第6話 躊躇

「田中健次郎……!」
 カナタも、その名前を聞いて愕然となった。
 “テンチョー”こと、田中一太郎の弟。奇しくもテンチョーが急逝し、その葬儀の場で面識を得た。哀しいと言う言葉が適宜かどうかはわからないが、あの時、カナタに向けた虚無の眼差しを忘れられるものではない。
「お前を相手に、民事訴訟を検討しているという。ふぅ――――参ったよなあ」
「…………」
 俯くカナタ。それも致し方がないと言えばそれまでだ。テンチョーが落命した原因は、他ならぬ自分だった。事故でテンチョーが落命し、自分の命が助かる。いつも、どんなときでも交通事故は互いに、互いの家族に深い傷跡を残す。
 それでも、一度は和解に向けて話は進み、カナタも正午に支えられ救われながら、新たな道を歩み出そうとしていたのだ。
「何も言えた義理じゃない。……でも、どうして今になって――――」
 正直、カナタは至極苛つきを覚えた。一度和解が成立した事件。蒸し返すのは実に解せない。
「近く、向こうの弁護士がやってくるそうだ。訴訟を起こす前に、田中氏は一度お前と話をしておきたいらしい」
 元より、“加害者”であるカナタに道義的選択肢はない。
 一度話をしてみる……。それはおそらく、田中健次郎として、芸能人であるカナタへの最大限の配慮だったのだろう。夏原はそれはわかっていたようだが、弱り果てたかのようにこめかみを押さえ、何度も嘆息する。
「カナタ。例の話、少し棚上げだ。マスコミに流れたら、元も子もない。一巻の終わりだからな」
 夏原が冷たく言う。やるせなかった。カナタはいつになく沈鬱な気分に、ずしりと胸が重くなり、更に剔られるようなおぞましさすら感じていた。
「会えよ。お前の気持ちは解るが、会わなければ、お前自身の中で、本当の意味でのけじめがつかなくなるだろう」
「わかっています」
 カナタは鋭い眼光を向けた。
「訊くだけ野暮だったか――――」
 弱気になっていたのは、夏原自身だったのかも知れない。
 その日、カナタは自宅に帰した。何となく、正午のところに行く気分ではなかった。
「今日はダウン――――寂しいからって泣くな、ショーゴ」
『泣くか!』
 普段通りのやり取り。しかし、何となく“足りない何か”を、カナタは電話越しの正午に感じていた。

 入浴後、ベッドに寄りかかりながら、タモルの番組をぼうっと鑑賞していた時、突然携帯が鳴る。反射的に手に取る正午。ここ最近、カナタやシンなどからの着信が頻度を増している。このところ、着メロの1小節未満に出る術を身につけた。着メロも意味を持たず、ほとんどイントロ状態。正午は相手によって着メロを変える事はしない。何となく、それがポリシーだった。
「もしもし――――」
『正午君か』
 殊の外身近な、低く優しい声。
「お……叔父さん!」
 思わず、身を正してしまう正午。叔父の加賀祥彦駐ルーマニア大使。
「ご、ご無沙汰してます、叔父さん」
『はははは。私の方こそ、しばらくだったね。くつろいでいるところを申し訳ない』
 そこはかとなく上品な物言い。さすがは日本国政府を代表する、特命全権大使だ。血の繋がった叔父だとは思えない。
「叔父さん、もしかして、日本に……」
『残念だが、ヘラストラウ公園の散歩は、毎朝欠かせないよ』
「たは……驚きました」
『ところで正午君。黒須教授から委細は聞いているだろう』
 問われるまでもない。この電話も、加賀大使が甥の意向を確かめるために掛けてきたものだろう。
「正直、迷っています――――」
 叔父に下手な取りつくろいは通用しない。叔父は兄である正午の父よりも鋭い感覚の持ち主だからだ。
『気持ちはわかるよ。……だが、これは君にとっても決して損な話ではないはずだ。せっかくのチャンスを逃してしまうほど、愚かで、無能な男ではないと信じているよ、正午君』
 それをほぼ強制的と言う。事実、正午がそれなりに千羽谷のマンションに住まえたのは、両親の他に、叔父の助力もあったからだ。外務官僚、恐るべし。
「期待が重荷に感じる時もありますよ」
『君は私の甥だ。重荷を背負って坂道を乗り越え、世界に羽ばたく大物になりうる素質があるはずだ、うんうん』
(たは――――――――っ)
 肩をがくりと落とす正午。叔父夫妻に子供はいないが、その分、必要以上に正午に肩入れするところがあるから、ある意味困ったものだ。
「それより叔父さん。現地の状況を教えて下さいよ。どっちにしても、日にちがはっきりしないと、俺としても心とかの準備が……」
 正午の言葉に、電話越しに掌を拍つような音が聞こえてくる。
『おお、そうだった。そのために、電話したんだよ。危うく、忘れるところだった』
「あのね……」
 呆れる正午。失笑した後、叔父は言った。
『事情は割愛する。単刀直入に言うよ。10月の末にブカレストに来られるか』
「え――――じゅ……十月ですか?」
 正午は愕然となった。一〇月と言えば、二ヶ月後。その末には、正午にとっては大切な日が待っていた。
「え……と――――」
 しかし戸惑った。それを理由に渋ることに、強い引け目を感じた。
 逡巡する正午に対し、叔父は柔らかな口調で言った。
『さすがに今すぐ返事をしろとは言わないよ。……だがな正午君。時間も時間だ。あまり気をもたせられても困るぞ』
 正午は叔父に聞こえないように受話器を離し、ひとつ大きなため息をつく。
「強引ですね。選択の余地は無しですか――――」
 すると叔父は受話器のスピーカーが壊れてしまうかと思うほどに大笑する。
『やはり大人になったな正午君。ああ、今度ばかりは君の将来に関わる話だ。さすがに何が何でも――――と言うわけにはいかんだろう。真面目な話、君の随意に任せるよ。だから、ゆっくりと、安心して考えなさい』
 更に叔父は黒須教授も、正午の出す答えについて何の支障もないと言うことを保証するとのことだった。
 電話を終えた正午はがっくりと肩を落とし、深いため息をついた。何故か急激に疲れが押し寄せるようだった。
「ルーマニアか……」
 呟くと、自分に迫られた選択の重大さを改めて感じさせられる。そして、10月の末……。
「カナタ……君ならどうする、どうするよ――――」

 ……………………

 ピー……ピー……!

 呼び鈴に気がつく。いつの間にか微睡んでいた。
「あ、あい……」
 惚けた眼でインタフォンに駆け寄る正午。モニターに映る人影、全く違和感のない影。
「む――――…………」
 嗄れた息をつきながら、解錠するとドアを開ける。その瞬間、正午の身体に柔らかな衝撃が走り、そのまま背後に倒れた。
「ショ――――――――ウゴォ――――――――」
 異様なほどのハイテンションに酒精の匂いを漂わせ、無防備な姿の恋人が甘えるように正午の上にのし掛かってくる。
「ってぁ――――――――!」
 一気に睡魔が吹き飛ぶ。そして、思わず意味不明の奇声を上げてしまう正午。
「なんだあ―――――何なんですかカナタさん。お前確か、今日は寝るって――――」
「お前……?」
 一瞬、素に戻るカナタ。即座に言い直す正午。
「いや、君。君は朝令暮改ならぬ夜令夜改ですか。しかも、しこたま酒入ってるし。危ねえよ」
「ん――――あはははっ! イイ。イイよそれ、君、最高だよ」
 意味不明の誉め言葉を壊れた笑いで覆う。
「いいから、どいたどいた……じゃなくて、どいてくれない?」
 堅いフローリングに不自然な態勢のまま錘を載せられたような痛さが腰や肩に走る。カナタは軽いが、さすがに布団やカーペットとは違う。
 するとカナタは焦点の定まらぬ眼差しで不機嫌そうに正午をにらみつける。
「やだ」
「やだって、おいおい。このまま朝までいるつもりですか。玄関先で寝てて筋肉痛になりましたなんて笑い話にもならねえよ」
「……やだもん」
 頬を膨らませ、だだをこねるカナタ。呆れたようにため息をつく正午。その瞬間、カナタは何を思ったのか、満面に笑顔を浮かべると、突然正午の首筋に噛みついた。
「あいてててて! お、おいっ、な、何すんだカナタ!」
 カナタの白い歯の感触が首の皮越しに伝わり、ぞくぞくとなる。酒精まじりの熱い息が短い間隔で吹きつけられた。
「んぎぃ――――――――」
「を、をい!」
 困惑する正午をよそに、カナタはしばらく正午の首筋に噛みつき、しっかりと整った歯形を刻みつけると、ぷいと身を離し、正午を真上から見下ろす。潤んだ瞳が、正午の瞳を捉えた。微かに、眦が腫れているような気がした。
「チィすーたろかー」
 間勘平風のギャグを言うカナタ。言った瞬間、自分で爆笑する。
「何なんだよ、それ」
 呆れを通り越して失笑する正午。
「え……まさか知らない? 知らないの君?」
 本気で驚愕する口調のカナタ。目を見開き、失笑の恋人を見る。
「これだから、“ずぶのしろーと”は困るなぁ」
「ず……ずぶ……」
 きょとんとする正午。
「精進が足らん! そんなことでは世界のリーダーなんかにはなれないぞ、ジョージ!」
「ジョージって、誰……?」
 酔っているカナタはとらえ所がない。普段でも奇抜なテンションを覗かせる彼女に酩酊を重ねると仙界の酔客と化す。
「ショーゴォ」
 突然、甘えた声で顔を落とし、正午の唇を塞ぐ。正午の口に、酒精の味が広がってゆく。
「カナタ――――どうしたの。何かあった?」
 長いキスを追えて漸く高揚が収まり、カナタがそっと身を起こすと、同時に正午も上体を起こす。
「…………」
「…………」
 しばらく無言で見つめ合う二人。やがて正午が軽く恋人の肩を叩く。
「カナタが泥酔するほど飲むなんて珍しい。仕事で何かあったんなら話そうよ。ま、聞いてやれることくらいしかできないけど」
「…………しいよ――――」
「え……何?」
 カナタの呟きを聴き取れなかった正午。しかし、カナタは誤魔化すように笑う。
「何よお、なーんにも言ってないじゃん」
「言ってないじゃんって……」
 戸惑う正午。いつもと様子の違うカナタは微妙な正午の追求も意に返さず、はぐらかしてしまうような気を発している。
「言ってないよね、わたし、ショーゴの気を悪くするようなこと、言ってない?」
「あ、ああ。言ってない。大丈夫。俺は何も聞いていない」
「あぁ……よかった」
 酒精による効果なのか、いちいち表情豊かに反応するカナタを見ていると、その美貌を通り越して可愛らしくさえ思える。
「カナタ、何となくだけど君さ、着の身着のままって感じがするんだけど」
「ん――――あはは、さすがだねショーゴ。……うん。ちょっとね、色々あるわけだよ、わたしにも」
「バレバレ。何にもなくてそこまで酔っぱらうか」
「…………」
 ふと視線を移すと、カナタは愛しげに正午を見つめている。
「ま――――追い炊きだけど、風呂入るよね」
 カナタはこくんと頷くと、徐に正午の腕に腕を絡める。
「ショーゴも一緒に入るう――――?」
「バカ言え。俺は君からの電話の後すぐに入ったわい」
 真っ当な一人暮らしではあると思う。
「やだ。ショーゴも一緒に入るの!」
「わがままは許しませんカナタさん。突然の御来襲、言うことは聞いてもらいますよ?」
 強気の言葉で敬語を羅列。
「ほーお?」
 予想通り、じとっと睨みつけてくるカナタ。しかし、この場は正午の方二部がある空気だった。
「……わかった。独りで入るよ。寂しくて、寂しすぎて溺れてしまっても気づかれないまま……」
「二十分経っても出てこなかったら119するよ」
 烏の行水とまでは言わずも、カナタは早い。
 諦めて、カナタは浴室に向かった。扉の前で振り返り、ぽつりと呟く。
「ショーゴって……本当に、イイね――――」
「はぁ?」
 小窓に映るカナタのショートヘアの影を見つめながら正午は困惑した。別に恋人であるカナタと入浴を共にすることが嫌なわけではなく、時々は勢いに圧されて共にはする。
 ただ、照れくささと見栄があった。どことなく、自分の全てをさらけ出してしまうことに、一定の抵抗がある。そして、何よりも光の下に全てをさらけ出すカナタの肢体が、眩しくて美しすぎた。

 正午の部屋に常備しているカナタの寝具(ぱじゃま)。浅葱色の意外と地味な模様のそれに色気はない。トップモデルの発するフェロモンを見事に封じ込める、抜群の消臭剤だ。
 いつもは無駄に夜遅くまで喋り、自然に身体を重ねて行く二人も、今日は互いにそんな雰囲気はない。
「酔いは収まった?」
「少しだけスッキリしたよ。ありがと」
 濡れた髪をタオルで拭いながら、正午が足を伸ばしているベッドの脇に腰を下ろすカナタ。ほんのりと、シャンプーの香りがした。
「無茶すんなって。襲われたりしたらどうすんだよ。さすがに君の危機を咄嗟に感じて駆けつけるほど、霊的感覚はないぞ?」
 雑誌をめくりながら、正午が言うと、カナタは寂しげに微笑んだ。そして、ふとタオルを握っていた手を膝に落とし、ぎゅっと握りしめる。
「ショーゴがルーマニアに行ったら、咄嗟に感じることも出来なくなるかな?」
「……!」
 愕然となる正午。思わずカナタを見ると、カナタは笑顔で振り返った。悪戯っぽく、舌を覗かせてあっかんべえをする。
「カナタ……?」
「あはは、歯形。キスマーク特大版」
 人差し指で、首筋をなぞってくる。しかし、意に介さず愕然とした表情のまま、正午はカナタを凝視している。
「……行きなよ、ショーゴ。ちゃう。行くべきだよ。せっかくだめショーゴに神様が与え給うたチャンスだよ? 行かなきゃ駄目だあ!」
 いつものような口調で、カナタは煽る。
「本気で、言ってるのか」
 真顔で、正午は聞き返していた。
「冗談のように聞こえるならば、それはわたしの不徳の致すところでございます」
 カナタは戯けていた。一人、無理にはしゃぐ様子の空しさを感じた。
「…………」
 正午は言い返すことを躊躇った。彼女の姿を見ていて思う。遠い外国へ旅立つか否か、全ては自分が決める道。カナタに、愛する恋人に行くなと言ってくれる事を期待することは余りにも女々しい。そして、カナタの性格、カナタとつき合っていると言うことの意味と暗黙の憲章が、二人の関係をより大人にさせていた。
「わかったよ。その事については俺自身で決めることにする。実は、お前からの電話の後、祥彦叔父さんから電話があって――――」
 正午は話した。旅立ちの日取りと、回答期限。伝えておくべきだと思った。
「そう……、十月って、あと少しじゃん」
「ああ」
 淡々と言うカナタに、少しだけ正午はドキリとした。
「ショーゴも大変だ。忙しくなるねえ」
「だから、今後の要求は“前向きに検討中”ということで」
 今までカナタからの要求は“対等な答え”と言いながらも、極力叶えるようにしていた。
「しゃあない。ガマンするか」
 カナタは濡れタオルをぽいと正午の顔に投げつけた。
「うわっ!」
 良い香りのする生温かいタオルに当てられ、正午は思わず雑誌を放り、声を上げる。それを見て、カナタは無邪気に笑った。
 しかし、正午は濡れタオルを手に握りしめると、それをじっと見つめ、何かを考えていた。カナタの様子の違いが、心に痼りを生んでいた。
「なあ、カナタ」
「ん?」
 正午の眼差しが、真っ直ぐカナタを捉えていた。真剣な瞳の色に、カナタは無意識に躊躇する。
「今度は俺が訊く番だ。隠すな、隠されるな。――――何があった。何を聞いても、驚かない。気を遣うな、気を遣われるな――――」
「…………」
 カナタの笑顔が強張った。