ルーマニア共和国 在ブカレスト日本大使館
「加賀です――――おお、黒須教授。ご無沙汰をしています。……ええ、ええ、いやいやお変わり無く――――ははははっ」
在ルーマニア大使・加賀祥彦。五十四歳。
正午の叔父に当たり、ルーマニア大使となって三年。黒須教授とは大学時代からの旧友でもあった。
「その件について、日本政府は言うに及ばず、観光相を筆頭にナルターセ首相も大いに乗り気の様子ですよ。まあ、ルーマニア政府としては、未だ残るチャウシェスク時代の影を払拭するために、色々と模索をしているようなので、教授のお申し出は願ってもないことでしょう。よろしゅうございましたな」
加賀大使の机には、千羽谷大学名の茶封筒と、黒須教授の名前が入った書類が並べられている。
「……そう言えば教授、私の甥が随分とお世話になっているようで――――ええ、拙い甥で色々と教授の手を患わせてはおりませぬかな? ……と、ほう。教授の――――それは何とも…………」
感嘆と驚愕と苦笑が錯綜する加賀大使。
「……何ですと? 正午が――――ええ、それは……ええ……しかし黒須教授……はぁ……まあ……私としては異存はありませんが……ただ……正午が教授のお役に立ちますかな?」
食い入るように書類を眺める加賀大使。その表題には、『ルーマニア日本美術館創設の草案』とあった。
「私の方は全く願ったり叶ったりなのですがね。正午本人の意思を確かめねばならないでしょう。……分かりました黒須教授。私の方からも、正午に訊ねておきましょう。……ええ、ええ。では、また」
電話を切った後、加賀大使はひとつため息をつき、窓の外に広がる、ブカレストの穏やかな街並みを見遣った。
「正午の奴の将来は開かれるか――――」
「………て」
「…………」
「……きて?」
「ぐ――――」
「…おきて?」
「が――――――――」
「……………………」
「すぴ――――――――」
爽やかな朝だと、誰もが思うはずだったろう、その時までは……。
ごらぁ――――――――!! ちゃきちゃき起きらんかぁ――――――――!!
電線に留まっていたスズメやカラスが驚いて一斉に飛び上がる。
「たはぁ――――――――!?」
瞬間、裸の上体をバネのようにして起きあがる加賀正午。耳がきーんと鳴り、寝ぼけ眼が焦点を合わすのに若干の時間が掛かる。
「ほげ? ん……」
寝癖のだらしない顔をきょろきょろさせ、雷鳴の震源地を探り当てると、Tシャツにエプロンを纏っただけの恋人が、仁王立ちで般若の形相、我睨みつけたり……と。
「いつまで寝てる気、ショーゴ! 朝ご飯冷めちゃうでしょ!」
「…………」
時計をまさぐり、目をしばたたかせる。
「七時……二十二分……」
ぼうっとした口調で、電波時計のデジタル液晶を見つめる正午。
「おいおいカナタさん……加賀正午君は本日“午前”お休みなのであります――――もちょっと眠らせてはいただけませんか。朝ご飯でしたら、そのままでお願い致しまふ――――…………」
もごもごと言葉の最後がかき消えてゆく。シーツにくるまっていた。
「くおらっ、そこッッ。君は休みでも、黒須カナタは今日からきついきついお仕事が始まるの! 起きて、私を見送りなさいっ」
がばっと、容赦なくカナタはシーツをはぎ取る。ひやりとした空気が、正午の全身に触れる。
「寒ッ」
「さむっ、じゃないの。ほぅら、ちゃきちゃき服を着なさい」
「ううっ……」
僧侶の寒行に良くある冷水を浴びたかのように、昨夜から続く正午の温かくて心地よい眠気は吹っ飛んだ。
「わかったよ。服着るから、あっち行ってて」
「えーどうして。別にいいじゃん、今さら恥ずかしがること無いでしょ?」
「はーはーはー、だったらカナタさん、君も今ここで着替えなさいますか。さすがにTシャツだけじゃ寒かろうて?」
「失礼な。きちんと下着も穿いてますよぉ。それに、女の子は男とは違うの。どんなに好きな人の前でも、着替えは見られたくないものよ? どう、またひとつ、賢くなったでしょ?」
「大変、勉強になりマスタ」
まあ、着替えると言っても、チノパンとシャツを着るだけなのだが。そこんところは女と比べて簡単なのか。
「まったく、別人だよなぁ(ぼそっ)」
「何か言った、ショーゴ」
カナタの突き刺すような眼差し。
「いえいえ、何でもありません」
慌てて首を振る正午。
「にぃ――――――――っ」
シャツのカフスを通した後、突然カナタが野望満ちた笑みを浮かべ、正午の顔面に近づける。
「な、何だよ……」
思わず身じろぐ正午。
「ん――――――――っ」
若干その深い瞳が揺れているように見えた。
「ねえショーゴ、ちゅーしてもいい?」
「は?」
何を言い出したかと思い、一瞬、正午の顔が歪む。
「ショーゴ、ん~~~~っ」
色気もなく唇を尖らせ、突き出してくるカナタ。いつだっただろう、いきなり浜咲学園の制服を着込んでほろ酔い気分でここに来たときがあった。その時は無性にカナタを抱きたい欲求に駆られた気がした正午。今も制服を着た彼女がいたとするならば、普通の男だったら沸騰点は俄に下がるだろう。
しかし、今はそんなことを考えている余地はない。カナタの唇は触れていて実に飽きない。心地よい。離れたくない。普段は、この口から本当、猫やカラスのように、わがままで、どこかしか魅惑的な台詞が断続的に発せられ、他者を圧倒する。
正午が少しだけ本気に、カナタの願望に答える。時折憎まれ口や、人を刺す言葉を発する魅惑的な美女の唇を塞ぐたびに、何となくサディスティックな気分になるのだ。
自然に絡みつく互いの腕もまた、飽くことのない煽情の儀式だろう。そう、若き男と女ならば、それはむしろ健康的で普通のこと。邪魔さえ入らなければ……だが。
「ん…………あ――――電話」
聴きなれた着メロが静かなひとときを破る。
銀色の糸を繋ぎ、カナタが微笑みながら正午から離れた。
寝起きの気持ちの良い意識と重ねて、恋人との交歓に、正午はすっかりと骨抜きにされそうだった。
「はい……あ、夏原さん、おはようございます――――はい、はい……」
電話の相手はどうやらカナタの所属する事務所の夏原光樹副社長だった。正午は会ったことはない。それよりも、加賀正午という存在自体、夏原は知らないだろう。
短い電話を終えたカナタがかったるそうにため息をつく。
「早く来いって?」
正午が訊ねると、カナタはカクンと首を落とす。
「スポンサーを待たせるなーって。夏原さんのいつものことヨ」
「人気者は大変だなぁ」
「だから、こーしちゃいられないの。ショーゴ、ご飯早く食べちゃいなよ」
「バリバリ食う気だったぞ? でもなぁ~」
正午の眼差しは、つややかに光る彼女の唇を見つめている。
「したかったんだもん、仕方ないじゃん?」
それが幸福に包まれていることを実感できる、黒須カナタという女性なのだ。
「また来るよ。バーイ、ショーゴ」
今度の仕事はそう長くはかからない。それだけを言って、カナタはいつものように仕事に向かっていった。
「さぁて、俺もぼちぼちと……」
カナタがいなくなると、途端にかつて正午がここに住み始めた頃の雰囲気に戻る。今はそれがとても寂しく感じるときが多い。最近は特にカナタの香りが残るうちに外出することが癖になっていた。
「こんにちは、ショーゴくん」
昼前、千羽谷駅前公園に差し掛かったとき、清楚で従順な雰囲気の少女が親しげに話しかけきた。
「やあ、音緒ちゃん」
荷嶋音緒。喫茶店・キュービックカフェで知り合ったときはまだ女子高生だった彼女。カナタと別れて以来フリーだった正午は、フードジャーナリストを目指しているという彼女の懸命な姿に自然に惹かれていった。そして、ごく自然につき合うようになり、ごく自然に……カナタとの出逢いで、元に戻った。
「これから大学、行くんでしょう?」
「ああ、午後からだからね。音緒ちゃんも?」
「うん。一緒に行きましょう」
正午・カナタ・音緒。三人の間にはとりわけ気まずさなどは感じられなかった。むしろ、互いが容認し合っている、不思議な関係。
「カナタさんとは、うまくいってるの?」
「何とかね。今日からまた、仕事だって言ってたよ」
「最近、本当に忙しくなってきてるみたいなんだ――――。カナタさん、テレビで見かけない日少なくなってきてるから」
「本人はあのまんまなんだけどね。脳天気というか、相変わらずというか――――」
苦笑する正午。音緒も微笑む。彼女の本来の素顔なのか、微笑みはどこか影があるように感じる。正午からは、意識的にカナタの話はしない。
「そうだ。音緒ちゃんの方はどう? お菓子の研究、調子良い?」
「え、あっ、うん。おかげさまで今のところ順調かな? てへっ♪」
首をわずかに傾げてはにかむ。音緒らしい笑いだ。
「そっか。ちょっと安心したよ」
「え? ショーゴくん……それって」
音緒はわずかに頬の色を変えている。
「いや、ほら――――何かに詰まっていたりしていないかなぁ……なんて、思ってたり。難しい問題とかあったりするとさ」
「んー……あったかなぁ――――」
考える。根が真面目だから、その場しのぎの出任せでも、真面目に考える。結果、思わぬ答えも時々出る。人はそれをやぶ蛇というらしい。
「てへ♪ 大丈夫だよ。うんうん、問題ない、問題ない」
大丈夫だそうだ。ニアミスに気づかず、正午は安心した。
「試作品出来上がったら、またよろしくお願いできるかな……」
「おうとも。俺で良ければいつでも……」
「よかったぁ。実は、今回は静流さんの協力もあるから自信作だったりするの。やっぱり、ショーゴくんには真っ先に食べてもらいたいじゃない?」
「あーはーはーはー、なるー。静流さんの……」
と、そこで一瞬固まる正午。理由は多々ある。
「期待してまふよ」
本当に嬉しそうに笑う音緒。
彼女は、今自分のことをどう思っているのだろう……。男の身勝手なのだろうか、カナタがいないとき、正午は時々そんなことを考えたりする。少なくても嫌ってはいないだろうか。友達よりもちょっと上の、親友未満程度にでも思ってくれていれば嬉しいとか。
男女の友情はあり得ないとよく言うが、そんなことを言う奴は下心ありありの連中の戯れ言だろう。
正午は現在、音緒と身体の関係を持ちたいという気持ちは、正直ない。きっと、寸分でもそんな思いがあれば、正午自身、音緒を遠ざけ、避けていただろう。
また、音緒自身も、もう正午と関係する気はない。これ以上、カナタに引け目を感じてまで、正午と男女でありたいとは思ってはいないはずだった。
お互い、一度は一線を越えた仲だ。何も知らない、キュービックカフェで初めて知り合った時には戻れはしないが、あからさまに他人気取りをするのは三流芝居にも劣る。
自然のままに、正午と音緒の、一部の欠点を長所に変えて、二人はあの時から、親友としてつきあい始めたのだ。
「そっかあ。そりゃ寂しいね。差し入れした方が良い?」
カナタ不在の正午の食糧難生活に、音緒が苦笑いする。
「出来うることなれば、お願いしたいと」
真剣だった。音緒の料理は間違いなく旨い。時々怪しいものが混じることを除けばだが。
「はい。ショーゴくんのために、ふたはだもさめ肌も脱ぎましょう」
突っ込みどころだろうが、敢えてやめておく。
その時、正午のケータイが鳴った。
「ん? ああ、なゆか」
北原那由多。大学で、同じ黒須教授の授業を受けた同朋だ。素人目にも彼女が手がけるオブジェや絵画の美術のセンスが抜群で、一度彼女のアトリエ兼ガレージを拝ませてもらったことがある。
「ん――――と、はいはい、なゆ?」
正午は一瞬、ベタベタのギャグを思いついたが封印した。那由多の気持ちの良い笑い声が音緒にも聞こえる。
「え……、おぉ、バッチリだ。うんうん、今日もよろしく。で……? ハイハイ。はい……ん? 黒須教授が、俺に? なんで?」
那由多の揶揄にしかめっ面を浮かべる正午。
「……あぁ、分かったよ。今から行ってみるよ。うん……ああ、わざわざさんきゅ。バイ」
電話を切ると、正午は眉毛を八の字に曲げ、音緒に振り返る。
「ど……どうしたの?」
ばつが悪そうに、音緒が見返す。
「黒須教授が、俺を特にご指名だそうで」
「え、それって……」
音緒の想像はともかく、正午は自らが犯したと思われそうな罪状を、記憶の糸を必至で辿り探してみていた。とかく深刻な表情で落ち着かない様子の男と、苦笑さめやらぬ女が並んで歩いていた、奇妙なカップルだと、一部のミーハー人はその日の話題にしていたという。