グランヴァニア国史・貢献王記には、英邁王パパスの嫡男・リュカの還郷を殊の外喜ぶ安寧王(後の前・後代王)オデュロンの様子が記されている。
曰く――――
【先王の外征、武功を祷り花咲く山埜を望みて、十度の早春。
ただ中に、先王還幸の輿望甚だ強きこと、中庸篤実を性と成す安寧王、端として踐祚の御座冀わず。
玄佑王豎、権臣となりて治世の安寧王代世に壟断此れ顕かなるも、本に統民の術に選れたり。
先王嫡宗、爰に還郷せしめたるを、人臣草莽以て御座復古の慶びとする。
何よりも安寧王が特牛とし、是善く解放せしめらん】
当に安寧王にとって、兄パパスの子であるリュカが現れたことは、この上ない僥倖であったに違いがなかった。
リュカとフローラが、パピンに導かれて国王常在所である常の間の扉をくぐると、そこは太陽殿の荘厳な雰囲気とは一線を画す、心的威圧感のない広間があった。
王族王城なので、確かに至る処、壁の四隅に及ぶまで絢爛豪華な装飾が鏤められてはいるが、雰囲気とすれば庶民風に言うリビングか、客間のような感じだ。正直、リュカもフローラも、最初通された太陽殿よりは遙かに落ち着く。
「おお、よく来た。さあさあ二人とも早くこちらに来なさい」
やや長めのテーブルの端に座っていたのは安寧王だった。人懐こそうにリュカとフローラを手招いている。一瞬、驚きで目を瞬かせたリュカだったが、一礼をすると笏を持ち直して歩を進めた。フローラも続いた。
安寧王が座すテーブルには、複数人の大臣諸卿がいた。
財政卿ホルスト・ヘルミン・ジェドローム楼北侯。
親衛魔法卿イグレシオ・ヴェンリーク・セルディア河西侯。
早暁外地から戻ったばかりの討魔少将クレマン・ナムル東麓伯。
グランヴァニアの巫女・神官を統括する神祇太仗官ヘレナ・コスタ・カーリン。
いずれもパパスが不在のグランヴァニア王国を安寧王と共に支えてきた、安寧王代世の礎石とも言えるグランヴァニア名うての忠臣と、国記は伝える。
長い袖裾を上手く払いながら、リュカが勧められた椅子に腰掛ける。フローラも、良人の隣に用意された椅子に腰を下ろした。その流麗とも言える姿を、諸卿は見とれるように追っていた。
そして間もなく、グランヴァニア准姫ドリス、侍女シフォン、遅れてアンシェル・ウィラム、近衛総管パピンらも姿を見せた。
ドリスは緊張した面持ちで、何故か遠慮気味な足取りで安寧王の傍ら、リュカよりも上座の席に着いた。
「フローラ様、お顔の色が……」
アンシェルが一礼した後、フローラを見て声を掛ける。
「大丈夫です。ありがとうございます」
フローラが笑顔で返したので、アンシェルは退いた。
ここは非公式の場だったが、リュカは臣僚の参集が済むと同時に、ドリスは元より、グランヴァニアの臣僚に対しても曲折の揖の大礼を取った。
異国の出で立ち、異国の礼法は全く無知な彼ら臣僚も、リュカの姿勢が最大限の礼儀を呈しているだろうということは十二分に理解できた。それが、かえって彼らの心証を佳くしたことに違いがない。
「リューケイロム。……そう、そなたの名はリューケイロム=ウェル・シー=グランヴァニア」
安寧王が、リュカの名をそう語る。
「リューケイロム……」
リュカが小さく反芻する。ドリスは首をやや傾げて唇を動かして声を出さずに呟く。フローラはその言葉の響きに、聞き入りながら、瞳を瞬かせた。
「陛下と、マーサ王妃さまが、“祈望を継ぎし者”という意味を持った佳い名を……とご所望され、私が――――」
神祇太仗官カーリンが、嫡子命名のため、複数の候補を上疏したという。その中で、パパスと王妃マーサが、リューケイロム=ウェル・シーを撰んだ。略して、リュカと名付けたのだという。
「いくつかの上疏の中で、陛下・王妃さまが一致して、御名を喜ばれたのです」
それは、リュカが初めて聞く自分の本名。正式な名乗りだった。物心ついた時からリュカとだけ呼ばれていたから、そうだと思っていた。だが、親友のヘンリーは王族ゆえんの長ったらしい正式名を持っていたはずだ。憶えていないが、確かにあったと思う。
パパスがグランヴァニアの王であったことを知ったリュカ。自分の正式名は何だったのか。自分を知る、父そして母の面影に近づく一歩くらいにはなるだろう。そう思った。
リューケイロム=ウェル・シー=グランヴァニア。しかし、どうもその名を反芻すると、むず痒くなる。
「リュカで、構いません」
満面紅潮し思わず、本音を言った。
後に、魔界を戡定し、リュカが事実上英傑王としてグランヴァニアの至上位を継承することになっても、リュカの正式名は公文書での署名以外に用いられることはなかった。彼は生涯、“リュカ”という略称で通すことを望んだ。この英傑王を中興・宝鑑として、以後歴代グランヴァニア王家嫡流は、本名・正名を殆どの事象で忌諱したという。
「そう畏まらずに、楽にしなさい、二人とも」
安寧王が諭す。リュカは曲折の礼を外したのみで、厳粛とした姿勢を崩さなかったが、フローラには肩の力を抜くように言った。初めは良人に倣おうとしたが、リュカが強く押し切った。
「陛下に、申し上げます」
場を和まそうとする安寧王に対し、リュカは直言するように、しっかりとした口調で語り始める。
それは言わずもがな、自分のこれまでの経緯だ。それは、英邁王・パパスの死、そして下隷として天嶮セントヴェレスに使役してきた塗炭の十年の日々。臥薪嘗胆、苦節を堪えて父の遺志を継嗣し、フローラを伴侶として今ここに至る。語り尽くせばきりがない。
文字通り、リュカが常の間に腰掛けた時には、東南の窓からは淡黄色の眩い光が差していたが、涙と洟で真っ赤に腫れたリュカの顔が落ち着いた頃には、西の窓は暗い朱色に染まり、東の窓は濃紺の緞帳が下ろされていた。
「そうか……。兄は――――英邁王はやはり徂落されていたのか」
リュカの話の途次、安寧王は覚悟を決めていたかのように肩を落とした。
「パパス王らしい、見事な御最期です。こうして目を瞑れば、すぐに雄姿が浮かびまする」
パパス王太子時に見出された、ナムル討魔少将。
「ちょ……見事だなんて、そんな不謹慎な」
もう何枚目かわからない手巾をシフォンから受け取って顔を覆ったドリスがすっかりと嗄れた声で語気を強める。
「ドリス様。英邁王は国士随一の勇傑であられたお方。リュカ様のお話を伺えば、その雄姿は思うに易し。戦士は能く英邁王に倣い、吏僚はその志を承ぐべしと」
そう。グランヴァニアの軍士には英邁王が既に死亡したという事実と共に、新体制の元での新たな脅威に立ち向かわなければならないという、重い責務がナムル少将にはあるのだ。一忠臣として、パパスの死に対して感傷に浸っている場合などないのだ。
「先王、そしてマーサ様の御子が無事で……それもかように岐嶷なるお姿での還郷は当に夢のようです。万日の夢も真実たらしむ思いでございます」
河西侯・セルディア親衛魔法卿。パパスの妻・リュカの母マーサ王妃の佳き相談役とされたこの人物にとって、きっと思いは一入だっただろう。
「フローラ様もよくぞ風霜の旅路、乗り越えて来られましたな。お傍にあられて、リュカ様は何よりも心強きことであられたはずです」
「とんでもありませんわ。むしろ、良人の足を引っ張り続けてきたものだと……」
フローラが苦笑すると、ナムルが凛然と語る。
「征途にあれば、伴侶の手を離さぬことは我が本懐と心得る。リュカさまの気概、まさに以て瞑すべしです」
一瞬見つめ合って苦笑するリュカとフローラ。そこへドリスが呟きを挟んだ。
「相っかわらず大袈裟、ナムル先生。針小棒大ってまさに先生にぴったりな言葉だよね」
するとすかさず、ナムルが返す。
「竜頭蛇尾では万事、上手くはいきません、姫」
ドリスはこのナムル少将教務が苦手なのだという。しかし、何よりも信頼している間柄であるのも事実。ドリスが若干の武芸を心得ているのも、ナムルの教示があったからだ。
安寧王代世を支える臣僚との雑談を交えながら、リュカはパパスから受け継いできた天空の剣、義父サラボナ公から委託された天空の盾を始めとする、サンタローズ羈寓以来の遺品奉還を求め、神祇太仗官カーリンがそれを拝承した。
それは、亡父パパスが名実共に故国に還御したことを示すと同時に、リュカが紛れもない、パパスの嫡子であることの不動の証左であることを示すという意味もある、宝物庫奉還であった。パパスの剣も、宝物庫に奉還されることになった。
ここ常の間は廟議ではない。あくまで非公式の場だ。俗に言えば、正式な廟議の前の打ち合わせ。しかし、リュカにとっても安寧王にとっても、この場が今後にとって何よりも大事な場であると言うことは共通の認識としてあった。
それこそ、リュカやフローラを除く場が本題としている事への口火を切ったのは、当の安寧王であった。
「さて、我が甥リューケイロム……いや、リュカよ」
「はい。陛下」
改まる安寧王の呼びかけに、リュカは身を正す。
そして、安寧王の口から発せられた言葉は、さり気なさげな色合いながら、極めて重いものであった。
「兄が徂落されたならば、踐祚するべきはまさにそなたであろう。佳き日を選び、人臣挙って、そなたが登極される事を祝おう」
それはリュカにとっては晴天の霹靂だった。
安寧王の言葉に愕然となったリュカは、思わず握っていた縁の笏を落としかける。そして、身を捩るような勢いで椅子を弾き、拝跪する。
「あ、あなた……!」
フローラが愕いて腰を上げようとするが、リュカが掌を突き出して制止する。
「リュ、リュカよ――――何を」
安寧王が身を乗り出そうとしたと同時に、リュカが毅然と顔を上げる。
――――これは異な事を。
畏れながらリューケイロム、陛下の御退位を望み、父パパスの王位を取り戻さんとする心積もりなど全くないことです。
如何なる経緯があったとしても、故国は叔父上……いや、オデュロン陛下の治世によってあるべき事でございます。
たったこの数日に外国から帰ってきたばかりの者に、国体を揺るがす至上の位をお譲りになるなど、途方も無い話でございます。
リューケイロムはただ、我が父パパスの遺志を心の拠とし、これまで通り天空の勇者を求めて旅を続ける事を望む者でございます。
それがグランヴァニアの臣民に対し、あたら無用な混乱や臆測を呼ぶのであれば、私は今すぐここを去らねばなりません。
困惑する安寧王。そこへ、財政卿・ジェドローム楼北侯が声を上げる。
「リュカ様、お言葉ですが代王殿下のお気持ちをお察しあれ。殿下は、陛下出征の砌、至上の位を預かりし時より、陛下大業を成され還幸されしときまで。と決意されていたのです。殿下に、至上への羨望、未練は無きことなれば――――」
続いて、親衛魔法卿・セルディア河西侯。
「リュカ公子、これは代王殿下よりも、寧ろ陛下のご遺志なのです」
「え――――父さ……パパス王の」
「パパス王陛下の外征は止ん事無き仕儀。魔界騒擾の巻き添えとなりしマーサ様を――――。諫止する代王殿下や群臣に対し、陛下は私事を許せと。そしていずれ戻りし時は、そのままオデュロンが王位を嗣ぐも、我が子に王位を嗣がせるのも由と仰せあったのです」
「ならば、オデュロン陛下がご退位されるべきではありません」
すかさずリュカ。すると、安寧王が言った。
「そもそも、私はその器に非ず、王位を預かってはいるが、踐祚はしておらぬ。そなたも、ドゥーラに会うなど、ここに来る時までに多聞に知っているだろう。衆意は重んじることだ」
「私は一介の征人。治世の衆意は、官服を纏いし貴人が汲むべき事です。それに、父の意は必ずしもこのリュカにはございません。何とぞ、父より受け継ぎし愚甥リュカの大意、御諒解賜りたく……」
困惑極まる安寧王の様子に、ドリスが言葉を発した。
「ま、まあ。今日が今日だけに、何かとガサガサしちゃって……じゃないゎ――――父上も、リュカさんもみんなも、ごちゃごちゃしちゃってるんだよ――――もとぃ、しているのですわ、きっと。日を改めて……っていうのが良い場合もありますでしょう」
佳言というのは言い過ぎか。やや戸惑い気味のドリスの言葉は、膠着気味な空気の打開には十分だった。
ぱんと大きく手を打ち鳴らし、サンチョが言う。
「代王殿下。ドリス様の言、ご尤も。この件は後日改めてリュカぼ……リュカさまとご緩りと――――」
「お。おお、そうだな。二人の申す通りだ。今日は皆、何かと労苦困憊なれば、ここは日を改めて話をしたい。いかがかな、リュカよ」
「はい。仰せのままに」
リュカが拝礼すると、安寧王は満面の笑みを浮かべて続けた。
「よし。今宵はそなたたちと、王族内輪で晩餐を愉しみたいの。よいか」
それを断る謂われはない。リュカはフローラと顔を見合わせてから承諾の拝礼をした。
「ならばドリスよ、二人を秋穹殿へ案内しなさい」
「え……あ、は、はいわかりましたおや……お父さま」
安寧王はそう言うと、席を立った。同時に臣僚たちも拝礼し、席を立つ。誰もがリュカに親しみの礼を捧げて退出していった。
残ったのはリュカとフローラ、サンチョと、ドリス、シフォン、アンシェル。チゾットの山村で邂逅したメンバーだった。
「あ――――えー……っと」
上手く言葉が出てこないドリス。
「姫、代王殿下の……」
アンシェルに促されて、慌てて愛想笑いを浮かべる。
「秋穹殿だ。そうそう、秋穹殿に案内するよ。……んんっと、あたしの部屋の隣になるけど、良いよね取り合えず――――」
何故か甲高い声が異様に響き渡る。
「星涼殿が整います間、お過ごし頂きますとのことです……」
と、シフォン。
「星涼殿は陛下……パパスさま、マーサさまが日々お過ごしになれていたフロアです。今後は、リュカ坊ちゃんとフローラ奥様がお住まいになる場所でございます」
サンチョが補足する。
「父さん……母さんの――――そうか……」
リュカの胸が一瞬、熱くなった。
「あなた?」
不安げに良人の顔を見つめるフローラ。
「おお、大丈夫。ちょっとだけ思いがこみ上げてきただけだから。……ありがとう」
リュカは竜衣の襟を正すと、拝跪の体勢からやっと立ち上がった。さすがに、足に痺れを来たし、ふらついた。
「もう。いつまでもそうしているからですわ」
フローラが半ば呆れ気味に言いながらも、良人の腕を肩に回す。
「これを着ると、不思議と身が引きしまって」
リュカがそう言って戯ける。
「あー、もう、そろそろ行きますよ!」
語気荒いドリスだった。
秋穹殿は王城階上にある噴水のある中庭を取り囲むように設けられた貴族宿舎で、緊急事態や防衛のための機能も有している。
その秋穹殿の西廊の一角にドリスの部屋があり、両隣は空室となっていた。その一つを、安寧王の計らいでリュカとフローラの仮部屋としたのである。
「君は王女だろ。何故、ここに……」
リュカの疑問に、ドリスは投げやりに答える。
「親父は正式に即位していないから、星涼殿を謂わば“借りている”状態なのさ。……それに、あたしは一人の部屋が欲しいし、それにどうも星涼殿ってカタッ苦しくて。本当なら城下にある襤褸の空き家でも良いんだけどさ、親父やアンシェルたちがうるさいから仕方ない、ここにしているって感じ」
背後からアンシェルの厳しい眼差しと、シフォンの狼狽の眼差しを浴びるドリス。
「あははは、君らしいかな」
「本当に」
リュカ夫妻の笑顔に、から笑いで応える。やがて、その仮部屋の前に着いた。
「急なことゆえ不自由があるかと思いますが、取りあえず、寝台だけはきちんと整えてあります。安眠は保証します」
と、アンシェル。続いてシフォン。
「晩餐の刻が近づきましたらば、伺いますので、ど、どうかごゆっくりとおくつろぎ下さいませ――――」
微妙に硬い雰囲気だ。
「ありがとう、そうだね。ちょっとだけ、ゆっくりさせてもらおうかな」
しかし、リュカが微笑むと、それが不思議な感じで解れるのだから何とも絶妙な空気になるのである。
「ま、な、何かがあったら隣はあたしの部屋だから、来て」
「おお、そうするよ」
「庶務は私が承るよう、仰せつかってございます」
安寧王近侍の女官・エディータが割り込む。
「使い走りじゃないってば、もォー」
ドリスの憤慨を軽くあしらう女官。
「では、私めらは晩餐の準備に」
アンシェルとシフォンが一礼して踵を返した。
「坊ちゃん、奥様。では後ほど」
サンチョも深々と拝礼して去っていった。
扉を開け、中に入る。窓からは勢いよく水を湛えている中庭の噴水が見える。そして一人用の寝台が二台、真新しいシーツで調われていた。その他には据置のクローゼットのみで、本当に簡素な部屋であった。
「なるほど、秋穹殿とはよく言ったもの」
窓の外に広がるグランヴァニアの空。中庭の緑が秋になると美事に色づくのだろう。秋の天空にある部屋。有事に備える宿舎は殺風景がちに思われるが、ここはそう言った自然情緒を重んじた造りになっているのかと、リュカは理解した。
フローラは感嘆しながら一通り中を見廻した後、ぺたりと寝台に腰を落とした。
「あなた。ごめんなさい。ちょっとだけ疲れたみたい。少しだけ、横になってもよろしいかしら……」
両手を膝の上に合わせて、微笑んでいるも疲労の色滲ませながら、良人を見上げるフローラ。
「なんだ。まさか、無理をしていたのか。あれほど言ったのに――――」
「いいえ……安心したら、何か急に――――」
しかし、リュカは笏を放り、咄嗟に妻の身体を優しく抱き締め、そのままそっと寝台に包み込む。
「ありがとう……あなた。くすっ、やっぱり……温かい……」
竜衣の袍の長い袖が、そのまま毛布代わりになりそうだと冗談を交える。リュカの匂いが、何よりも心、落ち着かせる。
「少し、眠ろう。陛下の……叔父のご厚意、ありがたく頂かなければならないから――――」
「はい……あなた――――では……少しだけ……お休みなさい…………」
それから間もなく、フローラは静かに息をたてながら、午睡の淵に落ちていった。リュカは竜衣の袍を脱ぎ、それを冗談の通り、フローラを覆う毛布に代えた。麻の襯衣のみで、立烏帽子も脱いだ。瞬間、すうっと清涼感が過ぎる。汗が滲んでいたようだった。整えた髪を二、三度掻きむしる。青紫の布で頭を巻き、襤褸の襯、腰巻きに身を包む旅の風体が正直、しっくりとする。竜衣の指貫までは脱がなかったので、ラフな上体と厳粛な下半身と、見た目は実に違和感がある。
リュカはゆっくりと中庭への扉を通じて、噴水の傍らに立った。弛まない水音が実に心地良い。
一人で黙っていると、色々なことが交錯・混交とするようだった。集中力が拡散し、思わぬ不意打ちもまともに受けてしまう。
「ワッ!」
「をわぁ!」
背後から甲高い声。不覚リュカ、心臓を激しく打ち鳴らされ、狼狽気味に振り返ると、そこにはふて腐れた表情をしている王女・ドリスが腕組みをしながら、屹立していた。
「ドリス……驚かせるなあ」
ホッと胸を撫で下ろすリュカ。しかし……。
「変な恰好」
いきなり先制攻撃。
「非道いなあ、リュカさん――――いやあ、お従兄(にい)様、リュカ王子さま?」
「ああ。勘弁してくれよ」
「リュカさんが、パパス伯父さまの子だったなんて……そんなこと、思いもよらなかったよ」
「わざわざ、言い触らす事でもないからね」
「言い触らすだなんて、あたしにも?」
「君が陛下……叔父さんの娘だって確信無かっただろ」
「……そりゃ、そうだけどさ……」
肩を落とす、ドリス。
「だって、リュカさん――――いきなりその……異国の礼装? で、登城してくるんだもん。しかも、竜使だなんて、天下の鳴り物入りでさ」
「あははは……」
苦笑するリュカ。ポリポリと、後頭部を掻く。
「それに……みと……たのは……つだけど……す、すごく……か……かっ………よくて」
「??」
「ああっ、もうッ。だから、なんて言うか」
顔を紅潮させて、一人勝手にじたばたするドリス。言いたいことが上手く言葉に出てこない。
するとリュカは徐に掌を伸ばして、ドリスの頭をごしごしと撫で始めた。
「っ……、な…………」
いきなりのことに身が固まるドリス。まるで犬・猫扱いのようだと一瞬、恥ずかしさと不快感が過ぎる。
「ごめん、ドリス。こんな大事なことを隠していたのは、僕の方だったようだ。……心から、君に謝る」
そう言ってリュカは胸に手を当て、ドリスに対して拝跪した。
「ちょ、ちょっとぉ――――」
それに対し、ドリスは慌ててリュカの両腕を掴み、立ち上がらせた。怒りだけではない意味の顔の赤らみに、瞳だけはリュカから逸らして言う。
「リュカさんと従兄妹同士なんて、何て言うか……嬉しい―――よ。うん、ホント。ただ、そう……すごくビックリして――――何が何だかわからなくて……チゾットでの出会いからして――――」
昂揚したドリスの言葉。リュカは腕を伸ばし、身振り手振りが激しいドリスの肩を軽く抱き寄せた。
「!!」
そのか細い肩は昂奮のためか緊張のためか、小刻みに震えていた。それは肉親への慈愛の抱擁に等しいものだったのかも知れないが、いきなりのリュカの行動に対し、ドリスの昂奮が張り裂けんばかりに高くなった。
「言っただろ。何も変わらないって。あの時の言葉は、嘘じゃない」
グランヴァニアに入る前夜、野営でのリュカの言葉。
「君も、変わらないでいてくれるはず……だろ」
「…………」
ごしごしと後頭部を撫でられる。それでも優しい、リュカの掌。余分な昂奮もそれで落ち着く。
「君と血が繋がっている――――天の縁だ。これ以上の喜びはないよ、ドリス」
「え…………?」
「そうだろ、ドリス――――」
リュカの言葉の意味を、ドリスは掴めなかった。ただ、両肩に手を添えたリュカが、真っ直ぐに自分を見つめ、兄妹に向ける眼差しで微笑んでくれた。それがしっかりと、心に沁みた。
「あ、え……と。よくわかんないけど――――今日のところはわかったってことにしとく。うん。あたしもちょっとパニクっているし」
「あはははっ」
ドリスは掌でリュカの胸板を押して離れると、無邪気にはにかむ。
「ところで、フローラさんは?」
「ああ。夕食の時間まで少し睡眠を取っているよ」
「そうなんだ。……ちょっと体調崩していない?」
「緊張していたからね。高原の岨道を越えてきた疲れがどっと出たのかも知れない」
「アンシェルも気にしていたからさ、あんまり無理しなくても良いからね、親父のバンサンなんか」
「はははっ。ありがとう、ドリス。フローラにも伝えておくよ」
リュカの笑顔に、頬を染めて瞳を逸らす。
「そ、そろそろ戻るよ。あたしも着替えたり、いろいろとすることあるからさ」
そう言ってドリスは身を翻して自室に戻っていった。
紫連山脈西嶺に陽が隠れ、城下が黄昏の紺色に包まれる。城下の家々の窓に明かりが灯ると共に、王城も一斉に蝋燭や角灯が光る。
フローラが目覚めるとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
「リュカさま、フローラさま。シフォンです。晩餐の準備が調いましたので、そろそろ常の間の方へ」
「ああ、シフォン、ありがとう。大丈夫。直ぐ行くから先に」
「は、はい……それでは――――」
リュカはフローラの手を取って寝台から起こす。
「疲れているようなら、休んでいても良いんだよ」
「ふふっ。大丈夫です。こんなにふかふかの寝台、サラボナ以来でしたから、ついついぐっすりと眠ってしまいましたわ。もう、大丈夫です。ほらっ」
そう言ってくるりと身体を一回転させるフローラ。戯けてみせる妻を、リュカは溜息を交えながら眼を細めて見つめた。
常の間の扉を開けると、随分と豪勢……とまでは言い難い、さも絢爛な宮廷料理とは呼べない、少しだけ奮発した程度の庶民パーティ風の馳走が、テーブルクロスの上に並べられていた。
「代王さまは高級な食材を好まない方でしてね。好んで庶民の料理を誂えるんですよ。物足りなくて、ごめんなさいね」
そう言うのは、侍女長のエレノア。グランヴァニアの給仕・女官を統括する人物で、自身も料理や清掃などの日常雑務をよく極め、時に王臣に対しても直言する女傑である。
「いえ。僕はその方がいい。美食はどうも口に合わないので」
「私もですわ、ふふっ」
「そうかい、それは良かったわ。正直、あたしらも料理が楽で助かっているのさ。本当、いい王様だよ」
小声でそう言うエレノアに、リュカもフローラもくすくすと笑い合った。
そして、安寧王がドリスと共に常の間に姿を見せた。
「おお、二人とも。ささ、早く席に座りなさい。遠慮は無用だ。ささっ」
安寧王が世話好きな人物のようにリュカたちを促す。
「豪勢とは言いがたいが、エレノアらが腕によりを掛けて誂えた料理だ。食べてくれ、リュカ、フローラどの」
「ははっ。ありがとうございます、王陛……」
その時だった。
リュカの腕に絡まっていた、か細い妻の腕の力がすうっと抜けてゆく感覚に、リュカの言葉が思わず止まる。
そして、音もなく絨毯の上、リュカの足許に、ただでさえ色白な妻・フローラの身体が更に白い蝋の様な肌色と化し、横臥っていたである。
その直後のリュカの顛倒ぶりは筆舌に尽くしがたいものがあった。其れを記す、この時の英傑王は、戴いていた立烏帽子が飛び、笏を投げ髪振り乱れ、袍を激しく打ち払い、危うく食卓を薙ぎ払うところだったと記録は語る。ドリスが必死で宥め、パピンやアンシェルらの駆けつけで仆れたフローラは急遽星涼殿に運ばれ、典医官の診療を受けた。
そして、侍女長エレノアが、焦燥に頬痩ける良人リュカを睨視するように、言った。
「フローラ奥さま、ご懐姙です。リュカさま、よくお聞き下さいな。フローラ奥さまは、あなたの。リュカさまの御子を、身ごもられているのです」
その瞬間、リュカや周囲が一瞬、完全に沈黙した。