第8話 誰がために…

「加賀君、決意はつきそうかね」
 黒須教授の言葉には、早々の決断を迫るような色合いを感じた。
「はい……」
 力のない返事に黒須教授は是非もないとばかりにむうと唸る。
「教授、あの……」
 正午の悩みの要因を解っていたのか、黒須教授はゆっくりと椅子から立ち上がり、正午に背中を向けて窓の景色を眺めながら、煙草を取り出した。
「娘のことならば、君が気負うことはないぞ」
 白い煙を窓に打ちつけて、黒須教授はにこやかに言った。
「……などと、今更私が言うまでもないだろうが、あれは何事も本気で覚悟を決めた時の精神力は並はずれている。多少のことではへこたれはせんよ、はっはっは」
「…………」
 正午の反応は鈍い。
「君がどの様な答えを出そうが、あれの選ぶ言葉は変わりはしないはずだ。……そして、あれが出す答えに、君自身も、変わることを心底望んではいまい」
 黒須教授の自信を持った言葉に、正午は息を呑む。しかし黒須教授は、見透かしたかのようにただ唇を結び、穏やかな表情を浮かべている。
「それは、何にも増して素晴らしい絆だと、私は思うよ。加賀君」
「…………」
 言葉なき正午。振り向きながら黒須教授は言った。
「君自身に悔いのない、確かなものを見つけるのも、きっと悪くはないかも知れないね」
 正午の胸中を覆う霧は未だ晴れそうもなかった。

 それからしばらくの時が過ぎた。
 あれから正午の決意も未だつかないまま、カナタも正午の家を訪ねる事がぷっつりと途絶えた。
 コマーシャル、ファッション誌、芸能誌……。彼女が見せる活動には変わりはない。ただ、その中で、ハリウッドのハの一字も口にすることはないままだった。
 別にそれがきっかけで二人の別離という訳ではない。自然に関係が薄れ消滅してゆくなどと言う事を望まないことは、誰よりも二人がよく解っていた。
 互いの胸の裡に抱える苦悩。結局は、自分が決断する答え。黒須教授の言うように、篤く深く信頼出来ているからこそ、敢えて孤独を求めるというのだろうか。
 音緒に付きあって商店街を歩いていた正午は、電器店の液晶テレビに映る恋人の姿に目を留めた。変わらない、画面に映るのは紛れもない『売れっ子モデル・黒須カナタ』だった。
 やがて正午と音緒はファーストフード店で軽く摘んだ。たまには厳かな“午後のティータイム”ではなく、肩の力を抜いてバーガー立ち食いなどをしたい気分になってくる。どうやらそれは音緒も同じのようだった。
「ショーゴ君、あのね」
 喧噪の中で、どこか爽やかな面持ちで笑顔を浮かべている音緒が、身を乗り出して正午を呼んだ。そして、次の瞬間、正午の胸が少しだけきゅんとしめつけられたのである。
「私――――、留学することにしたの」
「りゅ……留学?」
「うん。フランスに。……本当はちょっと前から話があったんだけど、なかなか踏ん切り――――っていうのが、つかなくて……てへっ♪」
 音緒はいつものように愛嬌のある笑いを見せる。
「それはまた、ずいぶん急だよね。……で、いつ発つの?」
 動揺を抑えて冷静を保ちながら訊ねた。すると音緒は戯けず、ぽつりと答えた。
「……十月……」
「たはっ……。十月って……、もうすぐじゃない」
「うん……。ほら、善は急げっていうでしょ。休学するにも、九月いっぱいの方が区切りは良いし、それに……」
「それに?」
 音緒は小さくため息をついたかと思うと、少しの間喧噪を聴き気分を和らげる。そして、言った。
「本当の意味で、踏ん切りをつけるためにも……」
 そう言って、音緒は笑った。正午の追及は既に雲を掴む虚勢とばかり。
 不思議だった。
 かつてはあれほど互いを第一だと思えた関係。カナタのことをも霞み消えるほど愛しあった過去が輝く後なのに、今はその人の人生の決断を、小さな逡巡を超えて受け容れ、理解することが出来た。それはまるで自分がこんなにも寛大な心の持ち主だったのかと錯覚してしまいそうなほどに喜べる。
「もしもショーゴ君がルーマニアに行くことになったら、近くなるね」
「欧州つながりで?」
「もう、すぐ茶化すんだからー」
 戯け合うが実際、日本とルーマニア、フランスとルーマニアを較べると、距離感はぜんぜん違う。冗談の中にも、音緒の心の片鱗が見えるような気がした。

 私は、私の道を行くよ。
 心の支えにしたものでも、心を凭れることはしないよ。
 ショーゴ君やカナタさん……そしてテンチョーさんもそうだったように――――
 だから少しだけ……少しだけ私も欲を出してみようかなあ――――

 音緒の言葉の意味は、きっと彼女にしか解らないだろう。ただ、一つだけ正午が確信出来たことは、それが決して“未練”ではないと言うことだった。

 芦鹿島の花火大会を端緒とするシカ電沿線の夏祭り期間も、秋風いよいよ本格化するこの時期に終わりを迎える。
 登波離橋でも、その橋架を利用した花火大会がある。
 花火大会とは言っても、芦鹿島のような大がかりなものではない。
 地元の有志たちが企画した、派手さなどない、言葉を悪くすれば実にしょぼいマイナーな夏祭り。しかしそれでも、シカ電沿線の夏祭りの有終の美を飾る祭りとして、マニアック的な人気を持つ。
 その夏、正午とカナタは芦鹿島の花火大会を数時の間共に過ごした以降、ゆっくりと風物詩を楽しむゆとりはなかった。
 登波離橋の花火にも、結局カナタと共に過ごすことは絶望となった。
 それが宿命なのは解っている。お互いに認め合ったこと。心残りというものはない。ただ、正午は思っていた。
 たとえ今、自分の傍にその飄然とした美しい君が居なくても良い。でも、今この時でも、君のことを想い、君の存在を感じ、君を愛するのは自分だけにあるという確かな証を求めたかった。
 せめて、それだけを望んでも罰は当たらないだろう。
 こんな小さな祭りでも、人を楽しませてくれる露店は来ていた。祭りも酣を過ぎ、店終いの支度もちらほらと目立ち始める。
 正午はその一角にアクセサリー類を並べた店を見つけていた。思わず足を止める正午。人足の遠退いた祭りの終焉。夏の名残をさらい、新鮮な秋の気が通り抜けるその場に、じっと長テーブルに並べられた、レプリカの飾り物を見つめつづけている青年は否応にも目立つ。しかし店主のおやじさんは、正午の顔を一瞬怪訝そうに眺めると、無言で片づけの手を止めた。面倒くさげに煙草を取り出し、火を点ける。
 一通り眺める正午。硝子やプラスチック製とは言え、理解しているならば何々、本物にも劣らぬ精巧さを覗える。いかにも贋物とばかりの雑な作りである昔とは違って、レプリカの醜名は消えつつあるのだろう。
 おやじさんの煙草の煙が、すうとまるで雲の糸のように口から空に伸びてゆく。その妙技に正午が思わず唸る。目が合うと、互いに思わずほくそ笑んだ。それだけで、正午の心に気張りがなくなる。
 しばらくして、正午の目に留まる、一つの宝石……ではない、ガラス玉。巨大なダイヤモンドを真似た、美事なレプリカだった。
「こいつ……」
 正午が身を屈め、そのガラス玉を食いつくように眺める。

(え、そんなんでいいの?)

(いーのっ。ショーゴがくれるものなら、たとえ石ころでもナットでも、私にとっては宝物だし――――)

(ふーん。欲のない人だ――――)

(まあ、それでもバイトの給料ウンか月分の高価―――い宝石買ってやるぜいっ! って言うなら、それはそれでもっと嬉しいよ)

(ほう。あなたは我に容赦なく飢え死にしろと?)

(私のために、死ねるか、カガショーゴ?)

(御主君のためならば、この命――――! って、アホか!)

(あはははっ。ショーゴって、ホント最高)

(まったく……ほれ、いらねえなら投げ捨てなさい)

(わあ! ありがとう、ショーゴ!)

 それはずいぶん昔のことのように感じる。それはまるで幼稚園の頃にはしゃいだ運動会や遠足の想い出のように、やや色褪せた、少しだけ恥ずかしくて眩い記憶。
 そして、自分とカナタとの絆を強く感じることが出来る、証。

 あの頃は、一緒にいることだけで全てが嬉しく感じられた。
 将来のことなんてそんなに深く考えることがなくて、ただ目の前にあるその温もりに喜びを感じていた。とても素直に笑い合い、いつも見慣れた景色の色ですら、二人の視線が重なると未知との遭遇に思えた。

(いつからだろう……君といる時間が、当たり前のようになっていた。君と過ごすことが自然で……君を失うことなんて、思いもしなくなって――――)

「おやじさん――――これ……」
 正午が指を指す前に、おやじさんはそのガラス玉をいそいそと紙袋に包んでくれていた。
「五〇〇円」
 ぶっきらぼうに、おやじさんは言う。しかし、雑な手書きの値札には一〇〇〇円とある。
「だけど……」
 しかし、おやじさんはやや迷惑そうに正午を睨みながら言う。
「要らないのなら、帰った、帰った」
「あ、要ります。ありがとう」
 思わずポケットから小銭を取り出し、おやじさんの目の前に置く。
「まいど」
 無愛想な返答にも、正午には温かさを感じた。

 祭りの後にしては静まり返っている帰路。ついさっき買ったガラス玉を取り出してみる。
 あくまで無色透明な、どこにでもあるガラス玉。世間一般から見れば、そんな安物のレプリカなど何の力も、御利益もない。
 そんな無味乾燥なものに、どんな寄る辺を見つけられるのだろう。女という存在はやはり自分のような未熟者では推し量ることが出来ない。カナタならばきっと、キャンペーンとかで缶コーヒーに貼りついているポイントシールでも、自分がくれたものならば、密かに大事に取っておきそうな気さえしてくる。「…………」
 部屋に戻り、何気にそれを手に取り眺めてみる。蛍光灯に翳し、窓の外の街灯りに照らす。幾何学に屈折した光は、正午の目をただちかちかさせるだけだった。
 その時、いつも不意に鳴り出すのは無機質に高音なケータイの着信。シンからだった。ガラス玉をテーブルに置き、ケータイに出る。
「もしもし、シン?」
(……はぁ――――)
「おいおい、いきなりため息で気勢を削ぎますかあなたは」
(ため息も出ますぜ、先生)
「何のことだよ」
(ショーゴよ、古来より王君の優柔不断は亡国の元。世界の名だたる大国も、君主の誤った迷いが取り返しのつかない状況を招いてしまった例が多いのだぞ)
「……なにを言いたい訳?」
 またシンらしい病気が始まったのかと呆れかけた。しかし、次の言葉が、ショーゴを絶句させる。
(お前が逡巡(ぐずぐず)していても、時間は待っちゃあくれないぜ。すでに決まっている答えを勿体つけてるようじゃ、時機を間違えてしまうってことさ)
「…………」
(お前ってさ、意外と肝が据わってるところあるからそう思うんだよ。……まあ、お前自身がすでに時機を見極めているってんなら、余計なお世話だったのかも知れないけどな)
「肝なんて据わってねえよ」
(まあ、何でも良いけどさ。お前の選択はお前のためだし、黒須カナタのためでもある。誰のためでもねえよ。お前らが決めたことは、それが良いことなんだからな)
 シンの言葉が不思議なほど胸にしみるような気がする。ただでさえ“御多忙”の彼が電話をかけてくるなど、異例なことだ。友として、言葉のひとつひとつがとても心地よい
「なあ、シン」
(なんだよ、改まって)
「お前――――六〇年後の自分、想像出来るか」
(何だよ、急に。随分突拍子もねえ事訊くな)
「…………」
 しかし、正午の気を察し、シンはすぐに素に戻る。そして、少しだけ唸りながら考えた後、ゆっくりと答えた。
(そうだな――――その頃には、いよいよ世界制覇のゴール地点にいよいよ到達しているかも知れねえぜ。目指せ、美浦雄二郎二世! ってな感じで)
 その言葉に、正午は思わず笑いを吹き出す。
「何だよそれ。大体、美浦雄二郎って、登山家じゃなかったっけ?」
(あら、そうだったかしらん?)
 つられてシンも笑った。
「サンキュー、シン。俺も、そうありたいと信じているよ」
(今のまんまで腰の曲がったジジイもどうかとは思うんだがな、はははは)
「それも、また乙ですわな」
(違えない。……っと、思わず長電話してしまったぜ。ん、そんじゃーな、ショーゴ)
「おう、また後で飯でもおごって下さいまし」
(たーっ、非常に残念だ加賀君。私、稲穂信は間もなくラオス人民民主共和国に旅立つ所存なり)
「え――――、また旅立つのか」
(一つの場所に居着けやしねえ、気まぐれな渡り鳥なのさ、ふっ――――)
「糸の切れた風船と言った方が……」
(何か言ったか、ショーゴ)
「いや、何でもないです。……そうか。お前も、行くんだ」
(寂しいか――――そうかそうか、うんうんわかるわかる。だがな、安心しろショーゴ。今度の旅はそう長――――)

 ――――ピッ――――

 電話を切る瞬間というのはどうも無情のような気がする。
 正午はケータイの画面を見つめながら苦笑した。やがて、何かが吹っ切れたかのように高笑いをする。その瞳に、憂いはなくなっているような気がした。
 テーブルに置かれた、ガラス玉を再び手に取る正午。そして、思った。

『俺に出来ることはこれか。わからないけど、これがせめてもの俺の気持ちとして――――君を信じ、好きでいつづけよう』

 ケータイのアドレスを開く。じっくりと確かめてから、掛けた。
「あ――――もしもし、おじさん? ……はい。……はい。すみません――――俺――――――――」

 同じ頃、ハイウェイをひた走る車の後部座席から、そっと星を見上げている黒須カナタがいた。想いを秘めながら、唇を結び、等間隔で流れてゆく水銀灯の軌跡にもかき消えぬ恒星を、いつまでも捉え続けていた。