人リュカに倣い、お礼申し上げます」
 慇懃な拝謁の挨拶を述べたリュカとフローラだったが、安寧王は何度も頷きながら、身を乗り出す様相でリュカを見る。
「なんと……これは駭き事ぞかし。儀仗勲、快報ぞ。これぞ稀稀なる竜使の実なるや」
 温厚な安寧王が、興奮に声を震わせてゆくのがわかった。
「王陛下。父パパスの佩刀、謹んで奉ります」
 リュカは笏を一度懐に差し込み、長い袖を払うと、腰帯に佩いていた剣、パパスの剣を鞘と共に引き抜き、両手に掲げて跪いてからそれを安寧王に献進した。安寧王は自ら足を進めてそれを手にする。
「おお。この剣は紛れもない、先の王より兄上に伝承された宝剣――――」
 そして、鞘から刀身の一部を覗いた安寧王は途端に愕然とし、感嘆する。
「これは……ドゥーラの仕込み――――。そなた、山陰の媼に会うたのか」
 安寧王の訊ねに、リュカは頷く。
「チゾットの征途にて、ドゥーラ媼の知遇を……」
 安寧王の瞳がじわりと熱くなったかのように赤らんだ。
「しばらくっ!」
 空間から一際甲高い叫び声が上がったが、安寧王はほぼ同時に、僅かに息をつまらせているかのような声を張り上げた。

 ――――デュームパピュス英邁王の竜使、大儀――――群臣公卿には後日改めて大朝議の招集を布告する。重ねて国民はそれまでは自重し、妄説を殊に慎むべきこと――――以上!

 安寧王は語尾を強くして、その荘厳な空間に対し解散を命じた。そして安寧王は扈従に何かを囁くと、颯然とした足取りで太陽殿を去って行った。
 ざわめきを取り戻した廷臣達が、騒然とばかりに太陽殿を後にしてゆく。竜使の発動も、国王が収束(解散)を命じれば効力は無くなる。すなわち、太陽殿から退出すると同時に、廷臣・人民・厮養らは普段の身分に立ち戻るのである。
 主立った群臣が太陽殿を退いてゆく。
 その中で、しばらく微動だにせず屹立していた廷臣がいた。竜禽の装束に身を包んだリュカをじっと睨視していた、ロバート・セイシェル執政卿その人である。しかし、廷臣の一人に肩を叩かれ、漸く二の足を踏みながらも、渋渋と太陽殿から退いていった。
 かたや茫然としていたドリス。安寧王の扈従が総管パピンに耳打ちをし、パピンは頷き、ドリスを揺さぶり起こす。
「う、う~~~~ん……」
 ふらつきながら、身を起こすドリス。
「な、何なのよもぉ――――あー、頭がクラクラするわ」
「ドリス様、代王殿下から、後で常の間にと……」
 パピンの話を半ば飛んだ意識で聞いていたドリスだったが、ぼやけた視界に飛び込んできた漆黒の人影に、一気に視界が晴れる。
「あぁ――――リュ、リュカさん――――!」
 その時既に、リュカとフローラはそんなドリスの様子を、微笑ましげに眺めていた。
「あぅ~~~~もぉ、訳わかんない。えーっと、何だっけ。常の間? わかったわ。リュカさん、フローラさん。あなたたちもどうせ、行くんでしょ? 常の間」
「そう言うことになります」
 サンチョが答える。
 ドリスは身体を支えんとしていたシフォンとパピンの手を軽く振り払うと、人差し指で二、三度こめかみを掻く仕種をしてから言った。
「もしかして、もう気づいてる……? あたしのこと」
 苦虫を噛み潰したような表情でリュカを見つめるドリス。リュカは一度フローラと視線を交わしてくすりと微笑うと、言った。
「止ん事無き方ではないかとは、一応推測してましたよ」
 リュカという人はこうだ。率直に言わない。ドリスは、遂に諦めた。敗将の如くか、まるで気の抜けた風船のようなやる気なさげな口調で、名乗った。
「あたしは、ドゥルセ=イグレシア=ソル=グランヴァニア。グランヴァニア代王・オデュロン=ドゥエル=クレウス=グランヴァニアの娘よ。“ド・リ・ス”と呼んでくれればいいわ!」
 名乗った割には最後はまるで開き直ったかのように語気を強めるドリス。
「改めて、よろしく。ドリス」
 リュカが笑いながらそう言うと、ドリスはまた拍子抜けしたかのように、突然顔を赤らめる。
「あ……よ、呼び捨てにして……くれたんだ」
 その呟きを、リュカは聞き逃さない。
「おっと、これは無礼なことを。申し訳ございません、ドリスひ……」
 言いかけたリュカを、ドリスは思いきり両手を前に突きだし、ぶんぶんと掌を振りながら、声を張り上げて止める。
「違うの、いいのっ。それでいい。その方が、いいってことだから!」
(だめだ。やっぱり、この人の前だと調子が崩れてしまう……)
 ドリスは心の中で改めてそう思っていた。
「となると……坊ちゃんはドリス様とは御従兄妹ということに」
 サンチョの指摘に、リュカはほうと感嘆し、ドリスを刮目する。
「そうだね。君と僕は確かに父を兄弟とする従兄妹。そうか。血の繋がった、親戚であったとは――――」
 リュカは殊の外嬉しそうであった。確かに、そもそもリュカにとっては父パパス以外の肉親や親族に極めて疎遠な環境にあった。況してや、年がそんなに離れていない親族の存在は、兄弟がいなかったリュカにとっては何よりも嬉しいものであったに違いがない。
「なに、そんなにうれしいかなあ」
 ドリスが訝しがると、フローラが微笑みながら言う。
「ドリスさんがリュカさんの“妹”であって、本当に嬉しいんですのよ」
「妹……」
 ドリスがやや不満げに呟く。
「チゾットの山村で、あなたが帰郷を決断された時、リュカさんがそう、言ってましたわ。僕には年下の弟や妹がいない。だからドリスがもし妹だったらいいね……って」
「おい、フローラ。その話はいいって」
 照れくささに顔を顰めるリュカ。
「妹……。……そ、そうかあ……」
「ドリス、どうかしたの?」
 リュカが首を傾げると、ドリスは笑みを浮かべて、言った。
「そ、そんなことよりリュカさん、フローラさん。親父から言われた通り、常の間に行かないと」
 ドリスの言葉に続いて、パピンがリュカに拝跪する。
「近衛総管のパピン=ポラス=コルテスと申します。竜使の件は概ね、内侍副官レデル=ラッフェル殿から伺っておりました。そして今、代王殿下は竜使の方々のお話を緩りと聞かれたき由。常の間にて、正式な謁見とさせて頂きたいとのことでございます」
「それは……ならば、この場は――――」
 パピンは一瞬、ドリスと目配せを交わすと、神妙な面持ちでリュカを見つめ、言った。
「権臣の擅断、殿下の胸中を御推察冀えれば……」
 その時、リュカは山陰の媼・ドゥーラの話を思い出した。
「……わかりました。王陛下のお心、お察し申し上げます」
 リュカたちはパピンの先導の下、群臣がはけた太陽殿を後にした。