第3話 混迷の陽射し

 着メロを抑え、バイブレーションが着信を伝える。
「あ、すみませんー。トイレ行って来まーす」
 事務所の副社長・夏原と話をしていたカナタは中座して小走りに人のいない外階段へ出ると、画面に表示された名前を見て嬉々と携帯を取った。
「ハーイ、ショーゴ」
(ああ、カナタ。仕事中だっただろ、ごめん……)
 するとカナタは乾いた笑いをしてから言った。
「分かってて電話したんでしょ。めちゃくちゃ、確信犯だ――――」
(たは――――っ……もしかしてタイミング、めちゃ悪かったかい? だったら、後で――――)
「ううん、いいよ。夏原さんの話長くて、そろそろ飽きてきたなーって思っていたところだったから。ショーゴのお陰で、抜け出すタイミングつかめたって感じかな?」
(そっか――――それなら良かった……)
 電話越しに聞こえる恋人の口調の変化を、カナタは聞き逃さなかった。
「どうしたのショーゴ? 何かあった?」
(え……ああ。その事なんだけど。今日……仕事は?)
「あ、うん。大体9時頃になるかな――――今日はあまり入ってないんだけど、夏原さんのお説教が長引きそうなのだ。いやねぇ、若いのにジジイ化しちゃってんの」
 と言いながら苦笑するカナタ。正午も笑う。
「分かった。迎えに行こうか――――」
「……? いいよ別に」
 疑問に言葉を濁らすカナタ。
「……そうか。あはは、そうだな。うん、分かったよ」
「……ショーゴ?」
 いよいよ心配になるカナタ。
「ホント、ゴメン。帰ってから話すから。仕事、頑張れよ」
 正午はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
「ショーゴ…………」
 しかし、カナタに思いを巡らせる暇はなかった。
「カナタちゃ――――ん! 夏さんカンカンだ――――っ」
「あ……ハーイ……」
 マネージャーの頼りない声にカナタは現実に引き戻される。

「……加賀君、だっけ?」
 事務所副社長・夏原光樹が何気なしに突っ込むと、カナタは一瞬、眉を顰めた。
「ええごめんなさい……んーっと……」
「別に隠さなくてもいい。ただ、何事も正直に言ってくれ」
 夏原は咎め立てるつもりはないとばかりに、さらりと言う。
「…………はい」
 カナタに張り詰めていた小さな緊張感がすうっと抜けてしまう。
「カナタ。君を見出した私の目はやはり曇ってはいなかったようだ」
 突然、そんな言葉から切り出した夏原に、カナタは怪訝な眼差しを向ける。
「どうかしたんですか?」
 何かを躊躇っているかのような夏原の態度に、カナタが急かすように突っ込むと、夏原は髪の毛をくしゃくしゃに掻きむしり、デスクの引き出しから封筒に収められた書類を取り出した。英字で書かれた、どこかの社名入りの封筒。
「まずは読んでみろ。大丈夫、日本語訳はされている」
 カナタが夏原の表情をいちいち確かめるように視線を向けながら、おもむろに封筒に収められた書類に目を通した。

「……………………」
 やがて、カナタは息を呑み、瞠目した。
「!?」
 そして驚愕冷めやらない顔つきで夏原を見た。書類を持つ手が震える。
「夏原さん……これは……」
 熱い眼差しで夏原を見るカナタ。夏原は事も無げに口の端で笑った。
「……君にとっては悪い話ではないと思うが。まぁ、時間はあるから、ゆっくりと考えてみればいい」
「…………」
 カナタは何度も何度も、そこに書かれている内容を読み返す。
「まあ私個人としては、是非もない話だと理解しているが、最終的には君の意思を尊重したいと思っているよ、うん……」
「…………」
 しかしカナタはその時、まるで魂を抜かれたかのように呆け、そこだけに自分の世界を創り上げてしまっていた。

 芸能人はこよなくスキャンダルを天敵とする節がある。
 事務所筋からすれば、それが所属タレントの人気凋落に繋がるからだとされるのならば、四六時中神経を尖らせて奔放な商品たちの監視を怠ることはないだろう。
 だが、カナタの所属する事務所、とりわけカナタをスカウトした副社長の夏原はそう言ったタレント達を束縛することを良しとは考えていない人物だった。
 恋愛自由主義と言うには語弊があるかも知れないが、取りあえず交際相手の素性を知っておけば余程のことがない限り認めるような考えを持っていた。
 カナタが正午と交際していることはすでに夏原を始めとする事務所関係者の知りうる暗黙の事実なのだろうが、唯一カナタが隠していることは、その正午と半同棲状態にあると言うことだった。
 さすがにそこまでは、カナタとしてもずけずけとありのままを言う勇気はなかった。だからこそ、正午関連の話になると、カナタも無意識なりにはぐらかそうとする。
「ここでいいよ、ありがとう――――」
 千羽谷駅から少し離れた場所で、車を停めさせる。マネージャーが翌日の予定を何度も確かめるように言い聞かせ、もう飽きたとばかりにカナタがさっさと車を見送る。
「はぁ――――」
 やっと、解放されたと思う瞬間。歩いて十数分の正午のアパートを目指しててくてくと歩き出す。時計を見ると午後の9時半を少し過ぎた頃合い。
「…………」
 それまで、自分でも驚くほどの気持ちの高揚感がカナタを包んでいた。今もなお、どこかでハイ・ビートな自分がいて、たがを外せば躍り出してしまいそうな気分だった。マネージャーが去り、ひとりになった今、ようやくそれは静かな興奮へと変化し、幾分冷静を取り戻しかけていた。
「…………ショーゴ…………」
 そして、それは同時に、昼間の恋人からの電話と、これからつき当たる現実という名の壁に気づき、立ち止まる自分を知ることになった。高揚と落胆が奇妙にミックスする、異様な心持ちだった。
 世界はいつもと同じ色を放っている。この空の下に生きている人々の喜びや悲しみの心が煌びやかな色を作っているのだろう。カナタが今心に抱く静かな高揚感や、正午が戸惑う何か。見知らぬ誰かに訪れる出会いと別れ。
 それでも色は変わらない。変わらない風景の中に、自分はいる。決して特別な存在なんかじゃないと。

 インタフォンが正午を呼び起こす。小さなモニタに映る、恋人の笑顔。
「…………」
 そして正午の中の芯が一瞬、烈しく熱くなった。
「ただいま、ショー……!」
 ドアが開き、正午の前に姿を見せた瞬間に、カナタの身体は恋人に捕捉されていた。
「ショー……っん」
 ドアが閉まると同時に二人はしなやかに床に崩れ落ちた。カナタが拒む暇もなくブラウスが脱がされ、なめらかな肌に恋人の指先が辿る。
 拒絶と快感が交錯し、小刻みに震える。
「しょ、ショーゴ……こ、こんなところじゃ…………」
 しかし言葉とは実に虚しいものだった。いつもより強く求め合いたい欲望がカナタを大胆にさせていた。そして、トレードマークであるミニスカート姿の彼女は、すぐに正午を受け入れることが出来た。
「うぅ……」
 正午は場所すら忘れて、貪るようにカナタに印を付けてゆく。カナタもまた、言いようのない興奮に理性を包まれて、白く長い脚を開き、正午に取り憑く。息も絶え絶えな熱い息づかいと、嗄れかけた声が、ずっと狭い玄関に反響していた。

「……ショーゴ……?」
 シャワーの熱さをもっても、正午はどこかぼうっとしている。事の後はいつも間が抜けたかのような感じなのだが、違和感は拭いきれない。
「……えいっ」
 突然、カナタが正午の鼻の頭を摘んだ。
「ひゃたたたたたたたたたっ!」
 いきなりの事に正午は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「何すんねんっ」
 イタズラっぽく笑うカナタをきっと睨みつける正午。
「ほー…………それはこっちのセリフだよ。もぅ――――君は飢えたトラだ。ううん、トラの方がカワイイ。オオカミ……違うな。えーっと……ハイエナ……よりも凶暴な、ショーゴという生き物だ」
 訳が分からない事をぶつぶつと言いながら再び正午の鼻を摘む。
「こ、こらやめろっ」
「あははは」
 シャワーを浴びながらじゃれ合う恋人たち。若さは大いなる特権。いつしか再び愛を重ねてペースが戻る。

「……そんなに我慢できなかったの?」
 火照った身体にバスローブを纏い、冷えたフルーツジュースをひと呷りして、カナタは訊ねる。
「あ……ごめん……そう言う訳じゃなかったんだけど……」
「もう、鍵も掛けないで、誰か来たらどうするつもりだったのかな」
「…………」
 迂闊。
「なんてね――――」
 ちょこんと正午の傍らに腰を落とし、その肩にもたれる。
「……何かあったの?」
「…………」
「ずっと……それが気になっていたよ。昼間の電話から……」
「…………」
 カナタの問いに、正午のどこかしか張り詰めていた表情が、ゆっくりと崩れてゆく。
「カナタ――――」
 正午がカナタの肩を優しく抱き寄せる。
「…………?」
「……俺は黒須カナタが好きだ。お前のこと、大好きだ――――」
「えっ――――?」
 今さら何をと思いつつ、カナタは頬を染めた。やはり、いかに愛し合っている恋人同士とはいえ、やはり言葉にされると嬉しいものだろう。
「うん……私も好きだよ、ショーゴのこと」
「なぁ、カナタ。君はやっぱり――――」
 戸惑う正午。
「……話して? 私なら大丈夫」
 カナタもまた、ひとつのきっかけを求めていたからだった。
 正午はぽつりぽつりと話し始めた。