第7話 挫折する君へ

「じゃあさ、……ひとつだけ、約束してくれるかな、ショーゴ」
 茶化すような雰囲気ではないことくらい、正午には十分すぎるほど判っていた。ああと頷く。
 少なくても、自分の身の上のこともある。それを考えれば、カナタがもたらす多少の難問くらい、動じはしない自信があった。
「今、君がそう疑問を持つ直前までの気持ちを、ずっと維持しつづけること。絶対に、かわっちゃダメだぞ。ミョーな気を遣ったら、即絶コーしちゃうし」
「お、おう。良い度胸だ。どんと来いって感じ」
 気圧され、思わず胸を叩く正午。相変わらず、黒須カナタに逆らうなどと言う“暴挙”に出るほど、自分自身達観の境地には到っていないことを実感する。
「…………」
 正午に向く時は少女のように戯けた表情を見せるカナタ。しかし、それも心なしか覇気は失せ、細く長い腕を垂れ、無言のまま窓際に歩み、外を眺めた。
 正午は言葉を促そうとはせず、恋人の仕草をじっと見守る。静かな川沿い、都会稀有の清澄な星を拝める絶好のスポット。
「ハレーから見れば、しょーもないくらいの距離なんでしょーね」
 不意に、カナタがそんなことをぼそりと呟いた。
「日本と、ショーゴが行くルーマニアと……」
「と?」
 接続助詞で言葉が止まるカナタに、ようやく口を開いた正午が促す。
 カナタは二つほど間を置いてから言葉を繋ぐ。
「だけど――――やっぱダメだ。わたしって、ショーゴを責められるほど、完成してる訳じゃない。……わたしだって、普通の人間なんだよ?」
 まるで草むらに隠れていた分岐路を突然見つけてしまったかのように、彼女にとって途轍もなく大切な出来事があったのだと正午は思い、感じていた。
「カナタ……」
 しかし、正午がそれを追及する手間は掛からなかった。
 カナタはゆっくりと経緯を語り始める。それは、今まで自らの中で逡巡していた恋人への秘密。それが、良いきっかけを掴めたのかと言えば、そうなのかも知れない。
「夏原さんから、話があったんだ。……ハリウッドに行ってみないか――――って」
 正午は思わず、耳を疑った。
「ハリウッド……。ハリウッドって、あの……ハリウッド? 米国……いや、世界一を誇る、映画の――――?」
 カナタはゆっくりと頷いた。
「アメリカのある映画監督から、夏原さんのところに話が来ていたみたいで、わたしがそのことを聞いたのはついこの前。……最初は嘘だとばかり思ってた」
「たは――――――――っ……」
 いつもの正午のため息が今回ばかりは長い。
「そんな大事な話、何で黙ってるかな……」
 呆れ半分の正午に、カナタは曖昧な相槌を打つ。
 カナタは仕事に関しては、たとえ困ったことがあっても、表情になかなか出さない人間だった。逆に果報ならば聞かれずとも自らそれをひけらかしてくる。それをしてこないと言うことが、カナタにとって本来喜ぶべきはずの話がそうではなくなっていることを物語っていた。
「……でも、ダメ。ダメなんだよ。わたしがのうのうと一人、広くて、どこまでも高みに続く階を登っちゃ、いけない……」
「どういう意味?」
 正午は一瞬、ネガティブな想像を思い描き、すぐに打ち消した。
 そしてカナタは、心の中に僅かに残る躊躇の間隙を縫って言った。
「“田中”の弟サンが――――」
 カナタは夏原から聞かされていた事情を話す。
 時折詰まる声を、カナタなりに懸命に隠そうとする姿に、正午の心がそこはかとなく居たたまれなくなってくる。
「そ……か」
 正午も言葉を呑み込まざるを得なかった。どんな事由があるにしろ、カナタに正統性はない。むしろ、今までテンチョーの親族が、カナタを赦したかのように振る舞っていたことが不思議なほど寛大であったはずだ。
「それで……君はどうするね」
 正午は唇をやや尖らせ、顎を撫でるような仕草をしながら訊ねる。
「どうするって……」
「アメリカ進出があなたの夢なのですか」
「そ、それは――――」
正午はふうとため息をつく。
「聞くに及ばずですか。……まあ、いずれにしろ、らしくない結論は出さないって、俺は信じてるけど」
「らしい……? らしい答えって、何。わたしは……」
 カナタがすごんだ。しかし、正午は飄然とした様子でカナタを見つめている。
「テンチョーの弟さんのことが、直接カナタの苦悩の要因じゃないでしょ」
「ほぉ――――……?」
 いつになく力がない疑念の声色。
 正午は意に返すことなく、少しだけ息を張りながらゆっくりとカナタの側に寄り、窓を開ける。近い嘉神川のせせらぎと、遠い街の喧噪が室内に流れてきた。
 正午を睨視するカナタの瞳はそれでも彼の言葉の真意を捉えているかのように不安の色が滲み、肩も微かに揺らぐように思えた。
「戸惑うカナタの心の裡に、“カガショーゴ”がいるなら、そいつのことは消し去っても良いから」
「……? ショーゴ?」
 正午の思わぬ科白に、カナタは目を見開く。しかし、正午は不器用だが穏やかで優しい眼差しを、空に向けた。都会の夜空に、一つ際立つ煌星。その横顔に、カナタはいつになく胸をときめかせてしまう。
「君の心を惑う俺はニセ者。いわんや悪魔の囁き――――」
 どうもシリアスから入るのが苦手な質のようであるから、どうしても気取ってしまう。いつものようにカナタの冷ややかな反応もよろしく受け流し、正午は続けた。
「ん――――と、なんだ……うまく言葉に出んな……」
 まごつく正午に、カナタはひと言。
「許す」
 柵が外れた正午がようやく言葉を繋げる。
「ブカレストの空も、カリフォルニアの空も、きっと同じ色だよ。あの星も、きっと同じ」
 何処かで聞いたようなフレーズも、今の正午をしてそこはかとない説得力があった。そして、カナタもそれがまるで用意された舞台の台本。主人公(ヒーロー)の心情良く識るヒロインのように、正午の言葉がもたらすミーニングがカナタの心を捉える。
「心配しなくてもいいよ。俺は誰の期待も裏切るつもりはないから。カナタも、そこを飛び越える強さがあるだろ」
「…………」
 しかし、カナタは言葉を返さず、無言でしばらく正午を見つめる。そして、やや声のトーンを落として頷く。
「ショーゴの気持ちは、わかったよ……」
「お。物わかりが良いじゃん」
 普段ならここで大概、少なからず悶着が起こった。だが、今は珍しく、カナタが折れた。
「茶化さない。これでも、大まじめなんだし」
 静かだが、カナタの声は少しばかり怒りが滲んでいるように思えた。
 正午はもとより茶化すつもりはない。それどころか、カナタが見せる様子に戯けなど寸分も差し込む余地がないことを、正午は既に判っていた。
「俺は……カナタの事を信じてるからさ」
 正午の声は、すうっと夜の空気に解けてゆくかのように穏やかで、優しかった。
「うん……」
 もっと多くの言葉を期待していたカナタだったが、正午の言葉を自分でも不思議なほど納得していた。二人はそれ以上語らず、暫くの間、川のせせらぎと、遙かな喧噪の絶妙なアンサンブルに耳を傾けていた。

 翌朝。カナタの携帯の着信音を夢境の岸辺で聴いた正午。目覚めた時は既に彼女の姿は無かった。
 いつものように、食卓には甲斐甲斐しくカナタが用意してくれていたトーストセットと、憎まれ調ながらも、正午への愛を吐露した一枚のメモ。
「ハリウッドか……」
 今まであまり強く意識したことがない、ポピュラーな言葉。考えてみれば、それは正午にとっては、完全無欠の別世界。映画館のスクリーンや、ビデオやDVDの中に広がる異世界であり、そこがアメリカ、ひいては同じ地球上にある場所だとは思えないと、一瞬でも思ってしまったほどの存在。
 それが突然、間接的にでも身近な現実として聞いた時、人はどう思うのだろう。
「はー…………」
 正午はカナタから聞かされた話を正直、理解していなかった。厳密に言えば、あまりに大きな話。その上、テンチョーの弟がもたらした難題。それらあまりに大きな話を二つ一片に持ち込まれ、凡庸なる加賀正午が視点を定めて理解するのに、相当な時間が掛かると思ったのだ。
 朝の陽射しがやけに眩しく瞳を突き刺す。それが無性に苛立たしく感じる。
 結局、カナタの拵えた朝食セットもまともに味わうことも出来ないまま、食器も片づけずに家を出た。
 講義も適当に受け流す。本当は千羽谷の繁華街でも適当に歩いて時間を潰すことも考えたが、さすがにそう言うわけにはいかないと自省した。
「ショーゴ君、何か今日、元気ないね」
 午前の講義を終えた直後、躊躇いがちに音緒が声を掛けてくる。
「ああ音緒ちゃん。そう見える?」
「うん。お魚の骨、喉に引っかけた様な顔してる。……何かあったの?」
 結構、感情を隠すことにかけては不得手な方ではないと自負していたつもりだったが、どうやら音緒が言うように、想像以上に深刻な表情をしているようだった。
「ちょっとね……今度の話のことを考えていたんだ」
 意外な答えが返ってきたかと驚くように、音緒が目を瞠る。
「今度の話って……ルーマニアのこと……だよね」
 頷く正午。
「決めたんだ」
 心なしか気落ちした様子の音緒。それに対し、正午は曖昧な相づちを打つ。
「こう言う時ってさ――――」
 正午が音緒に視線を向ける。少しだけ首を傾げながら、見つめ返す音緒。
「うん?」
「シンの言うように“ブーたん”にでも行けば、少しでも良い道、選べるのかなあ」
「?」
 一瞬、音緒の頭上に回転するクエスチョンマーク。
 しかし、正午が迷っているという事の意味だと気づいた瞬間、音緒の笑顔も消沈する。
「なんてね。ああ、ヤバイヤバイ。この年で稲穂信教に入信しちまったら、一生糸の切れた風船の寅さんになってしまうところだよ」
 正午は態とらしく乾いた笑いを湛える。しかし、そこはかとなく、それは空虚に響くだけだった。
「音緒ちゃんは、もう帰るの?」
「ううん。今日は午後もあるから……。ショーゴ君は?」
「俺は黒須教授のところに寄ってから真っ直ぐ家に帰るよ。うん……今日は何となくいけてないし」
「……そっか」
 寂しげな音緒の表情にも、正午はフォローするタイミングを外してしまう。
「ま……じゃ、頑張ってね」
 素っ気ない社交辞令。それでも、音緒は明るい表情でうんと頷く。
 振り返り様に、音緒は正午の背中に向かって声を掛けた。
「ショーゴ君ッ。……その……、自分に後悔があっちゃダメだよ」
「…………」
 思わず振り返りそうになる。しかし、音緒が続けざまに言葉を浴びせる。
「誰のためじゃない。ショーゴ君も、カナタさんも……私も。きっと、そうなんだと思うの。自分に悔いちゃ、ダメだよ」
 音緒はそのまま廊下の向こうに行ってしまった。
 正午はしばらく留まり、音緒が去っていった方をじっと見つめていた。そして、彼女の言葉が不思議なほど脳裏に焼き付き、延々と反響するのを感じていた。

 事務所はいつも通りの雰囲気だった。カナタや夏原に特段気遣う様子というのもなく、タレントたちも普段のまま雑談や仕事に向かう者、仕事を終えてくる者と、忙しなく事務所のドアの開閉音が響きわたる。
 しかし、現実は昇竜の如き芸能人をも容赦はなかった。
 事務所やテレビ、新聞雑誌など取材諸々の関係者の往来が一段落ついた午後。
 妙に丁寧なドアのノックに、レセプションの女子社員は妙に緊張した。
 そして、シックなグレイスーツの胸に、やけに目立つヒマワリと秤をかたどったバッジ。
 真面目そうな四十前後の男性は、レセプションに名前と名刺を差し出すと、社員は慌てた様子で夏原のもとへと駆けつける。
「夏さんッ――――――――」
 夏原は耳打ちなりに事情を訊くと、さほど慌てた様子もなく言葉を返す。
「応接室にお通ししてくれ。あと、今昼飯か……カナタも呼ぶように」
 沈着冷静な夏原の様子に呆気に取られかけながらも、社員は夏原の指示に従った。