夏原の怒りは知る人ぞ知る。
この人は面と向かって大声を出すような怒り方はしない。終始穏やかに諭すような口調で、一見にこやかに収めるように見えるのだが、それが逆に心理的に相手を追い込める…と言うよりも、怒られるはずの当人の良心の呵責を、うまく掻き立てる術を心得た人なのだ。それが解らないような人間は突然に切る。夏原は基本的に穏和が故に厳しい経営者であった。
「遅くなりました。申し訳ありません……」
カナタがばつが悪そうに事務所のドアを開けると、スタッフやマネージャーが、無言でカナタにアイコンタクトを送る。
「?」
きょとんとするカナタに向かって、スタッフの鈴井がこっそりと人差し指でカナタを手招く。
「……?」
怪訝な様子で歩を寄せると、鈴井は手のひらで遮壁を作り、カナタに耳打ちする。
「夏さん。何か、電話の後から顔が真っ青でさ、どうしちゃったのかって、みんな言ってんよー。カナタちゃん、心当たりある?」
「え……えーっと……」
戸惑うカナタ。そんなこと訊かれても、オウム返しに出来るような心当たりなど、あるはずがない。
「……だよねえ」
鈴井は長いため息をつくとそっぽを向けてしまった。
カナタは他の事務所スタッフたちから暗に唆されるような視線を受け、そうするしか道がないとばかりに夏原のデスクに向かった。
「夏原さん、おはようございます――――」
「……ああ、カナタ。おはよう」
夏原はいつものようににこりと笑って挨拶を返す。
「遅れてごめんなさいっ!」
先制謝罪。それが利口。
「ああ。次からはきちんと連絡くらい入れとけ――――」
次の言葉を待った。だが、夏原はいつものように“柔和な言葉”を発しない。
「ふう――――」
代わって聞こえてくるのは切なげなため息。
「夏原さん……? 副社長?」
カナタの強い語気に呆けていた夏原がはっとなって顔を上げる。
「カナタ。お前に話がある。後で、奥に来てくれ」
神妙な面持ちで話せば、それが決して明るい話題ではないなと言うことを、カナタでなくても察知できる。
ましてデビュー前から肉親のように芸能界のノウハウから、プライベートな衣食住に至るまで甲斐甲斐しい指南を受けた夏原のことは、カナタは他の所属タレント以上に解っているつもりだった。
正午は実に神妙な顔つきで登波離橋に佇んでいた。あれから何となくブラブラと近隣を徘徊してみたい気分になった。と言うよりも、何も考えないで歩いていたら、自然とここにやってきていたという感じだ。
相変わらず、ここに吹きつける風は強く、どことなく冷たい。それでも、伝説や逸話が恋人、とかく女性の心を捉えて止まないものであるならば、たとえ極寒の山頂にだろうとマリアナ海溝の奥底であろうと厭うことなく駆けつけるのだろうが、何分幸福を求める男女にとってはあまり有難くないエピソードに包まれたスポットだ。
時々見かけるカップルらしき連れ合いを見つけるたびに緊張感を覚える。触れてはいけない領域に、自分が存在するかのようなばつの悪さがあるのだ。
しかし今日はそう言った危険な雰囲気を湛えたペアは見当たらない。時々、車が渡橋し、その度にわずかに橋梁が揺れる。
正午は欄杆に腕を載せながら、手のひらにあごを当て、人差し指で頬骨を探る。いささか格好をつける真似をしてみた。
どことなく哀愁を漂わせ、佇むニヒルな男性……などとは笑止。思いあまって飛び込みでもしようものかと誤解されそうな様子に見えなくもない。
登波離橋には鎌倉の悲恋伝説の他に、浜咲学園党に伝わる伝説がある。と言っても、伝説とは仰々しい、エピソードを作ったと言った方が良い、ある意味重みのあるものだ。
何しろ、白昼堂々、学生の本分である授業真っ只中に校庭に『彼女』は『彼』に対する愛の告白をライン引きで描き、彼はそれを見るや、授業を脱走し校庭に駆け出すと、全校生徒・全職員の見守る中で熱き抱擁を交わした、極めて“破廉恥”な、伝説のカップル・浜咲学園史に汚名を刻んだ逆賊。
彼らは後に、呪(まじな)いとして肌身離さなかった『ソオチンニャン人形』を、この登波離橋から嘉神川に流したとされる。大願成就の儀式。浜咲学園党には鎌倉の前説を覆す幸福の橋なのだ。
「何だかなぁ……」
思わず、そんな言葉が漏れる。その時だった。
「ショーゴ君!」
一陣の暖かい風のような声が突き抜けてゆく。しかし呼ばれた当人は、独りの世界を壊されたかのようにわずかに憤慨の色を滲ませながら振り返る。
「おお、音緒ちゃん」
そこに映った美少女を見つけるや、どこか白々しく名前を呼ぶ。これがシンやマグローだったら、言葉の前にどつきを与えかねない。
音緒はにこりと微笑みながら、手に提げた袋を揺らしながらとてとてと小走りに近づいてくる。
「どうしたの、こんなところで。珍しいね」
首を伸ばし、正午の顔をのぞき込もうとする音緒に、正午は苦笑しながら切り返す。
「お互いさまで――――、俺は何となくぶらぶらしてただけ。音緒ちゃんは?」
正午は興味津々と音緒の手提げ袋を見る。
「あたしはちょっとお菓子の材料をね……てへっ♪」
何故か頬を染めて羞じらう音緒。正午は何となく、そこが突っ込みどころではないような気がした。
「お、それって今流行のエコバックだ。確か、“エオン”とか、“ハツカドー”とかで食料品とか買うときにそれ持っていれば、何たら特典あるんだよね」
「え? ああ、うん。そうだよ。お買い物ポイントが倍になってちょっと得した気分。地球に優しいことは、良いことなのかもね」
ショーゴの振りに丁寧に答える音緒。昔から、彼女は律儀な面がある。シンこと、あの稲穂信の諄(くど)い蘊蓄や、周囲を真冬のスピッツベルゲンのようにさせるくさいセリフ、ギャグにも面と向かって、懇切丁寧に答えられる。古今東西、そんな奇特な女性は荷嶋音緒嬢をおいていないだろう。
「そんなことよりショーゴ君。こんな所にじっと立っていると、誤解されちゃうよ?」
「誤解……誤解……って、それはやはりなんです? 僕かぁ、周囲から見れば今にもここから身投げをしてしまいそうなほどにネガティブな雰囲気をたたえていると」
少し思っていた事を口にする正午。すると音緒は否定もせずに苦笑する。
「ま、まあショーゴ君とは、基本的に知り合いだから問題はないと思うけど……」
何となく、微妙にフォローと言い難い言い回しだ。
「そうか。そうとくれば長居は無用――――」
と、正午はくるりと音緒に振り返る。
「じっとしてたら何か腹減ったし」
「?」
きょとんとする音緒に、正午は言った。
「せっかくですから、ご一緒にいかがですか? お嬢さん」
「え、え?」
不意な誘いに戸惑う音緒。正午のぶれない視線に、音緒は思わず赤面する。
「そんな、悪いよ」
と、いいつつも何故か嬉々とした色を滲ます。
「大丈夫、大丈夫だって。ついこの前、シンの奴が帰ってきたし――――」
「あ、そうなんだ。ええと……確か……ブータンだった?」
「そうそう。“ブーたん”」
微妙なニュアンスに、音緒は微笑む。様々な因縁につけ込んでルサックの軽食を約した正午。荷嶋音緒を証人につけ、乗り込むことにしたのだった。
ルサックに復帰した稲穂信。
「やっぱティンプーだぜぇ、ショーゴ。カトマンドゥを知ったからには、更に高みを望み、悟りの真髄を追求する。お前にも仏教の真実、教えたいねぇ。嗚呼、色即是空空即是色……」
水を運び、空になったトレイを胸元に合わせた両手で挟むシン。呆れたようにため息をつく正午。
「お前、ナマステ~とか言って、ヒンズー教に改宗したんじゃなかったのか」
するとシン、眉を顰め、愕然とし、まるで異端者を見下ろすような表情で正午を見る。
「お前って、本当に眼が曇ってんぞ。一度パロの清流に全身くまなくつかれ。澄みきった青空の美しさに感動すること間違いがない」
言いながら、正午と音緒を交互に見廻す。
「訳わかんねえ」
「あー、因みに言っておく。俺は基本的に無神論者だ。いずくの宗教に属して、他の神を否定することはしたくはない。イエスもアラーもお釈迦様も、俺の中では常日頃から崇め奉る対象だ」
「あーはーはーはー、そりゃ、ご苦労なこってす」
くすくすと笑う音緒。あしらう正午。シンはオーダーアップの掛け声に急かされるように仕事に戻ってゆく。
「ツけておくぞ、ショーゴ」
「冗談じゃねえ」
シンの姿が見えなくなると、途端に溜息。
「シンさんって、相変わらずだね。すごいなあ」
感心したように声を潤ませる音緒。
「なんて言うか、ウザさにまで磨きかけて帰って来やがってるし……」
「てへへっ。きっとそれくらいブータンが気に入ったんだと思うな。“悟りの境地”って言うのを体験したんだよ」
そんなこと言ったか? などと思いつつ、音緒はすでにシンの未来像を憶測している様子だった。
「それよりも音緒ちゃん。試作品の調子はどう?」
「え……あっ、うん。てへっ♪ ぼちぼちってところかな。んー……後は八角かディルが調達できれば、静流さんの課題はクリアできるんだけど――――」
何故か聞いたことのない食材の名前(静流さん関係の菓子話と来れば、すぐに食材だと解る)が連なる時点で、出来ることならば先延ばしを望みたくもなる。
「来週中にでも東京に用事があるから、その時に調達できればいいなあ」
「高値がつきそうな作品、勿体ない、勿体ない」
「そんなことないよ。ショーゴ君だったら、100万ユーロつぎ込んでも良いって思ってる」
「ゆ、ゆーろ?」
顔を赤くしてそんなことを言う音緒に、意味がわからず当惑する正午。
「そいつは大金だな。冥利に尽きろ、加賀正午」
にやりとしながら二人分のオーダーを運んでくるシン。
「ゆーろ……ユーロって――――」
「王制大国は保守的なんだ。今日びユー・エス・ダラーは世界共通の通貨だぜ。暴落は怖いねえ」
またもや解らない。
「音緒ちゃん、せめてウォンにしときなよ。賭けは良くない」
「そ、そうですか?」
何故か不機嫌な表情になる正午。
「なーんか、ものすごくバカにされているような気がするのは気のせいか?」
「安心しろショーゴ。お前はいつになく冴えわたっている。船越栄二郎も、帷子なぎさも、今のお前を相手にすれば真っ青、形無しだ」
「一応、誉め言葉として受けとめておくよ」
折れてやった。
「ごゆっくり」
シンはそう言って正午に目配せを送ると、営業スマイルを見せてから戻っていった。
「それじゃ、ショーゴ君だったら、100万ウォンつぎ込んでも良いって思ってる」
「何となく、嬉しくねえ」
がくりと肩を落とす正午に、音緒は笑った。
ルサックの軽食はなかなかいける。フード・ジャーナリストを夢見る音緒の厳しい舌にも一定の満足感を与えるらしい。今日はシンが厨房に立っているのだろうか。奴は飄然としていて意外なところに気配りをしている。メニュー・マニュアルを寸分超越した趣向を施したりするのだ。
暫くその美味に与っていた二人。不意に、音緒が戸惑い気味に口を開く。
「……ねえ、ショーゴ君? ひとつ、訊いても良いかな」
「ん――――何」
コーヒーを啜っていた正午が音緒を向く。
正午に見つめられた音緒は、二、三度躊躇いながら息を整えると、言った。
「聞いたよ。ショーゴ君、ルーマニアに行くかも知れないってこと」
「……カナタめ、お喋りな奴」
正午に中で、本来ならばカナタにだけ打ち明け、周囲には黙して忽然と去るという算段があったのだが、どうもカナタに話した時点……いや、黒須カナタを恋人に持った時点で正午のプライバシーは、ある程度皆無に等しい状況にあると言えた。
音緒は両手に持ったフレンチバーガーを、小さな唇に遠慮気味に挟みながら、じっと正午を見つめている。
「正直言って、迷っている――――かな」
正午の言葉に、音緒はさほど驚かなかった。予想通りの答えだと思った。
「わかるよ、ショーゴ君の気持ち。そうだよね。なんて言ったって、ルーマニアだよ、ルーマニア」
心なしか、『知ったか振り』という言葉を思い出す正午。
「音緒ちゃん、ルーマニアってどこにあるかわかるの?」
「え、え? えー……っと――――」
今度は正午が音緒の瞳を捉える。
暫く考えていた音緒、突然可愛らしい舌を覗かせ、肩を竦めた。
「てへっ♪ ごめんなさい。東ヨーロッパあたりかなとは思うんだけど……。イタリアのとなり?」
近いようで、近くない。全然外れ。正午はテーブルに指でなぞって地図を描く。
「黒海があって、ここがトルコ。そんで、黒海の北西、うん。丁度この辺がルーマニア。南はブルガリア共和国」
「あぁ、ヨーグルトぉ! ブルガリアなら知ってるよ。首都はソフィアって言って、まるで可愛い女の子のような名前。そうなんだー、ブルガリアの北なんだ、ルーマニアって」
爛然と輝く瞳。さすがフードジャーナリストを目指すだけはある音緒だが、突然、ブルガリアの位置を示せと言われて即座に答えられるキャラクタも意外と珍しいだろう。
「……遠いね」
「まあね――――。言葉で言うのは簡単だけど、現実問題、ロンドンやウィーンのように直航便がない分、気持ち遠く感じる国だし、余裕のある海外留学生生活を送る訳じゃないからなあ」
「だけど、ショーゴ君にとっては、それだけじゃないんだよね……」
音緒の言葉にドキリとなる正午。
「カナタさんの事を考えれば、そんな簡単に決断できるわけないよ」
「…………」
正午が下す決断――――。考えてみれば、カナタにとって、正午がどんな答えを出そうとも、二人の関係が壊れたり、ヒビが入ったりすることはないと、何となく自信を持って言える。
「カナタさんも、基本的に歓迎しているみたいだったし」
「あいつは、そう言う奴なんだ。悲観というものを滅多にしない。時々、羨ましくさえ感じる」
「でも、楽観主義者って訳でもないよ。カナタさんだって、悲しい時は泣くこともあるよ」
苦笑する正午。
「俺がルーマニアに行くって決めても、泣いてくれりゃあ良いけどね」
コーヒーを飲み干し、苦みを味わう正午。そんな彼を見つめていた音緒は、思わず言った。
「……あたしなら――――緒に行くな……」
「え?」
「何でもなあい。てへっ♪」
誤魔化すように、音緒は笑った。