第2部 故国瑞祥
第42章 受禅への逡巡

星涼殿・閨房

 星涼殿閨房。医官によって運ばれたフローラは、給仕が大慌てで誂えた大きな寝台に寝かせられ、寝息を立てていた。
 取り乱した時にぼさぼさになった竜衣立烏帽子を整え、リュカは寝台の脇に立ちながら、安眠する妻の表情をじっと見つめていた。
 どれくらいの時、そうしていただろう。声が掛からなければ、いつまでも時を忘れて佇んでいたかも知れない。
「リュカさん……」
 その声はドリスだった。リュカはスイッチが入ったかのように身動ぐと、振り返り、微笑みながら頷いた。

 星涼殿の階上に続く尖塔。リュカはドリスに導かれて上る。
 そこはさすが王城のシンボルと言える場所である。整然とした街並みの夜景、遠い山河の形など、おそらく国内を逐一探索しても、ここ以上の絶好のビュースポットはあるまいと思われた。さすがは王族か、さすがは儼然たる王城の威容かとばかりである。まあ、本来、外敵の襲来を監視するという国防の意味においては、この位は当たり前の話ではあるのだが。
「リュカさん、固まってたよ」
 ドリスが小さく笑いながら言う。
「そ、そうか……」
 リュカが苦笑をして返す。
 高い位置にある塔の外だが、今夜は風もなく、晴れている。
「今日は色々なことがありすぎるくらいあって、少し戸惑っているのかも知れないな」
「それは私だって同じだよ。てか、ホントに反則だってば。もう……正直、今もまだ混乱中」
「あははは。別に隠していた訳じゃないんだけどね」
 ドリスからすれば今までそれなりに過ごしてきた日常が、リュカによってがらりと変わった、本来望むべくして望んだ変化だったはずだが、やはりリュカに翻弄されているような気がして落ち着かない。
「おめでとう、って言った方が良いよね」
「正直、まだ実感がわかないんだけど」
「でもさ、フローラさんと結婚してから、ずーっと一緒に居たんでしょ? だったら、子供だってそりゃ、出来るよ」
 ドリスの言葉に、リュカは苦笑する。
「今まで、話くらいはあったけど、特別に意識もしてこなかったから……なんか、頭が真っ白だよ」
「えーっ、なに? まさか嬉しくないとか思ってたりするわけ?」
「馬鹿なこと言うなよ。そんなことあるわけないだろ」
 語気を荒げるリュカ。本気を感じたその怒気に、ドリスは安堵する。
「ただ……」
「ただ?」
「サラボナから今まで、ずっとフローラや、仲間達(あいつら)と一緒に旅をしてきた。……それが、大きく変わることになるのかなって、そう思うと少し寂しいと思うところもあるよ」
「んー……確かにそうかもね。それに、親父たちからも要請されて、王位に就けーなんてさ、それ承けちゃったりなんかしたら、ガラって変わっちゃうしね」
「…………」
「……でもさ、リュカさん。あたしはリュカさんから見ればまだ子供だし、よくそういうコトはわかんないんだけど。……ずっと変わらないままでいるってことは、ないんじゃないかなって、思うんだ」
「ドリス……」
「短い時間だったけど、リュカさんとフローラさんを見てて、リュカさんがフローラさんのこと、ものすっごく大好きだってことは分かる。何て言うのかな……こう、オーラみたいなのがユラユラと立ち上っているというか、何て言うかさ――――」
 くねくねと細い身体を踊らすドリス。思わず、笑いが零れるリュカ。
「だから、赤ちゃんが出来たってコトは――――ホラ良く言うじゃない。二人の“愛の結晶”って」
「うん……子供が出来たことは、本当に嬉しいって思ってるよ。ありがとう、ドリス」
 リュカが微笑んで礼を言うと、ドリスは帰って苛立つ。
「じゃあ、なにそんなに悄々しちゃってるのよ。カッコいいリュカさんはどこ!」
 思わず声を大きくしてそんなこと叫んだドリスが慌てて両手で自分の口を押さえつける。
 その時だった。
「要するに、代王さまの事を思い悩んでいる――――ってことでございましょう、リュカさま」
 声の方に振り返ると、そこには侍女長のエレノアが大きなため息をつきながら、腕に外套を提げてリュカたちに歩み寄る。
「エレノア……」
 ドリスが口を開くと同時に、エレノアはドリスを見て、言う。
「ドリス様の仰ることはご尤もです。是非、ドリス様にも実践して貰いたいものでございますね」
 皮肉まじりに笑うエレノアに、ドリスは顔を赤くするものの反論は出来ない。
「まずはこれを。冷えますからね」
 そう言って、エレノアは提げていた外套を二人に渡す。
「ありがとう、エレノアさん」
 リュカがそれを羽織りながら頭を下げると、エレノアは照れ臭そうに濁声で哄笑し、腕を振った。
「いやですよリュカさま、“さん”だなんて。あたしゃこのお城に長く仕えてきたただの給仕ですから、どうか、エレノアとお呼び下さいませ」
 恭しく頭を下げる。
「それと……フローラのこと、世話を掛けます」
 リュカの言葉に、エレノアはふうとひとつ長くため息をつくと、言った。
「あーっと。リュカさまにどうしても言っておきたいことがありましてね。ご無礼を承知で、よろしいかしらね?」
「はい。なんでしょう」
「あたしゃー政のことなんざ珍紛漢紛で全く分からないんで、王位を何たらかんたらと言うことは知りませんがね。ただリュカさま、フローラ奥さまはずっと身持ちのまま、あの岨道を越えていらっしゃったのですか?」
「ん……。今から思えば、そういうことになるかも知れない」
「知れない……って、ちょいとリュカさま。なんと悠長な。女にとって、身持ちで長い旅をすると言うことが、どのようなことなのか、あなた分かってらっしゃいませんね!」
 エレノアの激昂に、リュカは勿論、ドリスまで目が点になる。
「良いですかリュカさまッ。女にとって、心から愛している殿方の子を宿し、産み、家族として共にその子の成長を楽しみに日々を過ごしてゆく。こんな日常が、何よりの喜び、何よりの幸福なのです。愛する人の子だからこそ、女は身持ちの流産の危険を乗り越え、痛みを耐えて新たな生命を産み出すのものなのです」
「はい……」
「フローラ奥さまが、あのような岨道を危険を冒してまでリュカさまとここにたどり着かれたのは、なぜでございましょう! ……あなたさまをただ愛している。その想いだけでは到底、無理な話なのですよ!」
 エレノアの怒りは続く。

 ――――あなたさまがどのような思いでこのお城に来られたかはこのエレノアは存じませんが、フローラ奥さまは、あなたの思いの負担にはなりたくはないと。
 子を宿していることを知れば、あなたさまはきっと、旅をやめてしまう。
 自分のせいで、大事な思いを犠牲にしては申し訳ない……。
 ゆえに、フローラ奥さまは、自分の身をギリギリまで追い詰めながら、あなたさまの後ろを追ってこられたのではないのですか?
 そうは、思わなかったのですか。

「…………フローラは、何一つも……顔色も変えずに、いつも通りで……」
「リュカさま。女はそんなとき、最大に強さを見せるものなのですよ。危険と背中合せになった時、何よりもそれを表面に出さず、平静を保ち、愛する人に心配を掛けたくないという思いが勝るものなのです。男は、そんな女の気持ちを理解できない……いいえ、理解しにくいものだってことは、分かっちゃいるんですけどねえ」
「フローラ……そんな――――」
 リュカの顔面からさっと血の気が引いてゆく。
「ああっと。別にここまで旅をされたリュカさまを責めているつもりはないんですよ? ただ、ただですよ。本当にお節介なのかも知れませんがね、あたしがどうしても言いたいのは、リュカさまがそんなフローラ奥さまの想いに、どう答えて差し上げられるか……ってことなんですよ」
「エレノア……」
 リュカが親身になって語ってくれているこの侍女長を見つめる。
「いい旦那って、どんなに些細なことでも、妻の想いに応えることが出来る……ってことだと、あたしゃ思うんですけどね。……ま、何であれ、フローラ奥さまはこのエレノアが責任をもってお守りしますから、リュカさまはご自分のことを、しっかりと考えられませ。……僭越でしたけど、どうしても言いたかったことなので、ホント、お許し下さいな」
「あ、ああ。ありがとう……」
 エレノアの気魄に圧倒されたリュカが、思わず上体を深く落として辞儀をする。立烏帽子の先がエレノアの恰幅の良い胸許をかすった。
「あぁーよして下さいってリュカさま。使用人に頭を下げるものではありませんよ。もっと、威厳をもって下さらないと!」
「そ、そう……なのか」
「はいっ。……それじゃ、あたしゃまだ仕事があるんで、これで失礼します」
 エレノアが拝礼をすると、さっと踵を返し、階を降っていった。
 後に残ったリュカとドリスが、しばらく階段の方に視線を向けたまま惘然としていた。
「すごいでしょ、エレノア」
 ドリスが沈黙を破る。リュカがこくんと頷く。
「エレノアは祖父の玄佑王時代から厨を預かっている超ベテラン侍女でさ、本気を出せば親父も、パパス伯父さんも、あのセイシェルでさえも言い負かすくらいなんだよ」
「そ、そんな人がこのお城に……」
 リュカが乾いた笑いをする。
「でも、エレノアが口を出すのは政治的なものじゃないの。んー……何て言うのかな、人として? 違うなー……えーっと……」
「ああ、ドリス。だいたい分かるよ。エレノアの言ったことは正しい。僕はフローラのこと想っていたようで、実はそうじゃなかったってこと」
「リュカさん!」
 手をかざして、止める。リュカは笏で胸許を軽く叩きながら言った。
「いや。これは道理だ。フローラの夫として……フローラの中に宿る……僕の子供――――。そして、君や陛下、エレノアや、このグランヴァニアの臣民……。途方もないことだけど、守らなければならないものが……僕にはある筈なのに――――それに向き合う覚悟が、きっと今までの僕には無かったんじゃないかって……気づかされたような思いがする」
「リュカさん……」
「フローラが倒れた時……いや、もっと以前だ。そう。ドゥーラ媼からもっと話を聞いていれば……あぁ、いやいや。過ぎたことは言っちゃダメか。ともかく、フローラのためにも、僕が成すべきこと、決断をしなければならないことがあるならば……本当。あまり、悠長なことは言っていられないようだな」
「リュカさん」
 ドリスが呼ぶと、リュカは振り向き、ドリスを見つめる。ドリスは心配そうにリュカを見つめ返しながら、言った。
「あのさ……親父の言ったことを、あまり重く考えないで欲しいんだ。……もしもリュカさんが登極を断ったとしても、結果としては今までと同じことだしさ。まァ、あたしが王位を継ぐなんてことはないけど、いざとなったら、そんときはリュカさんの子供に……」
 と、自分で言っててドリスは何を言ってるのかと一瞬、自己嫌悪に囚われてしまう。
 だが、リュカはそんなドリスが言わんとしていることを察し、笑顔で応えた。
「ありがとう、ドリス。……でも、大丈夫。このリュカはパパスの子。グランヴァニア先王デュームパピュスの王子ならば……」
 その語気は静かだが、そこはかとない決意と覚悟が表れているように、ドリスは感じていた。

常の間

 リュカはドリスを私室へと送り、そのまま階下を過ぎて安寧王オデュロンが執務する常の間に向かった。
 晩餐も終わり、今は廊下もしんとしている。リュカの纏う竜衣の衣擦れの音だけがけたたましく響く。
「陛下、リューケイロムです」
「おお、リュカか。さあ、入りなさい」
 待ちかねていたように、安寧王が声を上げる。
 リュカは笏を持ち直し、曲折の揖をして中に入る。
 そこには安寧王の他に近衛総管パピン、そしてシフォンが控えていた。
「フローラ殿の容態はどうか」
「はい。薬湯を含み、今はぐっすりと眠っております」
「うむ……。それは良かった。パピン」
「はっ、代王殿下」
「星涼殿にはエレノアがいるが、近衛府からも警護を」
「畏まりました」
 パピンが拝礼し、リュカにも拝礼をしてから颯然と常の間を後にする。
「あの……陛下?」
「ああ。最近は何かとこの国もガサガサとしてきていてな。王城とは言え、油断は禁物なのだ。フローラ殿は今や大事な躯ゆえ、警護はより厳重にせねばな」
「はっ――――」
 リュカが半ば戸惑いながらも、シフォンが勧める安寧王の傍の席に着座する。
「今日は多事ありて、そなたも諸事考慮するに難渋をしたであろう。フローラ殿も休まれたのなら、そなたも今宵はもう休まれよ。急拵えではあるが、星涼殿はもう調えてあるはずだ」
 安寧王がシフォンに視線を向けると、シフォンはにこりと微笑みながら頷く。
「侍女長のご指示とあれば、シフォン・スーリア、何なりと!」
 不断のおっとり感とは裏腹に、まるで練兵の挨拶のように声を張り上げるシフォン。
「ドリスの保護の後は給仕寮の仕事か。シフォンも本当、お疲れさまだね」
 リュカが微笑みながらそう言うと、シフォンが狼狽したように顔を真っ赤にする。
「そ、そんなことはありません! こ、これが私のお務めですから」
 シフォンにとっては日常の仕事を誉められたことは無かった。彼女に限らず、おそらく給仕寮・侍女の殆ども、その職務を顕官から誉められたことは無いだろう。
「はっはっは。リュカは本当に気遣いが出来るのだな。卑官を犒うのはまさに先王にそっくりだ」
 安寧王がそう言って笑い、シフォンに退出を促した。シフォンの本日の職務はこれで終了なのである。安寧王、そしてリュカに深く拝礼をしてから、シフォンは常の間を後にした。
 安寧王とリュカだけになった常の間。リュカは間を置かずに笏をテーブルの上に置き、安寧王を真っ直ぐに見据えて言った。
「陛下」
「叔父でよい。今はそなたと私の二人だ。何の気遣いも要らぬ」
「では叔父さん……その――――王位のこと……なのですが」
「うむ――――」
 安寧王がティーカップを口に運びながら耳を傾ける。
「今すぐに……は、あまりにも性急。しかし、伯父さんのご配慮に報わなければ、僕やフローラがここまで来た意義を失います。ですから……」
「時間が欲しい――――とな」
 安寧王の返しにリュカは頷く。
「先ほどまでは楼北侯や河西侯までもが、そなたの辞退を諫止しようとしていたのにのう。……やはり、フローラ殿の懐妊がきっかけか」
 すると、リュカは恥じ入るように肩を竦めて言う。

 ――――恥ずかしながら、良い言葉が浮かんできません……。
 恐れながら叔父さんの辛苦や、グランヴァニアの臣民のことよりも、エレノアから言われた言葉。……妻の――――フローラのことを思えばと。
 ただ、ただそれだけのことを思い、しかしながら未だに踏ん切りがつかない僕自身の不断がただただ、忸怩としてあるのみ……。

 リュカの言葉に、安寧王は頷き、安堵したように息を吐く。
「それで良い」
「伯父さん……?」

 ――――エレノアがそなたに何を言ったかは予想がつく。
 私もな、兄上の消息が途絶えた時、登極はもとより、代王としてでさえ政に携わるのを由とせなんだ時、叱咤したのもエレノアだった。
 彼女は言ったよ。政のことは知らないが、王族として、国を守ることが出来なければ、家族を守ることなど出来ない! とな。
 ……リュカよ。そなたは兄上のご遺志を継ぎ、天空の勇者を求める旅を続けるというが、何事も成すためには帰るべき場所が無ければならん。
 船は港が無ければ難破をし、人は家をなくせば路頭に迷うものだ。
 兄上は義姉上、マーサ殿を捜すために国を出られたが、帰するべきところは常に我がグランヴァニアにあった。
 リュカ。そなたの帰するべきところは何処か。今は滅びしサンタローズか。海西のサラボナか。……否、紛いものうここグランヴァニアに相違あるまい。

 叔父・安寧王の切々とした言葉に、リュカはじっと耳を傾ける。
「フローラ殿は、そなたの伴侶としてこの地に埋もれる積もりで身持ちの旅を続けられたのであろう。……私もおそらく、エレノアと同じ思いだが、リュカ。そなたが如何な答えを出そうと、そなたは我が甥ぞ。そして、フローラ殿も、我が甥嫁ぞ。帰すべきところは、ここ以外にはないと、知るがよい」
「叔父さん……」
 リュカが絶句する。
「妻子を守れぬ者が、大志を貫けるはずが無い。臣民では無く、おのが家族のため……理由はどうあれども、それがひいてはグランヴァニア、そしてこの世界の安寧をもたらすことに繋がるのであれば、良いではないか。のう、リュカ」
「はい」
「それに……」
 安寧王が間を置き、目をしばたたかせた後、絞り込むように続けた。
「時間が必要だというのは、私としても助かる話なのだ」
「?」
 リュカがきょとんとする。
「そなたも聞き及んでおろうが、廷臣には様々な考えを持つ者がおってな……。それこそ、私が今、代王として玉座を預かっておることに異議を唱える者や、公然と非難をする者もおる。そうなると、そなたが兄上の座を継承すると言うことになった場合でも、快しと思わぬ者もおるはずだ」
 安寧王の話す事情に、リュカははっとなる。
「故に、星涼殿に――――」
 安寧王は頷く。
「そなたが一度、登極を断ったことは時宜に適っている。星涼殿の警護ももとより、廷臣への根回しも不十分なうちにこの話を先行させては、何が起こるか分からんからな」
「…………」
 リュカが顔をそらして渋い顔をする。今まで全く無縁であり、興味すら無かった政の権力闘争か、その利権か。
 王族に生まれ、またそれがグランヴァニア開闢王統の嫡流たるリュカに課せられた宿命というものが、フローラの懐姙という朗報とともに背負うことになったという事実。
 リュカが帰するべき場所は、安寧王が言うようにグランヴァニアしかない。父パパスが、母マーサを見つけ、帰するべき場所だったグランヴァニア。
 選択肢は、きっとひとつしかない。
 リュカは朧気ながらそう確信していた。そして同時に、これまで過ごしてきた旅の日々。愛するフローラとの蜜月。厳しい旅路の中にあっても、確実にあった夢のような甘い時間。それが、がらりと変わってゆく。そういう確信も懐いていた。
 一気に押し寄せる、変化。魔物たちと戦い、魔界戡定という大志を秘めて行くこととは全く質の違う、政の暗闘。今まで経験したこともないような苦手な世界が、リュカに差し迫り、それを受け止めなければならないという現実は、分かっていてもやはり戸惑い、悩む。「フローラ殿のことは、心配は要らぬ。無事に、そなたの嫡子を授けようほどに」
「ありがとうございます、叔父……いえ、陛下――――」
 国威を賭してのフローラ保護。すでにこのときから、リュカは一個の魔物使いではなく、グランヴァニアの嫡宗太子、フローラはその太子妃としての地位にあることを自覚することになったのかも知れない。

 常の間を出て、星涼殿に向かうリュカの足取りは重く葛藤していた。
 リュカが入室する閨房の扉やその廊下には、すでにパピンに命じられた近衛府の吏僚が警護に就いている。
 淡い灯りが照らす閨房。寝台にはフローラがすやすやと寝息を立てている。決して見飽きることのない、美しいフローラの寝顔。その天使のような表情は、あらゆる艱難辛苦や杞憂、慚愧懺悔を平らかにしてくれそうな気がした。今までも、どれだけこの愛妻の寝顔に癒やされてきただろうか。
 立烏帽子を冠り、竜衣を纏ったまま、寝台に腰掛け、身をひねってフローラを見つめるリュカ。
「無邪気な、寝顔だ……」
 そう呟きながら、そっとフローラの手を取り、軽く握る。
「…………」
 思いが過ぎるが、フローラの寝顔が、それを霧散させた。よほど疲れていたのか、フローラが目覚めることは無く、いつしかリュカも手を握りしめたまま、そのまま横に倒れるように深い眠りに落ちていった。