「加賀です。おはようございます」
『おう、待っていた。入りたまえ』
黒須教授は妙に上機嫌な面持ちで正午を迎えた。
「黒須教授、僕にどの様なご用件でしょうか」
「まあ、まずはゆっくりとコーヒーでも……と、言いたいところだが、まどろっこしい言い回しは私も好きじゃないのでね。単刀直入に言わせてもらうが、良いか」
「お願いします――――」
煙草に火をつけてひとつ間を置くと、黒須教授はゆっくりと話し始めた。
「私が東欧に日本美術館の開設を図っていることは知っているだろう」
「はい。教授が専攻されている哲学の分野においては、ヨーロッパ、とりわけ東欧諸国への日本文化の開拓は必要不可欠だと」
「そうだ。……そして先日、とある国から連絡が入ってね。政府の全面支援で、それが実現しそうなのだ」
「え――――、そうなんですかっ。それはおめでとうございます」
那由多の影響が大きいとはいえ、黒須教授の講義を受講している身、共鳴する部分も大きいので、素直に喜べた。
「ありがとう。これも、おそらく君の力もあったからこそだと思ってね」
「え……俺の…………どういう事ですか」
すると教授はゆっくりと煙草を吹かし、灰皿にねじ込むと、まっすぐ正午を見つめて言った。
「ルーマニアなんだよ、政府が全面支援を申し出た国は」
「ルー……マニア――――」
その国名は、正午にとって妙に馴染み深い。
「加賀大使には深く感謝をしているのだ。確か、君の叔父だったよね――――」
「あ…………はい……」
正午の脳裏にどこかしか苦手な人物の顔が浮かぶ。
「そこで私はひとまず、ブカレスト私立大学への留学を打診し、現地で私の手助けをしてもらいたいと思っているのだよ。……君にね」
「…………はぁ?」
正午は愕然となった。
「ああ、誤解はしないでくれよ。君には期待をしているのだ。なかなかいないからな、君のような生徒は、はっはっはっは」
色々な意味を込めているのだろう。
「で、ですが教授。助力をするならば俺なんかよりも造詣が深いなゆ……北原の方が適任じゃないのですか?」
「もちろん、北原君にも打診はしたよ。……しかし、若い女性ひとりで遠く離れた国に追いやるのも気が引けてね……。まぁ、君も一緒ならば、彼女も安心だろう」
始めから那由多と自分を送るつもりだな……などと思わせる黒須教授の言葉。
「教授――――俺は……」
「……ああ、分かっている。……だが、君にとっても、娘にとっても必ずしも悪い話ではないと思うがね」
「教授、どのくらいの期間なのでしょうか……」
それはどうしても知っておかなければならないこと。
「うむ……。ルーマニア政府の状況次第だが、取りあえずは、来春から二年――――」
「二年…………」
正午は反芻した。偏に二年と言っても、それは決して短くはない。
「……まぁ、君も事情があるだろう。今すぐに返答が欲しいとは言わないが、よくよく考えてみてくれたまえ」
黒須教授が言うには、二ヶ月以内にはルーマニア政府へ答申しなければならないとのことだった。
「急な話……だよね」
さすがのカナタも、動揺を隠しきれない様子で、不安げな眼差しを正午に向けている。
「……ふぅ、それにしてもお父さんもヒドイなぁ――――。そんな大事なこと、娘の私に一言も話さないなんて……」
そう言って乾いた笑いをするカナタ。
「……ルーマニアか…………遠いよね……」
小さく、カナタは呟いた。
「カナタ……君ならどうする。俺が遙か遠い外国に行ってしまっても平気なのか」
「…………」
すると、カナタはわずかに寂しそうな表情で正午を見つめた。
「残念だけど、好きな人が外国に行ってしまっても平気なほど、私は強くないよ…………でも…………」
カナタは言葉を詰まらせる。
「……でも、ショーゴにとって、それがためになるなら……、私は止める事なんて出来ないよ」
もっともな答えだった。最終的に決めるのは自分自身。その選択がどうであろうが、誰にも責任はない。
「私には……ショーゴを止めることは……」
ぎゅっと、正午の胸にしがみつくカナタ。どことなく様子がおかしいことを感じつつも、正午はカナタをそっと抱きしめ、良い香りのする髪に唇を当てた。
「もうしばらく、考えてみることにする」
「そうだよね……」
複雑な思いが真綿に水のように浸透してゆく。運命の岐路に向かって歩んでいることを、今はまだ二人とも気づかないでいる。
「…………」
翌朝、正午の家を出たカナタは、前日とは打って変わって沈鬱な表情のままだった。したくもないのに、何度もため息が出てしまう。
「ダメダメダメッ! コラ、カナタッ、キミは万民に夢を与える芸能人なんだゾッ! 朝からクラーイ顔するな!」
自己暗示を掛けるように、繰り返し言い聞かす。その姿が端から見れば随分と奇異な挙動不審者のように捉えられそうだった。
「あ、カナタさんっ」
千羽谷駅前公園に差し掛かった時、カナタは呼び止められた。
「あっ、音緒ちゃん――――」
小走りに、音緒は近づいてきた。心なしか、浮かれ気分のような表情を見せている。
「おはよー、カナタさん」
「おはよう。おひさ――――」
「……? どうしたの、なんか暗い顔してる」
分かりやすすぎなのだろう。
「う――――――――ん…………」
「……ショーゴ君とケンカでもしたの?」
「ん――――。その方が何倍楽かもしんないよ」
「?」
首を傾げる音緒。
どちらが誘ったわけではない。成り行きのように公園のベンチに並ぶ。
(遅刻しても良い気分だし――――)
そんなものかと、音緒は苦笑する。
沈鬱の理由をカナタは簡単に話した。正午がルーマニアに行くかも知れないこと。そして、自分の将来のこと……。
何となく、同性でもかつての『戦友』音緒にだったら素直に話せる気がしていた。
「それって、本当なの……?」
音緒は愕然となった。正午やカナタが別離の危機にあること以上に、彼女の中で何か特別な感情が再び惹起されつつあった。
「私は言えずじまい……。情けないよ、自分が――――」
「それで、それでショーゴ君は? ショーゴ君はルーマニアに行くのかな……」
「……音緒ちゃんはどう思う? ……きっと、音緒ちゃんの想像する通りだと思うな、私は――――」
「…………」
音緒も沈んだ。
「ショーゴはああ見えて結構強い奴だよ。きっと、そうするんだよ……」
「…………カナタさんは?」
「え、私……私は…………」
「ショーゴ君がもしも日本を離れても、カナタさんだって……。どっちでも……お互いに責めることなんて出来ないよ。責めることは出来ないし、止めることも出来ないでしょ?」
カナタは言葉を失う。
「もしも私がカナタさんの立場だったら……きっと夢は捨てられないよ。うん。私はフードジャーナリストの夢は捨てられない。ショーゴ君が止めたって、捨てられないよ?」
「音緒ちゃん…………」
照れ笑いを浮かべながら、音緒は言う。
「それに、ショーゴ君だったら、きっとこう言うよ。『今の君がいるから、俺は好きなんだぁ――――! 夢のない君に、魅力はなぁいっ!』って」
容易に想像できた。音緒に対して、真剣顔でそんなことを言っていたのかと思うと、呆れと小さな嫉妬を覚える。
「私は、そんなに強い人間じゃないよ……。音緒ちゃんみたく、強くないよ」
「え?」
驚いてカナタを見る音緒。
「……情けないなぁ。……夏原さんからこの話を聞いた後、チョー浮かれちゃっててさ、ショーゴの話を聞いた時なんか、ボーゼンとしちゃってたり。ショーゴのこと、考えないでひとりで舞い上がっちゃってんの」
自嘲するカナタに、音緒はかばうように言った。
「それは仕方がないよ。だって、カナタさんにとってみれば思いもよらなかった幸運の到来なんだから。私だって、舞い上がっちゃうよ、きっと」
そしてカナタはひとつ、大きなため息をつくと、寂しそうに笑った。
「……私、ショーゴがいて、今の仕事があって――――初めて『黒須カナタ』になれるの……。ショーゴも大切。今の仕事も大切。……でも、結局どちらかを選ばなければならない時が来るんだよね――――」
正午はカナタを束縛するようなことは決してしない。限りなく自由に近い恋人同士として、二人は再び結ばれた。音緒を超えて、カナタを選んだ正午。正午を再び取り戻せたカナタにとって、後悔などと言う言葉は実に不似合いだろう。
「……らしくないなぁ」
しばらくの沈黙の後、不満げに音緒はそう呟いた。
「音緒ちゃん……?」
愕然となったカナタが振り向くと、音緒はぷうと頬を膨らませて、目一杯可愛い顔にしかめっ面を作っていた。
「カナタさんらしくないっ!」
音緒は大きな声を上げた。公園を行き交う人々が一瞬、二人の方を振り向く。
「…………」
「皮肉じゃないよ? でも、いつものカナタさんだったら、両方とも手放すもんかーーーー! って、両腕を広げて豪語していそうだから」
「音緒ちゃん……」
柔らかい髪の毛をふわりと泳がせて、音緒は立ち上がる。草の香りを含んだ、朝の名残に深呼吸すると、忘れかけていたグラビア・アイドルのポーズを決めてカナタを指差す。
「私ね、ショーゴ君と“別れ”てからかなぁ……ううん、それともつき合っていた頃からずっと思っていたことがあるの。すごく単純なことで、当たり前じゃんって思ってしまうかも知れないけど……てへっ♪」
「……なに?」
「うん――――あのね。好きな人と、幸せになる事って、どういうことなんだろう? 一緒にいることが幸せなのか、想いつづけることが幸せなのか――――お互いを尊重できることが出来る関係が幸せなのか……。時々だけど、そんなことを自分自身の中で議論していてね……笑っちゃうんだけど、結局答えは出せないまま、“別れ”ちゃったんだけど」
苦笑する音緒。
「幸せになること…………」
カナタは呟いた。
「私、ショーゴ君とカナタさんの関係って、すごく幸せのような気がするの。だって、お互いを尊重し合っているでしょう?」
音緒の言葉に、カナタは一転、苦虫を噛み潰したような顔つきになる。
「ジョーダン言わないでよ音緒ちゃん! なーんで私とあいつが、そそそ“尊重”、ぷぷっ!」
貶す。正午を尊重すると言うことを想像しただけで、カナタは失笑できた。ある意味、特技。
「ん――――いいなぁ、そう言うところ。うらやましいよ、やっぱり……」
真顔で、音緒は言う。
「えぇ――――?」
「恋人同士で、貶し合える関係。馬鹿にし合うんじゃなくて……素直に貶し合える……。素晴らしいでしょ?」
優しい正午。いつも音緒のことを考えて、音緒を立ててくれて、困ったことがあればすぐに気づいてくれて慰めてくれて、温かい腕に包まれて……。『優しい正午』を、音緒は知っている。貶されたことなど、一度もない。音緒もまた、正午を貶したことは一度もない。
「気を遣い合わない、小さな子供の、友達ような関係――――自然体でつき合えるなんて、最高でしょう……」
どんなにささやかであっても、確かに幸福だった時間。音緒が知りうる、加賀正午と同じ時を過ごしてきた時代。
「無い物ねだり……自分でもうんざりしちゃうくらい、ショーゴ君とカナタさんの関係がうらやましくて……」
「音緒ちゃん…………」
「ん……だから、幸福の意味って、たくさんあるんだなぁって。……たとえ離れていても、お互いがそれで認め合えて、夢にひたむきに突っ走れるとするなら、それも幸福なのかなって……思ったの」
「…………」
「私は仮にショーゴ君が何て言っても、多分最終的に彼の側にいることを選んで……、彼はきっと、私のために自分の生き方を選んでくれたと思う。……でもね? 今、こうして考えてみると……、それが幸福なのかどうか、分からないの……」
音緒の表情は不思議と曇ってはいなかった。
「何かを犠牲にしなければならない幸福って、本当の幸福じゃないような気がするの……私の思い込みかも知れないけど……。ショーゴ君が私のために何かをあきらめることとか、ショーゴ君のために私がフードジャーナリストの夢を捨てることとか……」
後悔の片鱗を散らす決断。音緒は正午と交際していた短い期間を回顧し、自然の思いをそう語った。
「音緒ちゃんは……」
言いかけて、カナタは止めた。音緒も、合えて突っ込もうとはしなかった。
「……私は、カナタさんのようにはいかなかったから――――」
音緒はただそれだけ言った。
「夏さんに電話で――――す」
事務所のスタッフがやや気の抜けた声で叫ぶ。
「誰だ。カナタか?」
半遅刻常習犯、黒須カナタには夏原も半ば以上、呆れている。
「いえ……田中――――という男の人でしたけど――――」
「田中……?」
聞き覚えのない名前に、夏原は首を傾げたまま、デスクの受話器を取り上げた。
「もしもし、夏原ですが――――――――」
しばらく会話をし、面倒だとばかりに意思を左右に揺らしていた夏原だったが、徐々に顔色が変わり、おどける様子がみるみるうちに消え失せていった。スタッフ達は、副社長の様子に、ただならぬものを感じずにはいられなかった。