第1話 ハレー彗星~60年後への誓い~

(今日も出てんな――――)
 最近、彼女がテレビに出る頻度も多くなった。
 CMだけでも、今、結構売れているらしい某癒し系タレントに匹敵するくらいの本数の依頼があるのよ、おほほほっ。などと、端正でどこかしかサディスティックな美貌に浮かべる彼女の、自慢げに語っている笑顔が目に焼き付く。
 自分のカノジョが芸能活動をしているなんて、端から見りゃ羨ましいのだろうが、実際はそうでもない。何はともあれ、時間が合わない事が最大の欠点だ。そして、よくあるだろう、芸能人の恋愛や結婚は、必ず破局するというジンクス。それは売れっ子になればなるほど、背負うことになる。
 千羽谷大学3年・加賀正午は、そんな立場の彼女・黒須カナタと、再び交際してから約一年になる。
 高校時代の華やいだ青春に、まるで淡い春のように清々しい交際を重ねてきた二人。カナタの一方的な突然の別れから、不意の再会。そして、復縁までの道――――。
 決して平坦とは言えない歩みを経て、やって来た。傷つけた人も多かった。だからこそ、カナタを今まで以上に満ち足りた幸せで埋めてやれることが出来るのかが、とりわけ正午にとっては不安であり、期待もしていた。
「ショーゴッ」
 不意にひやりとした感覚が正午の首筋を包み、一瞬、頬に柔らかな感触が当たる。
「おっ、おい、おどかすなよ……」
 突然、高電圧をかけたように、正午の身体が跳ね上がり、心臓がバクバクと音を立てる。頬に当たった感触の方を振り向くと、至近距離にある、『生』彼女の顔。まるで子供のように、無邪気に笑ったくらいにして、深く、惑わすような瞳を捉える。
「ははははっ、ショーゴにスキありぃ――――!」
 ぎゅっと、カナタは細く長い腕を絡めてきた。
「この――――っ」
 正午は一瞬、苦い表情を浮かべたと思うと、片腕でぐいとカナタの頭を抱き寄せる。
「んっ――――…………」
 お互いに、時が止まり、力が抜ける瞬間。この絆を切ることはあり得ぬとするかのように、背中を包み込む腕。
 甘い。カナタの香りが正午は大好きだった。そして、いつも飽きない。今にしてつくづく悔やむと思うことは、今までの空白の時間。
「あはっ。なんか今日の正午って、せっかち――――」
 気づいていたら、仰向けに床に倒されていたカナタ、着ていたブルゾンが弾かれている。そして、キャミソールが幾分はだけた格好に照れと苦み半分のカナタの笑顔に、正午は慌てる。
「たはっ……わっ、わり――――」
 正午は思いも寄らない自分の強引さに身を引いてしまった。
「そーだよね、しばらく逢えなかったからかな――――わかるわかる、うんうん」
 ゆっくりと起きあがったカナタがわずかに潤んだ瞳を正午に向ける、まじまじと何かを確かめるように。そして……
「ウワキはしてないみたいだナ――――」
 と言いながら、カナタは再び、正午との時を止める……。

(細せえし、脚長えし、美人だし……。
 もしかして、俺って超恵まれてる?)
 テレビの音がシャワーの雑音で小さく聞こえる。正午はまたテレビCMの恋人の映像に、思わずそんなことを思っていた。
「よしっ――――と」
 そして突然、正午はテレビを消して部屋の電気も消した。
 静まり返った部屋。正午は何気にベランダの窓を開ける。時々通り過ぎる車の音以外は、余計な雑音は聞こえない、嘉神川沿いの夜。
「すぅ――――…………はぁ――――…………」
 深呼吸をしてみる。千羽谷は都会とはいえ、正午の住むマンション近辺は意外に空気が澄んでいて、空には星が多い。都会の一角にある自然とでも言うのだろう。正午自身、この場所は気に入っている。
「わ――――部屋まっくら。……ショーゴ?」
 浴室から出てきたカナタが、半ば抑揚のない驚きの声を上げる。
「ショーゴ、どうしたの? まっくらじゃん……」
 と、ベランダに差す星からの光芒に照らされている正午の後ろ姿に、カナタは少しドキッとなる。
 何となく、今まで彼女が見て、触れてきた加賀正午の背中ではない別の雰囲気が、そこに見えた気がした。
「ああカナタ。何となく……空、見てただけさ――――」
「ふーん……」
 『興味』なさそうな鼻返事を返すカナタだったが、その瞳はまっすぐに正午に向けられている。
「ね、ショーゴ。隣、良いでしょ?」
「おう、湯冷めすんなよな?」
「そうなる前に、君が抱きしめてくれるんでしょ?」
「はーはーはーそうだな――――」
 言うが早いか、カナタは正午にぴたりと身を寄せるように並んだ。彼女の深い萌葱の瞳に、こんな都会の片隅に、わずかに広がる神秘な夜の宝石が宿している。
「どう? なかなかおつなシチュエーションでしょ」
「合格よ、合格。うん……君は無条件で最優秀成績卒業者にして進ぜよう」
「有り難き幸せに存じます。学長のお眼鏡にかなうことが、この上ない幸せと――――」
「……空見っぱなしで、声だけで演技してるよ、加賀クンは――――」
「なかなか行ける?」
「ラジオドラマのエキストラならね――――」
「厳しいな」
 そんな実に他愛もなくとりとめのない会話を交わせる二人。人から言わせれば、ヘタなコントより面白いと揶揄されるのだが、当然彼らは気にしたことはない。
「……それより、どうしたのよ。ハレー彗星でも見える?」
「約六〇年後。今頃は海王星の端っこあたりでも飛んでるんだろうな――――」
 正午の言葉にカナタは感嘆する。
「へぇ、ホント。スゴイね君。雑学博士だ」
 などと言った途端に正午は右手で前髪をかき上げて失笑する。
「そんなん知らん」
「…………」
 ぴたりと動きの止まるカナタ。そっと振り向くと、カナタは呆れたように下がり目をつくって正午を見ている。
「たまにほめてあげたのに……」
 拗ねている。
「いや。海王星は知らないけど、あとだいたい六〇年後に、再びハレーブームが来るって」
「ふーん…………」
 今度こそ全く興味がなさそうだ。
「あー、寒い寒い。湯冷めしちゃうよ」
 ぷいと背中を向けるカナタ。その直後、ふわりと彼女の細い身体が包まれる。
「ちょ、ちょっとショーゴ?」
「話は最後まで聞くもんだ」
 正午の指がキャミソールの肩ひもをそっとずらし、はだけた蝶のタトゥーに触れる。羽のように柔らかい感触。
「あっ……もう、ダメだったら……」
「聞く? 聞くか?」
 彼女独特のこの柔らかさが正午は大好きなのだ。
「…………」
 無言のカナタ。しかし、明らかに火照っている顔。
「聞かぬと言うのならば――――」
 さすがは高価いシャンプーの、何とも良い香りがする洗い立ての髪、そして常に保ち続けている首筋の肌へと、正午の『言葉』が触れてゆく。
「ん……くすぐっ……たいよショー……ゴ」
 瞬間的に硬くなる身体、抜群のスタイルだからこそ、些少の反応でも大きく伝わる。
「聞け、聞け、聞け、聞け、聞け…………」
 脳が痺れてゆく。カナタには一日中触れていても飽きない。
「はぁ――――……ギブ、ぎぶぅ……」
 やけに熱い吐息を寸前で止め、カナタはわずかに身をずらす。
 互いの背中に腕を絡めながら、少しだけ情欲的なイタズラはおさまる。
「……それで? なぁによ」
 ほんの少し不機嫌な口調、上目遣いを正午に向ける。

「今日と同じ服で、君と明日も過ごしたい――――」

 それは二人が再び同じ道を歩めるきっかけとなった名節。
「ショーゴ……?」
 ぎゅっと、カナタを抱く正午の腕に力が入る。

「次のハレー彗星、君と二人で見てみたい」

「…………」
 一瞬、茫然となるカナタ。
「なんてのは――――どうよ?」
「…………」
 ぎこちなく笑みを浮かべる正午に、固まったように瞬きすら忘れているカナタ。
「イケテナイ?」
「…………ぷっ…………」
 発端となった。カナタは次の瞬間、肩を震わせ、額を正午の胸に当てて哄笑した。
「カナタぁ?」
「ははははははははっ。き、君、いい。いいよ、それ。あははははははっ」
 どうも揶揄されている気がする。
「イケテルか」
 正午はどうやら本気だったらしい。
「いけてる、いけてるよ。すっごくいけてる」
 しかしカナタはどうもツボにはまったらしく、思い出すたびに笑っている。
「そう。それならば良かった……つーか、おまえ笑いすぎ」
「おまえ?」
 ぴたりと素に戻るカナタの表情。
「いや、君……」
「よろしい。……ふぅ――――」
 意地悪そうににやりと笑みを浮かべると、カナタは細く長い腕を正午の首に絡める。そして、今日何度目かの口づけを交わすと、深い色の瞳で見つめ合った。
「ムード いず リターン……」
 正午の呟きに、小さく微笑むカナタ。
「ありがと、ショーゴ……」
「ん――――?」
「でも……忘れちゃってるかも」
「何が?」
「……ハレー彗星……」
 正午は小さくはにかみながら天空に目を配った。そこには果てしない銀河が、どこまでも続いている。
「一瞬だよ、きっと……」
「……一瞬?」
「一周約76.1年。B.C.二三九年、古代バビロニア人によって発見。一六〇七年、オックスフォード大学の天文学者エイモンド・ハレー博士によって学術的な解明となる……うんぬん……」
「へぇ、スゴイね君」
 このセリフひとつを言うために、正午の休息時間は減った。深歩のパソコンも時々活用させてもらっていた。
「なんたらかんたら……で、地球は一年で一周――――それに較べたら、奴に取っちゃ一瞬なんだろうね」
「そうねえ……て言うか、地球って、なんでそんなにせせこましく回っちゃっているのかぁ……とか思っていたりして」
「あり得る」
「ん…………それじゃ、忘れちゃうかな?」
 少しだけ寂しそうに俯くカナタ。
「だからこそ、忘れないようにな」
 正午がカナタの髪に口づける。
「二〇六一年、絶対に見てやる……」
「お? 気合い入ってるね」
 そして突然、正午は天に向かって叫んだ。
「ずえっっっとゎい見てぇやるぅぉぁぁぁ――――――――!!」
 一斉に吠え出す犬たち、灯りがともる家々の窓。
「ちょっとやめてよショーゴったら!」
 青筋を立て、流血プロレスラーの如き闘魂ポーズ張りな正午の姿に、さすがのカナタも呆れる。そしてカナタにずるずると引きずられるように、部屋へと入っていった。